境界の教会/キョウカイ×キョウカイ

宇佐見きゅう

修道女のセラピー

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 倉庫のドアは軽かった。聖堂にある例の扉の印象が脳にこびり付いていたので無意識に必要以上の力を篭めていたのだと、阿誰あすいは自己分析した。もう一度開閉してみると、蝶番が錆びていて若干の抵抗力があった。


 阿誰と緋冠は一瞬息を止め、かび臭い室内に踏み込んでいく。狭い室内には物が溢れていた。部屋側のドアノブには薄っすらと埃が付いており、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。ここ最近人の出入りはなかったと見て、間違いないだろう。


 倉庫の調査は、阿誰と緋冠に任された。


 阿誰は、自分を真面目な性格だと自負している。またそれだけの人間だとも自覚できていた。融通の利かない性格で、言われたことしかできない。ただし、言われたことはしっかりとこなす。独創性も自己主張も不要。忠実な実行力こそ自分だと、むしろ誇らしげに胸を張っていた。


 しかし、鬼無に命令された倉庫の調査は、まったくやる気が起きなかった。こんなにもやもやするのは初めての気分だ。のろのろと手が動く。だらだらと思考が横滑りする。いつもの機敏さはどこへ忘れてきてしまったのだろう。


 何の因果か、一緒のチームになったシスターの緋冠もやる気は一切なく、埃の溜まっている倉庫の隅にちょこんと座っているだけだ。


「緋冠さん。何しているんですか? 手伝ってください」


 棚から箱を下ろしながら阿誰は文句を言った。そう言う自分だって、身を入れて作業をしていない。下ろす順序はバラバラだし、開けて中身を確かめようともしていない。
 あのとき、親友の自分を差し置いて、鬼無が選ばれたことがショックだった。己の内面を分析すると、きっとそういうことだろう。


 美玲に信じられていなかった? なぜ出会ったばかりの鬼無さんを?


 答えの出るはずのない自答は即刻やめるべきだと分かっているのだが、頭は勝手な方向に働き、身体は無意味な行為を進めていく。
 未練がましく、美玲を攻め立てるような方向に思考が移ってしまう。


 でも本当におかしくないだろうか? 鬼無を疑うわけではないけど、しかし他の誰でもなく、寄りにも寄って一番誠意の欠片もなさそうな鬼無を信頼するなんて。
『二周目』を失敗したことの混乱で、正しい判断ができていないのでは?


 いいや、と自分の考えを否定する。私があの子を疑ってどうするのよ、と。


 美玲が自分に一番信頼を置いてくれていると思い込むのはただの傲慢だ。また己にまったくの落ち度がないと決めつけることも。いつだって親友に胸を晴れるような選択をしてきたとは言い切れない。自分だってミスはする。


『二周目』は失敗した。そして恐らくだが、その際に美玲に疑われる余地、もしくは失態を残してしまったということ。それは何だろうか?


 段ボールの箱を一つ抱えたまま、しばらく止まっていた。思考に耽っていた阿誰はふと荷の重さを思い出して床に置き、緋冠の目線に気付いた。


「あ……、えっと、何ですか?」
「悩みがあるのですか?」


 緋冠の、芯の通った凛々しい声に、阿誰ははっと目が覚めたような感覚を得る。彼女も聖職者なのだと思い出す。しかし、生きるか死ぬかで緊迫していたときには終始無言だったのに、他人の悩みには敏感とは、変わった感覚だ。


 職業柄なのかな、と阿誰は勝手に想像する。


「いえ、悩みじゃないですよ。あの子、美玲が何を考えているのかなって」
「全員を助けることでしょう。誰一人殺さないで、聖堂の外に出る方法を考えている。彼女の目はそういう決意の目です」


 緋冠はきゅっとまなじりを細める。


「もちろん、私も阿誰さんもその方法を考えています。そうでしょう? 全員が同じ未来を望んでいれば、何も危険は起きないはずなのに……」
「緋冠さんは……、私たちの中に、和を乱そうとしている人がいると、仰るのですね?」


 阿誰は唾を飲む。


「それは誰だと思いますか?」
「探偵ごっこをするつもりはありません。誰でも構いません。ただ迷惑というだけです。強い人間は弱者の都合を考慮しない。弱者の心が分からないのです。だから、他者を傷つけることに鈍感になっていく」
「優しくないことが……、緋冠さんには、許せないと?」
「ニュースキャスターですか? さっきから」


 緋冠はにっこりと微笑んだ。初めて見せた笑顔。
 優しさに満ちたその笑みに、どうしてか、阿誰はビクッと肩を震わせる。
 それを見て、緋冠の笑みはますます濃くなった。


「他人の意見を気にしてばかりなのですね。そうやって他人の顔色を窺ってばかりしてきたのですね。あなたはその優しさがために隣人たちに心を食い荒され、自身の苦痛さえ見逃してしまう。


 自身の苦痛を許容するのは、緩やかな自殺と同じ。自分を押し殺すのは、あなたの隣人に、あなたを殺させているのと同じです」


 段々と阿誰は息苦しくなってくる。


「……あなたは、いったい……、何が、言いたいのですか?」
「あなたこそ何を言いたいのですか?」


 即座に切り返される。
 息を喘がせるこちらをひしと見つめ、緋冠はにっこりと微笑む。


「阿誰さんの心の声が聞きたい。それが私の目的です」


 阿誰は答えられなかった。


 自分が何を言いたいのかなど考えたこともなかった。普段から思いついたことを喋っていたつもりだ。不満とかストレスはそこにはない。一方的に不都合を被っているつもりはないし、心無い発言であの子を不快にさせてしまったこともあった。


「己の意見は大概相手を不快にさせます。気にする方がおかしい」


 こちらの心を読んだかのようなタイミングで緋冠は言った。どうして考えが分かったのだろう? 不思議に思っていると、緋冠が淑やかに微笑む。


「本当に、そういうことを考えていたようですね。あなたの言いたいことを訊ねたのに、まだ他人のことを考えていたとは、筋金入りです」
「あ、いえ、別に私は……」
「責めていません。あなたのような、受けた屈辱はすぐに忘れるよう自助努力し、己が与えた侮辱は逐一覚えておいて自粛する、そんな心優しい者がいるからこそ、世の中は回っていきます。社会貢献しているのですから、自慢に思ってもいい」
「あの……、もうやめてください」


 阿誰は何とか言い返した。


「私、そんなつもりは、人のためとか、優しいとか、考えたこともないので、よく分かんないです」
「あなたは強い人間を演じてきた。多くの人が阿誰さんを誉めそやしてきたでしょう。あなたは喜びを感じてきたでしょう。


 あなたの本性は、褒められたがり屋の秀才。
 弱い心をひた隠しにして強者を演じる努力家。


 強いショックが加わって仮面が剥がれれば、あなたは元の弱者に戻ってしまう。ちょうど、今のように。あなたの本性は弱い人間です。あの七人の中で、あなたが一番心が弱い」
「……あの、何の話をしているのですか? よく分からないのですが……」
「悩みがあるのですか?」
「え?」


 始めと同じ質問をぶつけられ、阿誰は頭の中が真っ白になる。
 どうしてだろう、頭が上手く回らないのは。


 美玲が自分を選んでくれなかったことを不満に思っている。せっかくタルボット博士と知り合えた最高の日なのに、異常事態に巻き込まれてしまって苛立たしい。鬼無の口の悪さは気になる。緋冠の素っ気なさをどうにかしたい。不満はたくさんある。人を恨むこともあった。自分は決して綺麗な人間ではないのだ。


 でも、そういう気持ちを表に出したことは、なかった気がする。
 誰かに、ぶつけたことは、一度も……。


 緋冠は元の仏頂面に戻り、独り言のように言った。


「人は生きている以上、悩みを抱えます。それが一つもないというのは最高に幸せなことでしょう。しかし、悩みが一つもないと無理やり思い込んでいるだけだとしたら、それは最低に不幸なこと」


 膝を抱えて座る緋冠が、こちらを一瞥した。


「あなたは、果たしてどちらですか?」


 阿誰は、答えられなかった。


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