境界の教会/キョウカイ×キョウカイ
解放/――――
●
美玲は、阿誰の肩に腕を回して支える。二人で一緒に朱絨毯の上を歩き、扉の隙間から染み込んでくる光に近付いていった。美玲が扉に左手を伸ばし、押した。
ぎぃ、と掠れた蝶番の音が鳴り、扉はスムーズに動いた。
「…………」
玄関ホールは暖色系の柔らかい光に照らされていた。聖堂の方が広いのに、強い開放感を得た。玄関ホールはほぼ正方形で、その雰囲気は部屋というよりロビーに近い。右手の壁には物置の鉄扉。その手前に四つのソファがL字に並べられ、そばには観葉植物の鉢が置かれている。ささやかな待合室だ。左手には、入り口が大きく設けられたバリアフリートイレ。そして正面は、ガラスのドアの玄関があった。
ガラスの向こうに青空の欠片が見えた。
生命を讃える爽やかな青。青とは祝福の色だったのだ、と美玲は初めて知った。
感極まって玄関ホールの真ん中で立ち止まってしまったこちらに、一之瀬と緋冠が追いついてきて、同じ景色に心を奪われる。
ほう、とそれぞれが安堵と感嘆で息をはいたとき。
平和を象徴する青い庭が、へドロの浸食に飲み込まれた。
「――は?」
瞬間的な暗転。
不自然な暗幕が落ちて、夜が舞い降りた。
さっきまで見ていた青空を取り戻そうと美玲は目を擦る。だが、何度見直してもガラスの向こう側の見えるのは塗り潰された暗黒の空。本当はとっくに夜になってしまっていたのだろうか。美玲は時計を探した。ソファの上にある壁時計の針は、四時二十分を指している。夕暮れにも早い時間だ。まさか早朝の四時二十分であるまい。
深い深い夜闇の下、ちらちらと赤い光が踊っているのが見えた。
何なのだろうか、これは。何が起きている? ぞわぞわと形容しがたい寒気が足元から這い寄ってくる。美玲は立ち止まっていた。あれほど教会からの脱出を望んでいたのに、今はまったく玄関の外に出たくなかった。
「ちょっと、何? どういうこと!」
一之瀬と緋冠が咳き込んで玄関に走っていく。外の異変に恐怖するより、原因究明を選んだのだ。一之瀬が玄関の外に飛び出し、空を見上げるなり、走り出して見えなくなった。緋冠は身を震わせて、玄関先に膝を着いた。
外の全貌はここからでは見えない。ガラスのドアに四角く切り取られた暗闇の空が、時折赤く発光したり、閃光に染まったりしている。
美玲はゆっくりと歩いていき、ガラスのドアを押し開け、空を見上げた。
「――――」
巨大生物の翼が美玲の視界を覆った。
生物は、聖インテグラ教会の直上を通り抜け、闇色の空へ飛んでいく。離れたことでその生物の全身が視界に収まる。赤銅色の鱗に覆われた、超大型の爬虫類。それは物語にしか存在しないはずの怪物。竜だった。
大きな翼をはためかせて、空中に停滞した赤き竜は顎を開き、ドロリとした火炎を吐き出した。粘着質な火炎は、地上にあった市街地を飲み込んだ。
暗黒色の天空を回遊しているのは竜だけではない。数え切れないほどの歪んだシルエットの生物が、街の上空を覆い尽くしていた。きっと地上も歪な生物たちで溢れ返っているのだろう。
丘の上にある教会からは、街の惨状が一望できた。
黒い雷撃が虚空を掻き毟り、高層マンションの上階を吹き飛ばす。黄色い炎に包まれた森林は松明となって煌々と輝き、燃え盛る森林の中では人型の影の集団が踊っている。高空を旋回するエイの化物の胴体から、丸い粒がぽろぽろと吐き出されていく。丸い粒は地表で爆発し、そこにいた別の怪物たちごと、街を綺麗に吹き飛ばす。
地平線の彼方まで、破壊と狂乱の景色が続いていた。
破壊ではない、と美玲は悟る。これは破壊ではない。化物たちは造り変えているのだ。再現しようとしているのだ。この地を地獄と呼ぶのに相応しい場所へと。
教会の上空で艶めいた闇が渦巻いている。闇の中心点に浮遊しているのは、猫と蛙と王冠をかぶった男の頭を持った獣。
「……ッ!」
意識をそばに戻したとき、一之瀬と緋冠が見当たらなかった。阿誰が隣で立ち竦んでいるだけだ。自分たち以外もう誰も生き残っていない気がした。
「何が起きているの……。何が、起きているの……」
テープのように同じ台詞を繰り返す阿誰。
「……悪魔」
美玲は呟いた。阿誰が振り向き、目をかっ開く。
「悪魔が出てきたんだ。悪魔を、逃がしちゃったんだ」
「何を言って……。だって博士は死んで……。悪魔も一緒に死ぬんじゃ……」
「分からないよ。何も分かんないよ」美玲は首を左右に振る。
ふいに阿誰が顔色を変化させ、教会の中へ駆け込んでいく。美玲は追おうとしたが、阿誰の目的が分からなくて逡巡し、出遅れる。
そこに竜が落ちてきた。
十階建てビルと同等の体長を持った竜は、その体躯で教会の建物を踏み潰す。圧縮の大気が暴風となって、玄関口に立っていた美玲を吹き飛ばした。
美玲の身体は教会の敷地の外まで飛んで、道路のアスファルトを転がる。
美玲は意識を必死に繋ぎ止めようとする。全身を打ち付けられたせいで、身体を起こすことができない。頭を動かして教会の方向を見た。
粉々の残骸が積み重なっている。玄関もガラスも窓枠も支柱も天井枠も白壁も鉄扉もソファも絵画も長椅子も十字架も燭台も電球も天窓も、そこにさっきまであったすべての形あるものが形をなくして、ぐちゃぐちゃに成り果てていた。
その中に入っていった彼女の命が無事であるはずもなく。
残骸の上に君臨する赤い暴竜。
鎌首をもたげ、黄金色に輝く瞳でこちらを見下ろす。
暴力の塊に射竦められ、倒れ伏した美玲は身体を激しく震わせた。
この震えは恐怖だろうか? いいや、これは怒り。
絶対に許さないという灼熱だ。
身動きできない美玲に対して、竜はただ息を溜める。
汚れし獣の顎から発射された真っ黒な火炎が、視界一杯に広がる。
「ああァ……、――あッ!」
悪魔の炎に全身を焼かれて、大舘美玲は命を落とした。
美玲は、阿誰の肩に腕を回して支える。二人で一緒に朱絨毯の上を歩き、扉の隙間から染み込んでくる光に近付いていった。美玲が扉に左手を伸ばし、押した。
ぎぃ、と掠れた蝶番の音が鳴り、扉はスムーズに動いた。
「…………」
玄関ホールは暖色系の柔らかい光に照らされていた。聖堂の方が広いのに、強い開放感を得た。玄関ホールはほぼ正方形で、その雰囲気は部屋というよりロビーに近い。右手の壁には物置の鉄扉。その手前に四つのソファがL字に並べられ、そばには観葉植物の鉢が置かれている。ささやかな待合室だ。左手には、入り口が大きく設けられたバリアフリートイレ。そして正面は、ガラスのドアの玄関があった。
ガラスの向こうに青空の欠片が見えた。
生命を讃える爽やかな青。青とは祝福の色だったのだ、と美玲は初めて知った。
感極まって玄関ホールの真ん中で立ち止まってしまったこちらに、一之瀬と緋冠が追いついてきて、同じ景色に心を奪われる。
ほう、とそれぞれが安堵と感嘆で息をはいたとき。
平和を象徴する青い庭が、へドロの浸食に飲み込まれた。
「――は?」
瞬間的な暗転。
不自然な暗幕が落ちて、夜が舞い降りた。
さっきまで見ていた青空を取り戻そうと美玲は目を擦る。だが、何度見直してもガラスの向こう側の見えるのは塗り潰された暗黒の空。本当はとっくに夜になってしまっていたのだろうか。美玲は時計を探した。ソファの上にある壁時計の針は、四時二十分を指している。夕暮れにも早い時間だ。まさか早朝の四時二十分であるまい。
深い深い夜闇の下、ちらちらと赤い光が踊っているのが見えた。
何なのだろうか、これは。何が起きている? ぞわぞわと形容しがたい寒気が足元から這い寄ってくる。美玲は立ち止まっていた。あれほど教会からの脱出を望んでいたのに、今はまったく玄関の外に出たくなかった。
「ちょっと、何? どういうこと!」
一之瀬と緋冠が咳き込んで玄関に走っていく。外の異変に恐怖するより、原因究明を選んだのだ。一之瀬が玄関の外に飛び出し、空を見上げるなり、走り出して見えなくなった。緋冠は身を震わせて、玄関先に膝を着いた。
外の全貌はここからでは見えない。ガラスのドアに四角く切り取られた暗闇の空が、時折赤く発光したり、閃光に染まったりしている。
美玲はゆっくりと歩いていき、ガラスのドアを押し開け、空を見上げた。
「――――」
巨大生物の翼が美玲の視界を覆った。
生物は、聖インテグラ教会の直上を通り抜け、闇色の空へ飛んでいく。離れたことでその生物の全身が視界に収まる。赤銅色の鱗に覆われた、超大型の爬虫類。それは物語にしか存在しないはずの怪物。竜だった。
大きな翼をはためかせて、空中に停滞した赤き竜は顎を開き、ドロリとした火炎を吐き出した。粘着質な火炎は、地上にあった市街地を飲み込んだ。
暗黒色の天空を回遊しているのは竜だけではない。数え切れないほどの歪んだシルエットの生物が、街の上空を覆い尽くしていた。きっと地上も歪な生物たちで溢れ返っているのだろう。
丘の上にある教会からは、街の惨状が一望できた。
黒い雷撃が虚空を掻き毟り、高層マンションの上階を吹き飛ばす。黄色い炎に包まれた森林は松明となって煌々と輝き、燃え盛る森林の中では人型の影の集団が踊っている。高空を旋回するエイの化物の胴体から、丸い粒がぽろぽろと吐き出されていく。丸い粒は地表で爆発し、そこにいた別の怪物たちごと、街を綺麗に吹き飛ばす。
地平線の彼方まで、破壊と狂乱の景色が続いていた。
破壊ではない、と美玲は悟る。これは破壊ではない。化物たちは造り変えているのだ。再現しようとしているのだ。この地を地獄と呼ぶのに相応しい場所へと。
教会の上空で艶めいた闇が渦巻いている。闇の中心点に浮遊しているのは、猫と蛙と王冠をかぶった男の頭を持った獣。
「……ッ!」
意識をそばに戻したとき、一之瀬と緋冠が見当たらなかった。阿誰が隣で立ち竦んでいるだけだ。自分たち以外もう誰も生き残っていない気がした。
「何が起きているの……。何が、起きているの……」
テープのように同じ台詞を繰り返す阿誰。
「……悪魔」
美玲は呟いた。阿誰が振り向き、目をかっ開く。
「悪魔が出てきたんだ。悪魔を、逃がしちゃったんだ」
「何を言って……。だって博士は死んで……。悪魔も一緒に死ぬんじゃ……」
「分からないよ。何も分かんないよ」美玲は首を左右に振る。
ふいに阿誰が顔色を変化させ、教会の中へ駆け込んでいく。美玲は追おうとしたが、阿誰の目的が分からなくて逡巡し、出遅れる。
そこに竜が落ちてきた。
十階建てビルと同等の体長を持った竜は、その体躯で教会の建物を踏み潰す。圧縮の大気が暴風となって、玄関口に立っていた美玲を吹き飛ばした。
美玲の身体は教会の敷地の外まで飛んで、道路のアスファルトを転がる。
美玲は意識を必死に繋ぎ止めようとする。全身を打ち付けられたせいで、身体を起こすことができない。頭を動かして教会の方向を見た。
粉々の残骸が積み重なっている。玄関もガラスも窓枠も支柱も天井枠も白壁も鉄扉もソファも絵画も長椅子も十字架も燭台も電球も天窓も、そこにさっきまであったすべての形あるものが形をなくして、ぐちゃぐちゃに成り果てていた。
その中に入っていった彼女の命が無事であるはずもなく。
残骸の上に君臨する赤い暴竜。
鎌首をもたげ、黄金色に輝く瞳でこちらを見下ろす。
暴力の塊に射竦められ、倒れ伏した美玲は身体を激しく震わせた。
この震えは恐怖だろうか? いいや、これは怒り。
絶対に許さないという灼熱だ。
身動きできない美玲に対して、竜はただ息を溜める。
汚れし獣の顎から発射された真っ黒な火炎が、視界一杯に広がる。
「ああァ……、――あッ!」
悪魔の炎に全身を焼かれて、大舘美玲は命を落とした。
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