境界の教会/キョウカイ×キョウカイ

宇佐見きゅう

無力な二匹の子ウサギ

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 事務室の中で、阿誰は美玲と身を寄せ合って、息を潜めていた。


 物音が聞こえなくなってからどれほど時間が経っただろうか。随分と過ぎた気がする。まだか、まだか、と逸る鼓動は阿誰の時間感覚を麻痺させた。たかが数分前のことが数時間前のことのように感じる。あるいはその逆で、もう数時間前のことを、ほんの数分前の出来事のように生々しく感じているのかもしれなかった。


 ドアの向こうから、一之瀬の声がするのをじっと待っていた。ズボンのポケットの携帯の存在を思い出し、現在時刻を見る。十六時五分。ここに閉じ込められたのは何時だったろうか。まったく覚えていない。


「どうして、こんなことに……」


 阿誰は口を噤んだ。泣き言は場の空気を落ち込ませる。言うだけ損だ。


 二人は、神父が一之瀬に気を取られている隙に聖堂ホールを抜け出し、それから出口を探して回った。結論から言えば、どこにも出口はなかった。倉庫、資料室、事務室の順に回り、どの部屋も虚しい結果で終わった。裏口はおろか、通風孔や天窓なども見つからなかったのである。聖堂ホールの天井には天窓が設置されていたが、神父がいるだろうホールに戻るのは得策ではないし、足場なしでは届かない高さだった。


 阿誰は出口を諦め、事務室に立て篭もることにした。内側から鍵を掛け、さらにデスクや椅子やスチールラックをドアの前に重ねて、バリケートにする。一つだけ入れない部屋があれば、そこに隠れていることがすぐにばれてしまうだろうが、ドアを固定していなかった場合の危険性の方が高い。


 だけど、このまま助けが来なかったらおしまいだ。水や食糧の備蓄はない。篭城したところで長続きはしないのだ。今になって考えれば、何とも後先考えない作戦をしてしまったものか。他に方法がなかったか、自問してしまう。


「ごめんね……、美玲。こんなことに巻き込んじゃって」
「……え? ごめん、何のこと?」


 美玲は無表情を緩和させ、いつものようにとぼけた笑みを浮かべた。
 その笑みにほっとしてしまう自分がいて、首を横に振った。


「……ううん。何でもない」
「ん? 変なの」


 そう言って笑い、美玲は思い詰めた顔に戻ってしまう。
 時折、この友人がどこまで素で行動しているのか読めなくなる。頭の弱い子と思われやすい美玲だが、実は彼女には、普通の人と違うものが見えていて、そのせいで悪印象を抱かれるのではないかと思うのだ。彼女の目には世界がどう映っているのか。それを知りたいから、阿誰はずっと一緒にいるのかもしれない。


「……ねえ。あなた今、何を考えて……」


 そのとき、強烈な打撃音がドアから響いた。重くて硬いものが激突した音だ。激しい衝撃で木製のドアが撓み、バリケートの一部が傾きかけた。


「……ッ!」


 阿誰は悲鳴を押し殺す。
 障害を破壊せんとするノックが繰り返され、その度にバリケートが崩れていく。乱暴な来訪者が一之瀬である可能性は万に一つもない。阿誰は椅子の一つに飛び付いて、崩壊を押さえ込もうとした。


「……きゃあ!」


 そこに一際強い衝撃が加わった。ドアに大きな亀裂が入り、バリケートの一部が吹き飛んだ。阿誰は椅子を掴んだまま後ろに倒れる。
 襲撃者は徹底主義のようだ。もう一撃が加えられ、割れたドアが枠組から外れた。積み重なった事務机と椅子が、外にいる者の手によって除かられる。


 僅かな隙間に身を捻じ込んで入ってきたのは、血塗れの金髪の神父。
 神父は、尻餅を着いた阿誰と部屋の隅に座る美玲を見つけ、笑みを浮かべた。


「……見つけた、ぞ。貴様らで最後だ」


 掠れた声を発し、首の穴から赤い液体を噴き出した。神父の顔は青褪めており、直立しながらも左右に振れている。ドアを殴っていたのだろう右手は赤黒く腫れ、折れた骨が手の甲を突き破っていた。見るからに満身創痍だ。安静にすれば少しは生き長らえるだろうに、そんな状態でも彼の目には狂乱の光が宿っていた。
 阿誰はゆっくりと立ち上がった。


「……どうして、どうして皆を殺すのよ。タルボット博士を殺して、一之瀬さんまで……。いったい何が目的?」


 神父は笑い、妄言を口にするだけ。


「案ずるな。汝が『裏切り者』でなくば、神がその魂を天国へ導いてくださるだろう。ゆえに、安堵を抱いて殺されるがよい」


 そして、直立の体勢から突っ込んできた。
 阿誰は、神父の足が急接近する様をカメラのフラッシュのように知覚した。


「鳳子!」心優しい親友の声が聞こえる。


 もしかしたら、美玲はこちらを庇おうと飛び込んできたのかもしれない。粗暴な力に蹴り飛ばされ、次の瞬間に美玲に受け止められて、阿誰はそう考えた。
 蹴りの衝撃でいくつかの内臓が駄目になったのが分かった。喉の奥から灼熱が込み上げてきて、視界が霞み出す。見上げた美玲の顔は悲嘆に染まっている。


「やだよ、そんな……。しっかりして! 鳳子!」
「……、……、……」


 早く逃げなさい、と伝えたかったが、声を発する力も出なかった。妙に辺りが静まり返っているように感じた。神父の重たい足音が聞こえる。
 頭上で、二人が無言で睨み合っている息遣い。神父が口を利く。


「……友を失い、涙を落とすか。すぐに同じ場所へ送ってやろう」


 神父が左手を美玲の顔に伸ばす。
 それをまっすぐ見つめる美玲の、達観した声がやけに遠くから響いた。


「――ああ、そうか。これって夢なんだ……」
「……? 恐怖で気をやってしまったか。だが娘、これは紛うことなく現実だ。他にどうすることもできない、逃れられない現実なのだ」
「知っているよ」


 美玲は、もう指一本動かせなくなった阿誰の身体を抱き締めながら、すべてを儚んだ笑みを浮かべた。


「……そうか」


 静かに頷いた神父の手が美玲の首に掛かり、ゴキリ、と鈍い音が生じた。


 時間が止まった彼女が前のめりに倒れ、こちらと積み重なる。美玲の死体は羽毛のように軽かったが、今の阿誰には退けられないし、退けようとも思わなかった。次第に世界の輪郭が失われていき、思考もあやふやになる。
 ふいに極寒の冷気に捕らえられ、阿誰の精神は霧散した。


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