アンダースロー

文戸玲

ボールボーイ


 放課後は清掃当番が当たっていたため遅くなった。重い足取りで玄関へ向かい,駐輪場の方へと向かっていると野球部のかけ声が聞こえてきた。
 そういえば最近セミの声を聞かなくなった。この季節を初秋というのだろうか。それでも真夏日になる日もあり,太陽の日に当たると汗がだらだらとながれて皮膚を伝う。冷蔵庫から出しっぱなしのバターのように溶けてしまいそうな暑さだった。
 冷水器にたかる男子たちは餌を求めたチャボのようで,四角い箱を取り囲むように入り乱れている。気付けば,そのなかに大本君の姿がないかを探していた。廊下での出来事を見られたのが気がかりだった。無神経で遠慮のない大本君のことだから,野球部の人に何を言っているかわからない。どこから見られていて,どこまでのことを分かっているのか探りを入れておきたかった。だいたい教室で何をするでもなく,なんで廊下の方を眺めていたのか。そんな風に思ってはまたあの出来事のことを思い出し,弱みを握られたようで憎らしくて仕方がない。
 大本君の姿があった。
 見つからないはずだ。冷水器の方でもなく,練習の方でもなく,ベンチの外れで一人ボールを磨いていた。
 野球ボールは縫い目の指のかかり具合と,全体の質感が大事。だから,ゴムボールでも丁寧に砂を落として磨いてやらないとだめなんだ。使いたいときだけ使って,あとはほったらかしはだめなんだ。いつか大本君がそんなことを言っていたのを思い出した。
 日陰に入れば良いのに。日向の土の上で背中を丸め,黙々とボール磨きをしている大本君を見ていると,なんだか自分がちっぽけな人間に思えてきた。考えて思い悩んでいたことがくだらないことに思えてきた。
 水道の前に立ち,蛇口をひねった。水をバシャバシャと顔にかけると,溶け出した身体が引き締まったような気がした。
 手のひらを下にして甲の上を流れる水を眺めていると,後ろから足音が近づいてきて「なあ。」と声をかけられた。大本君だ。顔を見なくてもわかる。いつも教室で騒いでいるときに聞きなじんだあの声だ。
 ポケットからハンカチを取り出し,手のひらを拭いながら振り向くと,大本君が言った。
「分かったよ。」
 ハンカチをぎゅっと握る。足元から少しづつ視線を上げ,大本君を見つめた。なにを言われるのか気になって仕方がないが,同時に怖くもある。
「あのさ,『をかし』を使って文章を考えなさいってやつ。」
「ああ,それのこと。」
「一回しか言わないからな・・・・・・もじもじしながらお前はおれに・・・・・・」
ほっぺたにえくぼを作った。「ーーをかしをくれた。」
二人で顔を見合わせてふき出した。
やっぱり大本君はわけがわからない。ちゃんと向き合うのは久しぶりだったから気付かなかったけれど,私より低かった背はずいぶんと伸びて見上げるようで,声もソプラノは出そうにもなくなっている。
 私はハンカチを目じりに当てて笑っていた。つまらないギャグに笑いすぎたせいで,涙がにじんできたのだろう。たぶん。

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