同僚マネージャーとヒミツの恋、担当アイドルにバレてはいけない……

新月蕾

第17話 夜は続く

 瀬川さんの家のソファに彼のTシャツとジャージを着てぐったりと横たわる。
 体のあちこちが痛い。特に下腹部。

 瀬川さんのお部屋は、綺麗に片付けられていて、私のイメージする男性の一人暮らしとは大きくかけ離れていた。でも、瀬川さんのイメージ通りではある。
 広いリビングのテレビボードには所狭しとトライアングルアルファのCDや雑誌、テレビ番組を録画したブルーレイがある。

 トライアングルアルファの影がある場所で、こんな風に行為の名残を漂わせている自分。
 ああ、なんだか3人に申し訳ない気持ちになってくる。

 瀬川さんはと言えば、私の元気を全部吸い取ったみたいな元気さでキッチンでテキパキ調理中だ。
 私があんまり食べる気になれないと言ったので、うどんを作ってくれている。
 私のはシンプルにお揚げとほうれん草だけ、瀬川さんのはタマゴとお肉ががっつり載っていた。

「カレーうどんが好きなんですけど、さすがに匂いが……ねえ?」

 まだする。そういうことだろう。私だってこれで終わるとは思っていない。
 夜は長く、明日は休みだ。私の体力が許す限り、付き合おう。
 そう決意した。

「おうどん、美味しいです」
「よかった」

 瀬川さんが笑う。

「今日は最初から誘おうと思っていて……食材もそのつもりで準備してたんですけど……あはは、まさか先にシちゃうとは思ってなかったから……がっつり手料理振る舞うのはまた今度ですね」
「楽しみです」

 うどんはおいしい。
 がっつりした手料理も楽しみ。
 その後にすることだって、楽しみ。

 それなのに、ずっと頭にこびりついている。
 赤井アルファ。
 ああ、嫌だ。ただの思い込みじゃないか。
 だいたいあの人、もう人妻だ。
 こんなの馬鹿馬鹿しい。

 今、瀬川さんの目の前にいるのは私で、キスが出来るのは私で、抱かれるのは私だ。

 ……いつから、私、こんなに、瀬川さんのこと好きになってたんだろう。

「……おいしい、です」

 もう一度呟いて、私はうどんを完食した。

 皿洗いくらいは手伝いたかったけれど、瀬川さんのお家は食器洗浄機完備だった。

「お風呂、行きましょうか」

 そういえば一緒に入ることはなかったっけ。
 明るいところで見る互いの裸は少し滑稽だった。

 洗面所の歯ブラシを思わずチェックした。瀬川さんの分、一本しかなかった。

「背中、流します」
「あ、はい」

 なかなかにたくましい背中を泡だらけにしたボディタオルで洗う。
 ……背中に私がつけた爪痕が残っている。

「い、痛くないです?」
「全然。むしろ残ってるんですね。なんか嬉しいです」
「そ、そうですか……」

 背中を洗い終わると瀬川さんは私を振り返った。
 裸で向き合うと、今更ながらに恥ずかしくなってしまう。

 瀬川さんは私からボディタオルを受け取ると私の体の正面を洗い始めた。
 胸を、お腹を、洗われていく。くすぐったくて、気持ちいい。
 思わず体をよじると、ふふ、と笑みを零す。

「かわいい」
「……バカ」

 照れくささを回避するために、私は別の話題を探す。

「……深海さんは何で伊達メガネなんですか?」
「真面目っぽく見せるため……ですかね。仕事を始めたばかりの頃、君は顔が幼めだからメガネでもかけて真面目っぽく大人っぽく見せるのが良いんじゃない? って言われて……」
「ああ、社長あたりにですか?」

 裸で社長の話をするのはこそばゆかったけど、私はそう訊ねていた。

「……赤井アルファさんに、です」

 私の顔が、どうなっているか、想像したくなかった。
 瀬川さんの手が止まる。体を洗い終わる。
 シャワーヘッドを手に取って、私にお湯をかけてくれる。
 泡が洗い流されていく。
 裸になる。全部見えてしまう。見透かされる。

「……アルファさんとは、長いんですか?」

 28才の瀬川さんと赤井アルファさん。
 大卒で仕事を始めたとして、6年前。6年の付き合い、私は、たった6日の付き合いだ。

「大学がいっしょでした」

 瀬川さんの声には妙に色がなかった。感情を押し殺してるみたいだった。
 大学から、じゃあ、10年間。
 私の体からもう泡は落ちきったのに、瀬川さんがシャワーを当てる手は止まらない。

「彼女は、見ての通り、存在感があって」
「……はい」
「大学でも目を惹く存在で」
「……はい」
「学科とゼミがいっしょで」
「……はい」
「彼女に誘われて、三角アイドル事務所の面接を受けて」
「……はい」
「彼女が去年の冬にスピード婚からの寿退社をして、それで、おしまいです。全部」
「…………」

 私は必死で息を吸い込んで、言葉を吐いた。

「……付き合っていたんですか?」
「……昔に」

 涙が、流れてきた。
 前のマネージャーさん。赤井さん。女のマネージャーさん。瀬川さんの同僚。元恋人。
 長い時間を過ごした人。きっと、今も心のどこかにいる人。
 結婚したくせに瀬川さんに会おうとしていた人。

 涙がシャワーに紛れて、お風呂の床に落ちていく。

「あの、由香さん……もう、終わったことなので……本当に彼女とは……」
「私、あの人の代わりですか?」
「由香さん……」
「マネージャーとしても……せ、瀬川さんの恋人としても、これじゃ、なんか、私……代わりみたい……!」

 ああ、言ってしまった。
 ぐちゃぐちゃだ。
 こんなこと言ってどうするんだ。どうなるって言うんだ。

「……代わりなんかじゃ、ない」

 瀬川さんはそう言って、シャワーヘッドを置いて、私の頬を両手で挟んだ。

「仕事に、その側面は、あります。仕事ってそういうものです。僕がいなくなれば僕の代わりは誰かがやるし、アルファさんが抜けた後、しばらくは三角社長がアルファさんの代わりをしてました。仕事は、そういうものです。でも、違う。恋人として……あなたは僕の……僕の今、好きな人で、違います。アルファさんの代わりなんかじゃ、ない」

 瀬川さんの声を聞きながら、私は言葉を失っていた。
 心がぐちゃぐちゃしていて、素直に聞き入れられなかった。
 じゃあ、どうして、その人のこと、教えてくれなかったの?
 どうして、今日、あの人に会ったって言ったらあんな顔したの?
 どうして、まだメガネをかけているの?
 アルファさん、アルファさんって名前を呼ぶの?
 めちゃくちゃな反論ばかりが浮かんでくる。

 言葉にはならない。ただ涙になって落ちていく。
 駄目だ。こんなの、馬鹿馬鹿しい。

 私は瀬川さんが置いたシャワーヘッドを拾い上げて自分の体を洗い流した。
 お風呂場から脱衣所に出て、タオルで体を拭く。
 間に合わせで瀬川さんのTシャツとジャージを着て、リビングに向かって、かけておいたスーツを手に取って、着ようとしたところで後ろから抱きしめられた。

「……離して」
「いやだ」
「離して、瀬川さん」
「ここで離したら、あなたが遠くに行っちゃいそうだ」
「離してください」
「もう、手放さない」
「……アルファさんのことは、手放した?」
「……それは……」

 瀬川さんの腕から力が抜けた。
 私は振り切った。
 着替えを持つ、カバンを拾う、玄関に走る。
 乱暴にハイヒールに足を突っ込む。

「由香さん!」

 瀬川さんの声が追いかけてきたけど、私はそのまま、エレベーターに乗った。
 エレベーターには基本的に監視カメラがある。だけど知ったこっちゃなかった。
 私はそこで着替えた。



 電車に乗って、向かった先はいつもの飲み屋だった。

「やっほー……なにそれ、何で布持ってんの、そして、表情がひどい。髪が生乾き」

 常連仲間のお姉さんは困った顔をして一通り所見を述べた後、店員さんに奥の個室を所望してくれた。

「すみません……」
「別にいいけどさあ……大丈夫?」
「あんまり……」
「何? 会社ブラックだった?」
「いえ、プライベートで……」
「えー彼氏? え、まさか1週間持たなかった!?」
「……元カノの存在が判明しまして」
「あー……彼、アラサーくらい? 元カノのひとりやふたり、いるでしょ」
「その元カノがもう結婚してまして」
「ほうほう」
「今日、あの人に会いに来て……」
「コワッ」

 お姉さんは顔をしかめた。

「え? 何? 不倫? 不倫の香り?」
「……同業者なので、挨拶に来たと言っていました」
「えー、会わせたの!?」
「タイミングが悪くて会うことはなかったです……」
「グッドタイミング! ふーん。元カノ登場で、何、自分の存在揺らいじゃった?」
「そんな感じ……」
「君から恋の悩みを聞く日が来るとはねえ……」

 思えばお姉さんに恋の悩みを打ち明けたことはなかった。お姉さんと出会ったのは仕事を始めてからで、仕事している間は恋とかしている余裕がなかった。

「……ま、いいんじゃない? それで終わるならそれまでじゃん?」
「……終わりたくないです」

 涙が、溢れてきた。
 なんて身勝手なんだ。
 自分で逃げ出しておいて、何を泣いているんだ私は。

「じゃあ、電話でもしたら? 君が謝る必要はないと思うけど……話す必要はあるんじゃない?」
「……はい」

 私は私用のスマホを取り出した。
 最初に連絡先を交換したメッセージアプリを呼び出す。

「…………」

 打つことを迷っている内に、スマホが、揺れた。

「わ、わわ、わわわ?」

 着信だった。

「えいっ」

 お姉さんが私のスマホを取り上げた。

「もしもーし! あ、大丈夫大丈夫。ユカさんのスマホですよ。今? 飲み屋飲み屋、そうそう、最初に会ったときの飲み屋! 大丈夫縛ってでも捕まえておくから! うん! 待ってるー!」

 お姉さんが一気に話をまとめてしまった。
 私は折良く運ばれてきた梅酒を飲み干した。

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