姫探し

ゆき丸

巷で噂の米ぬかおやじ

今日も来たか。

絹代は身構えた。

「おーい!部屋、探しに来たわ」

受付から一番近いデスクに座っていた絹代はさっと立ち上がり、
野球帽を被った老人の方へ駆け寄った。

「こんにちは。」

「…おう」

笑顔で話しかけるも、その老人と絹代の目が合う事はない。
老人の目は落ち着きなく事務所内を物色している。

「今日は、岸部さんいないの?」

「今日はお休みなんです。私でよければお伺いしますが…?」

「ふーん、あの人いつ出勤なの?」

「出勤はシフト制です。社員同士、把握していないので
お教えする事ができかねます。」

ほんとは把握してるけどね。
交代制でもないし。

「あっそう。また来るわ」

右手を軽くあげ、スタスタと出口へと向かう。
"帰れ帰れ!色ボケ老人!!"
絹代は心の中で去っていく老人の背中に毒づいた。

1度も対応している絹代と目が合わなかった。
"一応、自分も女なのに…"
あの老人に目をつけられるのも困るだろうが、
全く興味がないという態度を見せつけられるのは
何だか悔しかったのだ。

人ってあんな歳を重ねても恋するんだな。
すごいな。
でも、お部屋の契約をする気もないのに2日連続1時間以上
岸部さんを拘束しないで欲しいな。
その間の電話対応、誰がすると思ってんだ。

そんな事を思いながら、絹代は自分のデスクへと戻った。
デスクの右側、1番下の底の深い引き出しを開けた。

持ってきたお弁当と水筒を取る。

「休憩行ってきまーす」

「…」

絹代は声が小さい。
事務所に居るのは営業の作田さんだけだ。
絹代の声に気づかず、黙々とパソコンで事務作業をしている。

絹代は自分のデスクのすぐ後ろにある扉を開け、廊下に出た。
すぐ正面に見える扉を開き、先に休憩をとっていた岸部さんに
会釈をしてコの字の位置に座った。

「若葉さん、ありがとうね」

「いえ。あの人、前来た時岸部さんつかまえて1時間も話してたじゃないですか」

「そやねー、困ったわーほんま」

そう言うと岸部さんは怪鳥が鳴くが如くけたたましい引き笑いをして
"あめちゃん"をくれた。

「でも、また来ると思いますよ。岸部さん目当てに」

「笑えるなぁー。今度も居留守使ってもええかな?」

「事務所、受付から丸見えだから難しいですね…」

「あの人、最近巷で噂の"米ぬかおやじ"なんとちゃうか?」

岸部さんは冗談とも本気とも分からない口調でそう言った。

「まさかー」

"米ぬかおやじ"とは。
最近このT町で話題の不審者である。
夜、学校や仕事から帰宅途中の若い女性を狙い、
顔面に突然米ぬかをぬりつけるという。
ここ1ヶ月ほど、この地域ではその話題で持ち切りである。
まだ米ぬかおやじの目撃者は1人もいないのだ。
よほどすばしっこいんだろうか。
私はあの老人が、米ぬかを若い女性の顔面にぬりたくって
誰にも見られる事なく韋駄天のように駆けていく姿を思い浮かべた。
…ないだろう。あの老人が実は記録保持の陸上選手ではない限り。

「なんで米ぬかなんか顔につけるんやろなぁ」

「なんででしょうね…」

岸部さんはコンビニのコールスローにフォークを突き刺し、
もしゃもしゃと食べた。
米ぬかを若い女性の顔面にぬりたくる事によって
性的快感を得るんだろうか。
エクスタシーを。得てしまうんだろうか…。
そんな事で興奮しないといけないなんて大変だなぁ、
なんて考えながら、お弁当のおにぎりを食べる。

岸部さんは目がくりっとして、鼻も高い。
可愛いというより美人なお姉さんである。
いつもビビッドなカラーのノースリーブを着ている。
身長は私より10㎝ほど高いから、160㎝くらいだろうか。
事務所ではスリッパに履き替えているが、いつもヒールの靴を履いている。
プラス10㎝くらい身長が高く見えてモデルさんのようだ、といつも思う。
長くてきれいな、毛先にパーマのかかった茶髪は女の私でも見とれてしまう。
でも、中身はとってもたくましく、飾らないので私は親しみやすいと思っている。

「若葉さんも気を付けや」

ぼーっと岸部さんの事を考えていて
不意に声を掛けられ、はっとしてしまった。
考え事をしている時に、ふと話しかけられたり電話が掛かってきて現実に引き戻される瞬間。
みんなもよくないかい?

「私は大丈夫ですよ」

「なんでや。危ないで!今日もはよ帰りや?」

「はい。残業しないようにします!」

その時、休憩室にノック音が響き渡った。


そして定時が過ぎて4時間が経った。
…どうしてこうなったかって?
それはね。聞いてくれるかい?

休憩室のノックは作田さん。
外回りに出ている営業の野田さんから電話があり、
かわって欲しいと。

「休憩中にごめんね」

「いえ。大丈夫ですよ。」

私は作田さんから電話を受け取り、
自分のデスクへと戻った。

電話が終わった頃には、通常1時間ある休憩時間は残り20分となっていた。
私は食べるのが遅いので、ほとんど噛まずに急いでお弁当をかきこんだ。

休憩から上がるとすぐに野田さんに依頼された仕事をして、
その間も電話対応をしていた。

繁忙期なので事務所には私と岸部さんと作田さんしかおらず、
営業の人は皆外回りに出ている。

「早く帰るんやで」と言ってくれていた岸部さんは
電話に出てくれない。
それでも、岸部さんは私の次に電話に出てくれる人だ。

営業の人も、もう1人の事務員の森さんも電話に出てくれない。
今日は森さんは休みだ。

1度、森さんと営業の人数人と事務所に居る時
わざと電話に出ないでいた。

7コール鳴って、ようやく森さんが電話に出た。

そんなこんなで、今日も今日とて残業さ。
効率が悪い?ノンノン、だって私が日常業務開始できるのは
酷い時で夕方18時30分に留守番電話に切り替えてから。

もうすっかり外は暗くなっていた。
誰も残っていない事務所に、ラジオだけが鳴っている。
ジャズ曲『枯葉』が流れていて、なんだか空しくて悲しくて。
笑えて来た。

パソコンの電源をおとし、書類が入っている棚に鍵をかけ、
ラジオを切る。
自動ドアの鍵をかけ、事務所の横にある駐輪場へ向かう。

こんな日は、自転車には乗らずに帰る。
自転車を引きながら、歌いたい歌を歌いながら帰る。

半袖の生身の腕に、丁度いい温度の風が
当たって気持ちいい。

もうすぐ夏が来る。
大通りを左に曲がり、川沿いの道を歩いていた。
今日は『Blues Drive Monster』
を口ずさんでいた。

ふと、空を見上げてみた。
月が、綺麗だなぁ。

そう思った時。

川沿いの並木道から、ガサッと音がした。

あっと驚いて音のした方を振り返る。

しばらくその場から目を離さず、
じっとしていた。

ふと脳裏をよぎったのは今日のお昼休みの会話。

"若葉さんも気を付けや"

それと同時に、あの岸部さん狂いの老人が
米ぬかを持ってこちらに向かってくる幻想が脳裏を
巡った。

まじで怖い。
怖すぎる。

どれくらいじっとしていたのか分からない。
きっとそんなに時間は経っていないはずだ。

並木道の草むらは私のすねぐらいの高さだ。
冷静に考えれば、そんな所に人間が隠れられるはずがない。
木の裏に隠れていたとて、街頭の灯りで伸びた人影が
見えるはずだ。

私は恐怖心を和らげるために

「なんだ、猫か…」

「驚かせやがって…」

などと半笑いでひとり言を吐いた。

もちろん猫はいない。
けどこういう時は「なんだ、猫か」と
言っていたら大丈夫っておばあちゃんが言ってた気がする。
知らんけど。

祖母の記憶を捏造して、なんとか
並木と草むらの暗がりから目を離した。


まだ心臓はバクバクと音を立てて落ち着かない。
再び自転車を引いて歩こうとした。

その時。

顔面に大きな衝撃を受けた。







































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