消えない思い

樹木緑

第197話 止まらない疑問

もう既に帰ってしまったと思った先輩が目の前に居た。
触れたいと思った先輩が目の前に居た。
あの腕に戻りたいと思った先輩が目の前に居た。

その時僕のタガが外れた。

思いが溢れて、溢れて
僕はもう我慢することが出来なかった。

でも落ち着きを戻した後で
サーっと血の気が引いた。

“ヤバイ……
感情が高まりすぎた……
僕、何やってるんだろう?
先輩硬直してるよ~”

先輩は硬直した様に垂直立ちになり、

「あ…… 要?」

と心配そうに僕に声を掛けた。

僕は上を向いて一瞬先輩の瞳を覗き込んだけど、
外れたタガは簡単には元には戻らず、
又先輩の胸に顔を埋めて力強くギュッと抱きしめた。

先輩は先輩を抱きしめた僕の背なかをポンポンと叩くと、

「要、一緒に家に来るか?」

と尋ねた。

先輩のその問いに、僕は間髪も入れずコクコクと頷いた。

ちょっと待っててと、ドアにカギを掛けると、
先輩と一緒に裏にある駐車場まで回った。

そこに在ったのは少し型が古くなっているが、
7年前に僕が乗ったのと同じ車だ。

凄く懐かしかった。

僕はドアを開けると、何て自分は乙女なんだと思いながらも、
女の人の形跡がないかチラチラと見回した。

良く漫画では助手席に長い髪が落ちてたとか、
イヤリングの片方が落ちてたとかあるので、
そう言うものがないか自分なりにチェックしてみた。

でも、そうった類の物は何一つ見当たらなかった。

「どうしたんだ?
キョロキョロして。
乗らないのか?」

「あ、はい、
この車、懐かしいなと思って……

買い換えて無かったんですね」

そう言いながら助手席に乗り込んだ。

「あの……
ご家族は僕が行っても大丈夫なのでしょうか?」

の問いに、先輩は

「出てるから大丈夫だ」

と一言だけ答えた。

“あ、奥さんは買い物にでも出てるのかな?”

僕はそう思った。

「じゃあ、今はお一人なんですか?」

「ああ、だから遠慮しなくても良いぞ」

誰もいないと言う言葉に、少しほっとした。

「あの…… 先輩?」

「ん~?」

「運転し難いかもしれませんが、
先輩の手を握っていても良いですか?」

僕がそう尋ねると、
先輩はびっくりしたように僕を見ていたけど、
にこりと笑うと

「もちろんさ」

そう言って左手を差し出した。

僕は先輩の指に僕の指を絡めると、
アームレストのコンソールボックスの上に
繋いだ手を置いた。

「お前、結婚はしなかったんだよな?」

先輩が不意に尋ねた。

「一度もしていません」

僕は答えた。

「フランスで付き合った人は?」

「一人もいません」

僕はハッキリと、自信をもってそう答えた。

すると先輩が僕の手をギュッと握り返した。
そして、

「じゃあ……」

中途半端にそう言って先輩は静かになった。

“何なんだろう?
切れ味の悪い質問だな……
何か聞きたいことがあるけど僕みたいに言えないのかな?
そうだとすると、一体何を聞けないんだろう?
先輩が躊躇をするような事、
何かしたっけ?

でも、フランスに居た時でも、
僕は他の人に振り向かなかったって言うのは
分かってもらえたはずだ!”

そう思った。
そして

「ねえ、先輩?」

と僕が切り出した。

「何だ?」

「先輩って政治家になってませんよね?
まだお父さんの下で働いているんですか?」

そう尋ねると先輩は急に難しそうな顔をした。

“え? 僕地雷踏んだ?
これって聞いてはいけない質問だった?
もしかして政治家への道はうまくいって無いのかな?”

僕が心配そうに先輩の方を見ていると、

「俺の仕事の事は大体の事は後で話してやるが、
今は詳しくは聞かないでおいてくれ。

直ぐに分かるとは思うがな……」

と返って来たので、
僕は先輩の仕事の事については、
掘り下げて聞かないことにした。

でも自分の中で疑問は残る。

一体何故今言えないんだろう?
やっぱりうまくいって無い?
それとも機密とかあるのかな?

先輩の結婚の事については聞いてみるか?
どうしよう……
何か遠回しに聞けるような質問ってあるかな?
でも先輩って鈍感だからハッキリと聞かないと
僕の欲しい情報は返ってこないかもしれないな?

そこで意を決して、

「あの……先輩のけっ……」

と言おうとした時に、
車がパーキングに入り、
先輩が

「着いたぞ」

と言った。

そこでその質問はおじゃんになってしまった。

でも、先輩の住んでいると言ったアパートは
普通の学生が住むようなアパートで、
それを見た瞬間、実家に住んでいると思った僕は言葉も出なかった。

“なぜアパートに住んでるの?
実家に居るわけじゃ無いの?

結婚して家を出たの?
ここで奥さんと過ごしているの?”

僕は先輩を見上げた。

先輩は恥ずかしそうに、

「ハハハ、小さなアパートでびっくりしただろ?」

と言ったけど、僕はフルフルと首を振って、
先輩の手をギュッと握りしめた。

でも頭は何も考えることが出来なかった。

「要? 要?」

先輩の呼ぶ声に、

「え?」

と一拍遅れて返事をした。
それくらい先輩がここに住んでいる事が信じられなく、
放心した様にしていた。

先輩の実家には行った事は無いけど、
蔵があるくらいなので、
日本家屋の大きなお家だと言う事は想像できる。

それも旧家の長瀬先輩の幼馴染と言う事は、
そう言った土地柄に家があると言う事でもある。

跡取りなのになぜだろう?
家を出て修行ってな感じなのだろうか?

僕は増々頭がこんがらった。

「要、ちょっと手……
いいか?
車から降りたいんだが……」

僕は先輩の手を握りしめたまま、
アパートを見て呆けていた。

「ごめんなさい」

と言って慌てて手を離すと、

「ほら、降りたらまた繋いで良いから」

そう言って先輩は車を降りた。

僕も車を降りて先輩の方に回ると、
先輩のシャツの裾をつまんだ。

「ここの3階なんだ」

そう言ってエレベーターに乗り込むと、
3階まで一気に着いた。

先輩は308号室で止まると、
鍵を開けてドアを開けた。

間取りはワンルームで、
シングルベッドと小さなテーブルが一つ置いてあるだけで、
割と殺風景だった。

何処からどう見ても奥さんや小さな子供が
ここに一緒に住んでいるようには見えない。

「あの……先輩……
これ、ワンルームですよね?
仕事用に借りてるんですか?」

先輩は訝し気に僕を見た。

「仕事用?
何故そう思うんだ?
ここじゃ無かったら一体どこに住んでると……

あ、お前、俺がまだ実家に住んでると思ってたのか?

さっき出てるって言っただろ?」

「え……
出てるって……
家族が出かけてるのかと……」

「ハハハ、会話の食い違いだな。
俺の言った意味の出てるは実家から出てるだよ」

「え? じゃあ、ここには一人で住んでるんですか?」

「だからそうだって言ってるだろ?」

「え~? どうして跡取りなのに?
今の仕事と関係があるのですか?」

「まあ、仕事の事は追々話していくとして、
取り敢えずは独り立ちしたんだよ」

「あ~ 独り立ちか……
そうだったんですね。
ここに引っ越したのは大学を卒業してからですか?」

「いや、お前が俺の前を去って……」

そう言いながら先輩が目をそらした。
きっとあの時の事は、
先輩にとっても思い出したくない苦い経験なのだろう。

「先輩、僕が日本を去った後、
一体先輩には何があったんですか?」

僕の質問とは裏腹に、先輩は

「着替えるからちょっと向こうを向いててくれるか?」

と尋ねた。

“話をそらしてる?
でもなぜ話を逸らす必要があるの?
先輩、僕に先輩の7年間を教えてくれるって……

それに男同士の着替えに後ろを向く必要がある?
先輩の体なんて全部知ってるのに……

もう僕には見せたくないの?
それだけ時が経ってしまったって事なの?
僕達はもう遅いの?
僕が履み込もうとする努力は虚しい事なの?”

先輩の着替える布のガザゴソと言う音を聞きながら
涙が出そうになった。
反対を向いて先輩の着替えを待つ自分が
少しみじめに思えてきた。

そしてついに僕は聞いてしまった。

「ねえ、先輩って結婚してるんでしょう?」

と……。





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