銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第67話 空っぽな匂い

 あれからどれくらい、こうしてたんだろう。
 黒くて深くて嫌なモノがこっちをずっと見ていた。それが胸の奥からどんどん溢れて来て、いくら胸を叩いても奥でざわついて大きくなっていく。どんなに目をきつくつむって頭を揺すっても、手も足も力一杯縮めてどれだけ身体を小さく丸めてもだめだった。




「……ク、ル、ナ。クル、ナ……。クルナ! クルナ!? クルナ!!!?」




 どんどん。どんどん。それは大きくなってどうしても身体の震えが止まらなかった。
 だから何度もあの人の名前を呼んだ。何度も髪留めを握り締めた。分かってる。嫌だ、分からない。だからきっとまた直ぐにあの声が助けてくれる。直ぐに来てくれる。嘘じゃない。来てくれる。そう何度も独りで繰り返した。だけど――。




「…………テララ」




 いつからだろう。胸を叩くのも、名前を呼ぶのも止めてしまった。手の中でしわくしゃになった髪留めをただ眺めている。胸の辺りと握り締めた手の平の痛みがじんわり溶けてなくなっていく。
 来てくれなかった。もう、呼んでくれなかった。




「…………テラ、ラ?」




 あれだけ溢れて大きく膨らんで来た黒い嫌なモノも、今はもう消えてしまった。その代わりに何だろう。とても大きくて、ぼんやりしていて白い。すごく真っ白。真っ白で何もない。そう、何もなくなっていた。




「あらら、また食べてない。かあ……」




 入口の方から声がした。この髪留めをくれた人間の声。ここで震えている間、何度か聞えたような気がする。でも違う。聞きたいのはその声じゃない。違う。言ってほしいのはその言葉じゃない。




「ああ……、あのだな。今度の昼飯は味を甘めにしてみたんだ。具も小間切りにしてよく火を通してみた。お前さんでも食べやすいと思うんだが……。さすがに腹が減ったろ? 残してもいいから、少しでも食べてみるといい。また、ここに置いておくからよ」




 この部屋も、この天井も、この寝床も。違う。どうして違う? みんなの服の箱がない。一緒に外を見た大きな窓がない。みんなの匂いがない。みんなの声がない。みんな居ない。違う。全部違う。




「――チ、ガウ。……チガウ! チガウ!! チガウ、イヤッ!!!!」




 単純に違う物。少年なりに分かる見知った光景との差異。それを数える度に認めたくないものの輪郭がはっきりとしていく。全部元に戻れ。全部なくなれ。少年はそうして顔を寝床に深くうずた。




 ――この匂い……。




 顔を埋めて叫ぶ瞬間、ここに来て嗅いだことのない匂いがした。それはたぶん知らない匂いじゃない。何だろう。その匂いの正体を思い起こそうとすると、不思議と落ち着くような。でも、どれだけ匂いを確かめても白くぼやけて上手く思い出せない。ソーマはその匂いに釣られるまま上体を起こし、何日振りかに立ち上がろうとした。




「――ウギャッ!?」




 思わず声が出た。それほど長い間横になっていたつもりはないのに身体を支えられない。慌てて伸ばした手は何かを掴み損ねたように空を切って、そのまま四つんいの格好になる。それでも気にせずソーマはしきりに鼻先を巡らせ匂いの出所を探した。




「コノ、ムコウ……」




 そこは部屋の入口だった。この先に匂いの正体がある。何もかも知らない違う場所で、やっと見知ったものがあるかもしれない。ソーマは躊躇ためらうことなく一気にその扉を押し開けた。




「ったく、もったいないよなあ。人が、あむ。手間掛けてせっかく、はむ。作ってやってるのによう。うむ、旨い。今朝の飯だって、ほむ……」




――あの男が飯を食っていた。




「こっちのだってこんなに旨……うっ!? ごっふえっ!!!?」




 今日も食べてくれない。落胆。諦め。やさぐれ。そうした早合点が犯したあやまち。今や恒例となっていた冷めきった残飯の品定めだが、よりによって今回は不味・・かった。連日の様子からすっかり気が抜けてしまったのか膳を取り換えずにその場に鎮座し味見、もとい、普通に食すようになっていたのだ。
 口一杯に頬張った飯粒が男の尋常じゃない慌てふたき様に比例して凄まじい勢いで放射状に飛び散る。その見事なまでの強襲、真円を描いた完璧な包囲網はどんな俊敏な生物であっても逃れること敵わないだろう。当然、顔一つ分程度の至近距離からそれを浴びせられたソーマも例外ではない。
 突然の出来事にむせかえり涙目に現状を確かめる主犯ワガード。冤罪は有り得ない。最早、渉外向けの立場など飯粒と共に吐き散らしてしまったも同然。名誉挽回、印象改善の最後の機会を完全に失ったのだ。そりゃあ、飛び退いた勢いで尻も打ち付けるし、持ってきた昼食をも蹴り溢す。




「うっぼばっ!? ちょっ! おめ――っぼっほっごはっ!!? おま――っかはっがっはっ!!!?」




 顔から滴る飯粒すら拭おうとせず、部屋から顔を突き出したまま物言わぬ少年。その視線がとてつもなく痛々しくワガードに突き刺さる。




「ひい……、ふう……。おっ、お前さんっ! 出て来るのかよ!? いやっ! 出て来てくれて悪い事なんかあるわけないが?! あっ味見をだな! こここれは朝の分で!! そっ、そうだ飯!! 食うか!? って、何で溢れちまってんだあ!? いやいや! それより悪いっ! 顔拭かなきゃだな!! えっと、ああ、何か拭くもの。俺の服……は汚れてるな。布巾! 違うな。この場合は手拭いか!? ちょうどいいのあったか?! い、今持ってくるからな!! すぐだ! すぐ持ってくるから少し待ってな!! 頼む!!!」




 何を頼んでいるのか最早分からないが、無様なことこの上ないのは断言できる。客人へのこんな醜態が村人に目撃されようものなら、一生を冷やかな視線を浴びて生きてゆくことになったに違いない。屋内の出来事だったことは不幸中の幸いか。いや、幸運な訳はないか。
 威厳など取り繕う余裕などない。ワガードは家中を駆け回り、手当たりしだい物を蹴散らし投げ倒し、手拭いを求め狂い舞った。




「よしっ! い、今拭いてやるからな!! 本当にすまねえ!! こんなはずじゃなか――」




 少年の顔がひどく歪もうがお構いなし。冷静さを欠いたまま小汚い布をソーマの顔に押し当て、少々乱暴な手際でその顔面を拭ってゆく。




「オハナ……」
「ん? 鼻がまだ汚れてたか? どれ――」
「オハナノニオイ……」
「え? 花……?」




 顔の汚れを落としているのか伸ばしているのか分からないが、ワガードが必死に客人への無礼の払拭に努めている最中、どうやらソーマは当初の目的を果たしたようだ。
 少年を惹きつけたその匂い。いつだったか誰かが嬉しそうにんでいたお気に入りの花の匂い。毎朝その誰かと一緒によく嗅いでいた懐かしい匂い。誰か。誰だったか――。




「ああ。多分あれだな。今朝、小山で摘んで来たんだ。だいぶ日が経っちまったが、村長に……逝っちまった奴らに手向けるためによう……。あの花がどうかしたのか?」




 てっきり怒り心頭、暴れ出すかと身構えていたが違ったようだ。そのあまりにも簡素すぎる言葉に一瞬思考が止まってしまう。いやだからこそ、ここは冷静に対処しなければなるまい。ワガードは務めて平静に少年の言葉に応えてみせた。
 だが、その少年はそう呟いたまま特に動きがないご様子。
 見兼ねたというより場が持たず息苦しさから逃れるためだろう。ワガードは静かに立ち上がりると、家の戸口横に置かれた籠の中から一輪の黄色い花を手に取り少年に贈った。




「その、なんだ……。興味あるなら1つやるよ。貴重なものだがお前さんは特別だ」




 ああ。やっぱりこの匂いだ。すごく懐かしい。とても落ち着く。そしてほんの少し寂しくなるそんな匂いがする。何故だろう。
 その香りの全てを吸い込むかのように、それで何かを満たすように。大きく、そして何度もソーマは花の香りを嗅ぎつづけた。




「慌ただしくして悪かったな。その、それじゃ俺は仕事に戻るが、お前さんはどうする? 飯は……今日の分はもうだめだな、ありゃ……。配給分で何か余ってたら持ってくるが、期待はしないでくれ。飲み水ならあの桶のを好きなだけ飲むといい」




 目を瞑ったまま花の香りに浸る少年の姿には少しばかりの違和感を覚える。子供っていうやつは何を考えているのかまるで分からない。自身の苦労とは全く関係のないことで一旦収まりをみせたこの一件。骨折り損とはまさしくこのことだ。腑に落ちる訳がない。そんな複雑に歪んだ面持ちで、ワガードは亡き故人たちの供養のため花の詰められた籠を背にその場を後にした。

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