銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第65話 遺されたもの

『ソーマおはよう。昨日はよく眠れた? ああ、寝ぐせ取ってあげるから、こっちおいで』




 振り上げられたか細い腕から真っ赤な血が飛び散る。少女の身体には到底納まりきらない激痛が行き場を失い激流となって全身を駆け抜ける。狂気に染まった爪先が抑える村人たちの身体を鋭く抉り、寝台に敷かれた布は引き裂かれ破れ落ちる。




『ソーマ、今日のご飯おいしい? フフッ。たくさん食べてね』




 その小さな身体がもがくほどに首元の傷は広がり、柔い肉が裂けてゆく。少女の必死の思いは声にならず、付けられた首輪からは大量の血ばかりが溢れ出す。




『また転んじゃったね。痛くなかった? ソーマは泣かないから偉いね』




 少女の泣き喚く声が鼓膜を突き抜け全身の骨に響く。はらわたに眼球、頭の中。身体中の全てがずたずたに引き裂かれる感覚に襲われる。
 止めどなく滴り広がる血溜まりに、二人の思い出が一つ、また一つと溶けて消えてゆく。




『どうしたのソーマ? 眠れないの? じゃあ、お歌。歌ってあげよっか』




 目に焼き付く光景、鼻に纏わりついた血生臭さ、手に残った肉を引き裂く感覚、舌に広がる潰れた臓腑の感触。チガウ、自分の所為じゃない。自分はやっていない。




『ソーマ……』
“全部、お前がやったんだ!!”
「…………Γααααααααα!!!?」




 得体の知れない何かから必死で逃げるように、ソーマは勢いよく飛び起きた。荒々しく上下する肩から嫌な汗が滴る。瞳孔が大きく開き、眼球が小刻みに震え焦点が定まらない。息を吐くばかりで上手く吸えない。息苦しい。自分の呼吸が耳の中で反響して、また何かに呑まれそうになる。
 その時、胸元から痛みを覚えた。どうやら無意識にきつく握り締めていたらしい。少年は震えながらその手をどけると、次いで呼吸を繰り返し整えてみた。


 どうやらここは家の中らしい。でも、見た事がない家のようだった。様式こそ見知った物と似ているが、何だろう。何かが足りない感じがする。初めて見るはずなのに胸の内がくすぶることもなく、そうただ静かだ。




「お? ようやく起きたみたいだな。飯はまだ、か」




 意識の外から声がした。少し厳めしい感じはしたが、どこか生気がなく弱々しい。これも知らない声だ。




「生き残った連中が今朝方お前さんが倒れてるのを見つけて、ここへ運んだんだ」
「……イキ、ノコッタ?」




 少年の足元で転げた椅子に項垂れるように腰掛け、胸内に溜め込んだものを吐き出すように男は淡々と語って見せる。
 その声には何も感じなかった。だけど、その言葉だけは耳に付いたまま離れなかった。




「ああ。昨晩、ヤツらに襲われたんだ。突然だった。あっと言う間に村の連中がだいぶやられちまった。俺がガキん頃に一度見たっきりだったんだがな。今じゃ村長のお付きやってたってのに、碌に相手もできず守れもせずこの様よ……」




 そう言って持ち上げた腕は力が入らないのだろう。肘から下が垂れ下がった腕は指先までボロ布で覆われていた。まだ傷口が塞がっていないのか、赤黒いシミができている。




「そう言や、お前さんもひどい傷だって聞いてたが、ふむ。問題なさそうだな」




 痛々しい腕で指されるままに自分の身体を見やる。額や腹、腕に脚。雑ではあったが何かを割いて作られた布が宛がわれていた。額に傷口はなく、腕も上がる。腹にあざが薄っすらと残っているものの痛みはなく、足も曲げられるし不自由なく動く。




「俺はワガードってんだ。お前さん、名は? 見た所、この村の服じゃないよな? 何処から来たんだ? たしか、この近くに村なんてなかったはずなんだが?」




 どこから。
 オカシイ。まだ言葉知らずの少年でも、その問いかけには答えられるはずだ。だと言うのに、その一言だけで息を潜めていた血生臭くどす黒い何かが、また胸の淵から止めどなく溢れ出す。たちまち汗が吹き出し、息が苦しくなる。




「分かった! もう答えなくていい。……悪かった。何もなく平気なヤツが外で倒れてる訳ないよな。俺としたことが無神経だった。すまん」




 急に張り上げられた鼓膜を叩くような大声に、ソーマの身体も反射的に飛び退く。真っ暗な淵から強引に弾き出され難を逃れた。まだ自力ではどうにもできない分、今のは助かった。
 ワガードと名乗る男は脇腹をかばいながらばつの悪そうに頭を掻いている。
 その仕草には見覚えがあった。どうやら根は良い人間なのかもしれない。




「その、何だ。折角の客人だってのに生憎、腹一杯食わせてやれるだけの飯が今はないんだ。それっぽっちで面目ない。気が済むまでゆっくりしていくといい。ああ、それから……」




 男は膝で息をしながら立ち上がり村の一員としてそう詫びつつ、懐をあさりはじめた。




「お前さんが倒れてたって場所を念のために調べたんだが。そこにこんなもんが落ちてたんだ。汚れ過ぎて何かは分からんが、お前さん見覚えあ――」




 そう言ってごみくずでも摘まむように薄汚れた布切れのようなものを取りだした。確かに傍から見れば使い道がなさそうな、捨てても差し支えない代物だろう。
 しかし、それを目にするや銀の瞳に一瞬、それでいて確かな害意が影をちらつかせた。咄嗟にソーマは牙を剥いて男の手に飛び掛かるや、その布切れを強引に奪い取った。
 恐怖と少しの狂気が入り混じり小さく震えるその姿を見れば、その布の価値を改めて問うまでもない。




「こりゃあ……。いや、ハハッ……。本当にすまねえ……。まあ、何かあれば俺を……、それも難しいか。人手が必要な事があれば村の連中に頼むといい。俺からそう伝えておく。それじゃあな」




 寝床の上で丸くうずくまってしまった少年の姿は、傷心中の男にはよほど効いたことだろう。昨夜からの自身の体たらくさが我慢ならず歯を食いしばり、不甲斐なさと後悔を押し殺す。努めて厳かにワガードはその部屋を後にした。
 その日、ソーマは部屋で独り。汚れてしまった思い出の髪留めを握り締めたまま恐怖に怯え続け、ついに部屋から出ることはなかった。

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