銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第29話 心の在り処

 添え木が施された不安定な階段を軋ませながら部屋まで向かう。そうして恐る恐る覗き込んだ部屋の中、そこにソーマの姿があった。
 姉の寝床で穴の空いた掛け布に顔ごとうずめ、手足を投げ出し気持ちよさそうに寝息を立てている。どうやら先程の物音は寝床より垂れ下った腕が床にぶつかったものだろう。
 小山で狂乱し、自ら爪を立て引き裂いた傷痕が薄らとその白肌に痛々しく残っているのが見て取れた。




「…………ソーマ……」




 テララは息を殺しながら忍び足で少年の下まで近づいてゆく。
 はみ出てしまった腕が少し肌寒そうだ。それを掛け布の中に戻しておこうとそっと手を伸ばすが、間近で改めて見るその傷の痛ましさに思わず息を呑んでしまう。
 意識しないようにと意識するほど、あのときのソーマの叫喚する声と鋭い眼光が蘇り、伸ばした手が小刻みに震えだす。




「……っ!?」




 自分でも思いもよらなかった動揺に、初めて自身が目の前の家族に計り知れない恐怖を抱いていた事実に驚愕し嫌悪する。




「……えっ!? 私……、どう……して……?」




 それでもその震える腕を必死で押さえ込み、逃げ腰気味の自分を何度も胸の内で拒絶し鼓舞する。
 そして意を決して傷ついた白い腕を掴み、素早く掛け布の中に押し込んでやった。
 当初の予定とは少々加減が違ってしまったが、目的を果たせたことに胸を撫で下ろし、吹き出した額の汗を拭った。




「ふう……」
「…………テ……ラ、ラ……?」
「キャッ!!!?」




 強引に腕を押し戻され、案の定目を覚ましてしまったソーマが掛け布の中より顔を覗かた。あのあどけなさの残る落ち着いた声が少女の名を呼んでいる。
 しかし、少年が起きるとは全く予想だにしていなかったのか、テララは突然のその呼びかけに不意を突かれ飛びおののいてしまった。




「テララッ!?」




 少女が眠っている間、ソーマも心配していたのだろう。テララの顔を見つけるやいなや、その名を嬉しそうに浮ついた声で呼び、晴れやかな表情で触れようと手を伸ばして見せた。




「ヒャッ……!?」
「……テ、ラ……ラ……?」




 けれど、その少女の反応は期待したものとは著しく異なったものだった。
 白く人懐こい腕が差し伸べられた途端、テララはその腕から身を守るかのように咄嗟に退き、そのまま支えきれず後方へ倒れ込んでしまったのだ。更には両手で顔を覆い、小刻みに震え固まってしまっている。
 その異常な振る舞いに流石にソーマも何かを感じ取ったのか、それ以上近づこうとはせず、不思議そうに小首を傾げ優しく何度もその名を呼びかけている。返事がなくただ響く片言なその呼びかけはどこか物悲しく聞える。やがて無垢な好意で伸ばされた白い腕も虚しく垂れ寝床に沈んだ。




「……テララ? ……テララ? ……テ、ラ……ラ……?」
「………………っ!?」




 一体自分は何をしているのだろう。
 優しい呼びかけに強張った鼓膜を何度も撫でられ、ようやくはたと我に返る。
 身体の震えは収まったものの、見開いた深緑の瞳に映る自分の有様とそれに困惑するソーマの苦しそうな表情。その状況に混乱し、何故だろう身体の自由が利かない。




「テララ、……イタイ? ゴハン?」
「…………あ、……う、ううん。……何でも……ないの。ごめんね……。私……、何だかびっくりしちゃって……」
「……テララ?」
「も、もう平気……だから。……久しぶりだね、ソーマ。身体の具合は……、その、どう?」
「ゲ、ンキ! テララ、ミタ! ゲン、キ? テララ……?」




 片言の少年に気遣われる少女は手本たろうと急ぎ平然を装ってその場に座り直した。そして普段と変わりない調子で言葉を口にするのだが、目線をなかなか合わせられないばかりか心がまるで伴っていない。
 つくろわれた上辺の言葉とは知らず、ソーマはそれに歯切れ良く応えてくれた。懐かしいその少女の声に少し興奮気味のようだ。




「え、あ、うん。私も元気だよ。ソーマ、本当に……無事……だったんだね。あのとき、私もう……」




 好意的に投げかけられる視線をどうしても正面から受け止めることができなかった。それでもその人を労わりたい気持ちは失せることはなく、少年の容態を確かめようと恐る恐るテララは横目にその様子を伺う。
 色白い顔や身体には爪で引き裂いた傷痕が残り、ニゲルの連中にやられた両腕にはまだ外されていない包帯が残っている。その姿は線の細く小さな身体にはあまりにも痛ましい有様だった。




「爪の痕……痛そう……。それに、その両手…………」




 その傷を意にも留めない少年の笑みが反って身体の傷を痛ましく際立たせる。
 その笑顔が、傷跡が深緑の瞳に映るほどに胸の奥が締め付けられ、押し込めたはずの陰鬱な影が再び色濃く広がってゆく。胸内で何度抗おうとしても、非力な少女の心は陰り言葉を詰まらせてしまう。
 深く俯く少女をソーマが心配そうに見詰めていると、不意に異音が鳴り響いた。あの気の抜けた、けれど人懐こい、仲裁の役目を兼ねた空腹を知らせる音だ。


 その聞き覚えのある音に幸いにも注意を逸らされ見上げた目線の先では、寝床の上で腹をひもじそうに押さえているソーマの姿があった。




「今の……? ソーマ……、お腹、空いたの?」
「ググググ……、ゴ、ハン……」




 少年と同じくつい今し方目覚めたばかりのテララには残念ながら空腹にうな垂れるソーマを満足させてやれる食糧を持ち合わせてはいなかった。




「ご飯……。今は何も……あっ! ちょ、ちょっと待ってて?」




 だが、どうしたものかと思案するや一つだけ心当たりがあった。テララはその場から一旦逃げのびるかのように部屋を出て行った。


 そして間もなく、テララは小振りの何かを手に持ちソーマの下へ駆け戻ってきた。




「さっき私が少し食べちゃって、硬くしちゃったんだけど……。これしか今はなくて……、食べてみる……?」
「ハーーッ!? パニスッ、パニスッ! ゴハン?」




 そう言って、テララは先程姉に無理やり食わされた食べかけのパーニスを今にも涎が溢れそうなソーマに差し出した。
 目の前のそれは既に口にしたことがあるのか、瞬く間にソーマの表情が軽やかに変わる。そして少女の心中を知る由もなくお裾分けを受け取るや、たるんだ口で美味しそうにかぶり付いた。




「オイ……、オイ、シッ! テララ、アリ、ガトッ!」
「う、ううん。……よかった。…………フフッ」
「テララ、ウレシ、イ?」
「え? ……うん。そうだね。嬉しいよ?」




 硬くなったパーニス一つを食べているだけのはずなのだが、見事なまでに寝床の上がその屑で埋め尽くされてゆく。その相変わらず豪快なソーマの食べっぷりに、思わずテララは懐かしさのあまり吹き出してしまった。
 そうして少々ぎこちなさが残るものの、ようやっとテララはソーマの顔を眺め微笑みを返すことができた。
 けれど、そのまま腰を下ろしたその場所は寝床から少しばかり離れ、不自然な距離が二人の間を隔てている。
 両手に握られたパーニスがあらかた食され頃合いを見て、テララは少年の空きっ腹の具合を訊ねてみた。




「ご飯、おいしい?」
「ニシッ! ……ググ、グッアアアア……」




 その問いかけにソーマは嬉しそうに人懐こい笑みを返す。いや返そうとしたところ、不意に大口を開いて呻き声とも取れる声を上げた。
 その突然の奇妙な呻き声にテララは一瞬身を強張らせるも、どうやらただのあくびだったらしい。
 口の中に余ったパーニスを呑み込むと、ソーマは大きく伸びてからうずくまるように身を丸めて寝床に横になった。




「ウンン……」




 そのまま小さくそう呟くと静かに銀の瞳を閉じ、再び寝息を立てはじめる。空腹を満たされ満足したのか実に気持ちよさそうだ。けれど、少女との再会よりも食事に満足して眠ってしまったと考えると、ほんの少し寂しい気もする。これも少年らしいと言えばそうか。
 一方で、胸を撫で下ろすように肩をすくめ、テララはその快眠を邪魔せぬように静かに寝床に溢れた屑を掬い片す。




「もう、こんなに溢しちゃって……。しょうがないなあ……」




 一通り掃除を終えて掛け布をそっとかけ直してやった後、ゆっくりと浮き沈みする純白の髪を横目に、テララは自室へと戻って行った。その手は胸の辺りできつく握り締められ、沈痛な影がその表情を曇らせていた。










 自室に戻るやふらふらと力無く寝床に向かい、その上に崩れるように倒れ込んだ。
 爪痕が赤く残った手の平が虚しいほど痛い。その赤い痕を見詰める内に何故だろう、視界が熱くなり水面のように揺らいで見えなくなってしまう。




「どうして…………」




 年端もいかない少女にしてはよく努めた方だろう。
 心に不本意にも刻まれた生々しい心的外傷と、それ以前の他愛のない平穏な日常。
 その両方に息づく少年との思い出が孤独と哀情、愛情と恐怖を伴い小さな胸の中で激しく入り乱れる。
 どうするべきか。どうあるべきか。幼い少女には身の内で渦巻く濁った感情を鎮め答えを絞ることが叶わなかった。




「どうして、私……。どうして……、どう……したらいいの……」




 テララはひとしきり声を殺して枕を濡らし、脱力感と無気力に襲われ、そのまま静かに瞼を閉じた。

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