銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第27話 溶明する赤

 いつからかは、もう覚えていない。
 闇黒の直中、白肌に鮮血の花を咲かせ崩れる小さな身体を守ろうと必死で手を伸ばし、もがき嘆いている。
 ただ鮮明に、辛辣に、悲嘆と後悔で焼き付けられた陰惨な光景が、終息することなく永続的に繰り返されている。


 やがて、哀願する温もりはついにその手に届かず、黒の淵へ呑まれてしまった。
 報われず行き場を失った悲嘆が、憤りを練り込み五臓の奥底からたぎり立つ。




「帰って……って……、言った……のに……。やめてって……、言った……のに……。どう……して……どう、して…………」




 深い悔恨と憎悪渦巻く嘆きをもって闇黒の世界を彷徨っている。このままずっとこの暗闇の中、独り悲しみ続けるのだろう。慕う笑みも温もりも、もう二度と触れることはできず、ここで朽ちていくのだろう。それもいいかもしれない。
 どれだけ嘆こうと、どんなに叫ぼうと、何一つ、誰一人、その声ならぬ声に応えてはくれなかった。
 いつしか底知れずたぎって怒りも薄れてただ無を受け入れかけたとき、唐突にまばゆい白が周囲の黒を塗り潰した。




「……か、え……して……。……マ、……ソー……マ。…………ソーマ……ソーマッ!!!?」










 際限のない白の中に見知った景色が浮き上がり、急速に意識が呼び起こされる。
 悲鳴とも取れるほど大きな声をあげ、額を湿らせたテララが顔面蒼白で飛び起きた。
 汗ばんだ黒髪を伝って汗が滴り落ち、自分の荒い呼吸が思考を邪魔する。目の前で落ちた汗を吸って湿る掛け布を裂けるほどきつく握りしめている。




「はあ、やっと起きたね。おはよーーさん」
「……おねえ……ちゃん……?」
「ったくーー。まる2日も寝すぎだよ。ソーマでさえ1日ですっかり元気だってのに」




 まだ意識のはっきりとしないテララの傍らには、いつもの調子で跳ねた頭を掻きながら内心心配しつつも可愛い妹を揶揄やゆする姉の姿があった。
 その見慣れたはずの人影も初めて目の当りにするかのように、テララはただただ茫然と眺めている。


 しかし、その空白の間も束の間、先程まで暗闇の中で恋い焦がれ叫んでいた名前が脳裏にぽつりと浮かび、酷く怯えた形相で姉にすがり付いた。




「……ソーマ。お姉ちゃんっ!! ソーマはっ!? ソーマは無事なのっ!!!?」
「だーーかーーらーー! 元気だって今言ったでしょ? ちゃんと起きてる? いいから、ちょっと落ち着きなって。腹が空いて頭回らないんなら、ちょうど配給の残りのパーニスならあるけど?」
「……え、あ、……ううん。……平気。……ソーマ、無事だったんだ……。よかった……」




 眠たそうな細い眼を擦りながら途端に喚く妹を少々煩わしそうになだめると、姉はホルデムの実を練った生地を焼いた芳しい香りのする淡黄の粉ものを一口頬張り話しをはじめた。




「クス爺の話だと、あの子の方が傷が酷いって聞いてたんだけどね。次の日の朝には何もなかったみたいに飛び起きて、変わらず粥にかじり付いてたよ。まだ傷も治ってないだろうに。頑丈って言うか、ただ食い意地が張ってるって言うか」
「今は、どう……してるの……?」
「あの子ならついさっき昼飯食べ終わって、あたしんとこで眠ってるよ。と言うか、ソーマのことより、あんただよ。あんた!」




 姉は頬にパーニスを詰め込んだままその食いかけをテララにかざし、食べかすを散らしながら叱責気味に話を続ける。




「すり傷ならまだしも、身体中に青痣あおあざなんてつくって担ぎ運ばれて来たときは、さすがに驚くったらっ! こんなこと、今まで一度もなかったでしょ? こうして無事だったからよかった、け、ど、ねっ!」




 そう膨れ言いながら、寝床で俯くテララの頬にできた青痣を意地悪そうにかざしたそれで小突き、開いた口に透かさずねじ込んだ。




「いてて……っ!? ちょっ!? ……お……い、しい……」
「ったく。んで? 少し話してくれる? 気が滅入らない程度でいいから」




 姉はそこまで言うと、からかうのを止め物静かに寝床の脇に座り直した。
 一、二口ほど食糧を喉に通した後、それ以上喉を通りそうにない欠片を握りしめ、よぎる恐怖を堪えるようにテララは奥歯を噛み締めつつハリスの山で起こった惨劇を静かに語りはじめた。




「う、うん…………。お姉ちゃん、あのね…………。ニ……、ニゲル……ニンブスと……会ったの……」
「なっ!? ニゲルの連中にっ!? それ、確かなのっ!?」




 ニゲル・ニンブス。食いかけの飯を恐怖のあまり強張る手で固く握りしめ、震える小さな口は確かにそう呟いた。
 それは忌み嫌われる名。それは全てを奪い去る黒い嵐。
 大地に屹立きつりつする母大樹からその恵みを拝受し、密やかに生を育む者。テララたち、ティーチ村の住民がそうならば、その住民から悪逆の限りを尽くし、食糧や衣服のみならず生きる自由までの全てを有無を言わさず強奪する者たちが居る。
 その悪族たちは黒衣を身にまとい、襲われた後には嵐にさらわれたように何も残らず、ただ悲痛の嘆きだけが木霊する。
 故に、争いを好まない者たちは、餌食えじきにならまいと安住できる地を求め、焼ける荒野を転々とするしかない。
 テララたちの村も過去に小規模ながら被害に合い、その非道さは村の誰もが身を持って知っていた。




「う、うん……。服は黒塗りじゃなかったけど、刃物持って……襲ってきて……」
「なるほどね……。その傷はその時のってことね」
「うん……。私、なんとかしなくちゃって思ったんだけど……。力尽くで押え付けられて、それで……」




 事の情景を思い起こし言葉を紡ぐにつれ、脳髄から刻み込まれた恐怖が溢れ出す。
 それは瞬く間に小さな身体から体温を奪い、震わせ、あの時のような息苦しさを惨酷に再現する。




「かーーっ! なんて最低なやつらだ! 向こうは男だろ?」




 何かに取り憑かれたかのように陰々滅々と語り続ける妹の姿に参ったのか、急ぎその陰鬱な気を晴らすべく物怖じしない調子で姉が口を挟んだ。
 今の自分の内にはない頼もしさを感じるその声に、テララははたと意識を逸らされ陰鬱の底から顔を持ち上げた。




「う、うん。2人だった……」
「男が寄ってたかって子供痛めつけるなんてっ! その青痣も、そいつらにやられたんでしょ? 相変わらず酷い連中だねっ!」
「……あ、うん……。これは……」
「ああ、もう話しはいいよ。大体分かったから。だとすると、出発を2、3日早めた方が良さそうだね。やつらに居場所ばれない内に、さっさと籠らないと」




 身体中にできた痣に表情を曇らせた妹を姉は見逃しはしなかった。テララの心境を気遣いその言葉を制して話を終わらせ、姉は溢した食べかすを払い落しながら膝を付いて立ち上がり爪先を返した。




「そう言うことならっと……」
「……お姉ちゃん?」
「あたしは守部んとこ行って話付けてくるから。あんたは大人しくそこで寝てな。そんな白い顔して歩き回って、また倒れでもしたら、あんただって参るでしょ? それに……、あたしらだってあんたに世話してもらわないと調子狂うんだから……」
「……え? ごめん。最後、何て言ったの? 良く聞こえなくて……」
「何でもいいの! いいから、休んでな!」




 そう言うと何故か少し頬を赤らめた姉は、何かを掻き消さんとばかりに頭を掻き乱し、部屋をそそくさと出て行った。

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