銀眼貫餮のソウルベット -Pupa cuius oblitus est mundus-

七色Ayeca。

第15話 大地の牙

 本当に真っ白で綺麗な髪だ。紡ぎたてのまだ柔らかい麻糸のように撫でた指を滑ってゆく。その心地良さに撫でているこちらが寝てしまいそうだ。
 そんなことを考えながらソーマの髪を愛おしく眺めていると、何やら外からざわつく気配を感じ、テララはそれを確認するべく戸口の方へ向かった。




「たっ大変だっ!! チサキミコ様っ!!!?」




 テララが戸口をくぐるろうと暖簾のれんに手を伸ばした次の瞬間、突然一人の村の男が狂気をはらんだ表情で息を切らし戸口に駆け込んできた。




「ひゃっ!? ど、どうしたんですか? そんなに慌てて――」
「イッ、イナッ……、"イナバシリ"がくるぞっ!!!!!!」
「えっ!? イナッ……。そ、そんなっ……」




 その言葉を耳にした途端、少女の表情に戦慄が走った。瞳孔は大きく開き深緑の瞳は震え、その小さな身体は酷く強張りテララはただ立ち尽くしてしまった。
 あのときの光景が強引に想起され嵐の如く脳裏を駆け巡ってゆく。それと同時に大好きだった人の、自分たち姉妹を最後まで愛し守ってくれた人の最期の声が幻聴となって両耳から胸の奥を締め付ける。




「……い、いや……。……いや、……いや…………。おか、あさん……おか――」
「テララちゃんっ!? おいっ、テララちゃんっ! しっかりするんだっ! テララちゃんっ!!」




 戸口に駆け込んできた男は要件を伝え一刻も早く次の行動に移って欲しいようだ。
 しかし、目の前の少女は迫る事象の恐怖に呑まれ普段の気丈さをなくしただ怯えるばかりだった。
 男は我慢ならず、その両肩を掴み乱暴に揺すり正気を呼び覚まそうと叱責同然に促す。




「お母さんのことで辛くなるのも分かるが、今はチサキミコ様と2人! ああ、昨日運ばれたって奴もか。とにかくっ! 一人で大変だろうが皆でできるだけ部屋の高く丈夫な所でじっとしてるんだっ! いいねっ!!」




「……あ、……ああ、……は、い……」




 男はテララの力の無い返事に眉をひそめ懸念が拭いきれないようだったが、そう言い残すと戸口の暖簾のれんを勢いよくまくり上げ、大声で迫る危機の名を叫びながら駆けて行った。
 その間際、開け放たれた戸口の向こう側、遥か南西の地平が砂煙を巻き上げ轟々と唸りを上げている様子が怯える深緑の瞳に映り込んだ。
 テララは暖簾が下りきった後も視線すら動かせないまま身動きが取れないでいた。




「……なくちゃ。……にげ、……はやく、隠れ、なくちゃ……」




 必死に奮い立たせた気丈さも弱々しく声にならず、冷汗だけがただ喉元を伝う。
 気付かぬ間に握り締めたられた手の平の爪が皮膚を斬り、予期せぬ痛みに一瞬意識を逸らされる。滲み出る血を脈打つ瞳で凝視し、脳裏を過る陰惨な過去と現状取るべき最善の行動が錯綜さくそうする。


 そのとき、不意に後方からいたいけな声が耳に届き、怯えた視線はその方を見やった。




「……ゴ、ハン、……ソ、ハ……ン……」




 そこにはこの危機的状況にもかかわらず姉とソーマがつい先程と何ら変わらぬまま穏やかに寝息を立てていた。




「私が、しっかりしなくちゃ――」




 二人を守らなくては。居間で転寝うたたねする二人の様に幾ばくかの冷静さを取り戻し、テララは血の滲んだ手を衣服で急ぎ拭うとその二人を避難させるべく声を張り上げ駆け寄った。




「お姉ちゃんっ! ソーマッ! 起きてっ!! 早く隠れなくちゃっ! お願い! 早く起きてっ! ソーマッ! お姉ちゃんっ!!」
「……んあ? うるさいねーー。……人が、気持ちよく寝て……ふわああああ」




 テララは二人の傍に膝を着いて双方の肩を何度も、何度も何度も揺すり、急ぎ夢路からの覚醒を促した。
 日課の昼寝を邪魔され、不機嫌そうに大あくびをする姉を断じて眠らせまいとテララは透かさず言葉を続ける。




「あっ! お姉ちゃん! 起きてっ! 南の方からね、イナッ、……イナバシリが来てるのっ!!」
「……それ本当? ……分かったよ。そゆことなら寝てもいられないね。あんたはその子を起こしてあげな。あたしは上で準備するから」




 無視できない言葉を妹の口から耳にした姉は、片目を見開きその表情を伺った。
 悪ふざけや何か勘違いしている様子でもない。震えた目は誰かにすがりたい気持ちを抑え必死で家族の身の安全を哀願するそんな目だ。
 危機的状況を察し、姉は姉らしく冷静に何をするべきか妹を導いてやる。




「う、うん……、分かったっ! す、直ぐソーマを起こすねっ!」
「さーーてと、んじゃあたしもやることやるかーー……、ん?」




 早速自身の役目を果たすべく姉はまだ重たい身体を持ち上げた。折角家より山盛りの旨い飯を腹一杯食べてた途中だったのにと、わざとらしくおどけている。まだ余裕がある素振りを見せつつ、溜息交じりに自室へと向かおうと足を向けたのだが、横目に映る肝心の妹が返事はしたもののまるで動きが伴っていなかった。
 普段の手際の良さはどこにもなく、恐怖に呑まれた妹は先程頷いた恰好で固まったままだったのだ。
 身体全体で恐怖と動揺と示すテララの額に姉は自分のを合わせ、目を瞑り諭すように優しく言い聞かせた。




「ほーーら、落ち着きなよ? 変に気負いしなくていいんだかんね? 幸い、今日は家の中だし、あんたはソーマを起こしてやることだけを考えな」
「……う、……うん」
「いい子だね。それじゃ、さっさと動こうか」




 テララの瞳が焦点を定められるようになったのを認め、姉は凛とした足取りで自室へと向かった。


 心なしか轟音がその勢力を増し、風に運ばれた土煙が戸口からわずかに漏れ出している。事態は刻一刻と差し迫っていた。
 落ち着いて、落ち着いて、よし。テララは一旦目を瞑り息を整えると今度こそ落ち着きを取り戻し、まだ涎を垂らしている少年の方に向き直った。




「ソーマッ! お願い起きて! ここで寝てたら危ないの! いい子だから、起きて! ソーマッ!」
「……ンニ? ……テララ? ……ゴハ、ン?」
「ごめんね。ご飯はまた今度作ってあげるから、ちょっと起きられる?」




 夢とうつつの狭間に銀眼がまだ霞むソーマの身体を起こしてやり、変に勘付かれ混乱させないようテララはその手をそっと引き立たせてやった。
 微かに床を伝って揺れを感じる。水場の鍋や椀が不穏な音を立て小刻みに揺れ動いている。急がなくては。
 テララは焦る気持ちを抑え、ソーマの両手を引いて姉の部屋へ登って行った。










 姉の寝室では既に来る危機に備え準備が整えられていた。衣装箱が引っ繰り返され、予備の敷き布が何重にも寝床に敷き詰められている。
 その上に掛け布や衣服の全てを肌が隠れても尚、光さえ遮るように念入りに重ねられた布の山に包まった姉の姿があった。




「やっと来たね。ほら、早くこっち来て」




 その何重もの布に包まっているいかめしい表情の姉に促されるまま、テララはソーマの手を引きその腕の中に潜り込んだ。
 ソーマを正面からその頭を庇うようにテララが抱きかかえ、その二人を姉が更に大量の布をまとって覆い被さる形で迫る危機に息を潜めた。




「あっ! ピウちゃんがっ!!」
「仕方ないよ。動くのが遅すぎたんだ。今はじっとここでピウの無事を祈ってあげな」
「そんな……ピウちゃん……」
「テラ、ラ……?」




 これだけ身を寄せていれば余程の阿呆でも分かる。寝床に辿り着いた時点でそれまでテララを支えていた平常心は消え失せ、日頃の気丈さなどなく、ただ恐怖に怯える一人のか弱い少女でしかないと。二人を庇う姉の手に必然と力が込もる。










 そして、その時は来た――。




 イナバシリ。それは凍期と乾期の節目に生じる自然現象だ。詳しいその原因は"何故か"村の誰も知りはしないが、特に冷え込んだ凍期が終わり、日光で地表が焼けるように照りつけられる乾期への変わり目に何の前触れもなく突如として生じる。
 堅く凍て付いた大地を空に轟く稲妻の如く幾本もの亀裂が走る。そして間断なくその亀裂に沿って大地が凄まじい勢いで炸裂し、鋭く砕かれた大地の破片は自然界の牙となり周囲にその猛威を容赦なく突き立てる。
 飛散する破片の威力は凄まじく、場合によっては木組みの床や壁はおろか、人の肉など容易に貫く鋭さを有する。


 凄まじい地鳴りと共に家屋が唸りを上げて大きく揺れ、壁や天井は軋み塵が降り頻る。
 そして、大地の砕ける凄まじい轟音と共に、飛散した破片が居間の床や外壁を激しく殴り付けはじめた。




「きゃああああっ!!!! お、お姉ちゃんっ!? お姉ちゃんっ!! お姉ちゃんっ!!!!」
「はいはい、直ぐ近くに居るから。なあに、こんなの直ぐ収まるよ。それまで絶対に動かないの。いいね?」




 この自然の猛威の直中に居ては流石にテララも恐怖に戦慄し、錯乱しかねない。
 姉は努めて普段の調子で、そして優しく腕の中で怯える妹をなだめてやる。
 しかし、大地の怒号が過ぎ去る気配は一向になく、むしろより一層にその威力を増し、村全体を死期の淵へと呑み込んでゆく。
 壁や床に打ち付けられる撲音はその熾烈さを増し、ついにそれを打ち砕く音が鼓膜を劈き少女たちの心をも砕きにかかる。
 光を遮るように頭から掛け布に包まったテララたちには外の様子を知る由もなく、ただじっと自然の脅威が過ぎるのを暗闇の中で震え耐え続けるしかなかった。






 気の所為だろうか、その撲音と大地の炸裂音の入り乱れる狂乱に混じり、村人たちの叫喚が聞こえてくるようだ。
 正気を保とうと必死に抗うもそんな不吉な予感が払えど払えど心中を締め付けてくる。その底なしの恐怖にテララの手は堅く強張り血の気さえ退き冷たくなってゆく。




 ――助けて。助けて。助けて……!!




 すると、それまで大人しく抱え込まれていたソーマが不意に頭を持ち上げた。
 一方のテララはそれにすら気付かず、歯を食いしばり息を浅く小刻みに漏らし怯えている。
 少しの間その酷く強張った表情を見詰めた後、ソーマは何かを感じ取ったのか、覆い被せられた震えるテララの手をゆっくりとどけ、その少女の手をぎこちなく両の手で握り締めた。
 それはまるで自分の手を引き歩くテララの手ように、優しく包み込むものだった。




「テララ……?」




 ソーマは未だ事態を把握できていないのだろう。何ら変わりない調子でテララの名を口にしたが、その返事は返ってはこない。目の前で強張った少女の顔を不思議そうに覗き込むと、やがてソーマはテララの手を握ったまま、その心中を労わるかのように寄り添いその肩に頭をそっともたれた。

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