白衣の女神と試験管
第3話 再会は危険な香りの苛性ソーダ風①
朝六時半。春乃はスマホのバイブ音で目が覚めた。
画面を見ると『奈緒』の二文字。
怪訝な顔をして通話ボタンを押した。
「…もしもし?」
「春乃おはよう!もうそろそろ起きないと初日から遅刻になっちゃうよ!」
思わず耳からスマホを遠ざけたくなるような、元気いっぱいの奈緒アラームである。
「…いや、集合九時でしょ。どんだけ準備に時間を割くつもりなの」
「春乃はいつも朝ギリギリに登校してくるから心配だったの!」
奈緒の言っている『いつも』とは、中学生までの話である。
それも部活の朝練がなくなった中学三年生の頃の記憶だろう。
「それ、中学の話でしょ。高校はそんなにギリギリでもなかったよ…。あと、お願いだから声のボリュームをもう少し下げて話して」
「あ、ごめん。でも、もう起きたんだから、ちゃんと支度してね!私は光輝君にも電話で起こしてくれって頼まれてるから、電話してくる。二度寝厳禁!」
ブツッと音を立てて切られたスマホを見下ろし、春乃は寝ぼけた脳で「光輝も大変だなぁ」とか「一日でそんなに仲良くなれるもんなんだ」とぼんやりと思いながら、のそのそとベッドから抜け出した。
カーテンを開けると春の日差しが眩しく、徐々に身体の細胞が起きてくる気配を感じた。
「ワイシャツ、下着、靴下にジャージ…んーワックスも入れとくか」
独り言ちながら今日から始まる一泊二日のオリエンテーションの準備をする。今日も入学式と同じくスーツで登校することになっている。
準備を終えると、荷物を持ってリビングへ向かった。
「あら、おはよう。早いじゃない」
母親は春乃が起きてきたことが意外そうに言った。事実、あと三十分は寝ているつもりだったのだから意外に思われても仕方がない。
「…奈緒から電話があったから」
春乃は心底面倒くさそうに愚痴った。
「奈緒ちゃんは相変わらずしっかりさんね」
笑いながら言う母親に少しムッとした。
「お節介っていうんだよ」
「ありがたく思いなさいな」
「…はぁ」
そうですか、と返事をしながら朝食に手を付ける。
奈緒はお節介にも程がある。頼まれていた光輝にだけ電話すればいいものを、なぜ自分にまで掛けてきたのだ。
遠足じゃないんだからそんなに気張る必要もないというのに。
などと考えながら箸を進めているうちに気が付けば朝食はなくなっていた。
春乃はなんだか食べた気がしないまま出かける支度をする。
「いってきまーす」
駅に着くと、通勤通学ラッシュで電車運んでいた。
昨日は右のホームから乗ったはずだから…と思っている間に電車に押し込まれる。
眠い目をこすりながらふと行先表示を見ると反対方向の電車に乗っていた。
「やべっ、間違えた」
降りようとするも時すでに遅し。
ドアは閉まり発射音が鳴っている。
何よりこの電車は急行電車だ。
「次の駅で降りよう…」
幸い時間には余裕がある。
認めたくはないが奈緒アラームのおかげだ。
春乃は次の停車駅で降りると、ちょうど反対ホームに止まっていた大学方面行きの電車に乗り込んだ。ラッシュ時だというのに座れるくらい人が少ない。
春乃は開いている席に座ると荷物を床に置いた。
眠気が襲ってくる。
うとうととし始めたとき、目の前に急行電車が止まった。
春乃の大学は急行が止まらないので、このまま各駅停車に乗っていればつくだろうと半分寝た頭で考え…気が付いた。
昨日は急行に乗り、手前の駅で降りて各駅停車に乗り込んだはずだ。
しかし、ここでも春乃は気が付くのが遅かった。急行電車は春乃を乗せることなく出発してしまったのだ。
「…待って。このままこの電車に乗っていると何時に着くんだ…?」
ようやく焦り始めた春乃はスマホを取り出し、時刻表アプリを開く。
結果、九時十五分着。
「遅刻じゃねーかっ!」
しかし、今更足掻いたところでもうどうにもならない。
電車でぶつぶつと独り言を言いながら焦りだけが体中を駆け巡る。
そして、焦る春乃を乗せた電車は走り出した。
八時五十五分。
スマホのバイブが鳴り出した。
画面を見ると『奈緒』の文字。
しかし、電車に乗っているため電話に出ることができないのを察したのか、数秒鳴らした後メッセージが飛んできた。
「今どこにいるの!」
春乃は渋い顔して「電車を乗り間違えたため、遅刻します」と打つと、秒の速さで「バカ!」と返ってきた。
ええ、バカですとも!春乃は心の中で呟いた。
十五分遅れで春乃が大学に到着すると、既に一組のバスは出発した後であり、残っていた四組のバスに乗ることになった。
幸いというべきか遅刻者は春乃だけではなかったらしく、数名の遅刻者を乗せて四組のバスが出発した。
春乃は席に着くと、奈緒に無事四組バスに乗せてもらえたことを報告した。
またもや秒の速さで返ってきたのは、「ばか」の二文字。
そして今度は光輝から「ハルおっちょこちょいだな笑」とメッセージが来たので両方を無視して春乃は寝ることにした。
奈緒アラームは結局のところ春乃の眠気を誘い、注意力を欠かせただけで終わってしまったのだった。
春乃が一組と合流したのは、研修場所である宿泊施設だった。
一組で遅刻したのは春乃だけだったらしく、合流した時には一躍有名人のようになっていた。
「初日から遅刻のハルちゃん!おはよう」
後ろから笑いながら光輝が肩を組んできた。
「やめろよ」と言いながら肩に回された腕を振りほどく。
「凄かったんだぜ!出発前、櫻木春乃君いますかー!って、先生が大声で言ってたから、きっとハルのフルネーム皆覚えたぜ」
春乃は肩を落とした。
自業自得だ、と自分を呪いたい気持ちでいっぱいだった。
そこへ奈緒とクラスメイトであろう女の子が連れ立って近づいて来た。
「はーるーのー!せっかく私が起こしてあげたのに何で遅刻しちゃうかなー。学校に連絡も入れないから、先生に遅刻することも伝えたんだよ!」
「そりゃどうも」
すっかり大学の方に連絡を入れるのを忘れていた春乃は、ほんのささやかだけ奈緒のお節介をありがたく思った。
そんなやり取りを端から見ていた女の子が、春乃と奈緒の顔を見比べて少し甘ったるい声で言った。
「奈緒と櫻木君って、幼馴染なだけで付き合ってるわけじゃないんだよねー?」
春乃と奈緒は目を丸くして、大きく首を振った。
「ないない!ただの幼馴染っていうか腐れ縁っていうか」
「腐れ縁は余計じゃない!?」
春乃の答えに奈緒は心外だと言わんばかりに春乃を睨んだ。心なしか顔が赤い。
「まぁまぁ、仲良しなことに変わりはないよな!」
そういいながら、春乃と奈緒の肩を持ちながら光輝が会話に割り込んでくる。実にウザったい。
そう思いながら春乃が奈緒の方を見やると、奈緒は顔を真っ赤にして硬直している。
「そ、そろそろ、大会議室、いかなきゃ!」
奈緒はそう言うとカクカクしながら光輝の手から逃れ、女の子とその場を離れた。
その後姿を見ながら光輝はニヤニヤして言った。
「あの様子は、男慣れしてないよな、奈緒ちゃん」
「昔はよく男に交じって一緒にサッカーとかやってたけどな」
光輝は春乃を見て、ちっちっちと人差し指を横に揺らす。
「思春期の女の子はガラリと変わるもんなんだよ」
「ああそうかい。彼女もいたことないのによくわかるな、光輝先生」
春乃はあきれながら自分の肩に乗っかったままだった光輝の腕を払う。
そして、光輝と並んで大会議室へと向かった。
大会議室で『大学生とは』という漠然と壮大感のある講義の後、小会議室に移動し各クラスでのホームルームが始まった。
ホームルームの内容は親睦会という名の自己紹介タイムだった。
三人掛けの長机に一席開けて出席番号順に座る。春乃はサ行なので、クラスのちょうど真ん中くらいの位置に座った。
春乃は、前日光輝の『友達の輪を広げる作戦』を断ったため、クラスメイトの大半の顔をよく見たのはこれが初めてだった。
女の子達は薄い濃いの差はあれ、全員がメイクをし、中にはやたらと目元がはっきりしている子や、唇が真っ赤な子、頬がやたらとピンク色をした子。
そして、もれなく全員髪の毛が茶色に染められている。
春乃からすれば、みんな似たような顔に見え区別がつかない。
男の子の方はというと、ピアスを開けていたり、髪を染めていたり、セットに時間のかかりそうな髪形をしていたが、こちらもクローン人間でもいるのではないかと思う程に見分けがつかない。
春乃は一生懸命名前と顔を一致させようと試みたが、途中で虚無感に襲われ諦めた。
男の子に関して言えば、みんな光輝でいいような気さえしたが、だからと言ってみんな光輝のように友達になれる気もしなかった。
春乃は自分の自己紹介を無難に終え、目立たないようにひっそりと影を潜めていようと心に誓った。が、光輝によってその計画は崩された。
春乃の名前が呼ばれた瞬間、光輝が「よ!有名人!」と声を上げ、クスクスと笑いが起きたのだ。
春乃は思いっきり光輝を睨みつけたが、光輝に春乃の気持ちが伝わることはない。
もはや、こちらを見て親指を立てウインクをして見せたくらいだった。渋々春乃は立ち上がる。
「櫻木春乃です。よろしくお願いします」
春乃は簡潔に名前と一言を付け加えただけで席に着いた。
「それだけかよー」と光輝のヤジが聞こえてきたが無視することにした。
これ以上目立つのは得策ではない。
一通りクラス全員の自己紹介が終わると、担任教員は「あとは各々自由に交流を深めてください」と無責任に小会議室を出て行った。
すると、光輝がニヤニヤしながら春乃のところにやってきた。
「せっかくのチャンスだったのに自己紹介あれだけはないわー」
「なんのチャンスなんだよ」
春乃は不貞腐れて光輝の顔を睨む。
「もうちょっとアピールポイントあっただろー。テニス部のエースでしたーとかさ」
「エースってわけではなかったし、あの状況で何か他のことを言う気にもならなかったよ」
春乃はため息をついた。そこへ、奈緒が一人の女の子を連れて春乃と光輝のところへやってきた。
「櫻木君テニス部のエースだったのー?高校って光輝君と一緒なんだよねー?」
一度に質問を投げかけられ困惑する春乃は「いやいや」とか「まぁ」とかそんな曖昧な返事をするだけだった。
それに対し、光輝はいとも簡単に回答していく。
「ハルとオレは高校が一緒で、オレは野球部だったけど、ハルは硬式テニス部だったんだよ。オレ達の高校部活に結構力入れててさ、その中でもハルはエースって呼ばれるくらいの腕前なんだよー!すげぇだろ!」
そう言ってまた春乃の肩を組もうとしたので、春乃は「大げさ」と言いながらそれを避けた。
「春乃って高校でもテニス部だったんだね!中学でもテニスやってたもんね!」
奈緒がやたらと嬉しそうに話してくる。
そして、質問を投げかけてきた女の子はさっきも奈緒と一緒にいた女の子と同一人物だということに気が付いた。
奈緒の腕に絡みついてもたれかかっている。
身長は奈緒と同じくらい。
「昨日は櫻木君すぐ帰っちゃったから、お話しできなくて残念だなぁって思ってたのー」
「…はぁ」
特別残念に思っていない春乃は気のない返事をした。
光輝の方は昨日のお友達作ろう作戦の時に顔を会わせていたのか、普通の顔をして会話に参加している。
「櫻木君は奈緒とどれくらいの幼馴染なのー?」
「幼稚園から中学までだよ。高校は別」
すると、その女の子は両手を口に当てて「わぁー!長い付き合いなんだねー!いいなぁー」っと言った。
春乃は何が『いいなぁ』なのかがさっぱりわからなかったが、深く追及するのはやめた。
「櫻木君、私の名前わかるー?さっきの自己紹介タイム、つまんなそうにしてたからー」
春乃はまさか自分が誰かに見られているとは思ってもみなかったので、覚えようとしていなかったことを後悔した。
確か奈緒の前に座っていたようだったが、思い出せない。
「あー、ごめん、北…なんとかさん?」
「惜しいー!北河紗友里だよー。紗友里でいいよー」
紗友里は両手を合わせて笑顔を見せる。
「紗友里さんね。覚えるわ」
「『さん』なんていらないよー」
ニコニコしながら春乃の肩を叩いた。
「わかった。紗友里ね」
「うんー!私も春乃って呼んでいいー?」
今度は可愛らしく小首をかしげる。
「いいよ」
「やったー!」
最後には両手を上げて喜んでいる。
動きがオーバーな子だなというのが春乃の印象だった。
そんな二人のやり取りを奈緒は複雑そうな顔で見ていた。
「なんだよハルだけずるいじゃん!オレも紗友里って呼ぶわ」
春乃の肩をグイっと押し退けて光輝が出てくる。
「いいよー。じゃぁ、私も光輝って呼ぶねー」
その後も紗友里の質問攻めに春乃よりも光輝の方が答えるという状況が続き、四人で親睦を深めることとなった。
春乃にとっては光輝も奈緒もすでに知った仲なので、紗友里一人との親睦ということになるが、この際気にしない。
時間が経つにつれクラス全体が何となく各々の部屋に帰り始めたこともあり、四人も部屋に戻ることにした。
男女で泊まる階が異なっており、男の子は六階、七階が教員で女の子は八階に部屋が取られている。四人でエレベーターに乗り込んだ。
「楽しかったねー」
「うん!春乃!明日は寝坊厳禁だよ!」
「わかってるって」
「オレが起こしに行ってやろうか?」
「いらねぇよ」
そんなやり取りをしている間に六階に到着した。
誰ともなく「じゃぁ、おやすみー」と言い合って女の子二人を見送ると、光輝が春乃を急に振り向いた。
「紗友里やばくね?可愛いし、胸こんなだし!」
そういって胸の膨らみを表現するジェスチャーをした。
「んー…あんまり覚えてないや」
「嘘だろ!?今の今まで一緒にいたじゃん!」
自分でも不思議なくらい、紗友里の顔もスタイルもぼんやりとしか思い出せない。
「ちょっと子供っぽい印象だったかなぁ…」
「そこも可愛いじゃんか!」
春乃は疑いの目を向ける。
「お前、女の子なら誰でも可愛いと思ってない?」
「そんな事はない!…と思う」
「俺には男女の見分けくらいしかつかなかったけどな」
クラス全員分の顔を思い浮かべてみるが、やはり印象に残るような顔はいない。
各々の部屋にたどり着くまで、くだらないやり取りをしながら歩いていく。春乃は自分の部屋の前まで来ると光輝の背中をポンと叩いた。
「まぁ、浮かれすぎるなよ。おやすみ」
すると光輝は「うるせぇ」と言って手を挙げながら自分の部屋へ向かっていった。春乃は自分の部屋番号を確認し、ドアを開け中に入った。
春乃は寝付くとき、もう一度紗友里の顔を思い出そうと試みたが、うまくはいかなかった。
思いだせるのは見慣れた顔の光輝と、中学の頃に比べメイクで少し大人びた顔になった奈緒の顔、そして昨日、散歩途中で出会った雪子の顔だった。
画面を見ると『奈緒』の二文字。
怪訝な顔をして通話ボタンを押した。
「…もしもし?」
「春乃おはよう!もうそろそろ起きないと初日から遅刻になっちゃうよ!」
思わず耳からスマホを遠ざけたくなるような、元気いっぱいの奈緒アラームである。
「…いや、集合九時でしょ。どんだけ準備に時間を割くつもりなの」
「春乃はいつも朝ギリギリに登校してくるから心配だったの!」
奈緒の言っている『いつも』とは、中学生までの話である。
それも部活の朝練がなくなった中学三年生の頃の記憶だろう。
「それ、中学の話でしょ。高校はそんなにギリギリでもなかったよ…。あと、お願いだから声のボリュームをもう少し下げて話して」
「あ、ごめん。でも、もう起きたんだから、ちゃんと支度してね!私は光輝君にも電話で起こしてくれって頼まれてるから、電話してくる。二度寝厳禁!」
ブツッと音を立てて切られたスマホを見下ろし、春乃は寝ぼけた脳で「光輝も大変だなぁ」とか「一日でそんなに仲良くなれるもんなんだ」とぼんやりと思いながら、のそのそとベッドから抜け出した。
カーテンを開けると春の日差しが眩しく、徐々に身体の細胞が起きてくる気配を感じた。
「ワイシャツ、下着、靴下にジャージ…んーワックスも入れとくか」
独り言ちながら今日から始まる一泊二日のオリエンテーションの準備をする。今日も入学式と同じくスーツで登校することになっている。
準備を終えると、荷物を持ってリビングへ向かった。
「あら、おはよう。早いじゃない」
母親は春乃が起きてきたことが意外そうに言った。事実、あと三十分は寝ているつもりだったのだから意外に思われても仕方がない。
「…奈緒から電話があったから」
春乃は心底面倒くさそうに愚痴った。
「奈緒ちゃんは相変わらずしっかりさんね」
笑いながら言う母親に少しムッとした。
「お節介っていうんだよ」
「ありがたく思いなさいな」
「…はぁ」
そうですか、と返事をしながら朝食に手を付ける。
奈緒はお節介にも程がある。頼まれていた光輝にだけ電話すればいいものを、なぜ自分にまで掛けてきたのだ。
遠足じゃないんだからそんなに気張る必要もないというのに。
などと考えながら箸を進めているうちに気が付けば朝食はなくなっていた。
春乃はなんだか食べた気がしないまま出かける支度をする。
「いってきまーす」
駅に着くと、通勤通学ラッシュで電車運んでいた。
昨日は右のホームから乗ったはずだから…と思っている間に電車に押し込まれる。
眠い目をこすりながらふと行先表示を見ると反対方向の電車に乗っていた。
「やべっ、間違えた」
降りようとするも時すでに遅し。
ドアは閉まり発射音が鳴っている。
何よりこの電車は急行電車だ。
「次の駅で降りよう…」
幸い時間には余裕がある。
認めたくはないが奈緒アラームのおかげだ。
春乃は次の停車駅で降りると、ちょうど反対ホームに止まっていた大学方面行きの電車に乗り込んだ。ラッシュ時だというのに座れるくらい人が少ない。
春乃は開いている席に座ると荷物を床に置いた。
眠気が襲ってくる。
うとうととし始めたとき、目の前に急行電車が止まった。
春乃の大学は急行が止まらないので、このまま各駅停車に乗っていればつくだろうと半分寝た頭で考え…気が付いた。
昨日は急行に乗り、手前の駅で降りて各駅停車に乗り込んだはずだ。
しかし、ここでも春乃は気が付くのが遅かった。急行電車は春乃を乗せることなく出発してしまったのだ。
「…待って。このままこの電車に乗っていると何時に着くんだ…?」
ようやく焦り始めた春乃はスマホを取り出し、時刻表アプリを開く。
結果、九時十五分着。
「遅刻じゃねーかっ!」
しかし、今更足掻いたところでもうどうにもならない。
電車でぶつぶつと独り言を言いながら焦りだけが体中を駆け巡る。
そして、焦る春乃を乗せた電車は走り出した。
八時五十五分。
スマホのバイブが鳴り出した。
画面を見ると『奈緒』の文字。
しかし、電車に乗っているため電話に出ることができないのを察したのか、数秒鳴らした後メッセージが飛んできた。
「今どこにいるの!」
春乃は渋い顔して「電車を乗り間違えたため、遅刻します」と打つと、秒の速さで「バカ!」と返ってきた。
ええ、バカですとも!春乃は心の中で呟いた。
十五分遅れで春乃が大学に到着すると、既に一組のバスは出発した後であり、残っていた四組のバスに乗ることになった。
幸いというべきか遅刻者は春乃だけではなかったらしく、数名の遅刻者を乗せて四組のバスが出発した。
春乃は席に着くと、奈緒に無事四組バスに乗せてもらえたことを報告した。
またもや秒の速さで返ってきたのは、「ばか」の二文字。
そして今度は光輝から「ハルおっちょこちょいだな笑」とメッセージが来たので両方を無視して春乃は寝ることにした。
奈緒アラームは結局のところ春乃の眠気を誘い、注意力を欠かせただけで終わってしまったのだった。
春乃が一組と合流したのは、研修場所である宿泊施設だった。
一組で遅刻したのは春乃だけだったらしく、合流した時には一躍有名人のようになっていた。
「初日から遅刻のハルちゃん!おはよう」
後ろから笑いながら光輝が肩を組んできた。
「やめろよ」と言いながら肩に回された腕を振りほどく。
「凄かったんだぜ!出発前、櫻木春乃君いますかー!って、先生が大声で言ってたから、きっとハルのフルネーム皆覚えたぜ」
春乃は肩を落とした。
自業自得だ、と自分を呪いたい気持ちでいっぱいだった。
そこへ奈緒とクラスメイトであろう女の子が連れ立って近づいて来た。
「はーるーのー!せっかく私が起こしてあげたのに何で遅刻しちゃうかなー。学校に連絡も入れないから、先生に遅刻することも伝えたんだよ!」
「そりゃどうも」
すっかり大学の方に連絡を入れるのを忘れていた春乃は、ほんのささやかだけ奈緒のお節介をありがたく思った。
そんなやり取りを端から見ていた女の子が、春乃と奈緒の顔を見比べて少し甘ったるい声で言った。
「奈緒と櫻木君って、幼馴染なだけで付き合ってるわけじゃないんだよねー?」
春乃と奈緒は目を丸くして、大きく首を振った。
「ないない!ただの幼馴染っていうか腐れ縁っていうか」
「腐れ縁は余計じゃない!?」
春乃の答えに奈緒は心外だと言わんばかりに春乃を睨んだ。心なしか顔が赤い。
「まぁまぁ、仲良しなことに変わりはないよな!」
そういいながら、春乃と奈緒の肩を持ちながら光輝が会話に割り込んでくる。実にウザったい。
そう思いながら春乃が奈緒の方を見やると、奈緒は顔を真っ赤にして硬直している。
「そ、そろそろ、大会議室、いかなきゃ!」
奈緒はそう言うとカクカクしながら光輝の手から逃れ、女の子とその場を離れた。
その後姿を見ながら光輝はニヤニヤして言った。
「あの様子は、男慣れしてないよな、奈緒ちゃん」
「昔はよく男に交じって一緒にサッカーとかやってたけどな」
光輝は春乃を見て、ちっちっちと人差し指を横に揺らす。
「思春期の女の子はガラリと変わるもんなんだよ」
「ああそうかい。彼女もいたことないのによくわかるな、光輝先生」
春乃はあきれながら自分の肩に乗っかったままだった光輝の腕を払う。
そして、光輝と並んで大会議室へと向かった。
大会議室で『大学生とは』という漠然と壮大感のある講義の後、小会議室に移動し各クラスでのホームルームが始まった。
ホームルームの内容は親睦会という名の自己紹介タイムだった。
三人掛けの長机に一席開けて出席番号順に座る。春乃はサ行なので、クラスのちょうど真ん中くらいの位置に座った。
春乃は、前日光輝の『友達の輪を広げる作戦』を断ったため、クラスメイトの大半の顔をよく見たのはこれが初めてだった。
女の子達は薄い濃いの差はあれ、全員がメイクをし、中にはやたらと目元がはっきりしている子や、唇が真っ赤な子、頬がやたらとピンク色をした子。
そして、もれなく全員髪の毛が茶色に染められている。
春乃からすれば、みんな似たような顔に見え区別がつかない。
男の子の方はというと、ピアスを開けていたり、髪を染めていたり、セットに時間のかかりそうな髪形をしていたが、こちらもクローン人間でもいるのではないかと思う程に見分けがつかない。
春乃は一生懸命名前と顔を一致させようと試みたが、途中で虚無感に襲われ諦めた。
男の子に関して言えば、みんな光輝でいいような気さえしたが、だからと言ってみんな光輝のように友達になれる気もしなかった。
春乃は自分の自己紹介を無難に終え、目立たないようにひっそりと影を潜めていようと心に誓った。が、光輝によってその計画は崩された。
春乃の名前が呼ばれた瞬間、光輝が「よ!有名人!」と声を上げ、クスクスと笑いが起きたのだ。
春乃は思いっきり光輝を睨みつけたが、光輝に春乃の気持ちが伝わることはない。
もはや、こちらを見て親指を立てウインクをして見せたくらいだった。渋々春乃は立ち上がる。
「櫻木春乃です。よろしくお願いします」
春乃は簡潔に名前と一言を付け加えただけで席に着いた。
「それだけかよー」と光輝のヤジが聞こえてきたが無視することにした。
これ以上目立つのは得策ではない。
一通りクラス全員の自己紹介が終わると、担任教員は「あとは各々自由に交流を深めてください」と無責任に小会議室を出て行った。
すると、光輝がニヤニヤしながら春乃のところにやってきた。
「せっかくのチャンスだったのに自己紹介あれだけはないわー」
「なんのチャンスなんだよ」
春乃は不貞腐れて光輝の顔を睨む。
「もうちょっとアピールポイントあっただろー。テニス部のエースでしたーとかさ」
「エースってわけではなかったし、あの状況で何か他のことを言う気にもならなかったよ」
春乃はため息をついた。そこへ、奈緒が一人の女の子を連れて春乃と光輝のところへやってきた。
「櫻木君テニス部のエースだったのー?高校って光輝君と一緒なんだよねー?」
一度に質問を投げかけられ困惑する春乃は「いやいや」とか「まぁ」とかそんな曖昧な返事をするだけだった。
それに対し、光輝はいとも簡単に回答していく。
「ハルとオレは高校が一緒で、オレは野球部だったけど、ハルは硬式テニス部だったんだよ。オレ達の高校部活に結構力入れててさ、その中でもハルはエースって呼ばれるくらいの腕前なんだよー!すげぇだろ!」
そう言ってまた春乃の肩を組もうとしたので、春乃は「大げさ」と言いながらそれを避けた。
「春乃って高校でもテニス部だったんだね!中学でもテニスやってたもんね!」
奈緒がやたらと嬉しそうに話してくる。
そして、質問を投げかけてきた女の子はさっきも奈緒と一緒にいた女の子と同一人物だということに気が付いた。
奈緒の腕に絡みついてもたれかかっている。
身長は奈緒と同じくらい。
「昨日は櫻木君すぐ帰っちゃったから、お話しできなくて残念だなぁって思ってたのー」
「…はぁ」
特別残念に思っていない春乃は気のない返事をした。
光輝の方は昨日のお友達作ろう作戦の時に顔を会わせていたのか、普通の顔をして会話に参加している。
「櫻木君は奈緒とどれくらいの幼馴染なのー?」
「幼稚園から中学までだよ。高校は別」
すると、その女の子は両手を口に当てて「わぁー!長い付き合いなんだねー!いいなぁー」っと言った。
春乃は何が『いいなぁ』なのかがさっぱりわからなかったが、深く追及するのはやめた。
「櫻木君、私の名前わかるー?さっきの自己紹介タイム、つまんなそうにしてたからー」
春乃はまさか自分が誰かに見られているとは思ってもみなかったので、覚えようとしていなかったことを後悔した。
確か奈緒の前に座っていたようだったが、思い出せない。
「あー、ごめん、北…なんとかさん?」
「惜しいー!北河紗友里だよー。紗友里でいいよー」
紗友里は両手を合わせて笑顔を見せる。
「紗友里さんね。覚えるわ」
「『さん』なんていらないよー」
ニコニコしながら春乃の肩を叩いた。
「わかった。紗友里ね」
「うんー!私も春乃って呼んでいいー?」
今度は可愛らしく小首をかしげる。
「いいよ」
「やったー!」
最後には両手を上げて喜んでいる。
動きがオーバーな子だなというのが春乃の印象だった。
そんな二人のやり取りを奈緒は複雑そうな顔で見ていた。
「なんだよハルだけずるいじゃん!オレも紗友里って呼ぶわ」
春乃の肩をグイっと押し退けて光輝が出てくる。
「いいよー。じゃぁ、私も光輝って呼ぶねー」
その後も紗友里の質問攻めに春乃よりも光輝の方が答えるという状況が続き、四人で親睦を深めることとなった。
春乃にとっては光輝も奈緒もすでに知った仲なので、紗友里一人との親睦ということになるが、この際気にしない。
時間が経つにつれクラス全体が何となく各々の部屋に帰り始めたこともあり、四人も部屋に戻ることにした。
男女で泊まる階が異なっており、男の子は六階、七階が教員で女の子は八階に部屋が取られている。四人でエレベーターに乗り込んだ。
「楽しかったねー」
「うん!春乃!明日は寝坊厳禁だよ!」
「わかってるって」
「オレが起こしに行ってやろうか?」
「いらねぇよ」
そんなやり取りをしている間に六階に到着した。
誰ともなく「じゃぁ、おやすみー」と言い合って女の子二人を見送ると、光輝が春乃を急に振り向いた。
「紗友里やばくね?可愛いし、胸こんなだし!」
そういって胸の膨らみを表現するジェスチャーをした。
「んー…あんまり覚えてないや」
「嘘だろ!?今の今まで一緒にいたじゃん!」
自分でも不思議なくらい、紗友里の顔もスタイルもぼんやりとしか思い出せない。
「ちょっと子供っぽい印象だったかなぁ…」
「そこも可愛いじゃんか!」
春乃は疑いの目を向ける。
「お前、女の子なら誰でも可愛いと思ってない?」
「そんな事はない!…と思う」
「俺には男女の見分けくらいしかつかなかったけどな」
クラス全員分の顔を思い浮かべてみるが、やはり印象に残るような顔はいない。
各々の部屋にたどり着くまで、くだらないやり取りをしながら歩いていく。春乃は自分の部屋の前まで来ると光輝の背中をポンと叩いた。
「まぁ、浮かれすぎるなよ。おやすみ」
すると光輝は「うるせぇ」と言って手を挙げながら自分の部屋へ向かっていった。春乃は自分の部屋番号を確認し、ドアを開け中に入った。
春乃は寝付くとき、もう一度紗友里の顔を思い出そうと試みたが、うまくはいかなかった。
思いだせるのは見慣れた顔の光輝と、中学の頃に比べメイクで少し大人びた顔になった奈緒の顔、そして昨日、散歩途中で出会った雪子の顔だった。
「恋愛」の人気作品
書籍化作品
-
-
1
-
-
361
-
-
1359
-
-
2813
-
-
52
-
-
11128
-
-
381
-
-
1
-
-
238
コメント