消耗
全文
狂おしいほどに増す憎しみは、愛してやまない日々を持ってしても止まることを知らない。取り崩した愛情の一つ一つの破片は、確かに彼に刺さっていたのに。インディーズデビューの話、興ざめた私。たったそれだけが彼を変えてしまった。年がら年中食べていたカップラーメンと一度も行けなかった新宿のラーメン屋。どこにもいかない私の苦しみと、どこにでもいける彼のことを、天秤にかけたところで報われないのはわかっている。だってどちらも私が望んでいないのだから。
一、身長百七十二以上。二、一日一回以上私に電話をかけること。三、メールの返信は十分以内かつ私よりも文章が長いこと。四、私以外の女性の連絡先は肉親や兄弟、仕事関係の人以外全て削除すること。ただし仕事関係の人との私的なメールは、した時点で私に全て転送すること。五、「私のどこが好きかレポート」を週一で提出すること。四百字詰原稿用紙換算で四枚以上、私に対する否定的な内容はNG。六、GPSで四六時中監視されることを苦に思わないこと。七、もし私以外に好きな女性ができたら、まず私とその女性を会わせること。八、死んでも私を愛すること。
彼氏に求める九条件のうち、一番大事な最後の条件を、あいつは破った。
九、売れないバンドマン。
「クルーディスト」。キザで、いかにも名前からして売れなさそうな四人組ロックバンドを池袋の路上ライブで見つけた。演奏が終わってCD販売になっても、誰一人として彼らに近寄らない。まぁ彼らの演奏を終始聴いていたといっても五人で、私と、仕事休憩時間であろうサラリーマン、ホームレスくさい男性、ただ日本語の生歌に物珍しさを感じただけの外国人二名。拍手も感動もないこの場に、どこからか飛んできたスーパーのビニール袋が彼らの目の前で踊っている。私一人が彼らに近づくと、やさぐれた顔の四人の目は一気に輝きを取り戻した。千円の価値もないCDに懇切丁寧に千円を払ってやると、ボーカル真名仁は涙を流しそうな勢いでこの現実に喜んだ。折り畳んで渡した千円札に私の連絡先を忍ばせておいた。
次の日には真名仁から連絡がきた。ファンの女から軽いナンパでもされたと、はしゃいで浮かれ立つ彼の姿が容易に想像できて、私は哀れさに笑ってしまった。売れていない彼らに、恋愛禁止だのファンからのイメージだの、無駄なしがらみなんて何一つあるわけがなかった。彼が私と付き合うことそれ自体が売れていない証拠で、私は、私の恋愛の絶対条件を満たしてしまった男の背中を、心の中でハイヒールで踏んでいるような気分になった。
数日後、二人で新宿の街をデートした。お揃いのアクセサリー一つ、金がないから割り勘を持ちかけてくる彼が大変頼りなく、愛おしさは募るばかりだった。食事は彼の身分相応に、郊外寄りの、男しかいないむさ苦しい中華屋で済ませてやった。家でも作れそうな焼き飯三百円に、彼はこんな安いチャーハン初めて、と彼女の前で言って、再びあの日のように目を輝かせ、不細工に口を開けて頰張るのだった。
食欲が満たされた彼はしきりに「なぁ、もういいだろう」とささくれた手で私の肩を触り、ホテルに誘ってきた。普段、物欲も食欲もろくに満たせない彼は、その有り余った欲求を性欲でしか代替できないのだろう。そんな哀れな男に体を預けてあげられる女など、今横にいる私以外誰もいない。薄汚い目をしている彼を五回ほど焦らし、ホテルへ直行した。
「あんたまたそういう男に引っかかってんの?」
「いいように利用されてるだけだよ」
あぁ、鬱陶しい。私の両太腿に跨がられて、その不自由さに快感を得ている彼を見下ろす最中も、職場の同僚の声が脳裏にチラつく。違う、私が常に上なの。私を手放して、満たされない生活に戻ることに何の価値があるの。この可哀想な男も、私以外誰からも愛されないのだから。
高校生の頃、ある連中から昼休みに、学食のパンやら飲み物を教室まで買ってくるよう頼まれることが多かった。ごめん、今金ないから明日返すわ、が日々の彼女らの口癖。私の手元に金は残らなかったけれど、クラスに友達がいなかった私を必要としてくれる人たちがいた。買ってきたパンを握った手ごと踵で机に踏みつけられた時も、嬉しくて泣きそうだった。何か鬱憤が溜まっていたのだろう。彼女らの憂さ晴らしに貢献できて、私の存在価値が更に高まった瞬間だった。
彼にも私に自分を必要とされるよう、毎日努力してほしい。
彼は私の、彼氏に求める九条件を忠実に守ってくれていた。というより守って当たり前だった。週に不定期で入る派遣の仕事以外、彼は自由な時間を持ち合わせていた。ロクに新曲も作らず練習もそっちのけで、路上ライブはウォーミングアップ。アップ終わりの私とのセックスが本番。「私のどこが好きかレポート」を、まるで新曲の歌詞を書いたかのように毎週満足げに私に提出する彼が情けなく、愛してやまない。
修羅場がなかったわけでもない。付き合って二年目、彼の居場所を探知できるGPSが、彼のちっぽけな生活圏から離れた巣鴨で反応したのだ。彼は素直に彼氏に求める九条件のうち七条目を守り、私と、彼が好きになってしまった女性を会わせた。GPSで監視されていることを忘れるくらい彼が没頭してしまった女性。激昂と冷静の狭間でもがきながら、私はその女に半ば一方的に私の彼に対する想いを諭した。五時間後、気が滅入ったか、彼への愛が薄いことを自覚したのか逃げようとした女の腕を私は掴み、巣鴨の路地裏で彼とセックスさせた。あぁなんてぎこちない。恥ずかしそうに小声で喚く女の長い髪を引きちぎり、彼に胸を掴まれ抑え込められた、女の身体に生えている腕と足を今手にある髪で拘束した。
「私、今どんな表情してる?」
女の陰毛がすっかり白く染まった後彼にそう訊くと、いやらしい表情している、と彼は応えた。すぐさま下着を下ろし、立て続けに私と彼がセックスするや否や、女はついに壊れたのか、嗄声をあげてもがきながら目をそらした。彼に、女の髪を掴ませ、その泣きっ面をこちらに強引に向けさせ、私たちの愛に目をそむけないようにさせた。
アパートに帰宅して、私たちはいつもより長いキスをした。やっぱり俺、君のことが好きだよ、というありふれたセリフを吐く彼。いつまでたっても平凡で変わり映えしない彼と日常が大好きだった。
その年の冬も彼はいつもどおり売れていなかった。夕方の路上ライブが終わった後には、冷たくなった体で私の体温を求めるだろう。手入れを怠り伸びきった爪が私の背にあたる時、私はこの羽虫のような器の小さな男を完全に手に入れた気になる。彼に与える夕食を作り終え、ペットのように忠実に帰宅する彼を待っていた。約束された彼との未来が一瞬で崩れる現実を、予想もしなかった。
いつもより玄関のドアノブが早くまわった。ママお小遣い貰ったよとでも直ぐに言いたげな、口元が緩みきった子どもさながらの彼を、私は道端に投棄された粗大ゴミを漁るような冷めた目で迎えた。
「聞いてよ、一昨日俺たちの路上ライブを、たまたまプロのロックバンドの一人が見ていたらしいんだ。その時俺たちの曲を気に入ったらしく、事務所に連絡してくれた。それで今日、インディーズだけどレーベルからスカウトの話がきたんだ」
「私が付き合う前言った九か条、覚えてる?」
「あーもういいじゃん、あんなの。固いこと言わずに、素直に喜ばしいことじゃないか。彼がいうには、俺たちのアウトローな感じが妙に味があるんだって」
「今すぐその事務所の住所と連絡先教えて」
「冗談言うなよ。今日もこれから夜通しバンドでミーティングとかで忙しいから、また後でな」
そう言って彼は同棲している家賃二万円のアパートから出て行った。冷めきったチャーハンと私だけを残して。間も無くして携帯のGPSは機能しなくなった。
そして彼がアパートに戻ってくることは二度となかった。
あれから二年余りが過ぎて、私は今日も彼のいるライブハウスへ足を運ぶ。キャパ二百人のライブハウスに毎回客数はざっと見積もって七十人程度。熱狂的なファンもちらほらいて、年間欠かさず全てのライブに来ている客もいる。それでもこのままの集客数では「クルーディスト」はインディーズ止まりであることは確かだった。
インディーズくらいがちょうどいい。路上止まりでは、私がまたナンパしてしまう。メジャーデビューすれば、姿すら曖昧になるほど遠くなる。インディーズ止まりでよかったんだ。ちょうどいい距離で、ずっとこれからもそばにいてあげられる。
サビに入り曲調が一気に激しくなる。と同時に観客は躍起になってステージを煽る。私は微動だにせず、ステージの、ただ一点を見つめている。
彼と目があった。いつも何かに怯えるように小動物の目をしていた、私の知っている彼。はもういない。根拠のない自信に満ち溢れた目をしている。
直ぐに彼は目をそらした。欠けた奥歯に乾いた唾液がしみる。
似合わない。インディーズデビューがちょうどよかった?そんなわけないじゃない。あいつには路上の歩き古された、ガムのへばりついた汚い灰色のコンクリートがぴったりだ。なけなしの貯金を切り崩しても彼女の欲するペアーグッズ一つ買ってやれない、目の前の一人すら幸せにできない性分だろう。少し足りない、私との何でもない日常が似合うんだ。早く、私の元へ泣きっ面抱えて帰っておいでよ。私より大事なものなんて何もないはずなのに、急にいなくなったら駄目だろう。ある日目の前に突然現れて、あのチャーハンの値段以上に私を驚かせろ。いつでも他の女から守ってあげるから、セックスだって呆れるほどしてあげるからさぁ。だから、だから……お願いだから私を見捨てないで、離れていかないでよ。
真名仁、デビューおめでとう、おめでとう、おめでとう、ふざけんな。
私は今も一人でいるよ。
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