世界を渡る少年
第七十一話
真人によって強制的に絶頂を極めさせられたルーシアとシェラの二人は死んだように真人の両手にすがりついて熟睡していた。
 
…………しまった……こんなことなら手をつかうんじゃなかった………。
 
真人は二人に絶頂を与えた弾みで両手に激しく抱きつかれてしまい、身動きが取れなくなっていた。
今まさに開花し始めたばかりの美少女に抱きつかれて夜をともにするというのは精神衛生上決してよいものではありえない。
正直、上気して朱に染まった頬のなまめかしさが視界に入り、ほのかに甘い香りのまじった吐息が鼻腔をくすぐるたびに理性が悲鳴をあげているのがわかる。
かつて房中術の修行中には一切感じなかったことだが、自分が女を欲することがあるのだということを真人は初めて知った。
思わず瞳がなまめかしく開かれたシェラの唇に吸い寄せられる。
桜色に濡れた小さな唇はまるで真人を誘うかのように規則正しく上下していた。
ごくりと無意識に生唾を飲み込んだ真人は花の蜜に群がる蜂のようにその可愛らしい花弁に触れようと…………。
 
 
 
「……………そこでいったい何をしてるのかな?お兄ちゃん」
 
 
 
おそろしく冷たい汗が真人の背筋を伝った。
どうやら本当の地獄はこれからになりそうであった。
 
 
 
 
 
 
メイファン王国が滅亡するより少し前、ブリストルの南方にはひとつの小国が存在した。
その名をメディーナ王国という。
水資源に豊富な王国は小なりといえど大陸でも有数の穀倉地帯として栄華と繁栄を誇っていたのだが、豊かな資金と食糧は飢えたブリストルの暴虐の前にほとんど抵抗らしい
抵抗をすることさえ許さなかった。
豊かさは時として戦の力を失わせるよい例であろう。
この肥沃な平原を虎視眈々と狙っていたのが隣国であるワルサレム王国だ。
長年メディーナ王国と対立関係にあったワルサレム王国は国家戦略の一環としてメディーナの地を欲してきた。
一度はブリストルという強すぎる隣国によってその夢は断たれたかに思われたのだが、常勝の名を欲しいままにしてきたブリストルの精鋭がオルパシアとの戦役で大打撃を受けた
事実を考えれば、この機会にかつての宿望を叶えんと欲してしまうのはあるいはやむをえないことなのかもしれなかった。
 
 
 
「…………その意気は買うがものを見る目がなすぎるな」
 
フェルナンド・ロンドベル・ヴィルヌーブ卿は苦笑にも似た嗤いをその口元に貼り付けながら指揮杖を取り上げた。
ブリストルきっての知将として知られる彼にとって、どうやらワルサレム王国は名誉ある敵とするに値しない存在であるようであった。
もっともそうするためにこそフェルナンドはメイファンをオルパシア軍に差し出したのだが。
 
「もうしばらくの間はオルパシア軍は動こうにも動けない………マヒト・ナカオカミならばいざしらず、貴様ら小国ごときにどうにかされるブリストル帝国と思うたか」
 
フェルナンドのとった手段は典型的な各個撃破である。
侵攻の主軸であるオルパシア軍を足止めしている間に南北から迫る小国の連合軍をなぎ払う。
だが、そのためには連合軍がもはやブリストル恐れるに足らず、と戦意を募らせてくれる必要があった。
オルパシアと歩調を完全に整えられてしまっては元も子もない。
だからこそフェルナンドはメイファン共和国の非正規部隊に惨敗する真似をして見せたのだ。
度重なる敗退で熟練兵を失ったブリストル軍にもはや往時の強さはない―――そんな根拠のない噂すら流された。
戦後の国際政治を考えれば戦果をオルパシア王国に独占させるのは得策ではないことは言うまでもない。
そうして恐る恐る国境を突破してみればブリストル軍は右往左往するばかりでとても有効な反撃を行うどころではないではないか。
 
―――今こそ戦果を拡張して長年の宿望を叶えるときだ!
 
ワルサレム国王ハーリッシュ二世がそう決断することはフェルナンドの予想を一歩たりとも超えるものではなかった。
メイファン方面に対する防備を引き抜いて編成されたブリストル軍二万は、いまだ静かに生きのいい獲物の前で見事な擬態を続けていたのであった。
 
 
「奴ら…………逃げ出すのが早すぎはしないか?」
 
ワルサレム軍の副将であるゲルハイム将軍は、あまりにもろいブリストル軍に違和感を隠せなかった。
主将である王子はすぐさま追撃を下令したが、居心地の悪さが拭えない。
訓練された兵というものはそう簡単に逃げ散るものではないことをゲルハイムはよく知っていたからだ。
ほとんど戦いもしないうちに逃げ去る兵というものは、いまだ訓練の足りない新兵かあるいは…………。
心臓が急に不可視の手によって締め付けられたかのようにゲルハイムは感じた。
そしてもっとも先に逃げ散ったはずの歩兵が後方で再集結を図っていることに気づいたのはゲルハイム一人であった。
 
擬兵か…………!
 
よくよく見れば敵の退却スピードが速すぎる。
瞬く間に壊乱してしまうような新兵があれほどの健脚を見せて戦場を走れるはずがなかった。
そうゲルハイムが気がついたときには既にワルサレム軍は敵中に踏み込みすぎていた。
フェルナンドの将旗である剣と梟の紋章が燦然と翻ったのはまさにその瞬間であった。
 
「殲滅せよ、身の程知らずにその代価を購わせるときは来た」
 
偽装されていた弩兵が左右から矢の雨を降らせると同時に、退却しながら整然と戦列を整えたブリストル軍が反撃に転じるとワルサレム軍は
一気に狩人から獲物へと、主役から道化へと転落した。
 
罠に落ちた。
勝利はうたかたの幻でしかなかった。
勝てると思ったのはただ敵の術策であるにすぎなかったのだ。
 
勝利への信念を打ち砕かれた兵ほどもろいものはない。
無慈悲な鉄槌が加速度的な速さでワルサレム軍兵士の命を刈り取っていった。
ワルサレム軍の壊滅はすでに確定した事実であった。
 
「………殿下を無事に落とし参らせよ。近衛以外はオレに続け!」
 
ゲルハイムは歴戦の宿将らしく決然としてこの戦場を己の死地と決めた。
長年の愛槍を手に手早く配下の手勢をまとめる。
そのほとんどは自分が名もない小隊長のころからの家族のような部下達だった。
 
「…………すまんがお前達の命オレにくれ」
 
いっときの逡巡さえなく一斉にうなづく部下を前にゲルハイムは莞爾と笑った。
あるいは武人の本懐と言うべきかもしれなかった。
ここで死なずして王子を救うことはできまい。
決死の兵はたとえ寡兵であっても容易に除去することはできないことをゲルハイムは経験的に知っていた。
もっともブリストルの指揮官が有能であればみすみす被害を拡大するような愚策はとらぬであろうが。
 
 
「………ワルサレムにも士がいたか」
 
 
ゲルハイムの読みどおりフェルナンドは死兵を相手に正面から戦う愚を犯すつもりはなかった。
今のブリストルの置かれた状況を鑑みればただの一兵でも惜しいところなのだ。
ここで無理にワルサレムの王族を殺さなければならない戦略的理由もない。
二度とブリストルと敵対することのないだけの大打撃を与えることができればそれで十分であるはずだった。
 
「手数で疲労を蓄積させろ、無理押しはするな。………但し、決して生かして帰すな」
 
どの国においても、本当の死戦をくぐりぬけた将兵は宝石よりも貴重だ。
王族を見逃す以上、そうした貴重な国の宝をみすみす帰してやるわけにはいかないのである。
オルパシア王国を打ち破った暁には、ワルサレムもまたブリストルの贄となることは確定した未来なのだから。
 
 
 
 
メディーナの平原でワルサレム王国軍が壊乱しているころ、ブリストル北部でもネルソン・ロドネーの連合軍がマンセル将軍率いるブリストル軍に壊滅的打撃を蒙っていた。
この戦いを機に、ブリストル健在の報は再び大陸全土に鳴り響いた。
獰猛な虎は決して牙を失ったわけではなかったのだ。
これにより対ブリストル包囲網は小国のほとんどが脱落し、オルパシア王国とメイファン王国の枢軸を残すのみとなった。
結局のところ戦いの行方は真人の率いる連合軍主力の手に委ねられたのである。
 
 
 
 
 
 
ブリストル国内の山中でフィリオは懊悩していた。
ブリストルの誇る五人の武芸者が総力をあげての言い訳も出来ぬ完敗。
その後日ごとに強くなる無力感に苛まれるたび、フィリオは狂したように剣を振るいさらなる過酷な修行を己に課さずにはいられなかった。
だが真人との間に横たわる力量の差はそうした修行程度では縮まらないことを、誰よりもよくフィリオが承知していた。
あの男は人の身で敵う男ではないのだ。
もし敵う人間がいたとすれば、それはもはや人ではない。
それでもなお強さの高みをあきらめきれないのが、アセンブラの猛虎ことフィリオの宿業というべきものなのだった。
 
 
………足りない。
真人を倒すためには絶対的に力が足りなかった。
いったいどうすればこの差を埋められる?
武器か?
剣技か?
腕力か?
魔術を組み合わせれば縮まるものなのか?
繰り返される問いは答えを導き出せぬままにフィリオの精神を切り刻む。
いつしかフィリオの脳裏は真人を上回ることだけに埋め尽くされようとしていた。
 
「フィリオ・セベステロス・アセンブラ殿でいらっしゃるか?」
 
紫の法衣に身を包んだストラト教の司祭がフィリオの前に現れたのは、まさにフィリオの懊悩が極限に達しようとしていた夕暮れ時であった。
 
 
 
「神殿の司祭がオレに何の用だ?」
 
怪訝そうにフィリオは明らかに身分の高そうな司祭を眺めた。
大きな肩幅に意志の強そうな太い眉、その堂々たる威風から察するにおそらくただの司祭ではないだろう。
もしかしたら噂にしか聞いたことのないストラト神の祝福を受けた戦神司祭なのかもしれない。
フィリオは温厚そうな表情をした目の前の男が一流の武芸者並みの実力を持っていることを直感的に感じていた。
 
「……人の身ではあのマヒト・ナカオカミに対抗することは不可能です」
 
短い司祭の言葉はフィリオの肺腑を深く貫いた。
言葉にこそ出さなかったが、それはフィリオがいつも脳裏に描いていた結論であったからだ。
 
 
「あの人外を倒す主神の武器が欲しくはありませんか?フィリオ殿」
 
 
司祭の吐き出した言葉のもたらした効果は激甚であった。
 
――――あの男を倒せるというのか?
 
かつてのフィリオなら易々と武器に頼ることを恥としてすぐさま一蹴したであろう。
しかし神の名のもとに強さを約束されたそれは、まるで麻薬のようにフィリオの精神を甘く蝕んで離そうとはしなかった。
 
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