世界を渡る少年

高見 梁川

第六十話

 



 



戦いの行方は決した。


それはマッセナ川の氾濫とは直接関係のないアウフレーベの左翼軍でも例外ではない。


最大戦力であったアルセイルの軍とケルドラン城塞が壊滅してなお兵の戦意を保つのはアウフレーベにもかなわぬのだ。


あと少し、マグレープの率いるオルパシア軍を突破するまであと半時の時間が与えられなかったのがブリストル軍の不幸であった。


 



「………兵たちの掌握を急げ。今は一兵でも多くの兵を故国に帰してやらねばならぬゆえな」


 



未練を切り捨てアウフレーベは被害の極減へと思考を切り替えた。


超自然的な現象による味方の壊滅に誰もが動揺し混乱を余儀なくされている。


混乱を収束し、秩序を回復しなければ撤退戦は戦えない。


幸いにして左翼軍にはアウフレーベに長年付き従ってきた子飼いが多かった。


たちまちアウフレーベは子飼いを中心に連動する二個の方陣を作り上げることに成功した。


 



………もちろん追撃はあるだろう。


しかしアウフレーベの予想ではオルパシアの損害も決して軽いものではないうえ、ケルドラン城塞の戦後処理などを考えればそれは一時的なものにとどまるはずであった。


アウフレーベは自ら殿の指揮を執りながら手際よく退却を開始した。


 



「……全く嫌味なくらいに隙がねえ………」


 



マグレープはいち早く無理な追撃の愚を悟った。


大半の兵は戦意を失い逃げ惑っているにせよ、アウフレーベの直率する殿部隊の統制は見事に一言に尽きた。


よほど兵の心を掴んでいなければこんな真似はできまい。


このまま追撃を続行すれば彼らに倍する損害を受けることは確実だった。


それを押してまでも敵を殲滅するという考えは少なくとも傭兵にはないのである。


 



「どうやらあの姉さんにはまた会うことになりそうだぜ………」


 



 



 



 



同じころ、ディアナは壊乱したブリストル軍正面に対し一斉に攻勢に転じていた。


組織力を生かせぬ烏合の衆と化している今のブリストル軍にこれを押さえ込む力はない。


アルセイルが直率する一個大隊ほどがどうにか軍としての体裁を保っているが残りの大半はもはや戦える状態にはなかった。


後方の濁流と前面のオルパシア軍の鋭鋒を避けるために必死になってコラウル山脈の道なき道へと分け入っていく。


逃走に邪魔な鎧や槍は打ち捨てられ、力なき兵は味方であるはずの兵によって引きずり倒され、あるいは見捨てられていくという惨劇が続出した。


山岳行軍の装備を用意していないブリストル軍の兵士たちが山脈越えを果たしてブリストル本国へとたどりつく確率は、実のところそれほど高くはない。


おそらくはこの先にも生き延びるために味方同士を食い合う地獄が現出するはずであった。


 



本来ならばそうした兵を統率し、退却戦を指揮すべきアルセイルは、指揮下の精鋭を率いて真人を押し包む五人の武芸者の警護に中っていた。


究極的にこの戦いの戦略目標は真人の生命なのであって、今守らなくてはならないものは真人を倒すための時間を確保するということなのだ。


アルセイルの見るところそのときは遠くない未来にやってくるはずだった。


 



もちろんアルセイルのこうした動きをディアナが見過ごすということはありえない。


既に残兵掃討に移りつつあるこの戦況ではディアナの手腕が必要なことは限られている。


追撃戦の継続を配下の士官に命ずるとディアナは騎兵の一部を駆ってアルセイルへと駆け出した。


真人の戦況が決して思わしくないことは遠目にもわかっていた。


自分こそは真人を守れる存在となってみせる。


己の心奥に誓った誓約はたとえ命に代えても果たされねばならないのであった。


 



 



 



 



真人を取り囲む五人の武芸者たちにも味方の敗北の動揺がないわけではない。


否、むしろ深刻であると言ってよいだろう。なんといってもフィリオやベアトリスやウェルキンといった面々は傭兵なのだ。


滅びの美学など薬にもならない人種である。


まして長い真人との戦闘で疲れきったこの身では雑兵にすら不覚をとりかねない。


生き延びるという傭兵にとって最も重要な命題を前にして動揺するな、というほうがおかしかった。


アルセイルの強固な防御壁はただ武芸者たちをオルパシア軍から守るためのみではなく、むしろ彼らの逃亡を抑止するためにこそあるのであった。


 



「くそっ!いい加減に墜ちやがれ!」


 



フィリオは忌々しげに舌打ちをした。


ジリジリと真人の余力を削っているという確信はある。


しかしどんな手妻かはわからないが、予知能力でも備えたかのような真人の鉄壁の防御の前に短時間で真人を討ち取ることは至難の技に思われた。


かといって時を無駄に過ごせばオルパシア軍の重囲に孤立して敗死も避けられない。


傭兵は正規兵のために使い捨てられるのが運命だ。


当然フィリオたちはアルセイルの真意に気づいていたし、そのうえで生き残るための算段を考えなければならなかったのである。


 



そうした焦りが剣先を鈍らせ、とりわけ前衛の主力であったフィリオとウェルキンの集中力が乱れてきたことに、ともに肩を並べているシンクロードが気づかぬはずもなかった。


彼らの頭の中が真人に対する勝利ではなく、いかにしてこの場を生きて逃げ延びるかということが占められているのは間違いない。


それでも真人を追い込み続ける力量はさすがだが、これでは真人が施す予定調和の流れを引き裂くことは期待するのは難しかった。


視線を真人から一瞬たりともはずしていなくともオルパシアの精鋭軍とアルセイルの軍が交戦状態に入ったことは感覚でわかる。


そう遠くない時期にアルセイルは敗れ、恐ろしくも美しい武芸者たちの饗宴は雑兵たちの乱戦の巷に投げ出されてしまうだろう。


その結果がもたらす打撃を想像すればシンクロードのような一兵士であっても背筋の凍る戦慄を禁じえない。


ケルドラン城塞の喪失


東部方面軍三万の壊滅


マヒト・ナカオカミの排除の失敗と、それに伴うマヒトのオルパシア国内での発言力の向上


どれひとつとってもブリストルにとってあってはならない戦略的打撃に他ならなかった。


ここで一矢報わなくては近隣の小国は雪崩をうってオルパシア王国に加担し、祖国は累卵の危機にたたされることだろう。


どうやら最後の覚悟を固める時がきたようだった。


 



「――すまんが時間稼ぎを頼む」


 



フィリオとウェルキンにしばし真人の相手を任せ、シンクロードは自らの鎧をはずした。


篭手も兜もはずして剣を握りなおす。


真人のような超絶の体力と防御力を持たないシンクロードが防御力を捨て去ることは正しく自殺行為であった。


鎧をはずしたくらいで簡単に攻撃力があがるくらいなら最初からそうしている。


つまり鎧や兜を脱ぎ捨てたことは、精々が持続力の確保程度の効果しか望めないものだ。


だがシンクロードの真の狙いはそんなことにはなかった。


そのことを同じブリストルの軍人であるシンクレアだけが、万感の思いとともに承知していた。


 



 



 



 



 



 



「………闘神ディアナ……まさかこれほどとはな……」


 



アルセイルはブリストルの精鋭一個大隊を持ってすれば、オルパシア軍相手に体力の尽きるまで持久することは難しくないと考えていた。


体力の限界さえなければ半日でも耐えられると思えるほどにブリストル軍の武力は圧倒的なものだ。


地形防御力の傘から出てきた弱兵など物の数ではない、というアルセイルの確信はディアナが率いてきた弓騎兵の霍乱と、ディアナ直率の騎兵による衝撃にあっさりと打ち砕かれようとしていた。


 



「決して後ろを振り返るな!取りこぼしは歩兵に任せて突き進め!」


 



ブリストル軍の方陣は確かに強固なものであったが、兵数の少なさから弓兵の戦力を欠いていた。


そもそも歩兵密度の高い方陣は、騎兵の突撃に対する防御力は申し分ないが、弓戦には相性が悪いものなのだ。


連射力に優れた弓騎兵の攻撃に均等であったはずの密度が歪む。


ディアナが配下の騎兵とともに突撃したのはまさにその瞬間であった。


 



「悪いがダーリンの敵には容赦はしないよ!」


 



鉄壁の防御陣がなす術なく切り裂かれていくのをアルセイルは感嘆とともに見つめていた。


指揮力もさることながらディアナの個人的武勇も空恐ろしいものだ。


人間の頭部を柘榴のように破砕する鉄鎖の威力は、相当な達人をもってしても防ぎきることは難しい。


予備の投入を指示し、ディアナの鋭鋒を食い止めるべく部下を叱咤しながらもアルセイルはそれが不可能であることを予感していた。


一瞬たりとも動くことをやめず、守りの堅い場所を避け守りの薄いところから確実に方陣の懐へと近づく彼女の用兵は正しく騎兵の本性に合致したものだった。


騎兵は防御力に乏しいために機動によって敵の弱点を探りその衝撃力を生かすのが正しい使い方である。


しかしその実践には極めて高度な戦術眼と統率力が必要となるのであった。


なぜ彼女ほどの知勇兼備の良将がオルパシアなどに仕えたものか………。


そう考えかけてアルセイルは首を振る。


オルパシアにではない。あの国にそうした武人を惹く魅力のあろうはずがない。ディアナを惹きつけたのは、マヒト・ナカオカミの存在であるに決まっていた。


だからこそ彼はなんとしてもこの場で倒されなければならない存在なのだ。


 



 



 



たとえ年来の戦友の命を奪うことになったとしても。


 



 



 



 



 



シンクロードは愛剣を握り締め、雄たけびをあげて吶喊した。


区々たる防御などはもはや考慮するに値しない。紛れもなく決死の行動だった。


彼ほどの達人は必ず避わされたり反撃されたりしたときのために思考の一部を防御に割り振っている。


しかし己の死を前提にしたとき、思考の全ては攻撃に向けられるのだ。


誰もが防御すべきときに防御せず、たとえ自分が致命傷を受けようとも相手に剣を突き立てずにはおかない。


その危険性を、何度も命をドブにさらしてきた真人は十分に承知していた。


 



――この敵は危険だ。


 



真人のなかでシンクロードに対する優先順位が跳ね上がる。


こうした敵には生半の攻撃手段では相討ちに持ち込まれてしまう。


致命傷を与えるだけでは足りない。意識を完全に断ち切ってしまうだけの打撃力が必要であった。


あるいは軽傷を負わせて疲弊を待つ手段もあるが、既に自らが疲弊しきる一歩手前である現状では危険が高い。


 



――突きの衝撃力を叩きつけて意識を刈り取る。


 



かつてケルドランでの夜戦でアムルタートに使用した技だが、こうした相討ちを防ぐには有効な技である。


ほとんど光の軌跡にしか見えないシンクロードの剣戟を捌きつつ、慎重に機会を窺って真人は腰溜めに構えた剣の力を解き放った。


 



 



 



 



「………シンクロード殿……貴兄は本当に最高の戦友でした……!」


 



シンクレアは魔力を帯びた特製の矢を番えると、渾身の力を持って弓を引き起こした。


同い年とはいえ、シンクロードを同輩としてとらえたことはない。


階級が上になった今でも、彼こそはシンクレアにとってかけがえのない武の先達なのであった。


生まれ持ったその美貌も、生来の膂力も決して鼻にかけることはなく、ただひたすらに己の武を突き詰める彼に嫉妬さえした。


彼とともに戦場に立ち、戦うことが誇りだった。


だからこそ、彼の生命を賭けた最後の策を無駄にするわけにはいかなかった。


 



惜別の悲しみに涙を流しながら、シンクレアは魔矢を撃ち放した。


放たれたその先には鍛え上げられた大きなシンクロードの背中が肉薄する真人の視界を覆い隠そうとしていた。


 



 



 



真人の突きが決まった瞬間、シンクロードは確かに即死していたことは間違いない。


しかし彼はその生涯の最後に、シンクレアの魔矢が自分の鎖骨下を潜り抜けたのを知覚し、勢いを減ずることなく真人の左肺に突き立ったのを見届けていた。


 



 






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