世界を渡る少年

高見 梁川

第五十七話

 



戦いは一進一退の膠着状態が続いている。


しかしどちらかと言うならばブリストル軍の優位は動かない。


それは先刻から両翼でアウフレーベ率いる別働隊との交戦が開始されたことと無縁ではなかった。


山岳での遭遇戦闘では、オルパシア軍が急ごしらえの野戦陣地を構築していると言えどもある程度の消耗は避けられない。


兵数に勝るブリストル軍は絶え間ない消耗によってオルパシア軍を磨り潰すことを目論んでいたのだ。


損害の大きい愚策ではあるが、時と場所を限定された現在の戦術的状況を考えれば最も効果的な策であることも確かなのだった。


 



「浸透させるな!押し戻せ!」


 



マグレープは右翼でアウフレーベ直卒の精鋭の猛攻撃にさらされ防戦に必死であった。


結局のところオルパシア軍がどうにかブリストル軍の攻勢を食い止めていられるのは、あらかじめ優位な戦場を設定していたからであって、兵の質では


ブリストル軍には遠く及ばないのが真実なのだ。


犠牲を省みず地形的優位を奪おうとするアウフレーベの戦術は正しい。要所に設けられた井楼と擁壁がオルパシア軍の防御の要であり、突破して後背に


回り込めば無力化することは容易いことをよくわかっていた。


敵の思惑がわかるだけにマグレープは歯がゆい。


浸透突破を試みるブリストル兵を押し戻すためにはこちらも突破点に兵をつぎ込まざるを得ず、結果押し戻すことに成功したとしても兵の消耗は避けられない。


蟻地獄にはめられたような無力感に苛まれながら、マグレープはなお辛抱強く指揮を執り続けた。


計画通り粘れれば勝てる。


彼が戦場を共にしたディアナと真人に対する信頼がかろうじて彼を諦念への誘惑から守り続けていた。


 



 



 



「消耗した部隊を下げろ!メイファン軍!出番だ!巫女姫の御前でいっちょ格好いいところ見せてみな!」


 



 



ディアナが指揮する正面の激戦ぶりは両翼の山岳戦を大きく上回っている。


視界が開けているうえ、戦闘正面を両翼よりは大きくとれているからだ。


それでも一歩たりとも前線を後退させていないディアナの指揮ぶりはやはり戦神の名に恥じぬものであった。


だが、それはオルパシア軍の消耗と引き換えのものでもある。


死者こそ少ないが、負傷者の数はうなぎのぼりにあがっており、疲労で戦闘力を失う者も多数にのぼっていた。


いまだ勝利の時は見えない。


しかしその時は必ずやあの油断ならぬ僚友がもたらしてくれるはずであった。それも遠い先のことではなく。


 



「アリシア………しくじるんじゃないよ……!」


 



ディアナは苦い笑いを浮かべて遠く離れた僚友にして恋敵の無事を祈っていた。


 



 



 



 



 



メイファン王国の兵団が前進を開始する。


しかしおせじにもその足取りは決して軽いものとは言えない。


彼らはブリストル帝国の武力を骨身に染みて知っていたし、死力を尽くしてもなおあっさりと蹂躙された恐怖を忘れ去ってはいないからだった。


 



「今こそ過去の汚辱を漱ぎ栄光を回復するときは来た!勇をふるって死戦せよ!」


 



ハイデル中佐は大声で兵を鼓舞するものの、期待したほどの効果があるとも思えなかった。


今こうして剽悍をもってなるブリストル兵を間近に見ればハイデル本人ですら背筋を駆け上がる恐怖を感じずにはいられないのだ。


このままでは兵が崩れる――!


蛮声をあげて吶喊するブリストルの軍列を前に、目に見えてメイファン兵が気おされて始めていたそのときハイデルたちは信じられぬものを目撃した。


 



 



「カムナビの巫女の名にかけて我が忠勇なる兵に告げる」


 



 



純白の巫女装束に着替えたシェラが、あとずさる兵たちを追い越して悠然と最前線へと進み出たのだ。


自分の目が信じられない。


いかに王族とはいえわずか14歳の少女である。


戦場で兵が発する鬼気は大の大人ですら訓練なしに耐えうることはできないのに、少女の堂々として神々しさすら漂う威風はいったいどこからくるものなのか。


期せずして全軍の注目がシェラに集中した。


 



 



「この戦は既に我らの勝ちと決まった。これは巫女としての託宣である!我の言葉を信ずるものは我に続け!」


 



 



そう言ってたったひとりでブリストル兵に向かって歩み始めるシェラに狙いをさだめた矢が迫る。


その場にいた誰もが何の防具も身につけていない少女の柔肌にあまたの矢が突き刺さる惨劇を幻視した。


襲い掛かる矢の数はとうていなんの武術も心得ぬ少女に捌ききれるものではなかったからであった。


 



 



「…………奇蹟だ…………!」


 



 



ほんの数瞬の沈黙。


そしておよそ数十になんなんとした矢の全てが、まるで不可視の力に頭を垂れたかのようにわずかにシェラをはずれたとき、メイファンの軍勢から常軌を逸した気勢が猛りあがった。


 



 「シェラフィータ殿下を助け参らせよ!」


 



「おおおおおおおおおっっ!!」


 



弱兵の汚名を着せられてきたメイファンの残存軍が、シェラの前に鉄壁の守りを敷く。


その壁は強兵のブリストル軍をもってしても小揺るぎもしないほど厚く、堅く、そして何より獰猛であった。


打ち寄せる波が岸壁に砕け散るように、ブリストルの精鋭が打ち砕かれていく様は、常勝を誇るブリストルの軍兵にとって悪夢としか表現することのできないものであった。


 



「まさかそんな……!メイファンの残党ごときが……!」


 



メイファン軍が自軍のもとに引き寄せた戦の流れをディアナが見逃すはずもない。


 



「右翼を開いて騎兵を出せ!蹂躙するぞ!」


 



野戦陣地に篭っていたほうが当然防御効果も高く損害も少ないのだが、戦の流れをつかむことのほうがそれより遥かに大切であるということを、ディアナは経験的に知っていた。


メイファン軍の圧力によって乱れた軍列の隙間を騎兵の馬蹄が蹂躙する。


壊乱した前線を収束し立て直すには、いかにアルセイルの手腕が優秀であったとしてもしばしの猶予を必要とするはずであった。


 



 



「槍兵を前面に押し立てて侵入を許すな!各自己が兵の掌握に努めよ!」


 



ここは無理をせずに指揮系統を再編すべきであることをアルセイルもよくわかっていた。


今無秩序に戦線を拡大してしまえば、オルパシアの指揮官はここぞとばかりに各個撃破に打って出るだろう。


指揮系統が明確な軍隊と不明確な軍隊とでは大人と子供ほどにその戦力の差が開いてしまう。


ブリストルが強兵を誇ろうとも、軍隊という組織の宿命から逃れることはできないのである。


それにしてもなんと戦場の呼吸を知り尽くした用兵だろう。


マヒト・ナカオカミだけではない。


オルパシア軍には彼以外にも十分警戒すべき用兵家がいることに、アルセイルは暗澹たる思いを隠せなかった。


 



旧メイファン王国の残党の奮戦も想定外の事態である。


あの巫女の無謀を通り越した自殺行為がなければ、メイファン軍などほとんど鎧袖一触に壊乱していたはずであった。


なぜあれほどの矢が全てはずれてしまったのかについては神の気まぐれを呪うしかないが、それでもあの巫女姫の勇気は賞賛されてしかるべきだ。


惰弱で無能であったあの旧メイファンの王族の一員とも思われぬ。


手強い敵がマヒト以外にもこれほど存在したことは、こちらの情報収集の手落ちであろう。


だからこそ今このときに殲滅しておかなくてはならない。


マヒトと巫女姫がメイファンの地を奪還すれば、彼らの力がいったいどれほど強化されるか想像もつかないのだ。


たとえ自分の命尽きようとも、ブリストル帝国の未来のためにここで彼らを打ち倒さぬわけにはいかなかった。


 



 



 



メイファンの士官であるウィレム・モートラッド中尉にとって眼前の状況は最悪を極めていた。


彼は旧メイファンの腐敗した体質からいち早くブリストルに鞍替えした男であり、間諜としてブリストルの勝利に大きく貢献してきた人物で莫大な恩賞を約束されていた。


彼にとって誤算であったのは、その貢献ぶりからメイファン残党での諜報活動を命じられてしまったことだ。


しかしそれもこの無謀な戦いが終われば、ブリストルでの階位の昇進と、恩賞をふたつながら手に入れて何不自由ない生活を送れるはずであった。


ところが現状はどうだ。


士気も練度も最弱であったはずのメイファン軍がブリストルの強兵を相手に一歩も退かずに戦っている、いや、逆に押し返してさえいるのである。


このままでは手に入れるはずだった栄達も恩賞も全て泡沫の夢のごとく消え去ってしまうことになろう。


これが悪夢でなくてなんだろうか。


 



…………あの小娘が余計な真似をするから…………!


 



全てはあの巫女姫のカムナビ神の力に守られたとしか思えぬ奇蹟の託宣から始まった。


あの託宣のせいで負け犬であったはずのメイファン軍は神の僕としての使徒に生まれ変わってしまったのだ。


くだらない幻想にすぎないとウィレムは吐き気すら感じる。


そんな都合のよい神の力があればそもそもメイファンが亡国の憂き目を見ることもなかったはずではないか。


血筋以外に能のない無能な上司を排斥し、有能な自分に活躍の場を提供してくれたはずではないか。


この悪しき世界に神などはいない、もし仮にいたとしてもその力が自分たちに及ぶことはない!


そんな単純な真実すら察することのできぬ無能な友軍が憎かった。


どうしてオレが幸福になろうとするのを邪魔するのか?


メイファンが勝ってしまえば自分はまたうだつのあがらぬ士官の一人に成り下がるだろう。


この成功にいたるまでどれほど危ない橋を渡り、神経をすり減らしたことか。


認められない。オレの成功を阻むものは全て斬り捨ててやる。


狂気を宿したウィレムの瞳は、その視界にいまだ決然とした表情で兵を鼓舞するシェラの姿を捉えていた。


 



 



 



 



………落ち着け


 



側近の連中もブリストルとの戦いに目を奪われてオレに注意を向けていないとはいえ、さすがに主君に手を出されれば気がつくだろう。


そうなればここからオレが生還することは不可能といっていい。


ならば人質にとってはどうか?


巫女姫が人質に取られたとなればメイファン兵の動揺は必至だ。


おそらくほんの少し時間を稼ぐだけでブリストルの兵が前線を突破して駆けつけてくれるに違いない。


乾坤一擲、このウィレム・モートレッド一世一代の見せ場というやつだ。


そう考えるウィレムだが、実のところ失敗することなど露ほどにも考えてはいなかった。


自身の才覚と武量からすれば、小娘一人無力化することなど児戯に等しい。


それに自らを特別視するものにありがちなことに、ウィレムもまた自分の壮挙に天運の導きがあることを信じて疑ってはいなかったのである。


 



 



愚かだ、全く愚かだ。


こんな場所まで敵に接近を許すなんてお前たちは護衛失格だ。


 



 



メイファン王国近衛士官の軍装に身を包んだウィレムは何ら障害を感じることなくシェラに向かって接近していた。


その足取りは確信に満ちていてよもや敵対する刺客のものとは思われない。


挙動不審に陥ることが、もっとも警戒を呼びやすいということをウィレムは知っている。


それ以上にウィレムは自分が冷や飯を食わされてきたメイファン軍というものを低く評価していたのだった。


 



 



あと三歩…………!!


 



 



あと三歩でシェラは自分の間合いに入る。


護衛が気がついても対処する暇を与えられない完全な間合いだ。


既に半ば成功は約束されたようなものに思われた。


後は歯噛みして悔しがる連中を尻目にシェラを手土産にして自分はより一層の高みに登ることができるだろう。


甘い未来絵図を夢想してウィレムがニンマリと笑ったそのとき、ウィレムの両足は不自然に柔らかな凹凸を感知した。


 



 



「我が主の奥方に仇なす者よ。七の式、水名裳が冥土への引導を渡してくれようぞ」


 



 



ウィレムが悲鳴をあげる間もなかった。


生臭い吐息を頬に感じたと思った瞬間、悲鳴ごとウィレムは巨大な何かに身体を飲みこまれていた。


もしもそこに陰行を見通す霊視能力を持つものがいれば、あまりの非常な光景に肝をつぶしたであろう。


大木に見紛うばかりの巨大な一匹の白蛇が、その顎で哀れな男の頭からかじりつき、たちまちのうちに全身をその胴体に飲み込んでしまったのだった。


 



 






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