世界を渡る少年
第一話 神殺しの少年
ついに約束の日が訪れようとしていた。
一族の始祖から語り継がれてきた日本最大の祟り神カムナビの復活。
この日のために一族は神を殺すことのできる神殺しを育てるために血道をあげてきた。
それは決して平たんな道のりではなかった。
――――いわく、鬼と交わる者
――――いわく、子供を食らう者
――――いわく、外道の業を操る者
時として妖怪の血を一族に取り込み、時として生まれてきた子供を術式の実験台にして、時としてより強い力を得るために一族の子供同士を殺し合わせ唯一生き残った子供の血筋を残してまでも強い力を追い求めた。
全てはいずれ復活するカムナビを倒す、そのためだけに。
「それも今日全てが終わる」
人としての道に背を向け、人を愛するという感情を殺し、機械のように力ある者を生み出すだけの道具に成り下がってきた煉獄の日々も今日で終わる。
はや初老の域に達しようとしている中御神家当主、中御神仁悟は感慨深げに瞑目した。
額に刻まれた年齢の割に深い皺が、彼の懊悩の深さをあらわしているかのようである。
東の空に妖気が靄のように立ち上り始めていた。
そのあまりに圧倒的な妖気に、わかってはいても原初的な恐怖に背筋を冷たいものが走るのを抑えることができない。さすがは日本史上最大最強の祟り神。
時の朝廷が総力をあげてなお、封印することしか出来なかった異世界からの渡り神。
役の行者の子供であったという始祖は命と引き換えに千年の結界を張り、その時までに神を殺せる者がいなければ世界が終ると予言したと伝えられる。
やはりあの予言は正しかった。
科学と引き換えるように猛々しい霊力を失った現代社会ではあのカムナビを滅ぼす手段などありはしない。そもそも、人に殺すことなどできないからこその神。
神を殺すということはすなわち人であることを捨てることにほかならない。
だからこそ中御神家は人であることを捨て今日この日まで外道の限りを尽くしてきたのである。
「頼んだぞ、真人」
中御神家が営々と千年の時をかけ、ついに完成した神殺しの刃。
戦いが終わるまでの短い寿命しか持たない、ただ神を殺すために幼い日から、否、生まれおちたその日から道具として生きることを運命められた少年。
怨みもそしりも甘んじて受けよう。
鬼畜生と言わば言え。世界を救うためなら永遠の地獄に落ちようともいくらでもこの身を差し出そう。
だからせめて――――――――。
「どうかこれまで失われたあまたの命が無駄でなかったことを証明してくれ。真人よ」
いったいどれほどの命が一族の業によって失われてきたことか。
その数は千年の長い年月の間に優に万を超えているだろう。
あまたの犠牲の上にこそ今日この日がある。
これでカムナビに敗北するようなことがあればその全ての命は無駄死にであったことになるのだ。
低い地鳴りとともに山頂の見上げるほどに巨大な要石が音を立てて割れた。
まるで火山が噴火するかのように莫大な妖気が噴き出すのを真人は不思議といつもの稽古でも見るような落ち着いた気持ちで見つめていた。
ガコッ!ドコッ!ボコッ!
妖気の大きさに耐え切れず、弾けるようにして割れた要石が粉々に砕かれていく。
ぬっと無造作に突き出た巨大な手が大地を掴み、赤銅色の肌と筋骨隆々とした肩が要石の下の穴から姿を現した。
まるで運慶の金剛力士像を思わせる巨大な丸太のような腕である。
続いて鋭くとがった角が、そして端正でありながら恐ろしい表情と明らかに狂気に染まった爛々と光る瞳が露わとなった。
「……………これがカムナビ………」
冷たい地下で千年蓄えた怨念のはけ口を見つけ、カムナビが口元を復讐の悦びに歪めるのが見えた。
しかし真人の心はいささかも揺るがない。なんとなればカムナビに殺されずとも、もともと真人の命はこの戦いを最後に燃え尽きることが定められているからだ。
命の全てをこの戦いで最大に燃やしつくすために調整された真人は、まさに燃え尽きる前に大きく燃えあがろうとする蝋燭のようでもあった。
重量を感じさせない軽やかな動きでユラリとカムナビが立ち上がる。
その身長は五mに届くだろう。いや、世界を滅ぼす存在にしては小さいと言うべきなのだろうか。
しかし単純な物理的力では神の身を傷つけることは叶わない。核兵器の直撃であろうとも何らダメージを受けることもない規格外の神の身にはこれでも十分と言うべきであった。
「オマエ、アノコゾウノシソンカ」
千年前、自分を封印した小面憎い術師の血を感じてカムナビは問いかける。
「もはやこの身にどんな血が流れているか定かではないがな」
今の真人は中御神と異能と妖怪を掛け合わせたハイブリッドである。
中御神の血もいくらかは残されているのかもしれないが、その力の大半はもはや始祖の血筋にはないと言えるだろう。
「チカラガタリヌ。ワレニクワレテワガチカラノイチブトナレ」
「悪いがそれは聞けない相談だな。どうせ死ぬ身に力は必要ないだろう」
「ワレガシヌ?」
くつくつとせせら笑うようにカムナビが肩を揺らす。
人の身に神を殺すことはできない。肉体の器を人間は超えることができないからだ。
それは世界が定めた絶対的な法則である。
だからこそあの術師も自分を封印することが精一杯だった。
確かに目の前の少年はあの術師に匹敵し、あるいは凌駕する力の持ち主なのかもしれないが、それでも人の身を超える存在ではない。
カムナビが嘲笑をこめて少年の思い上がりに罰を下そうと、一歩踏み出したときそれは現れた。
「斬り祓えアメノハハキリ」
「ナニッ?」
真人の抜いた古ぼけた日本では珍しい直刀を見た瞬間、カムナビは自分の考えが間違っていたことを知った。
あれは真実神を殺すためだけに鍛え上げられた武器、いや、神器だ。
しかしなぜ神器を人間であるこの少年が使えるのだ―――――?
神剣アメノハハキリ
別名を十拳剣とも言う建速素戔嗚尊が佩いていた神話の世界の名刀である。
あの八岐大蛇を退治した神剣と言えば、たいていの人間は聞いたことがあるだろう。
―――――甘く見ていた。
カムナビともあろうものが腹の奥に重くわだかまる恐怖を感じずにはいられなかった。
この少年はあの千年前の術師にも劣らぬ、いや、それ以上の倒すべき雄敵であった。
抜き打ちの斬撃で右わき腹を切り裂かれ、ごっそりと神気が奪われるのを自覚すると、口惜しげにカムナビは飛びずさって愛剣を抜いた。
「シネ」
巨体に似合わぬ俊敏さで振り抜かれた剣は甲高い金属音とともに弾かれ、逆に浅くではあったが手首が切り裂かれたため、思わぬ反撃にカムナビは顔を歪ませた。
見れば年のころは十五歳ほど、身長はようやく170cmに届こうかという小柄な少年である。
女性と見紛うばかりに線が細いその姿からは想像もできない膂力であった。
圧倒的な体格と重量の差がありながら弾かれた剣を握る手は痛いほどの痺れを今も訴え続けていた。
「中御神家守護司、中御神真人推して参る!」
一筋の光の軌跡となって少年が剣ごと飛び込んでくるのをかろうじてカムナビは避けた。
神であるカムナビをもってしても対応することが困難な速度である。いったいこの少年は人の身でありながらどれほどの力を宿しているというのか。
「ヒトノミデアリナガラヨクゾソコマデキタエタモノヨ」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
少年がここに至るまでどれほどの修練を積んできたか、想像するだけで何故かカムナビの胸は熱く温かいものに包まれる。
遠い記憶の果てで、ここではないあの懐かしい世界で自分も彼のように剣を振るっていたような……………。
久しく感じていなかった心の震えが、狂気で満たされていたカムナビの脳裏をかき乱した。
まるで音楽のように、舞踏のようにカムナビと真人は剣を交錯させ、あるときは蹴りを繰り出し、またあるときは魔術をふるって互いの身体を削りあった。
血しぶきが舞い、地響きをあげて大地が割れる。
ああ、遠い遠い過去、自分は確かにこうして剣をふるっていた気がする。
死と隣り合わせの戦いを演じながらもカムナビは湧きあがる懐かしくも温かな思いを感じていた。いっそこのままいつまでも剣を合わせていたいと思えるほどに。
(マチガイナイ。オレハ――――ダレカヲタオスタメニケンヲフルッテイタ)
いったいいつから自分は記憶を失ってしまっていただろう。どうして今まで自分は過去を考えようとはしなかったのだろう。
気を抜けば一瞬で命を奪われる必殺の一撃をかいくぐりながら、カムナビは真人と剣を合わせるたびに脳にかかった深い霞が晴れていくのを感じた。
千年の長きに渡って積み上げられた人の枠すら外れた業のせいか、はたまた神殺しのアメノハハキリという神剣のなせるわざか。
この世界に渡ってからというもの、ずっと狂気に囚われてきたカムナビはかつて自分が神であったころの記憶にもう少しで手が届きそうな気がした。
だがそんな感慨とは関係なく、鍛え上げられた身体は無意識に動く。
カムナビは真人の剣先を紙一重で避わし、返す刀で真人の腹に剣を突きこむ。
鈍い音とともに長大な剣が真人の腹部を貫き、真っ赤な鮮血が飛び散ったかに見えたが、それは精巧に出来た式神であり、カムナビの死角に身を隠した真人が再び弾丸のようにカムナビの懐へと飛び込んでくる。
「ダガアマイ」
式神を使った変わり身は見事だったが、それだけで神たる自分の空間把握力を欺けると思ったか?
会心の笑みを浮かべてカムナビは渾身の力を込めて剣を突き刺す。
カムナビに向かって全速で身体を投げ出している真人はもうそれを避けることはできない。
ついに仕留めたという悦びとともに、カムナビはこの甘美な戦いのときが終わることに一抹の寂しさを感じる。
しかしカムナビの予想を完全に裏切る真人の行動に、神ともあろうものが正しく瞠目した。
真人を甘く見ていたのはカムナビのほうであった。
―――――もとより真人にこの戦いの後の命などない。
そして真人には命に代えても守らなければならない大切な人が存在した。
同じ血を分けたこの世の誰より大切な妹、中御神真砂。
彼女を中御神の呪縛から解き放ち、カムナビの脅威のない世界を残すためにこそ真人は戦っているのだった。
千分の一秒にも満たぬかのような刹那の間に、真人の瞼に別れ間際の真砂の姿がよみがえる。
幼いころからたった一人心を許すことのできた妹だった。
黒髪のおかっぱ頭にスラリと伸びた細い手足、無表情で滅多に感情を表に出さないが、本当は照れ屋で甘えん坊な可愛い真人の半身。
彼女のために強くなった。
彼女を戦いに狩り出さぬために、どんな方法を使っても自分が神剣を制御しなくてはならなかった。二歳年下の可愛い妹に未来を与えられるなら、この身がどうなろうと知ったことではない。
「―――――どうかご武運を、兄様」
瞳からポロポロと涙を流していたが、必死に嗚咽だけはこらえつつ見送ってくれた真砂の姿が真人に決死の一撃を決断させた。
ゾブリ、と土手っ腹をカムナビの巨大な剣が貫くのも構わずに真人は突進する。
避けることのできない必中の間合いとは、逆にいえばカムナビにとっても真人の攻撃を避けることのできない間合いでもあった。
即死することさえ避けられれば、真人が渾身の一撃を見舞うには十分すぎた。
「バカナ!」
さすがのカムナビもこれには明らかに虚を衝かれた。
決死という言葉さえ生ぬるい。おそらくはものごころついたときから、気が遠くなるほどの時間を費やして自分に一撃を入れるために育てられてきた真人だからこその、まるで軽く散歩にでも出かけるかのような無造作な命の捨て方であった。
真人の腹に深々と突き刺さった剣はすでに容易に抜くことはできず、仮に抜いたとしてももはやアメノハハキリを防ぐには間に合わない。
裂けた腹から腸が毀れだすのも全く意にも介さずに、さらに踏み込みの速度をあげる真人には寒気すら覚えた。
(―――――ダメダ。モウヨケラレナイ…………)
悔しいな。
刹那の間にそうカムナビは思った。
負けるなんていつ以来のことだろう……。
心臓を過たず貫いていくアメノハハキリの冷たい感触を感じながらカムナビは狂気から精神が解放されていくのを自覚した。
ドサリ
大地に落ちてポッカリと空洞になった腹部を見て真人は苦笑する。
よくもまあこんなになっても生きていられるものだ。もっともあと数分くらいしかもたないだろうけど。
フウとため息をついて真人は目を閉じた。
予定どおりにカムナビを倒すことには成功した。これで真砂を一族の運命から解放することができる。それができただけで自分が生まれてきた意味があったと思う。
真砂はきっと泣くだろう。戦いの結果にかかわらず自分の命がないと知っていても、声を押し殺してひっそりとすすり泣くだろう。
だが泣いたままずっと塞いでいるほど真砂は後ろ向きな性格ではない。
きっとすぐに立ち直って、中御神の籠から新たな世界へ羽ばたいていくに違いなかった。
…………幸せにおなり、真砂。もう僕は守ってあげられないけれど。
一筋の涙とともに、真人は満足気に微笑してその鼓動を止めた。
「―――――見事であったぞ少年」
カムナビは静かに息を引き取った真人に向かって頭を垂れた。
ようやく正気に戻れた代償の大きさにカムナビは滂沱と涙を流した。
この尊敬すべき雄敵の一撃は、カムナビの狂気の器となっていたこの世界との因縁を断ち切ってくれたのである。
もともとカムナビはこの地球ではない異世界から故あって飛ばされていた渡り神だ。
ほとんどの場合こうした渡り神は信仰と世界との絆を失った衝撃で正気を失い、また同時に力を失って魔物として退治されるのが常であった。
しかし魔物として退治されこの世界に同化し、取り込まれるにはカムナビの力はあまりに巨大すぎた。
その力が世界に還元できない以上、真人はカムナビの受肉したこの世界との地縁を断ち切らなければならなかったのである。
この世界との地縁をアメノハハキリによって浄化されたカムナビの力は、急速に彼の本来あるべき異世界、アヌビアに向かって昇華されつつあった。
このまま彼を死なせてしまってよいものか。
否、死なせてよいはずがない。
自分が正気を失っていたことで奪った生命や時間を取り戻せるとは思わないが、せめてこの少年くらいは報われてしかるべきだ。
生まれおちたその瞬間から神と戦うことに全てを捧げ、なんのためらいもなく己の命を差し出したこの少年は幸せにならなくてはならない。
せめて幸せの意味も知らずに死ぬべきではない。
まして彼は長い狂気の淵をさまよっていた自分を救ってくれた恩人ではないか!
カムナビは好敵手であった真人の死に顔にそっと手を触れた。
…………残念だがこの世界で私が振るえる力はもう残り少ない。
しかしあの懐かしい世界――――私が神として本来の力を振るえるあのアヌビア世界ならば―――――。
そしてカムナビは何かを決意したように頷くと、両手をすくい取るようにしてそっと真人の純白の魂を懐へと抱え込んだのだった。
一族の始祖から語り継がれてきた日本最大の祟り神カムナビの復活。
この日のために一族は神を殺すことのできる神殺しを育てるために血道をあげてきた。
それは決して平たんな道のりではなかった。
――――いわく、鬼と交わる者
――――いわく、子供を食らう者
――――いわく、外道の業を操る者
時として妖怪の血を一族に取り込み、時として生まれてきた子供を術式の実験台にして、時としてより強い力を得るために一族の子供同士を殺し合わせ唯一生き残った子供の血筋を残してまでも強い力を追い求めた。
全てはいずれ復活するカムナビを倒す、そのためだけに。
「それも今日全てが終わる」
人としての道に背を向け、人を愛するという感情を殺し、機械のように力ある者を生み出すだけの道具に成り下がってきた煉獄の日々も今日で終わる。
はや初老の域に達しようとしている中御神家当主、中御神仁悟は感慨深げに瞑目した。
額に刻まれた年齢の割に深い皺が、彼の懊悩の深さをあらわしているかのようである。
東の空に妖気が靄のように立ち上り始めていた。
そのあまりに圧倒的な妖気に、わかってはいても原初的な恐怖に背筋を冷たいものが走るのを抑えることができない。さすがは日本史上最大最強の祟り神。
時の朝廷が総力をあげてなお、封印することしか出来なかった異世界からの渡り神。
役の行者の子供であったという始祖は命と引き換えに千年の結界を張り、その時までに神を殺せる者がいなければ世界が終ると予言したと伝えられる。
やはりあの予言は正しかった。
科学と引き換えるように猛々しい霊力を失った現代社会ではあのカムナビを滅ぼす手段などありはしない。そもそも、人に殺すことなどできないからこその神。
神を殺すということはすなわち人であることを捨てることにほかならない。
だからこそ中御神家は人であることを捨て今日この日まで外道の限りを尽くしてきたのである。
「頼んだぞ、真人」
中御神家が営々と千年の時をかけ、ついに完成した神殺しの刃。
戦いが終わるまでの短い寿命しか持たない、ただ神を殺すために幼い日から、否、生まれおちたその日から道具として生きることを運命められた少年。
怨みもそしりも甘んじて受けよう。
鬼畜生と言わば言え。世界を救うためなら永遠の地獄に落ちようともいくらでもこの身を差し出そう。
だからせめて――――――――。
「どうかこれまで失われたあまたの命が無駄でなかったことを証明してくれ。真人よ」
いったいどれほどの命が一族の業によって失われてきたことか。
その数は千年の長い年月の間に優に万を超えているだろう。
あまたの犠牲の上にこそ今日この日がある。
これでカムナビに敗北するようなことがあればその全ての命は無駄死にであったことになるのだ。
低い地鳴りとともに山頂の見上げるほどに巨大な要石が音を立てて割れた。
まるで火山が噴火するかのように莫大な妖気が噴き出すのを真人は不思議といつもの稽古でも見るような落ち着いた気持ちで見つめていた。
ガコッ!ドコッ!ボコッ!
妖気の大きさに耐え切れず、弾けるようにして割れた要石が粉々に砕かれていく。
ぬっと無造作に突き出た巨大な手が大地を掴み、赤銅色の肌と筋骨隆々とした肩が要石の下の穴から姿を現した。
まるで運慶の金剛力士像を思わせる巨大な丸太のような腕である。
続いて鋭くとがった角が、そして端正でありながら恐ろしい表情と明らかに狂気に染まった爛々と光る瞳が露わとなった。
「……………これがカムナビ………」
冷たい地下で千年蓄えた怨念のはけ口を見つけ、カムナビが口元を復讐の悦びに歪めるのが見えた。
しかし真人の心はいささかも揺るがない。なんとなればカムナビに殺されずとも、もともと真人の命はこの戦いを最後に燃え尽きることが定められているからだ。
命の全てをこの戦いで最大に燃やしつくすために調整された真人は、まさに燃え尽きる前に大きく燃えあがろうとする蝋燭のようでもあった。
重量を感じさせない軽やかな動きでユラリとカムナビが立ち上がる。
その身長は五mに届くだろう。いや、世界を滅ぼす存在にしては小さいと言うべきなのだろうか。
しかし単純な物理的力では神の身を傷つけることは叶わない。核兵器の直撃であろうとも何らダメージを受けることもない規格外の神の身にはこれでも十分と言うべきであった。
「オマエ、アノコゾウノシソンカ」
千年前、自分を封印した小面憎い術師の血を感じてカムナビは問いかける。
「もはやこの身にどんな血が流れているか定かではないがな」
今の真人は中御神と異能と妖怪を掛け合わせたハイブリッドである。
中御神の血もいくらかは残されているのかもしれないが、その力の大半はもはや始祖の血筋にはないと言えるだろう。
「チカラガタリヌ。ワレニクワレテワガチカラノイチブトナレ」
「悪いがそれは聞けない相談だな。どうせ死ぬ身に力は必要ないだろう」
「ワレガシヌ?」
くつくつとせせら笑うようにカムナビが肩を揺らす。
人の身に神を殺すことはできない。肉体の器を人間は超えることができないからだ。
それは世界が定めた絶対的な法則である。
だからこそあの術師も自分を封印することが精一杯だった。
確かに目の前の少年はあの術師に匹敵し、あるいは凌駕する力の持ち主なのかもしれないが、それでも人の身を超える存在ではない。
カムナビが嘲笑をこめて少年の思い上がりに罰を下そうと、一歩踏み出したときそれは現れた。
「斬り祓えアメノハハキリ」
「ナニッ?」
真人の抜いた古ぼけた日本では珍しい直刀を見た瞬間、カムナビは自分の考えが間違っていたことを知った。
あれは真実神を殺すためだけに鍛え上げられた武器、いや、神器だ。
しかしなぜ神器を人間であるこの少年が使えるのだ―――――?
神剣アメノハハキリ
別名を十拳剣とも言う建速素戔嗚尊が佩いていた神話の世界の名刀である。
あの八岐大蛇を退治した神剣と言えば、たいていの人間は聞いたことがあるだろう。
―――――甘く見ていた。
カムナビともあろうものが腹の奥に重くわだかまる恐怖を感じずにはいられなかった。
この少年はあの千年前の術師にも劣らぬ、いや、それ以上の倒すべき雄敵であった。
抜き打ちの斬撃で右わき腹を切り裂かれ、ごっそりと神気が奪われるのを自覚すると、口惜しげにカムナビは飛びずさって愛剣を抜いた。
「シネ」
巨体に似合わぬ俊敏さで振り抜かれた剣は甲高い金属音とともに弾かれ、逆に浅くではあったが手首が切り裂かれたため、思わぬ反撃にカムナビは顔を歪ませた。
見れば年のころは十五歳ほど、身長はようやく170cmに届こうかという小柄な少年である。
女性と見紛うばかりに線が細いその姿からは想像もできない膂力であった。
圧倒的な体格と重量の差がありながら弾かれた剣を握る手は痛いほどの痺れを今も訴え続けていた。
「中御神家守護司、中御神真人推して参る!」
一筋の光の軌跡となって少年が剣ごと飛び込んでくるのをかろうじてカムナビは避けた。
神であるカムナビをもってしても対応することが困難な速度である。いったいこの少年は人の身でありながらどれほどの力を宿しているというのか。
「ヒトノミデアリナガラヨクゾソコマデキタエタモノヨ」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
少年がここに至るまでどれほどの修練を積んできたか、想像するだけで何故かカムナビの胸は熱く温かいものに包まれる。
遠い記憶の果てで、ここではないあの懐かしい世界で自分も彼のように剣を振るっていたような……………。
久しく感じていなかった心の震えが、狂気で満たされていたカムナビの脳裏をかき乱した。
まるで音楽のように、舞踏のようにカムナビと真人は剣を交錯させ、あるときは蹴りを繰り出し、またあるときは魔術をふるって互いの身体を削りあった。
血しぶきが舞い、地響きをあげて大地が割れる。
ああ、遠い遠い過去、自分は確かにこうして剣をふるっていた気がする。
死と隣り合わせの戦いを演じながらもカムナビは湧きあがる懐かしくも温かな思いを感じていた。いっそこのままいつまでも剣を合わせていたいと思えるほどに。
(マチガイナイ。オレハ――――ダレカヲタオスタメニケンヲフルッテイタ)
いったいいつから自分は記憶を失ってしまっていただろう。どうして今まで自分は過去を考えようとはしなかったのだろう。
気を抜けば一瞬で命を奪われる必殺の一撃をかいくぐりながら、カムナビは真人と剣を合わせるたびに脳にかかった深い霞が晴れていくのを感じた。
千年の長きに渡って積み上げられた人の枠すら外れた業のせいか、はたまた神殺しのアメノハハキリという神剣のなせるわざか。
この世界に渡ってからというもの、ずっと狂気に囚われてきたカムナビはかつて自分が神であったころの記憶にもう少しで手が届きそうな気がした。
だがそんな感慨とは関係なく、鍛え上げられた身体は無意識に動く。
カムナビは真人の剣先を紙一重で避わし、返す刀で真人の腹に剣を突きこむ。
鈍い音とともに長大な剣が真人の腹部を貫き、真っ赤な鮮血が飛び散ったかに見えたが、それは精巧に出来た式神であり、カムナビの死角に身を隠した真人が再び弾丸のようにカムナビの懐へと飛び込んでくる。
「ダガアマイ」
式神を使った変わり身は見事だったが、それだけで神たる自分の空間把握力を欺けると思ったか?
会心の笑みを浮かべてカムナビは渾身の力を込めて剣を突き刺す。
カムナビに向かって全速で身体を投げ出している真人はもうそれを避けることはできない。
ついに仕留めたという悦びとともに、カムナビはこの甘美な戦いのときが終わることに一抹の寂しさを感じる。
しかしカムナビの予想を完全に裏切る真人の行動に、神ともあろうものが正しく瞠目した。
真人を甘く見ていたのはカムナビのほうであった。
―――――もとより真人にこの戦いの後の命などない。
そして真人には命に代えても守らなければならない大切な人が存在した。
同じ血を分けたこの世の誰より大切な妹、中御神真砂。
彼女を中御神の呪縛から解き放ち、カムナビの脅威のない世界を残すためにこそ真人は戦っているのだった。
千分の一秒にも満たぬかのような刹那の間に、真人の瞼に別れ間際の真砂の姿がよみがえる。
幼いころからたった一人心を許すことのできた妹だった。
黒髪のおかっぱ頭にスラリと伸びた細い手足、無表情で滅多に感情を表に出さないが、本当は照れ屋で甘えん坊な可愛い真人の半身。
彼女のために強くなった。
彼女を戦いに狩り出さぬために、どんな方法を使っても自分が神剣を制御しなくてはならなかった。二歳年下の可愛い妹に未来を与えられるなら、この身がどうなろうと知ったことではない。
「―――――どうかご武運を、兄様」
瞳からポロポロと涙を流していたが、必死に嗚咽だけはこらえつつ見送ってくれた真砂の姿が真人に決死の一撃を決断させた。
ゾブリ、と土手っ腹をカムナビの巨大な剣が貫くのも構わずに真人は突進する。
避けることのできない必中の間合いとは、逆にいえばカムナビにとっても真人の攻撃を避けることのできない間合いでもあった。
即死することさえ避けられれば、真人が渾身の一撃を見舞うには十分すぎた。
「バカナ!」
さすがのカムナビもこれには明らかに虚を衝かれた。
決死という言葉さえ生ぬるい。おそらくはものごころついたときから、気が遠くなるほどの時間を費やして自分に一撃を入れるために育てられてきた真人だからこその、まるで軽く散歩にでも出かけるかのような無造作な命の捨て方であった。
真人の腹に深々と突き刺さった剣はすでに容易に抜くことはできず、仮に抜いたとしてももはやアメノハハキリを防ぐには間に合わない。
裂けた腹から腸が毀れだすのも全く意にも介さずに、さらに踏み込みの速度をあげる真人には寒気すら覚えた。
(―――――ダメダ。モウヨケラレナイ…………)
悔しいな。
刹那の間にそうカムナビは思った。
負けるなんていつ以来のことだろう……。
心臓を過たず貫いていくアメノハハキリの冷たい感触を感じながらカムナビは狂気から精神が解放されていくのを自覚した。
ドサリ
大地に落ちてポッカリと空洞になった腹部を見て真人は苦笑する。
よくもまあこんなになっても生きていられるものだ。もっともあと数分くらいしかもたないだろうけど。
フウとため息をついて真人は目を閉じた。
予定どおりにカムナビを倒すことには成功した。これで真砂を一族の運命から解放することができる。それができただけで自分が生まれてきた意味があったと思う。
真砂はきっと泣くだろう。戦いの結果にかかわらず自分の命がないと知っていても、声を押し殺してひっそりとすすり泣くだろう。
だが泣いたままずっと塞いでいるほど真砂は後ろ向きな性格ではない。
きっとすぐに立ち直って、中御神の籠から新たな世界へ羽ばたいていくに違いなかった。
…………幸せにおなり、真砂。もう僕は守ってあげられないけれど。
一筋の涙とともに、真人は満足気に微笑してその鼓動を止めた。
「―――――見事であったぞ少年」
カムナビは静かに息を引き取った真人に向かって頭を垂れた。
ようやく正気に戻れた代償の大きさにカムナビは滂沱と涙を流した。
この尊敬すべき雄敵の一撃は、カムナビの狂気の器となっていたこの世界との因縁を断ち切ってくれたのである。
もともとカムナビはこの地球ではない異世界から故あって飛ばされていた渡り神だ。
ほとんどの場合こうした渡り神は信仰と世界との絆を失った衝撃で正気を失い、また同時に力を失って魔物として退治されるのが常であった。
しかし魔物として退治されこの世界に同化し、取り込まれるにはカムナビの力はあまりに巨大すぎた。
その力が世界に還元できない以上、真人はカムナビの受肉したこの世界との地縁を断ち切らなければならなかったのである。
この世界との地縁をアメノハハキリによって浄化されたカムナビの力は、急速に彼の本来あるべき異世界、アヌビアに向かって昇華されつつあった。
このまま彼を死なせてしまってよいものか。
否、死なせてよいはずがない。
自分が正気を失っていたことで奪った生命や時間を取り戻せるとは思わないが、せめてこの少年くらいは報われてしかるべきだ。
生まれおちたその瞬間から神と戦うことに全てを捧げ、なんのためらいもなく己の命を差し出したこの少年は幸せにならなくてはならない。
せめて幸せの意味も知らずに死ぬべきではない。
まして彼は長い狂気の淵をさまよっていた自分を救ってくれた恩人ではないか!
カムナビは好敵手であった真人の死に顔にそっと手を触れた。
…………残念だがこの世界で私が振るえる力はもう残り少ない。
しかしあの懐かしい世界――――私が神として本来の力を振るえるあのアヌビア世界ならば―――――。
そしてカムナビは何かを決意したように頷くと、両手をすくい取るようにしてそっと真人の純白の魂を懐へと抱え込んだのだった。
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