彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第四十二話 絆の行方
間一髪の再会からほ俺はほとんど丸一日熟睡していたらしい。
48時間近く一睡もせず馬を飛ばしていたのだから当然とも言える。
途中で山賊紛いに農民を脅して馬を略奪してきたしうえ乗りつぶしてしまったし、後で補償してやらないといけないだろう。
ところでさも当然のように俺のベッドにもぐりこんでいるこのお子様をどうしたものだろうか。
少し会わない間に身体の曲線がまた少し大人に近づいたような気がするのは俺の気の迷いだろうか。
体臭も子供臭いミルク臭さが抜けてどこか華のような甘い香りを漂わせるヘレナに俺は理性が徐々に浸食されつつあることを自覚した。
可愛いじゃねえかこんちくしょううううう!
ザワディロフの謀反の失敗はワラキアにおける貴族の抵抗にとどめをさしたと言っていい。
ヴラドを倒すのにこれほどの機会は二度と訪れないだろう。
にもかかわらずザワディロフを見捨てた貴族たちはこれから先なんらかの機会があったとしても、仲間である貴族が共に戦ってくれることを信じることができないに違いなかった。
さらに副次的な効果としてトランシルヴァニアの貴族たちが一斉に恭順してきたためモルダヴィアを狙うポーランドに備えるための予備兵力の抽出が可能となった。
やはり彼らにとってヤーノシュの存在がトランシルヴァニア解放のための唯一の支えであったのだ。
強国ハンガリーの壊滅とトランシルヴァニアの恭順、老獪なポーランド王カジミェシュ4世のこと無理な敵対行為は差し控えることになるだろう。
驚いたのはハンガリーでのベルドの見事な手腕である。
とりあえず現状維持をしてくれれば十分だと考えていたはずが、ヤーノシュ一派を粛清し、さらに汚名をマルクトに着せて処分するとは、同じことを自分も考えていたとはいえ驚愕の念を禁じえない。
子供だ子供だと思ってきたがいつのまにかベルドも免許皆伝ということか。ハンガリー貴族に俺の不在が不審に思われないうちにブダに行って褒めてやらんといかんな。
「ところで………そこにいられると俺が動けんのだが?」
「妾を連れていくというまでは絶対にここから動かぬのじゃ!」
俺の膝のうえでご立腹の様子のヘレナが梃子でも動かぬとばかりに腰に手を回していた。
こういう態度そのものはまだまだお子様なのだがな………。
「いや、だからね?これからいくブダは敵の真っ只中なわけで。ヘレナにこれ以上危ない思いをさせたくなくてだね?」
「危ないのはどこでもいっしょじゃ!それに……妾はもう我が君から絶対に離れぬと決めたのじゃ!」
スリスリと子犬のように頭を胸にこすりつけるヘレナの姿にクラクラと眩暈にも似た症状が俺を襲う。まさかこの俺がこの言葉を使う日がこようとは………!
――――俺を萌え殺す気か!
ザワディロフの反乱から間一髪生き延びて以来ヘレナは俺にべったりで離れようとしなかった。
天使のように可愛いヘレナにまとわりつかれるのは男として悪い気はしないので放置していたのだが、まさかブダまで同行すると言い出すとは。
ヤーノシュに勝利した現在、ワラキアにおける脅威は限りなく小さくなったはずであった。もちろん毒殺やテロの可能性がないわけではないが、どこもかしこも敵だらけであった先ごろとは事情が違う。
だがブダとなればそうもいかない。
先王ヤーノシュを殺したのは何といってもヴラドなのであり、その後のマルクトの悪政もワラキアに非なしとは言えないのである。むしろ実情を考えればすべてはワラキアの思惑通りに進んだといえる。政治を見通す目をもったものであればその真実に気づいていてもおかしくはなかった。
そんなところへヘレナを伴うのはさすがの俺でも容認することはできなかった。
「我ままを言わないで。今度はある程度兵も残していくしブダはこことは比較にならないくらい危険なんだから………」
「でも我が君はその危険な場所に行くのではないか!妾を置いて!」
自分の知らない場所でヴラドが死んでしまうなど想像しただけでも身が凍る思いである。
まだ自分は何もしていない。この気持ちを何一つ伝えていない。
あの生と死の挟間で自覚したヴラドへの思いはヘレナの中で消化不良のまま澱のようにたまり続けていた。
「そ、それに妾はまだ我が君に………その、つ、伝えていないことが……」
どんどん尻すぼみになっていく自分の声を不甲斐無く思いつつもヘレナは瞬く間に頬が熱く血が勢いよく頭に上っていくのを抑えることができなかった。
磁器のように白いヘレナの顔が林檎のように真っ赤に染まっていく。
天才と呼ばれり聡明な頭脳も、ローマ皇帝の高貴な血も初恋という障害の前には全くと言っていいほど役に立たない。
「何?」
「う、うるさいのじゃ!女の我儘くらい叶えてやれぬと我が君の器量がしれるのじゃ!」
再び癇癪を起してヘレナはヴラドに抱きついた。
こうなると意地になったヘレナを説得することは不可能だ。
無理やり置いていくこともできるが下手をするとあの侍女といっしょに城を抜け出して追いかけて来かねない。困ったことにそうするだけの能力があの暗殺者あがりの侍女にはあるだろう。
そんなことになるくらいならまだ一緒に連れて監視していたほうがましである。
それに心のどこかでヘレナについてきてほしいという気持ちもあるというのが嘘偽らざる本音でもあった。
ヘレナがザワディロフに殺されているかもしれないと知ったあの時の絶望感を今でもまざまざと覚えている。
この世のすべてが色を失って何もかも破壊してしまいたいという衝動にかられた憎悪とも怒りともつかぬあの感情を。
いつの間にかヘレナは仲間以上に大切な俺にとっても家族の一人となってしまっていた。
いつからだろう?彼女の天才を知ったときか、はたまた夫と呼んでくれたときなのか、あるいは初めて彼女の美貌を見たときか――――。
今はまだ妹以上恋人未満といったところだがあと数年ほどヘレナが成長した暁にはそのときには本当の意味で夫婦となるときが来るのだろうか。
「俺の傍から離れるんじゃないぞ?」
「う、うむ!望むところなのじゃ!」
パッと花が咲いたように微笑むヘレナの頭を撫でる俺の視界に、なぜか計画通り!とばかりに口の端を吊り上げる侍女の姿が映った。
―――――もしかして嵌められた?
ワラキアからヴラド率いる正規軍の本隊が到着したという事実はハンガリー貴族の最後の希望を打ち砕いた。
それはマルクトのように傀儡政権とはいえ間接統治にするのではなく、ヴラド自身がハンガリーの直接統治に臨むという何より雄弁な証であったからである。
ヴラドの到着を待っていたかのように、マルクトによって失脚させられていた有能な官僚たちが次々とヴラドに召し出されていく。
これに対して不満を抱く貴族もいるにはいたが、ヤーノシュ亡き今王都を実質的に掌握するワラキア軍と北部でにらみを利かせるヤン・イクスクラの北部ハンガリー軍を相手に実力で反抗できるものなどいるはずがなかった。
「すでにハンガリーの貴族の7割は掌握したといってもよいでしょう。一部神聖ローマ帝国の支援を受けようとするものもいるようですが泳がせておいても害はありますまい。所詮あのフリードリヒ3世にわれらを相手に剣をとる気概はありませぬ」
訥々と無表情のまま語り続けるシエナの報告に俺はうなづいた。
婚姻政策によってハプスブルグ家全盛の切っ掛けをつくったフリードリヒ3世だが、その政治手腕も軍事的才能もお世辞にも有能なものとは言えないからだ。
史実では弟のアルプレヒト6世によって首都ウィーンから追放の憂き目を見ており、その後ハンガリー国王にオーストリア国王の地位とウィーンを奪われるという屈辱を味わっている。
ただ人並み外れた忍耐力と寿命と運が備わっていたことも事実であり、そうした意味で不測の事態の警戒を怠ることはできない相手でもあった。
それでも今回に限って言えばハンガリーに対する神聖ローマ帝国の軍事的脅威は無視してもよいレベルなのは間違いあるまい。
「………それでヤーノシュの側近であったギシーを捕らえたところヤーノシュの遺児が見つかったとこのとですがいかがなさいますか?」
「マーチャーシュか?」
「そんな名であったと記憶しておりますが……」
マーチャーシュ・コルヴィヌス――――のちの正義王もこの時点では6歳の幼子にすぎない。殺してしまうことも僧院に入れることも造作もないことだが………。
「……手数をかけるが叔父上のお力をお借りするとしよう。モルダヴィアに使者をたてよ。12歳になったらワラキアの士官学校に入れる」
「よろしいので?ハンガリーの貴族どもが担ぎ出さぬとも限りませんが?」
「12歳になってもその程度の判断ができんなら所詮俺の役には立たんと言うことだろう」
「御意」
史実であればマーチャーシュは義兄と呼んだ男である。
ワラキアから逃れてきたヴラドを監禁したとはいえそれはあくまでもハンガリーの国益を考えての行動であり、同じフニャディ・ヤーノシュに育てられた弟子同士として互いに敬意を払い力を認め合った仲でもあった。
最終的に妹を嫁がせてヴラドをワラキアに送り出したのもマーチャーシュである。結果的にオスマンとの戦いで疲弊しきったワラキア貴族にヴラドは暗殺されてしまったことを考えれば、マーチャーシュが匿ってくれていたおかげでヴラドは45歳までの生を全うできたとも言えるだろう。
ハンガリーばかりかオーストリア大公位を継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝まであと一歩と迫ったマーチャーシュの政軍両略の才能はいくら評価しても評価しすぎることはない。
ここで失わせるにはあまりに惜しい才能である。
温厚で愛情深いモルダヴィア公のもとで成長するならばいずれワラキアの一翼を担わせることも不可能ではないはずであった。
「すでにブダにもワラキアと同様の士官学校と官僚学校の建設を進めております。ワラキア法典の施行も準備は滞りなく」
「うむ」
ハンガリーもワラキア同様貴族の連合政権であり中央の権威が低い封建国家である。貴族を中央に取り込み庶民から官僚を育成するには王立の学校を利用するのが一番てっとり早いのだ。
ワラキア法典はローマから輸入したローマ法大全のリニューアル版である。ユスティニアス1世によって制定されたローマ法大全はハンムラビ法典、ナポレオン法典と並んで世界三大法典の一つとされている。
のちの欧州世界にの民法典にも大きな影響を与えており中世から近世にさしかかろうとしている15世紀にあってはこれ以上に体系化され、かつ形骸化せずに通用する法典は存在しなかったといってよい。
国王と貴族の恣意的な無法がまかり通る野蛮な東欧で文治を根づかせるにあたって慣習法の一部を取り入れたワラキア法典はすでにワラキアとトランシルヴァニアで施行されていた。
軍事力を背景にしようとも一度法典が受け入れられてしまえばあとはそれ自体が既得権となって守ろうとする勢力が生まれるはずであった。
なぜなら法典は貴族の力を制限するものではあるが同時に王権や外敵から身を守るためのものでもあるからだ。
予想以上に順調なハンガリー占領政策はベルドの成長に負うところも大きいがシエナが掌握する情報組織の影からの支援なしにはありえなかったであろう。
好き嫌いではなく、才幹という意味で俺がもっとも信頼する部下は間違いなくシエナである。
俺が思い描く新たなワラキアの運営計画においてシエナの力は欠かすことのできないもっとも重要な要素なのだ。
「例の件は進んでいるのか?」
俺は無意識のうちに声が一段と低くなるのを自覚した。
「ハリル・パシャにはすでに話を通しておりますが――――スルタンの意向までは読めません」
今こそおそらく最後の機会なのだ。
ラドゥをオスマンから連れ戻す機会はこの機会をおいてほかにない。
「ハンガリー統治のために俺はもう手一杯だ。ワラキアとトランシルヴァニアを任せスルタンに奉仕するためにはラドゥの存在が絶対に必要になる。そうだな?シエナ」
「御意」
長らく敵対してきた宿敵ヤーノシュを葬ったことでスルタンはことのほか機嫌のよいことだろう。
ヤーノシュという英雄はオスマンにとってそれほどの人物だった。
そして再びハンガリーがキリスト教勢力に取り戻されるのをスルタンは望むまい。
何度計算してみてもラドゥをワラキアに迎え入れる可能性は今を逃せば奇跡のような確率に頼らざるをえないのが実情であった。
「………すでにオスマン宮廷までもぐりこませた間者を使い、最善を尽くします」
「―――――頼む」
俺をこの世界に転生させた神がいるのならどうか聞いてくれ。
俺にあの可愛い弟を見捨てさせないでくれ。
瞑目して天に祈るヴラドの姿からシエナが表情を隠すように視線をそらしたのをブダの青い月だけが見つめていた。
48時間近く一睡もせず馬を飛ばしていたのだから当然とも言える。
途中で山賊紛いに農民を脅して馬を略奪してきたしうえ乗りつぶしてしまったし、後で補償してやらないといけないだろう。
ところでさも当然のように俺のベッドにもぐりこんでいるこのお子様をどうしたものだろうか。
少し会わない間に身体の曲線がまた少し大人に近づいたような気がするのは俺の気の迷いだろうか。
体臭も子供臭いミルク臭さが抜けてどこか華のような甘い香りを漂わせるヘレナに俺は理性が徐々に浸食されつつあることを自覚した。
可愛いじゃねえかこんちくしょううううう!
ザワディロフの謀反の失敗はワラキアにおける貴族の抵抗にとどめをさしたと言っていい。
ヴラドを倒すのにこれほどの機会は二度と訪れないだろう。
にもかかわらずザワディロフを見捨てた貴族たちはこれから先なんらかの機会があったとしても、仲間である貴族が共に戦ってくれることを信じることができないに違いなかった。
さらに副次的な効果としてトランシルヴァニアの貴族たちが一斉に恭順してきたためモルダヴィアを狙うポーランドに備えるための予備兵力の抽出が可能となった。
やはり彼らにとってヤーノシュの存在がトランシルヴァニア解放のための唯一の支えであったのだ。
強国ハンガリーの壊滅とトランシルヴァニアの恭順、老獪なポーランド王カジミェシュ4世のこと無理な敵対行為は差し控えることになるだろう。
驚いたのはハンガリーでのベルドの見事な手腕である。
とりあえず現状維持をしてくれれば十分だと考えていたはずが、ヤーノシュ一派を粛清し、さらに汚名をマルクトに着せて処分するとは、同じことを自分も考えていたとはいえ驚愕の念を禁じえない。
子供だ子供だと思ってきたがいつのまにかベルドも免許皆伝ということか。ハンガリー貴族に俺の不在が不審に思われないうちにブダに行って褒めてやらんといかんな。
「ところで………そこにいられると俺が動けんのだが?」
「妾を連れていくというまでは絶対にここから動かぬのじゃ!」
俺の膝のうえでご立腹の様子のヘレナが梃子でも動かぬとばかりに腰に手を回していた。
こういう態度そのものはまだまだお子様なのだがな………。
「いや、だからね?これからいくブダは敵の真っ只中なわけで。ヘレナにこれ以上危ない思いをさせたくなくてだね?」
「危ないのはどこでもいっしょじゃ!それに……妾はもう我が君から絶対に離れぬと決めたのじゃ!」
スリスリと子犬のように頭を胸にこすりつけるヘレナの姿にクラクラと眩暈にも似た症状が俺を襲う。まさかこの俺がこの言葉を使う日がこようとは………!
――――俺を萌え殺す気か!
ザワディロフの反乱から間一髪生き延びて以来ヘレナは俺にべったりで離れようとしなかった。
天使のように可愛いヘレナにまとわりつかれるのは男として悪い気はしないので放置していたのだが、まさかブダまで同行すると言い出すとは。
ヤーノシュに勝利した現在、ワラキアにおける脅威は限りなく小さくなったはずであった。もちろん毒殺やテロの可能性がないわけではないが、どこもかしこも敵だらけであった先ごろとは事情が違う。
だがブダとなればそうもいかない。
先王ヤーノシュを殺したのは何といってもヴラドなのであり、その後のマルクトの悪政もワラキアに非なしとは言えないのである。むしろ実情を考えればすべてはワラキアの思惑通りに進んだといえる。政治を見通す目をもったものであればその真実に気づいていてもおかしくはなかった。
そんなところへヘレナを伴うのはさすがの俺でも容認することはできなかった。
「我ままを言わないで。今度はある程度兵も残していくしブダはこことは比較にならないくらい危険なんだから………」
「でも我が君はその危険な場所に行くのではないか!妾を置いて!」
自分の知らない場所でヴラドが死んでしまうなど想像しただけでも身が凍る思いである。
まだ自分は何もしていない。この気持ちを何一つ伝えていない。
あの生と死の挟間で自覚したヴラドへの思いはヘレナの中で消化不良のまま澱のようにたまり続けていた。
「そ、それに妾はまだ我が君に………その、つ、伝えていないことが……」
どんどん尻すぼみになっていく自分の声を不甲斐無く思いつつもヘレナは瞬く間に頬が熱く血が勢いよく頭に上っていくのを抑えることができなかった。
磁器のように白いヘレナの顔が林檎のように真っ赤に染まっていく。
天才と呼ばれり聡明な頭脳も、ローマ皇帝の高貴な血も初恋という障害の前には全くと言っていいほど役に立たない。
「何?」
「う、うるさいのじゃ!女の我儘くらい叶えてやれぬと我が君の器量がしれるのじゃ!」
再び癇癪を起してヘレナはヴラドに抱きついた。
こうなると意地になったヘレナを説得することは不可能だ。
無理やり置いていくこともできるが下手をするとあの侍女といっしょに城を抜け出して追いかけて来かねない。困ったことにそうするだけの能力があの暗殺者あがりの侍女にはあるだろう。
そんなことになるくらいならまだ一緒に連れて監視していたほうがましである。
それに心のどこかでヘレナについてきてほしいという気持ちもあるというのが嘘偽らざる本音でもあった。
ヘレナがザワディロフに殺されているかもしれないと知ったあの時の絶望感を今でもまざまざと覚えている。
この世のすべてが色を失って何もかも破壊してしまいたいという衝動にかられた憎悪とも怒りともつかぬあの感情を。
いつの間にかヘレナは仲間以上に大切な俺にとっても家族の一人となってしまっていた。
いつからだろう?彼女の天才を知ったときか、はたまた夫と呼んでくれたときなのか、あるいは初めて彼女の美貌を見たときか――――。
今はまだ妹以上恋人未満といったところだがあと数年ほどヘレナが成長した暁にはそのときには本当の意味で夫婦となるときが来るのだろうか。
「俺の傍から離れるんじゃないぞ?」
「う、うむ!望むところなのじゃ!」
パッと花が咲いたように微笑むヘレナの頭を撫でる俺の視界に、なぜか計画通り!とばかりに口の端を吊り上げる侍女の姿が映った。
―――――もしかして嵌められた?
ワラキアからヴラド率いる正規軍の本隊が到着したという事実はハンガリー貴族の最後の希望を打ち砕いた。
それはマルクトのように傀儡政権とはいえ間接統治にするのではなく、ヴラド自身がハンガリーの直接統治に臨むという何より雄弁な証であったからである。
ヴラドの到着を待っていたかのように、マルクトによって失脚させられていた有能な官僚たちが次々とヴラドに召し出されていく。
これに対して不満を抱く貴族もいるにはいたが、ヤーノシュ亡き今王都を実質的に掌握するワラキア軍と北部でにらみを利かせるヤン・イクスクラの北部ハンガリー軍を相手に実力で反抗できるものなどいるはずがなかった。
「すでにハンガリーの貴族の7割は掌握したといってもよいでしょう。一部神聖ローマ帝国の支援を受けようとするものもいるようですが泳がせておいても害はありますまい。所詮あのフリードリヒ3世にわれらを相手に剣をとる気概はありませぬ」
訥々と無表情のまま語り続けるシエナの報告に俺はうなづいた。
婚姻政策によってハプスブルグ家全盛の切っ掛けをつくったフリードリヒ3世だが、その政治手腕も軍事的才能もお世辞にも有能なものとは言えないからだ。
史実では弟のアルプレヒト6世によって首都ウィーンから追放の憂き目を見ており、その後ハンガリー国王にオーストリア国王の地位とウィーンを奪われるという屈辱を味わっている。
ただ人並み外れた忍耐力と寿命と運が備わっていたことも事実であり、そうした意味で不測の事態の警戒を怠ることはできない相手でもあった。
それでも今回に限って言えばハンガリーに対する神聖ローマ帝国の軍事的脅威は無視してもよいレベルなのは間違いあるまい。
「………それでヤーノシュの側近であったギシーを捕らえたところヤーノシュの遺児が見つかったとこのとですがいかがなさいますか?」
「マーチャーシュか?」
「そんな名であったと記憶しておりますが……」
マーチャーシュ・コルヴィヌス――――のちの正義王もこの時点では6歳の幼子にすぎない。殺してしまうことも僧院に入れることも造作もないことだが………。
「……手数をかけるが叔父上のお力をお借りするとしよう。モルダヴィアに使者をたてよ。12歳になったらワラキアの士官学校に入れる」
「よろしいので?ハンガリーの貴族どもが担ぎ出さぬとも限りませんが?」
「12歳になってもその程度の判断ができんなら所詮俺の役には立たんと言うことだろう」
「御意」
史実であればマーチャーシュは義兄と呼んだ男である。
ワラキアから逃れてきたヴラドを監禁したとはいえそれはあくまでもハンガリーの国益を考えての行動であり、同じフニャディ・ヤーノシュに育てられた弟子同士として互いに敬意を払い力を認め合った仲でもあった。
最終的に妹を嫁がせてヴラドをワラキアに送り出したのもマーチャーシュである。結果的にオスマンとの戦いで疲弊しきったワラキア貴族にヴラドは暗殺されてしまったことを考えれば、マーチャーシュが匿ってくれていたおかげでヴラドは45歳までの生を全うできたとも言えるだろう。
ハンガリーばかりかオーストリア大公位を継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝まであと一歩と迫ったマーチャーシュの政軍両略の才能はいくら評価しても評価しすぎることはない。
ここで失わせるにはあまりに惜しい才能である。
温厚で愛情深いモルダヴィア公のもとで成長するならばいずれワラキアの一翼を担わせることも不可能ではないはずであった。
「すでにブダにもワラキアと同様の士官学校と官僚学校の建設を進めております。ワラキア法典の施行も準備は滞りなく」
「うむ」
ハンガリーもワラキア同様貴族の連合政権であり中央の権威が低い封建国家である。貴族を中央に取り込み庶民から官僚を育成するには王立の学校を利用するのが一番てっとり早いのだ。
ワラキア法典はローマから輸入したローマ法大全のリニューアル版である。ユスティニアス1世によって制定されたローマ法大全はハンムラビ法典、ナポレオン法典と並んで世界三大法典の一つとされている。
のちの欧州世界にの民法典にも大きな影響を与えており中世から近世にさしかかろうとしている15世紀にあってはこれ以上に体系化され、かつ形骸化せずに通用する法典は存在しなかったといってよい。
国王と貴族の恣意的な無法がまかり通る野蛮な東欧で文治を根づかせるにあたって慣習法の一部を取り入れたワラキア法典はすでにワラキアとトランシルヴァニアで施行されていた。
軍事力を背景にしようとも一度法典が受け入れられてしまえばあとはそれ自体が既得権となって守ろうとする勢力が生まれるはずであった。
なぜなら法典は貴族の力を制限するものではあるが同時に王権や外敵から身を守るためのものでもあるからだ。
予想以上に順調なハンガリー占領政策はベルドの成長に負うところも大きいがシエナが掌握する情報組織の影からの支援なしにはありえなかったであろう。
好き嫌いではなく、才幹という意味で俺がもっとも信頼する部下は間違いなくシエナである。
俺が思い描く新たなワラキアの運営計画においてシエナの力は欠かすことのできないもっとも重要な要素なのだ。
「例の件は進んでいるのか?」
俺は無意識のうちに声が一段と低くなるのを自覚した。
「ハリル・パシャにはすでに話を通しておりますが――――スルタンの意向までは読めません」
今こそおそらく最後の機会なのだ。
ラドゥをオスマンから連れ戻す機会はこの機会をおいてほかにない。
「ハンガリー統治のために俺はもう手一杯だ。ワラキアとトランシルヴァニアを任せスルタンに奉仕するためにはラドゥの存在が絶対に必要になる。そうだな?シエナ」
「御意」
長らく敵対してきた宿敵ヤーノシュを葬ったことでスルタンはことのほか機嫌のよいことだろう。
ヤーノシュという英雄はオスマンにとってそれほどの人物だった。
そして再びハンガリーがキリスト教勢力に取り戻されるのをスルタンは望むまい。
何度計算してみてもラドゥをワラキアに迎え入れる可能性は今を逃せば奇跡のような確率に頼らざるをえないのが実情であった。
「………すでにオスマン宮廷までもぐりこませた間者を使い、最善を尽くします」
「―――――頼む」
俺をこの世界に転生させた神がいるのならどうか聞いてくれ。
俺にあの可愛い弟を見捨てさせないでくれ。
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