彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第三十八話 少女の戦いその2
「お主らに問う」
ヘレナは開口一番トゥルゴビシュテの有力者たちに向かって言い放った。
背丈の小さな少女の思いもかけぬ迫力にいい年齢をしたはずの大人たちが思わずぐっと喉にものが詰まったかのように息を呑んだ。
「先代大公の治世に戻りたいものはおるか?」
有力者たちはお互いに顔を見合わせた。
答えなどひとつしかないに決まっていた。ヴラドがワラキアを治める前、ワラキアの経済は外国人によって独占され本来の国民であるルーマニア人たちは困窮に喘いでいた。
「………このトゥルゴヴィシュテに住まうもので先代の治世へ戻ることを願うもの、ただの一人もおりはしませぬ。我らの主君はヴラド殿下以外にはおらぬものと」
現在トゥルゴヴィシテは空前の繁栄を誇っていた。
躍進を続けるワラキアの政治の中心として、トランシルヴァニアとモルダヴィアの中心に位置する経済の扇の要として。
人口はどんどん増加し、サス人による支配から脱したルーマニア人商人たちがようやく自立した商業圏を構成しつつある。
この数年で推し進められた街道の整備によって流通量は増える一方であり、商品価値の高いワラキア商品は多大な利益をトゥルゴヴィシテにもたらしていた。
………かつてサス人・マジャル人に虐げられ、同じ国民扱いさせされなかった過去に戻りたいなど誰が考えるだろう。
「よろしい、しかしここに大公殿下の治世を覆そうとする愚か者がいる。お主たちはそれでよいのか?己が幸せを暴虐な貴族に覆され、それをやむを得ないと肯んじるのか?」
ヘレナが彼らに促している意図は明白だった。
「…………私たちにも戦え………と?」
「戦うのが必ずしも騎士である必要があろうか?人はみな己の大切なもののために戦う権利があるのだ。妾も夫のために戦うぞ?夫の留守を守るのは妻の役目であるからな。もっともあの男にもういちど逢うまで死ぬ気はさらさらないが!」
たった十二歳の少女が主張する勇敢な宣言となんともおおらかな愛の告白に思わず男たちは目を細めて微笑んだ。
ヘレナの言うとおり、愛するもののためには誰であろうと戦うのが人間の人間である矜持であるはずだった。
もとよりこの時代の商人は現代の商人と違って暴力のなんたるかを心得ている。
まして愛する者のために戦うことを厭うような男はいなかった。
しかしそんなことよりもヘレナのような可愛い子供の夢を守ってやる事こそ大人の責任というものではないか。
国家元首の妻ではあるが、気高くも幼いヘレナの意気地にうたれてごく自然に男達は決意したのである。
「手前の手代に傭兵あがりのものがおります。すぐに御前に参らせましょう」
「我が商会も力自慢の若者には不自由しておりませぬぞ。なんなりとお申し付けくださいませ」
「女達にも介助と治療にあたらせましょう。こうした人手はいくらあっても困りませんからな」
ザワディロフたち貴族軍が乱入すれば略奪と暴行が繰り広げられ公都が荒廃するのは火を見るよりも明らかだ。
彼らは国民を税をしぼりとるための道具程度にしか考えていない。
略奪がいかに経済力を削ぐか、など想像することすらかなわぬだろう。
かつては貴族に抗う術も力もなく、嵐が過ぎるのを待つように身を潜めるしかなかったが…………。
「お主たちの協力、頼もしく思うぞ。なに、褒美は期待しておくがよい。我が夫は太っ腹であるゆえな」
晴れがましいヘレナの笑顔を見ると、貴族の力など塵芥にも等しく思えてしまう。
それがなんとも快くてならなかった。
トゥルゴビシュテの建設土木をとりしきるギルドの男が、まるで孫をからかうように大仰に手を広げた。
「おうらやましい。姫君はヴラド殿下によほど惚れこんでいると見えまする」
ほとんど社交辞令に等しい言葉であったがその一言がヘレナに与えた影響は激甚だった。
「あ、や、ここ、これはだな、妻として当然の役割なのであって……いやいや妾が夫を愛していないわけではないのだが……うにゅ、はは恥ずかしいことを申すでないわ!」
真っ赤になって照れるヘレナを生温かい目で見つめた男たちは楽しそうに頷きあった。
大公殿下は幸せものだ。
かくも愛らしく、かくも聡明で、かくも勇気ある妻を得ようとしているのだから。
ザワディロフは不機嫌の極みにいた。
ヴラドという精神的支柱も精強な軍もいないトゥルゴビシュテなど鎧袖一触に占領できると考えていたのだ。
ところが城門をめぐる攻防は完全にこう着状態に陥っていた。
もともと攻城兵器の持ち合わせのないザワディロフ軍はかろうじて破城槌だけを持ち込んでいたが、破城槌に固執するあまり城壁から弩で狙撃され、いたずらに損害を重ねていたのである。
ようやく遊兵をつくる愚に気づいたころには、既に太陽は西に大きく傾きかけていた。
もっとも夜になれば戦いはこちらのものだ、という余裕があったためそれほど深刻な焦りはない。
闇に隠れてわずかでも兵を城の内部に潜入させできればそれで勝負は決まりなのだ。
しかしそうしたザワディロフの思惑が見事にはずされたことに気づくまでそれほど時間はかからなかった。
遠目にはまるで城壁が炎上しているように見えるだろう。
それほど莫大な量の油が燃やされ、夜になってなお、トゥルゴヴィシテはまるで昼のような明るさを保ち続けていた。
商人たちがヘレナに備蓄の油を提供した結果であった。
城壁の見張りにも市民から志願した者たちが笛と弩を手に巡回して回ってくれている。
鉤縄で城壁をよじ登ろうとした貴族兵士たちは各所であっさりと発見され矢や油の洗礼を浴びることとなったのだった。
また城門前には廃材が積み上げられ、破城槌で城門が破壊されても容易には侵入できないように様々な工作がなされていた。
ヘレナがヴラドに聞いた野戦築城の知識がそこには如何なく生かされていた。
落とし穴、塹壕、バリケード…………
このとき、まさしくヘレナこそはトゥルゴヴィシュテの主であり、ワラキア大公ヴラド三世の妻であった。
建前が婚約者であろうと、誰もそれを気にすることなど思いもよらない。
ヘレナは名ではなくその行動によって国母たる地位を市民に認知されたと言っても過言ではないだろう。
ザワディロフの胸中にようやく焦りと後悔、そして本人も意識してはいないが根源から迫りくる破滅への恐怖が生まれようとしていた。
翌朝からザワディロフ軍は正攻法に復帰した。
正攻法とはいってもその実質は損害を省みぬ力押しである。
戦力比はすでに絶対なものであり、絶え間ない消耗を強いていけばトゥルゴヴィシュテの戦闘員が消滅するまでそれほどの時を要しないであろうことは明白だったからだ。
「弩の射手!城壁の兵士を集中して狙え!弩のないものは盾をもって破城槌を守るのだ!」
身を隠す擁壁もなく全身をさらした弩兵が敵と正面から打ち合えば損害は避けられない。
しかし極端なことを言えば五人倒される間に一人倒すことが出来れば少なくともこの戦いに関してはこと足りる。
まともな戦術指揮官なら恥ずかしさのあまり裸足で逃げ出しそうなザワディロフの命令は守城側にとってはこのうえなく最悪の判断だった。
ところが確実に被害を与えているであろうにもかかわらず、トゥルゴヴィシュテの反撃はなお熾烈であり降り注ぐ矢はなお衰える気配を見せない。
「何故だ?一向に城壁の兵が減らぬわけはなんなのだ………!?」
城壁の兵士が減らぬ理由は偽装である。
あえて目立つよう露出した兵士は実は人形に鎧を着せた囮であった。
矢を浴びた囮はいったん回収したあと、矢を抜いて再び城壁に立てる。
従軍経験者の加入と相まって迎撃の兵力がなかなか衰えぬ理由はそこにあったのだ。
それだけでなく後方で治療と介護にあたる女性たちの存在も心理的な影響は大きい。
また弩は弓を引くのに力がいるが、狙いをつけ発射するのに力はいらない。
弩の弓を引くことを専門にした大工の若者たちの加入で、兵員に数倍する速度で射撃ができるようになったことも大きかった。
―――――こんなことはありえない。
ザワディロフの肥大化した自尊心は目の前の事実を到底容認できなかった。
ヴラドの敗北と破滅を説き、加勢を頼んだ同胞たる貴族たちからの反応が乏しいことも、ザワディロフの計算にはないことだった。
十字軍の兵力およそ三万、神か魔でもないかぎりわずか五千程度の兵力で抗戦できるはずがない。
―――――なのに何故そんな簡単なことがわからぬ?
我ら貴族の誇りを取り戻すための義戦に、何故手を貸そうとしないのだ?
元来軍事力こそが貴族の権力の源泉である。
ヴラドが推し進める常備軍の整備は君主が軍事力の一切を貴族に頼らぬという意思表明に他ならないのではないか。
重すぎる軍役から解放されることをいっときは歓迎したが、時を追うごとにその不安がザワディロフを苛んでいた。
その不安は決して的外れというわけではない。
ヴラドは漸次貴族の軍権を取り上げ、その教育水準を利用した官僚集団としての役割のみを貴族に対して期待しつつあった。
逆に言えば、能の無い……ザワディロフのような前封建領主的な貴族はワラキアにとって不要になろうとしていたのだ。
もしも貴族が不要な存在となり平民と同じ扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだとザワディロフは本気で考えていた。
……………何故わしの思うように行かんのだ?
懊悩するザワディロフの前でまた一人の兵士が弩の射手に射抜かれてもの言わぬ肉の塊と成り果てる。
所詮は平民の兵に同情などするザワディロフではないが、己の兵が殺されたとなればやはり怒りがこみあげてくるのを抑えることが出来なかった。
トゥルゴビシュテに攻め寄せてよりはや三日。
ヴラドが戻るようなことは万が一にもありえないだろうが、このままでは損害が想定した許容量を超えてしまう危険性が出てきた。
ザワディロフに同心した貴族が死ぬまで行動をともにしてくれるなどとは流石のザワディロフも考えてはいない。
現在のまま損害が推移すれば明日にも連れてきた兵士の三割近くが行動不能となるだろう。
ザワディロフの経験からいっても、損耗三割という数字は兵士たちの士気の分岐点であるはずであった。
「見事じゃ!褒美を取らせるゆえ見知りおくぞ!デュレル!」
「頼もしいの!マルチナ!女だとてもはや侮らせはせぬぞ!」
またあの癇に障る甲高い声が聞こえてくる。
ヘレナは律儀にも前線に出ては兵士の手柄を激賞し、後の褒美を約束して回っていた。
兵の士気を維持する手段として指揮官の大度と褒賞ほど効果的なものはない。
まして美しく健気な子供が勇気を振り絞って督戦しているのである。
これで奮いたたないほうがどうかしていた。
ヘレナが意識してそれを行っているのなら、全く末恐ろしい子供だと言える。
もっとも無意識であったほうがある意味恐ろしいものであるかもしれないが……………。
…………………そうか!
ザワディラフは内心でひそかに手を打った。
ワラキアの命運ただがひとりヴラドの肩にかかっているように
トゥルゴヴィシュテの命運はただひとりの少女の双肩にかかっているのだ。
あの生意気な小娘さえ害することが出来ればトゥルゴビシュテは陥ち、ワラキアを支配する貴族の中心に自らが立つことが出来るのだとザワディロフは信じた。
もともとはヴラドに対する反感から叛旗を翻したザワディロフではあったがもはや彼が倒すべき怨敵はヘレナ1人へと移りつつあった。
小憎らしい魔女め!…………あの異端の片割れさえこの世からいなくなれば全てはうまくいくはずなのだ!
ヘレナは開口一番トゥルゴビシュテの有力者たちに向かって言い放った。
背丈の小さな少女の思いもかけぬ迫力にいい年齢をしたはずの大人たちが思わずぐっと喉にものが詰まったかのように息を呑んだ。
「先代大公の治世に戻りたいものはおるか?」
有力者たちはお互いに顔を見合わせた。
答えなどひとつしかないに決まっていた。ヴラドがワラキアを治める前、ワラキアの経済は外国人によって独占され本来の国民であるルーマニア人たちは困窮に喘いでいた。
「………このトゥルゴヴィシュテに住まうもので先代の治世へ戻ることを願うもの、ただの一人もおりはしませぬ。我らの主君はヴラド殿下以外にはおらぬものと」
現在トゥルゴヴィシテは空前の繁栄を誇っていた。
躍進を続けるワラキアの政治の中心として、トランシルヴァニアとモルダヴィアの中心に位置する経済の扇の要として。
人口はどんどん増加し、サス人による支配から脱したルーマニア人商人たちがようやく自立した商業圏を構成しつつある。
この数年で推し進められた街道の整備によって流通量は増える一方であり、商品価値の高いワラキア商品は多大な利益をトゥルゴヴィシテにもたらしていた。
………かつてサス人・マジャル人に虐げられ、同じ国民扱いさせされなかった過去に戻りたいなど誰が考えるだろう。
「よろしい、しかしここに大公殿下の治世を覆そうとする愚か者がいる。お主たちはそれでよいのか?己が幸せを暴虐な貴族に覆され、それをやむを得ないと肯んじるのか?」
ヘレナが彼らに促している意図は明白だった。
「…………私たちにも戦え………と?」
「戦うのが必ずしも騎士である必要があろうか?人はみな己の大切なもののために戦う権利があるのだ。妾も夫のために戦うぞ?夫の留守を守るのは妻の役目であるからな。もっともあの男にもういちど逢うまで死ぬ気はさらさらないが!」
たった十二歳の少女が主張する勇敢な宣言となんともおおらかな愛の告白に思わず男たちは目を細めて微笑んだ。
ヘレナの言うとおり、愛するもののためには誰であろうと戦うのが人間の人間である矜持であるはずだった。
もとよりこの時代の商人は現代の商人と違って暴力のなんたるかを心得ている。
まして愛する者のために戦うことを厭うような男はいなかった。
しかしそんなことよりもヘレナのような可愛い子供の夢を守ってやる事こそ大人の責任というものではないか。
国家元首の妻ではあるが、気高くも幼いヘレナの意気地にうたれてごく自然に男達は決意したのである。
「手前の手代に傭兵あがりのものがおります。すぐに御前に参らせましょう」
「我が商会も力自慢の若者には不自由しておりませぬぞ。なんなりとお申し付けくださいませ」
「女達にも介助と治療にあたらせましょう。こうした人手はいくらあっても困りませんからな」
ザワディロフたち貴族軍が乱入すれば略奪と暴行が繰り広げられ公都が荒廃するのは火を見るよりも明らかだ。
彼らは国民を税をしぼりとるための道具程度にしか考えていない。
略奪がいかに経済力を削ぐか、など想像することすらかなわぬだろう。
かつては貴族に抗う術も力もなく、嵐が過ぎるのを待つように身を潜めるしかなかったが…………。
「お主たちの協力、頼もしく思うぞ。なに、褒美は期待しておくがよい。我が夫は太っ腹であるゆえな」
晴れがましいヘレナの笑顔を見ると、貴族の力など塵芥にも等しく思えてしまう。
それがなんとも快くてならなかった。
トゥルゴビシュテの建設土木をとりしきるギルドの男が、まるで孫をからかうように大仰に手を広げた。
「おうらやましい。姫君はヴラド殿下によほど惚れこんでいると見えまする」
ほとんど社交辞令に等しい言葉であったがその一言がヘレナに与えた影響は激甚だった。
「あ、や、ここ、これはだな、妻として当然の役割なのであって……いやいや妾が夫を愛していないわけではないのだが……うにゅ、はは恥ずかしいことを申すでないわ!」
真っ赤になって照れるヘレナを生温かい目で見つめた男たちは楽しそうに頷きあった。
大公殿下は幸せものだ。
かくも愛らしく、かくも聡明で、かくも勇気ある妻を得ようとしているのだから。
ザワディロフは不機嫌の極みにいた。
ヴラドという精神的支柱も精強な軍もいないトゥルゴビシュテなど鎧袖一触に占領できると考えていたのだ。
ところが城門をめぐる攻防は完全にこう着状態に陥っていた。
もともと攻城兵器の持ち合わせのないザワディロフ軍はかろうじて破城槌だけを持ち込んでいたが、破城槌に固執するあまり城壁から弩で狙撃され、いたずらに損害を重ねていたのである。
ようやく遊兵をつくる愚に気づいたころには、既に太陽は西に大きく傾きかけていた。
もっとも夜になれば戦いはこちらのものだ、という余裕があったためそれほど深刻な焦りはない。
闇に隠れてわずかでも兵を城の内部に潜入させできればそれで勝負は決まりなのだ。
しかしそうしたザワディロフの思惑が見事にはずされたことに気づくまでそれほど時間はかからなかった。
遠目にはまるで城壁が炎上しているように見えるだろう。
それほど莫大な量の油が燃やされ、夜になってなお、トゥルゴヴィシテはまるで昼のような明るさを保ち続けていた。
商人たちがヘレナに備蓄の油を提供した結果であった。
城壁の見張りにも市民から志願した者たちが笛と弩を手に巡回して回ってくれている。
鉤縄で城壁をよじ登ろうとした貴族兵士たちは各所であっさりと発見され矢や油の洗礼を浴びることとなったのだった。
また城門前には廃材が積み上げられ、破城槌で城門が破壊されても容易には侵入できないように様々な工作がなされていた。
ヘレナがヴラドに聞いた野戦築城の知識がそこには如何なく生かされていた。
落とし穴、塹壕、バリケード…………
このとき、まさしくヘレナこそはトゥルゴヴィシュテの主であり、ワラキア大公ヴラド三世の妻であった。
建前が婚約者であろうと、誰もそれを気にすることなど思いもよらない。
ヘレナは名ではなくその行動によって国母たる地位を市民に認知されたと言っても過言ではないだろう。
ザワディロフの胸中にようやく焦りと後悔、そして本人も意識してはいないが根源から迫りくる破滅への恐怖が生まれようとしていた。
翌朝からザワディロフ軍は正攻法に復帰した。
正攻法とはいってもその実質は損害を省みぬ力押しである。
戦力比はすでに絶対なものであり、絶え間ない消耗を強いていけばトゥルゴヴィシュテの戦闘員が消滅するまでそれほどの時を要しないであろうことは明白だったからだ。
「弩の射手!城壁の兵士を集中して狙え!弩のないものは盾をもって破城槌を守るのだ!」
身を隠す擁壁もなく全身をさらした弩兵が敵と正面から打ち合えば損害は避けられない。
しかし極端なことを言えば五人倒される間に一人倒すことが出来れば少なくともこの戦いに関してはこと足りる。
まともな戦術指揮官なら恥ずかしさのあまり裸足で逃げ出しそうなザワディロフの命令は守城側にとってはこのうえなく最悪の判断だった。
ところが確実に被害を与えているであろうにもかかわらず、トゥルゴヴィシュテの反撃はなお熾烈であり降り注ぐ矢はなお衰える気配を見せない。
「何故だ?一向に城壁の兵が減らぬわけはなんなのだ………!?」
城壁の兵士が減らぬ理由は偽装である。
あえて目立つよう露出した兵士は実は人形に鎧を着せた囮であった。
矢を浴びた囮はいったん回収したあと、矢を抜いて再び城壁に立てる。
従軍経験者の加入と相まって迎撃の兵力がなかなか衰えぬ理由はそこにあったのだ。
それだけでなく後方で治療と介護にあたる女性たちの存在も心理的な影響は大きい。
また弩は弓を引くのに力がいるが、狙いをつけ発射するのに力はいらない。
弩の弓を引くことを専門にした大工の若者たちの加入で、兵員に数倍する速度で射撃ができるようになったことも大きかった。
―――――こんなことはありえない。
ザワディロフの肥大化した自尊心は目の前の事実を到底容認できなかった。
ヴラドの敗北と破滅を説き、加勢を頼んだ同胞たる貴族たちからの反応が乏しいことも、ザワディロフの計算にはないことだった。
十字軍の兵力およそ三万、神か魔でもないかぎりわずか五千程度の兵力で抗戦できるはずがない。
―――――なのに何故そんな簡単なことがわからぬ?
我ら貴族の誇りを取り戻すための義戦に、何故手を貸そうとしないのだ?
元来軍事力こそが貴族の権力の源泉である。
ヴラドが推し進める常備軍の整備は君主が軍事力の一切を貴族に頼らぬという意思表明に他ならないのではないか。
重すぎる軍役から解放されることをいっときは歓迎したが、時を追うごとにその不安がザワディロフを苛んでいた。
その不安は決して的外れというわけではない。
ヴラドは漸次貴族の軍権を取り上げ、その教育水準を利用した官僚集団としての役割のみを貴族に対して期待しつつあった。
逆に言えば、能の無い……ザワディロフのような前封建領主的な貴族はワラキアにとって不要になろうとしていたのだ。
もしも貴族が不要な存在となり平民と同じ扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだとザワディロフは本気で考えていた。
……………何故わしの思うように行かんのだ?
懊悩するザワディロフの前でまた一人の兵士が弩の射手に射抜かれてもの言わぬ肉の塊と成り果てる。
所詮は平民の兵に同情などするザワディロフではないが、己の兵が殺されたとなればやはり怒りがこみあげてくるのを抑えることが出来なかった。
トゥルゴビシュテに攻め寄せてよりはや三日。
ヴラドが戻るようなことは万が一にもありえないだろうが、このままでは損害が想定した許容量を超えてしまう危険性が出てきた。
ザワディロフに同心した貴族が死ぬまで行動をともにしてくれるなどとは流石のザワディロフも考えてはいない。
現在のまま損害が推移すれば明日にも連れてきた兵士の三割近くが行動不能となるだろう。
ザワディロフの経験からいっても、損耗三割という数字は兵士たちの士気の分岐点であるはずであった。
「見事じゃ!褒美を取らせるゆえ見知りおくぞ!デュレル!」
「頼もしいの!マルチナ!女だとてもはや侮らせはせぬぞ!」
またあの癇に障る甲高い声が聞こえてくる。
ヘレナは律儀にも前線に出ては兵士の手柄を激賞し、後の褒美を約束して回っていた。
兵の士気を維持する手段として指揮官の大度と褒賞ほど効果的なものはない。
まして美しく健気な子供が勇気を振り絞って督戦しているのである。
これで奮いたたないほうがどうかしていた。
ヘレナが意識してそれを行っているのなら、全く末恐ろしい子供だと言える。
もっとも無意識であったほうがある意味恐ろしいものであるかもしれないが……………。
…………………そうか!
ザワディラフは内心でひそかに手を打った。
ワラキアの命運ただがひとりヴラドの肩にかかっているように
トゥルゴヴィシュテの命運はただひとりの少女の双肩にかかっているのだ。
あの生意気な小娘さえ害することが出来ればトゥルゴビシュテは陥ち、ワラキアを支配する貴族の中心に自らが立つことが出来るのだとザワディロフは信じた。
もともとはヴラドに対する反感から叛旗を翻したザワディロフではあったがもはや彼が倒すべき怨敵はヘレナ1人へと移りつつあった。
小憎らしい魔女め!…………あの異端の片割れさえこの世からいなくなれば全てはうまくいくはずなのだ!
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