彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版

高見 梁川

第三十七話 少女の戦いその1

 ヴラドを見送ったヘレナはぼんやりとテラスから西の方角を見つめていた。
 こんな旨にぽっかりと穴が開いてしまったような寂寥感を感じるのはヘレナにとっても初めてのことであった。
 自分の才が認められないことへの虚無感やローマの置かれた絶望的な状況に対する無力感を感じたことはあるが、いったい何に自分はこんなに飢えているのかヘレナにはわからなかった。
 ――――いや、本当はヴラドがいないことが原因なのだとわかっている。ただそれを言葉で表現できるだけの明確な感情をヘレナはまだ認識出来ずにいたのである。


 「ううっ………姫様もご成長されて………」


 カーテン越しに気配を消した侍女のサレスが熱っぽいため息とともに夫の出征した方角を見つめ続けるヘレナの様子に満足そうに頷いているのは御愛嬌か。


 「つまらぬ……汝がおらんとつまらなくてならぬぞ、我が君」


 父や叔父とも違う距離感。
 帝国の血を気にする必要のない気の置けぬ男。
 年端もいかぬ少女の政治的才能を、いささかの迷いもなく丸呑みする器。
 そのどれもがヘレナが喉から手が出るほど欲してやまぬものだった。
 だが今ヘレナが求めている飢餓感はそれとは違う。
 同衾してベッドに入るときのヴラドの何とも言えぬ男くさい体臭であったり、膝の上に乗ったときの細身ながら鍛えられた厚い胸板であったり、少々複雑そうな顔をしながらも大切にしてくれていることが伝わってくるような優しいキスが、もうずいぶん過去のものに思われて切なく胸を騒がせるのだ。


 「早く妾のもとに帰ってきてくれ、ヴラド………」


 何気なく口にしてからヘレナは沸き立った釜のように首筋まで真っ赤に染まってかぶりを振った。
 長い黄金の髪がブンブンと振られるたびにそのたびにキラキラと放射状の光を撒き散らしす。
 言葉にならない悶絶の悲鳴をあげてヘレナは羞恥を振り切るように荒いため息とついた。


 「ま、まさか名前を呼ぶのがこんなに恥ずかしいものだとは………」


 サレスからここぞと言う時に上目使いで名前を呼んでやれば落ちぬ男はいない、と言われていたがこれは予想していた以上に勇気と精神力を必要とするものらしかった。
 少なくとも今のヘレナにこれをヴラドと面と向かって告げる自信はない。
 どうしてこんな気持ちになるものか。
 相手がたとえローマ皇帝であろうと微塵も臆せず、識見と度量で勝負する覚悟のあるヘレナであった。
 自分の才覚を存分に振るえるパートナーが欲しいと思ったことはあるが、傍にいて欲しい、抱きしめて優しいキスをして欲しいと思った相手はいない。強いて言えば側近のサレスがそうであったが、羊水の中に帰ったような安心感と気持ちの落ち着く甘い体臭のサレスとは違い、ヴラドに抱きしめられれば心臓は激しく鼓動を打ち体温は上がって、幸せなのにむしょうに悶えたくなるような恥ずかしさを感じる。
 本人だけが気づいていないが誰がどこから見ても恋煩いの真っ最中のヘレナであった。


 「…………なんだ?あれは…………」


 そんな状態でも異変を感じれば決して見過ごさないのはヘレナ天性のものかはたまたローマの血のなせるわざか。
 砂塵をあげて近づく軍勢にヘレナの皮膚感覚とも言える危機感がザワリと神経を逆なでしていく不快感を察知した。


 「この時期に首都を辺境貴族が兵を伴って訪れる………か。全く悪い予感しかせぬわ」


 ヴラドに贈られた望遠鏡を手に取りヘレナは迫りくるその軍勢の紋章を確認する。
 赤地に白い騎士の紋章
 それは公国東部に位置するかつてヴラドに与するをよしとしなかった中立派の大物ザワディロフの紋章であった。


 「サレス!」
 「御前に」


 やっぱり覗いていたか、とはヘレナは言わない。
 この風変わりな侍女が自分を置いてどこかに行くはずがないという確信じみたものがヘレナにそんな違和感を抱かせなかった。


 「謀反人どもがやってくるぞ!城門を決して開けさせるな!使えるだけの兵を全て集めて城壁に並べろ!それと……街の顔役を集めさせよ、妾が直々に面会する。妾おるかぎり有象無象どもがこの都を手にいれようなどおこがましいにもほどがあるわ!」


 状況は決して楽観できるものではない。
 楽観どころかむしろ考えるかぎり最悪に近いものでまともな人間なら迷わず逃亡を選択するところであろう。
 しかしそれではヴラドの妻としての自分の立場がない。
 あの歴史を揺るがすであろう万能の男に並び立つパートナーとして自分が相応しいということを証明してみせる。
 可愛らしい人形のような表情に闘志をみなぎらせてヘレナは不敵に笑った。






 「開門せよ!わが名はザワディロフ!早くせぬと殿下よりお叱りを賜ることになろうぞ!」


 ヴラドという強力な決定権者がいなくなった今、門番ごときにまともな判断などできまい、とザワディロフは内心でたかをくくっていた。
 しかしその思惑は鈴が鳴るような少女の美声によってさえぎられることになる。


 「先触れもないままの突然の来訪、何故をもってのことか?ザワディロフ」


 仕立てのいいドレスを纏った金髪の少女らしき姿が城門の上に見て取ることが出来た。どこの貴族の子弟かはわからぬが女子供が大人の事情に口を出すなどあってはならぬことだ。
 憤懣も露わにザワディロフは怒鳴りつける。


 「身分をわきまえよ!餓鬼の口出すことではないわ!」
 「………身分をわきまえるのは貴様じゃザワディロフ。ワラキワの田舎領主ごときがローマ皇帝家の血を引く妾に身分を説くとは片腹痛いわ!」
 「なっ…………!」


 このときになって初めてザワディロフは少女がローマからやってきた王女ヘレナ・パレオロギナであるという事実に気づいたのだった。
 たちまちザワディロフは想定外の事態に口をどもらせ目に見えて委縮した。ローマという輝かしすぎるブランドを前にしては一介の土豪にすぎないザワディロフなど爪の垢程度の価値すらないのはさすがに常識として理解していた。


 「こ、これは殿下直々の返答を賜るとは光栄の至り。このザワディロフ首都を不逞の輩が襲うという情報に接し殿下をお守りしようと駆け付けた次第にて」
 「ほう、それでその不逞の輩とやらはどこにおる?その情報を誰から仕入れた?どれほどの規模で誰の指図を受けて動いているのだ?答えよザワディロフ!」
 「ううっ………」


 もともと勢いに任せて門番の衛兵を説得するだけだと思っていたザワディロフに整合性のなる詳細な返答などできようはずもなかった。


 (ことここにいたってはやむを得ぬか)


 すでに賽は投げられたのだ。
 ここで引き返したとしても完全に疑われている以上ヴラドの一党から目をつけられるのは確実であった。ならばここで計画を中止するメリットは無きに等しい。


 「―――――おとなしく城門を開けトゥルゴビシュテを引き渡せ。そうすれば命ばかりは助けてやるぞ」


 当人にとっては可能な限りの凄みを聞かせたつもりの台詞であったが、その台詞はヘレナになんの感銘ももたらさなかった。


 「田舎者らしいなんともつまらぬ芸のない台詞じゃな。妾と我が君に逆らうということがどういうことか想像もできぬ低能に期待するだけ無理というものか」


 ヘレナはどこまでも辛らつに言い放ってザワディロフの要求をにべもなく拒絶した。
 全く反論できない事実であるだけにザワディロフの怒りは拳をあげる場所を求めて荒れ狂った。


 「この生意気な餓鬼め!思い知らせてくれるぞ!」
 「そんな無駄な事より死後に神へどう詫びるか考えておいたほうがよかろうよ」


 どこまでも人を食ったヘレナの言葉にザワディロフは激昂して剣を振り下ろした。


 「ものども!かかれ!あの糞餓鬼を血祭りにあげよ!」






 ザワディロフの率いてきた軍勢は一族郎党を合わせておよそ八百名というところだろうか。これに対するトゥルゴヴィシテの兵力はどう頑張っても百名に届かない。十字軍より兵力が劣勢であるうえに分進合撃によってこちらも兵力を分散させられたことが響いていた。
 この人数では城壁の全周を完全に守備することは難しい。
 そのためヘレナは攻撃を一か所に集中させることで兵力の差を補おうとしたのである。


 ―――――負けぬ。妾は負けはせぬ!再び我が君に相まみえるまでは!
 震える膝を叱咤してヘレナは歯を食いしばった。
 今日はハンガリーを明日はオスマンを敵に回そうというヴラドの苦難に比べればこの程度の敵を退けずしてヴラドの妻が名乗れようか!
 それはヘレナの生来の矜持の発露であると同時に、恋する男に認められたいという乙女の埒もない恋心であることにヘレナはまだ気づかずにいた。


 「………我が君の勝利まで妾もやるべきことをやるだけだ」


 ヘレナ自身はヴラドの勝利を欠片も疑っていないが、国内に残留した貴族がヴラドとヤーノシュの勝負の行方を固唾をのんで見守っているのは確実だった。
 もしヘレナがヴラドの敵であれば持ちうる限りの資金と人材を投入してヴラドが敗北したという噂を国内中に流すだろう。それでいくつかの貴族が暴発するだけでヴラドは背後を脅かされる。
 長期戦になった場合、ザワディロフ以外の貴族が暴発する危険性は加速度的に高まっていく。


 (まあ、もっともそのくらいがわからぬ我が君ではないのだが)


 あえてヴラドが攻勢防御をとったのは短期決戦で決着をつけるためだということをヘレナは承知していた。


 「腕木の報せを見逃すなよ。我が君が勝つまでそう長くはかからぬはずじゃ」


 腕木通信の特性上夜の通信が制限されるとはいえ勝利した2日後には報せが届くはずであった。
 味方が勝利したとなればザワディロフ本人は別として仲間の貴族は動揺するであろうし、愚かな真似に及ぶ貴族たちもいなくなるであろう。


 「見ていてくれ、我が君――――――」


 そしてあの大きな瞳を細めて笑って欲しい。
 抱き上げてキスをして、その大きな胸板に顔を埋めさせてほしい。
 それだけでいくらでも自分は頑張れる気がする。
 初めての実戦指揮で才覚を振るう高揚も存在するが、今はそれよりもヴラドとの絆が大切になっている自分がいた。




 「………殿下、トゥルゴヴィシテの主な面々が集まっております」
 「うむ、通せ」


 この劣勢下でトゥルゴヴィシテを守りきるためには彼らの協力が不可欠だ。戦いは何も兵士の数だけで決まるわけではないことをあの馬鹿に教えてやる。
 静かな闘志を燃やしてヘレナは彼らの待つ広場に向かって身をひるがえした。
 その決然とした眼差しと美しい身こなしと何より恐るべき神算鬼謀に誰が呼ぶともなく、串刺し公の花嫁と呼んだ。









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