彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第三十一話 クロスクルセイドその1
対立教皇フェリクス5世が発した十字軍の発動は欧州の各国に衝撃をもって迎えられた。
しかし百年戦争の真っ最中であるイングランドとフランスに応じる力があるはずもなく、同様に百年戦争の代理戦争で国土を荒廃させたカスティリヤ=レオン王国やアラゴン王国も参戦を拒否。かろうじて神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世は形だけは出兵に応じたものの、派遣された兵力はわずか600に留まった。
もっともそれはラディスラウスを共同統治者に戴くフリードリヒ3世にとっては十分に奮発したつもりなのかもしれなかったが。
お世辞にもこの当時の神聖ローマ帝国の権力基盤は強いものとは言えず、フリードリヒ3世の晩年にはマーチャーシュ1世にウィーンを占領され首都を追放されるという屈辱を味合わなくてはならなかった。
にもかかわらずフリードリヒ3世がハプスブルグ家の興隆の基礎を築けたのは、その優れた婚姻政策と、何よりも敵対君主が次々と都合よく死亡するという奇蹟的な運の良さに負うところが大きい。
最後の騎士王ことマクシミリアン1世は彼の息子にあたる。
結局十字軍の数的主力はハンガリー王国軍と聖ヨハネ騎士団をはじめとする教会騎士団にとどまった。
ワラキアにとって幸いなことにポーランド王国は犬猿の関係にあるドイツ騎士団が参戦していることもあり、今回は参戦を見送っていた。
それでも十分にワラキアのような小国の手に余る事態ではあったが、希望もないわけではなかった。
コンスタンティノポリスの正教会総大主教が俺を大司教に任命することを通達してきたのだ。
「――――我が君、仮に総大主教の祝福を得られたとしても異端として認定されたことの動揺を抑えるには足りないと思わぬか?」
ヘレナが相変わらず俺の膝の上に陣取りながら気難しげに首をひねる。
姿が可愛らしくて思わず口元が緩みそうになるが、政治的にいってヘレナの洞察は完全に正しかった。
「かといって俺が敬虔な正教徒であると猊下にお認め頂く以外に何かいい手はあるか?」
魔女狩りがごく身近にあった時代である。
教会に異端であると認定されるということはキリスト教世界においてはお前は人間ではないと言われたに等しい。
いかに正教会ではないカトリックが相手とはいえ兵の動揺は大きいものになることは避けられないと思われた。
「そこで妾がヨセフのお爺に話を通してやろうと思うてな。あれでなかなか老獪で正教を守るためには叔父上にも平気で逆らう御方じゃ。とりあえず我が君にはワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアを統括する大司教の地位についていただこうと思うのじゃが」
そんなことが可能なのか、と俺は驚きもあらわにヘレナを見た。
してやったりというように悪戯っぽく自慢げな笑みを浮かべるヘレナを思わず抱きしめる。
俺には総大主教猊下の性格はさすがに知りうるべくもないし、そもそも自分が僧籍に身を置くという発想自体がなかったからだ。
考えてみれば君主が大主教を兼務するのは確かにごく稀なことではあるが、かつて全く例がないことでもない。
東欧に冠たる大主教に就任することがもたらす宗教的権威は、一介の勅命ひとつとは比べ物にならぬほど巨大なものであるはずだった。
心の底から思う。よくぞこの少女を我が伴侶にしてくれた!
「ヘレナの英慮にはいつも驚かされるけど、今回はとびきりだな」
「ふっふっ存分に感謝するがよい!妾はご褒美を要求するぞ!?」
そう言って唇を突きだすヘレナの幼い仕草が提案された神算鬼謀と激しくアンバランスであるが、それこそがこの少女の魅力の一つなのだろう。
俺はヘレナの小さな頭を引き寄せるとその愛らしい唇を吸った。
「んぐっ?」
唇を重ねた瞬間に感じた違和感に情けない鼻息が漏れる。
ま、まさかこの温かく這いまわる代物は……し、舌ぁ!?
「んん………どうじゃ?我が君?」
恥ずかしそうに頬を上気させながら口腔内を舐めまわしたヘレナが得意そうに鼻をひくつかせた。
「――――――誰に教わった?」
「うん?サレスに聞いたのじゃが、殿方はこうされると喜ぶのであろ?」
そうか、元凶はあのメイドか!
「喜ぶか喜ばないかと言われれば喜ぶんだへど………ヘレナはとりあえずあと3年待とうね?」
「うにゅっ!子供扱いはいやと言ったぞ!我が君!」
「――――子供扱いなんてしないさ。でもこういうことは正式に結婚してからにしようね?」
――――まずはあのメイドにヘレナの情操教育について小一時間問い詰める必要があるな!切実に!
まだ整備の途上であるワラキアの常備軍はわずか三千にすぎない。現在訓練中の増員兵二千名は戦力化するには練度が足りなすぎた。
さらにヴラドに協力的な諸侯の兵が二千ほどを加えた五千名がワラキアの動員兵力の全てである。
対する十字軍の総兵力は乾坤一擲に投入されたハンガリー全軍を含めおよそ三万名に達しようとしていた。
「こりゃ手荒くしんどそうですねぇ、シェフ殿」
「戦なんざどこでもたいがいはしんどいもんだったろうがよ」
「そりゃまぁ、そうなんですがね」
ゲクランが傭兵団を立ち上げたときからの古参であるレーブは今度ばかりはワラキア軍も危ないと感じていた。
確かにワラキア公の改革と見識は素晴らしいものがあるがいくらなんでも今回の数的劣勢を覆すのは不可能に思われたのである。
もともとが傭兵であるレーブは負け戦に下手にこだわるのは死を招くだけだと知っている。
負け戦となれば真っ先に逃げ出すのはいつの時代も傭兵だ。
彼らのほとんどは金のために戦うことはあってもその金のために自ら死を選ぼうなどとは考えない。
ゲクランの指示があるならばレーブはワラキア公には悪いがこのまま逃亡するのもやむを得ないかとごく自然に思考しており、当然ゲクランもそれを承知していると思っていた。
「………なあ、覚えてるか?俺たちが旗揚げしたあの日を」
珍しく湿っぽい声で呟くゲクランの背中を見ながらレーブはもはや数十年が経過した遥か遠い記憶に思いを馳せた。
「忘れられるはずがありませんや。シェフ殿が領主の息子にこっぴどく折檻したってんで慌てて逃げるように飛び出しましたっけ」
………あれはもう何年前になるだろうか。
若いころから粗暴な腕自慢として有名だったゲクランは、村の子分の恋人に手を出そうとした領主の息子の顔を鼻が折れるほど殴りつけてそのまま子分を引き連れて逃走した。
故郷を捨てた根なし草の彼らが生活していくためには方法は2種類しかなかった。
すなわち山賊になるか傭兵になるか、である。
ゲクランが傭兵を選択したのは傭兵ならば戦功次第では出世の道が開けることもあるというごく打算的な目論見があったからだが、生まれつきの天性があったものか、ゲクランの傭兵団は行く先々の戦場でしばしば大きな手柄を立てていった。
ゲクラン率いる手長団と言えば傭兵の中でも精鋭として各所で重宝されたほどであった。
しかしどれほど手柄を立てようとゲクランが騎士として登用されることはなかった。
それどころか報奨もそこそこに激戦区に投入されることが多くなり、団の損耗も無視できぬものになっていったのである。
結局傭兵などいくらでも替えのきく駒にすぎず、貴族たちにとって戦が終われば邪魔になる傭兵を使いつぶしてしまうことは戦後を見据えた当然の方策ですらあった。
「あんとき俺は言ったよなぁ。俺たちゃ故郷を捨てて一旗あげるんだって」
「まあ、今考えりゃ若かったでさあね」
敵兵を殺すだけで運がよけりゃ一国一城の主も夢じゃないなんて今じゃとてもとても考えられんよ、若え、若え………。
「そうじゃねえ、そうじぇねえんだ。本当はわかってたんだ。俺達は故郷を捨てるんじゃねえ、捨てられるんだって」
「シェフ殿…………」
まるでゲクランの巨体がふたまわりも小さくなってしまったような頼りなさを感じてレーブは目を剥いた。思春期以来の長い付き合いの中でもこんなゲクランを見るのは初めての経験であった。
「………お前ぇ信じられるか?俺が殴ったあの領主のバカ息子、実は俺の義弟だったんだぜ?嫡子も生まれねえうちに下女だったお袋が孕んだってんで領主は口止め料を渡してその日のうちに屋敷から叩きだしたらしいんだけどよ」
ようやくレーブはゲクランがはつて荒れていた理由に思いあたった。
そして手に職も畑ももたないゲクランがなぜか食うに困らぬ生活を送っていたわけも。
幼い少年ゲクランにとって無法こそが自分を見てほしいという慟哭であり、暴力こそが自分を見捨てた父に対する抵抗であったのだ。
「傭兵になった後もよぅ。みぃんなどいつもこいつもが俺たちを捨てていった。そりゃ俺達も忠誠を尽くすなんて柄じゃなかったが、それでも給金分の働きはしてきたはずだ。いったいあの地獄の戦場で何度死にかけた?あげく休戦するために敵とグルで邪魔な傭兵をハメやがった!チェニスもガルドもみんな死んじまった!奴らも俺達を捨てやがったんだ!」
セルビア軍に雇われていたゲクラン達は戦果をあげすぎたためにオスマンとの休戦にあたって生贄として差し出されたのである。
ヴラドがゲクランを助け出したとき、傭兵団の半数がすでに処刑されていた。
この世界全てを破滅させたいようなやるせない赫怒をレーブは今でも忘れていない。いや、忘れられるはずがなかった。
「でもよ、殿下は俺を命がけで拾ってくれたんだよ。生まれたときからずっと捨てられどうしだった俺を拾って、俺が必要だって言ってくれたんだ。だからよ、殿下を捨てるのは俺には無理だよレーブ。だってここで殿下を捨てたら俺達を捨てた奴らを笑えねえじゃねえか」
ゲクランが見かけよりずっと繊細で優しい男であることを知っているレーブはこうなったらゲクランが死ぬまでヴラドのために戦いぬくであろうことを容易に想像することができた。
ならば自分も命果てるまでつき従うだけだとレーブはあっさりと思い定めた。
それが鉄の結束の傭兵、手長団の生き残りたるの矜持であるはずだった。
「それによう。俺はここで負けるなんざこれっぽっちも思っちゃいねえよ。殿下はいざとなったらあの神に仕える気違いどもよりよっぽど残酷で容赦のないお人だからよ」
「シェフ殿の予想が当たるとこりゃあえらいことになりますぜ?下手をすると若いときの夢が現実になっちまうかも?」
東欧の雄ハンガリー王国の総力をはねのけてその戦力を吸収したとなればワラキアは東欧世界に唯一といってよい超大国に成りあがるであろう。
ゲクランはそのワラキア公国軍の中核なのである。
一国一城の主の座も夢どころか十分に現実的な話であった。
「夢を見れるってことは大事なことだぜ?俺ぐれえの年齢になると特にな」
「違えねえ」
ようやくゲクランとレーブに歴戦の傭兵らしい不敵な笑みが戻ろうとしていた。
しかし百年戦争の真っ最中であるイングランドとフランスに応じる力があるはずもなく、同様に百年戦争の代理戦争で国土を荒廃させたカスティリヤ=レオン王国やアラゴン王国も参戦を拒否。かろうじて神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ3世は形だけは出兵に応じたものの、派遣された兵力はわずか600に留まった。
もっともそれはラディスラウスを共同統治者に戴くフリードリヒ3世にとっては十分に奮発したつもりなのかもしれなかったが。
お世辞にもこの当時の神聖ローマ帝国の権力基盤は強いものとは言えず、フリードリヒ3世の晩年にはマーチャーシュ1世にウィーンを占領され首都を追放されるという屈辱を味合わなくてはならなかった。
にもかかわらずフリードリヒ3世がハプスブルグ家の興隆の基礎を築けたのは、その優れた婚姻政策と、何よりも敵対君主が次々と都合よく死亡するという奇蹟的な運の良さに負うところが大きい。
最後の騎士王ことマクシミリアン1世は彼の息子にあたる。
結局十字軍の数的主力はハンガリー王国軍と聖ヨハネ騎士団をはじめとする教会騎士団にとどまった。
ワラキアにとって幸いなことにポーランド王国は犬猿の関係にあるドイツ騎士団が参戦していることもあり、今回は参戦を見送っていた。
それでも十分にワラキアのような小国の手に余る事態ではあったが、希望もないわけではなかった。
コンスタンティノポリスの正教会総大主教が俺を大司教に任命することを通達してきたのだ。
「――――我が君、仮に総大主教の祝福を得られたとしても異端として認定されたことの動揺を抑えるには足りないと思わぬか?」
ヘレナが相変わらず俺の膝の上に陣取りながら気難しげに首をひねる。
姿が可愛らしくて思わず口元が緩みそうになるが、政治的にいってヘレナの洞察は完全に正しかった。
「かといって俺が敬虔な正教徒であると猊下にお認め頂く以外に何かいい手はあるか?」
魔女狩りがごく身近にあった時代である。
教会に異端であると認定されるということはキリスト教世界においてはお前は人間ではないと言われたに等しい。
いかに正教会ではないカトリックが相手とはいえ兵の動揺は大きいものになることは避けられないと思われた。
「そこで妾がヨセフのお爺に話を通してやろうと思うてな。あれでなかなか老獪で正教を守るためには叔父上にも平気で逆らう御方じゃ。とりあえず我が君にはワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアを統括する大司教の地位についていただこうと思うのじゃが」
そんなことが可能なのか、と俺は驚きもあらわにヘレナを見た。
してやったりというように悪戯っぽく自慢げな笑みを浮かべるヘレナを思わず抱きしめる。
俺には総大主教猊下の性格はさすがに知りうるべくもないし、そもそも自分が僧籍に身を置くという発想自体がなかったからだ。
考えてみれば君主が大主教を兼務するのは確かにごく稀なことではあるが、かつて全く例がないことでもない。
東欧に冠たる大主教に就任することがもたらす宗教的権威は、一介の勅命ひとつとは比べ物にならぬほど巨大なものであるはずだった。
心の底から思う。よくぞこの少女を我が伴侶にしてくれた!
「ヘレナの英慮にはいつも驚かされるけど、今回はとびきりだな」
「ふっふっ存分に感謝するがよい!妾はご褒美を要求するぞ!?」
そう言って唇を突きだすヘレナの幼い仕草が提案された神算鬼謀と激しくアンバランスであるが、それこそがこの少女の魅力の一つなのだろう。
俺はヘレナの小さな頭を引き寄せるとその愛らしい唇を吸った。
「んぐっ?」
唇を重ねた瞬間に感じた違和感に情けない鼻息が漏れる。
ま、まさかこの温かく這いまわる代物は……し、舌ぁ!?
「んん………どうじゃ?我が君?」
恥ずかしそうに頬を上気させながら口腔内を舐めまわしたヘレナが得意そうに鼻をひくつかせた。
「――――――誰に教わった?」
「うん?サレスに聞いたのじゃが、殿方はこうされると喜ぶのであろ?」
そうか、元凶はあのメイドか!
「喜ぶか喜ばないかと言われれば喜ぶんだへど………ヘレナはとりあえずあと3年待とうね?」
「うにゅっ!子供扱いはいやと言ったぞ!我が君!」
「――――子供扱いなんてしないさ。でもこういうことは正式に結婚してからにしようね?」
――――まずはあのメイドにヘレナの情操教育について小一時間問い詰める必要があるな!切実に!
まだ整備の途上であるワラキアの常備軍はわずか三千にすぎない。現在訓練中の増員兵二千名は戦力化するには練度が足りなすぎた。
さらにヴラドに協力的な諸侯の兵が二千ほどを加えた五千名がワラキアの動員兵力の全てである。
対する十字軍の総兵力は乾坤一擲に投入されたハンガリー全軍を含めおよそ三万名に達しようとしていた。
「こりゃ手荒くしんどそうですねぇ、シェフ殿」
「戦なんざどこでもたいがいはしんどいもんだったろうがよ」
「そりゃまぁ、そうなんですがね」
ゲクランが傭兵団を立ち上げたときからの古参であるレーブは今度ばかりはワラキア軍も危ないと感じていた。
確かにワラキア公の改革と見識は素晴らしいものがあるがいくらなんでも今回の数的劣勢を覆すのは不可能に思われたのである。
もともとが傭兵であるレーブは負け戦に下手にこだわるのは死を招くだけだと知っている。
負け戦となれば真っ先に逃げ出すのはいつの時代も傭兵だ。
彼らのほとんどは金のために戦うことはあってもその金のために自ら死を選ぼうなどとは考えない。
ゲクランの指示があるならばレーブはワラキア公には悪いがこのまま逃亡するのもやむを得ないかとごく自然に思考しており、当然ゲクランもそれを承知していると思っていた。
「………なあ、覚えてるか?俺たちが旗揚げしたあの日を」
珍しく湿っぽい声で呟くゲクランの背中を見ながらレーブはもはや数十年が経過した遥か遠い記憶に思いを馳せた。
「忘れられるはずがありませんや。シェフ殿が領主の息子にこっぴどく折檻したってんで慌てて逃げるように飛び出しましたっけ」
………あれはもう何年前になるだろうか。
若いころから粗暴な腕自慢として有名だったゲクランは、村の子分の恋人に手を出そうとした領主の息子の顔を鼻が折れるほど殴りつけてそのまま子分を引き連れて逃走した。
故郷を捨てた根なし草の彼らが生活していくためには方法は2種類しかなかった。
すなわち山賊になるか傭兵になるか、である。
ゲクランが傭兵を選択したのは傭兵ならば戦功次第では出世の道が開けることもあるというごく打算的な目論見があったからだが、生まれつきの天性があったものか、ゲクランの傭兵団は行く先々の戦場でしばしば大きな手柄を立てていった。
ゲクラン率いる手長団と言えば傭兵の中でも精鋭として各所で重宝されたほどであった。
しかしどれほど手柄を立てようとゲクランが騎士として登用されることはなかった。
それどころか報奨もそこそこに激戦区に投入されることが多くなり、団の損耗も無視できぬものになっていったのである。
結局傭兵などいくらでも替えのきく駒にすぎず、貴族たちにとって戦が終われば邪魔になる傭兵を使いつぶしてしまうことは戦後を見据えた当然の方策ですらあった。
「あんとき俺は言ったよなぁ。俺たちゃ故郷を捨てて一旗あげるんだって」
「まあ、今考えりゃ若かったでさあね」
敵兵を殺すだけで運がよけりゃ一国一城の主も夢じゃないなんて今じゃとてもとても考えられんよ、若え、若え………。
「そうじゃねえ、そうじぇねえんだ。本当はわかってたんだ。俺達は故郷を捨てるんじゃねえ、捨てられるんだって」
「シェフ殿…………」
まるでゲクランの巨体がふたまわりも小さくなってしまったような頼りなさを感じてレーブは目を剥いた。思春期以来の長い付き合いの中でもこんなゲクランを見るのは初めての経験であった。
「………お前ぇ信じられるか?俺が殴ったあの領主のバカ息子、実は俺の義弟だったんだぜ?嫡子も生まれねえうちに下女だったお袋が孕んだってんで領主は口止め料を渡してその日のうちに屋敷から叩きだしたらしいんだけどよ」
ようやくレーブはゲクランがはつて荒れていた理由に思いあたった。
そして手に職も畑ももたないゲクランがなぜか食うに困らぬ生活を送っていたわけも。
幼い少年ゲクランにとって無法こそが自分を見てほしいという慟哭であり、暴力こそが自分を見捨てた父に対する抵抗であったのだ。
「傭兵になった後もよぅ。みぃんなどいつもこいつもが俺たちを捨てていった。そりゃ俺達も忠誠を尽くすなんて柄じゃなかったが、それでも給金分の働きはしてきたはずだ。いったいあの地獄の戦場で何度死にかけた?あげく休戦するために敵とグルで邪魔な傭兵をハメやがった!チェニスもガルドもみんな死んじまった!奴らも俺達を捨てやがったんだ!」
セルビア軍に雇われていたゲクラン達は戦果をあげすぎたためにオスマンとの休戦にあたって生贄として差し出されたのである。
ヴラドがゲクランを助け出したとき、傭兵団の半数がすでに処刑されていた。
この世界全てを破滅させたいようなやるせない赫怒をレーブは今でも忘れていない。いや、忘れられるはずがなかった。
「でもよ、殿下は俺を命がけで拾ってくれたんだよ。生まれたときからずっと捨てられどうしだった俺を拾って、俺が必要だって言ってくれたんだ。だからよ、殿下を捨てるのは俺には無理だよレーブ。だってここで殿下を捨てたら俺達を捨てた奴らを笑えねえじゃねえか」
ゲクランが見かけよりずっと繊細で優しい男であることを知っているレーブはこうなったらゲクランが死ぬまでヴラドのために戦いぬくであろうことを容易に想像することができた。
ならば自分も命果てるまでつき従うだけだとレーブはあっさりと思い定めた。
それが鉄の結束の傭兵、手長団の生き残りたるの矜持であるはずだった。
「それによう。俺はここで負けるなんざこれっぽっちも思っちゃいねえよ。殿下はいざとなったらあの神に仕える気違いどもよりよっぽど残酷で容赦のないお人だからよ」
「シェフ殿の予想が当たるとこりゃあえらいことになりますぜ?下手をすると若いときの夢が現実になっちまうかも?」
東欧の雄ハンガリー王国の総力をはねのけてその戦力を吸収したとなればワラキアは東欧世界に唯一といってよい超大国に成りあがるであろう。
ゲクランはそのワラキア公国軍の中核なのである。
一国一城の主の座も夢どころか十分に現実的な話であった。
「夢を見れるってことは大事なことだぜ?俺ぐれえの年齢になると特にな」
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