彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版

高見 梁川

第二十七話 ドラキュラの花嫁その6

 「驚いたな。小さくともローマの姫は伊達ではない、か」
 「小さいは余計じゃ!」


 冷徹な政治家然とした不敵な笑みを、今度は年頃の娘らしい憤然としたものに変えてヘレナが声を荒げる。
 そのころころと変わるアンバランスな表情が可愛らしくもあり、恐ろしくもあった。果たしてこの娘の本性はいったいどちらなのだろうか?
 しばらく拗ねたように頬を膨らませていたヘレナだが、何か気持ちの変化があったのだろうか、ふにゃりと顔を蕩けさせてポスリと小さな頭を俺の胸にもたれさせた。


 「―――――子供扱いされるのは納得がゆかぬが、やはり我が君は妾の見込んだとおりの御仁であった」


 「見込まれていたのかい?私は」


 「うむ、世界広しといえど今の妾を見てあるがままに受け止めてくれるのは我が君以外にあるまい」


 女性の地位の低い時代である。
 厳密にいえば家庭内における女性の地位は決して低くはなかったが、こと政治、外交、公職における地位は最低に近いものがあった。
 ゆえにヘレナの卓越した政治感覚はローマ帝国にとって全くの邪魔者でしか認識されなかったのである。
 女性に必要なものは容姿と気品となにより血筋を残してくれる能力であると信じられていた。
 父ソマスが娘を溺愛していながらも、政治に関心を向ける娘に対しては頑固なまでに保守的な人間であったことをヘレナは昨日のように覚えていた。


 「―――妾は自由でありたいのだ。我が君。流されるままに女という道具に堕ちて人生を生きたいとは思わない。愛する男くらい自分で決めたいし、妾に力があるのならそれを発揮する立場を得ることにためらうつもりはない。うぬぼれてよいのなら私は宰相殿よりも世界を広く見ているつもりだ。我が君は――――そんな女は嫌いか?」


 すがるようなマリンブルーの眼差し。
 おそらく父母の理解すら得られず、自らの力を持て余しこのまま帝国の娘としての運命に殉じなければならないのか、と己の無力に日々胸を痛めてきたことだろう。
 だが、現代人の記憶をもった俺にとってヘレナの主張はごく当たり前のものだ。
 能力があればそこに男女の格差はない。
 多少の語弊を覚悟するならば、それこそが現代社会の建前であるはずだった。


 「出来る嫁さんはむしろ大歓迎さ」


 正直今のワラキアにはこうした政治的ブレーンが足りないことでもあるし。
 まあ、これが会社の上司だったりしたらさすがに煙たく思ったかもしれないが。


 「そうか!そうか!我が君ならそう言ってくれると信じていたぞ!」


 感極まったのか身体ごと抱きついてきたヘレナの瞳から一筋の涙が流れて落ちた。
 まるで女としての生まれた本能に突き動かされるように、ヘレナの赤く小さな唇が近づいてくる。
 そして何の抵抗もできぬままに、俺はヘレナに唇を奪われていた。






 ―――――ファーストキスだったのに!














 「――――ところで我が君、残念なことに――――ああ、本当に残念なことに妾はまだ子を宿せる身体ではない。ないのだが……我が君が望むならばその………身体を任せることもやぶさかではないぞ?」


 「ぐはああああああっ!」


 何言っちゃってんの?この幼女!


 「いやいや、まずいから!倫理的にも政治的にも宗教的にもまずすぎるから!主に俺の名誉的な意味で!」


 いくらなんでも12歳の………しかも見た目それ以下にしか見えないコンパクトなボディに欲情するとか、そこまで俺の現代人としての尊厳は壊れていない………はずだ。
 ――――確か前田利家の妻のお松は11歳で妊娠してたと思ったが―――いやいや、余計なことを考えるな!俺!それは孔明の罠だ!


 「まあ、確かに総大主教のおじじが騒ぎそうだの。………それに妾も痛いのは苦手ゆえ今少し時間をもらえれば助かる」


 「そ、そうだネ。そんなことを考えるには早すぎるよネ」


 ―――――良かった!それぐらいの分別はあってくれて―――!


 聖母マリアが処女受胎したこともあってかキリスト教世界において処女というのは絶対的な信仰の対象である。
 基本的にキリスト教徒は離婚を禁じられているが、性交渉がない――――すなわち妻が処女であった場合には特別に離婚が許される。この性交渉のない結婚を白い結婚と言う。
 1498年、ブルゴーニュ公の娘と結婚するためにルイ12世が王妃ジャンヌを訴えた離婚訴訟は大国フランスの王家のものということもあり、長く後世に語り継がれることとなった。
 仮にもローマ皇帝の血筋に連なる姫を結婚前に傷ものにしたなどということがバレたら下手をすればカトリックと正教の双方を敵に回しかねなかった。
 「本当に残念だ。この身がもう少し男を受け入れるほどに成熟しておったならこんな機会は逃さぬのだが――――」


 前言撤回!何の分別もありませんでした!この姫様!


 さも当然の権利のようにヘレナは俺の袖を握って胸のあたりに頭を置いて身体を丸める。
 幼さを残した高めの体温と女性として発達途上のミルク臭さを感じてようやく俺は苦笑して冷静さを取り戻した。
 言葉遣いや見識は大人のそれであっても、やはりヘレナはまだ子供なのだ。


 「大丈夫、姫が望む世界に俺が必ず連れて行ってあげる。だから今日はもうお休み」


 史実であれば決して叶うはずのないヘレナの願い。
 それすら現実にできずしてワラキアが大国の狭間を生き残れるはずもない。
 この数年、自分の理想と同志の夢のためだけに全霊を傾けてきたが、今はこの幼い少女の希望を手助けしてやりたいと思える自分がいる。
 そんな気持ちをずいぶんと久しぶりに――――おそらくはラドゥと別れて以来初めて感じたような気がした。


 髪をなでられて気持ちよさそうに目を細めながら、ヘレナはほっと気が抜けると同時に襲いかかってきたらしい眠気にうつらうつらと船をこぎ始める。


 「うにゅ……妾は子供じゃないにょらぞ?我が君だから特別頭を撫でさせてあげるのじゃ………」


 眠そうにろれつの回らなくなり始めたヘレナは子猫のようにその小さな頭を擦りよせた。


 「――――それからこれよりは姫ではなくヘレナと呼べ、我が君。形はどうあれ妾はすでに我が君の妻のつもりじゃし、今後我が君以外の男を夫と呼ぶつもりもないにょらから」




 これが普通の少女であれば可愛らしい愛の告白に聞こえたかもしれない。
 しかしヘレナの言葉はそれ以上に深く、重い誓いのようなものであることを俺は正しく悟った。
 今後ワラキアの国際政治状況が悪化して亡国の運命をたどったとしても俺と命運をともにする―――――ヘレナはそう言っているのだった。


 何がそこまで少女に決意させたのかはわからないが、俺は男としてその信頼にこたえるだけの真摯さくらいは持ち合わせているつもりだった。
 今この瞬間から、ヘレナは俺の中で将来の妻という名目のローマの姫ではなく、ラドゥと同じ俺の家族の一員となった。


 ―――――十分だ。ともに修羅の道を歩む伴侶としては。


 「そうだな。ゆっくりお休みヘレナ、我が妻よ」 




















 「――――それで寝てしまった、と」


 「う、うむ……しかしっ!我が君に頭を撫でられるのはとても気持ちいいのじゃぞ?さすがの妾もあれをされては………!」


 「甘い!甘すぎます!殿下に子供の本性を見抜かれる前の昨晩が好機だったのに………!どうして抱かれてしまわなかったのですか!」


 恐るべきことにこのイスラムの元暗殺者出身の侍女はヘレナに閨の作法まで吹き込んでいたのである。
 彼女にとってよい男はえてして誘惑の多いものであり、先手必勝でヴラドの寵愛を獲得することこそがヘレナの野望を後押しするはずであった。


 「だ、だいたい我が君に棒などついておらなんだのじゃ!聞いていた話と違うのじゃ!」


 「それを起たせるのが女の武器でございます。姫にはまだ早すぎたようですが」






 盛大に斜め上に偏った侍女とヘレナのヴラドを巡る女の戦いはまだ始まったばかりであった。





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