彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第二十三話 ドラキュラの花嫁その2
「急な来訪をご寛恕いただき、このイワン伯ソポロイ感謝の極み」
 
芸術の守護者を自任するイワンにとってコンスタンティノポリスは長年夢見た美の宝庫である。
実のところ一昨日には着いていたのだが、思わず観光に一日丸ごと費やしてしまい、本来の目的であるコンスタンティノポリスでの交渉のために宰相ノタラスの屋敷を訪れたのは昨日のことであった。
ともに着いてきた秘書官に大目玉をくらわなければもっと観光していたいと思っていたのはヴラドには内緒である。
――――――ああ、ここはまさに理想郷か!?
広間の正面に飾られた絵画はアンドレイ・ルプリョーフの大作に他ならず、テーブルを彩る器の数々は色絵も鮮やかな陶器ばかり。
後にビザンツ家具とまで呼ばれる家具の色調もあでやかな曲線もイワンの心を魅了してならぬものだった。
今日ほどヴラドに仕えて良かったと思ったことはない。
 
「イワンと申したか。してワラキア公には如何なる用向きの来訪か?」
 
物怖じしないイワンの様子に興味をそそられたらしい皇帝が問いかける。
洗練された物腰に夜会の絵になるような美貌の伯爵を送りこんできたワラキア公の思惑はいったい何か皇帝としても気になるところであった。
 
「トランシルヴァニアの大半を掌中に収めたばかりかヤーノシュ公の二人の息子も人質にしていると聞く。ワラキア公の望みはなんだ?余にいったいどんな仲裁をさせたいというのだ?」
「いえ、全ては皇帝陛下の御意のままに―――――我がワラキアはいかなる決定でも皇帝陛下の命に従いましょう。それが我が主君の言葉でございます」
「なっ…………!!」
 
あまりにも完全に予想外の返答にその場にいた誰もが言葉を失っていた。
てっきりワラキアに有利な仲裁を引き出すために、イワンからなんらかの提案が行われるものと予想していたのである。
それでは何のためにわざわざ総大主教庁に仲裁を依頼したのかわからないではないか。
 
「と、トランシルヴァニアから撤兵せよ、と命じたならば素直に言うことを聞くというのか?」
「無論、すぐさまワラキアへ戻りましょう。もちろん捕えている両公子はそのままお返し申し上げる」
「何と殊勝な申し出か!陛下……!せっかくのワラキア公の申し出、ここは有難くお受けしては………?」
 
思いのかけぬ僥倖にソマスが明るい声をあげるのをヨハネス8世は本能的に押しとどめた。
 
「待て、待つのだソマス………!」
 
危険だ。それだけは何があっても選択してはいけない。
理性ではなく本能によって皇帝はそれを察した。
何だ?いったい私は何を見逃しているのだ?
ワラキアの狙いはどこにある?
余の歓心を買うことに意味などないのはわかっているだろうに―――――。
そう思ったところでヨハネスは気づいた。気づいてしまった。
違う――――今や滅亡の瀬戸際に追い込まれたローマ帝国にわざわざワラキアが利など求めるはずがない。
利を求めているのは自分たちであり、試されているのが我々なのだ!
 
「………どうやらワラキア公は噂に違わぬ人物であるようだな。余を、このローマ皇帝を試したか」
「――――滅相もございませぬ」
「よい、それで何が望みなのだ?まさか余を試すためだけにヤーノシュを敵に回したわけではあるまい?」
 
残る寿命も少ないヨハネス8世に往年の気概が蘇りつつあった。
無謀にもオスマンを敵とし、ローマ帝国の復興を果たそうとした若い日の覇気が。
 
「さきほど私が申し上げたことは真実であります。公は決して陛下の命に背きませぬ。しかし陛下から再びご下問があったならばこう答えるようにと申しつかっておりました」
「申してみよ。遠慮はいらぬ」
「されば、―――――5年後ワラキアの力が今のままであれば帝国の滅亡は免れぬものと」
「なっ!?ぶ、無礼であろう!?」
 
不吉なイワンの予測にソマスが激昂し、ノタラスもまた渋面を隠そうとしなかった。
誰も否定できないとはいえ、他国の人間から帝国の滅亡を指摘されることが不快であることに変わりはないのだ。
 
「よい、遠慮はいらぬと申したのは余だ。それで?ワラキアが帝国を救うためには何が必要なのだ?」
 
おそらくワラキア公ヴラドは東西合同や欧州各国の援助では帝国の滅亡を防ぐには間に合わぬと予想したのであろう。
そのうえでワラキアならば帝国を救うことが可能であると言っている。
しかしそれは無条件のものというわけではない。
今や世界最大最強の国家になりおおせたオスマンを敵に回そうと言うのだ。
当然それに見合うだけの力を手に入れなければそれは痴人の妄想となんら変わるところがない。
 
「上部ハンガリーと同盟してハンガリー王位を奪います。おそらくは教皇庁を完全に敵に回すでしょうが陛下にはこれを認可いただきたい」
「トランシルヴァニアばかりかハンガリー王国自体を呑みこむつもりか!?」
 
ハンガリー王国はポーランド王国と並んだ東欧の雄であり、対オスマンでは盟主としてキリスト教連合軍を率いたほどの大国である。
それが戦によって敗北することはあろうとも、まさか滅んでしまうことがあろうとはヨハネス自身想像すらしていなかった。
しかし考えてみればローマ帝国自体がまさに滅亡の危機に瀕しているのである。
それより歴史の浅いハンガリー王国が滅ぶことも当然想定してしかるべきであるはずだった。
 
「できるか?それが?」
「我が主ヴラド・ドラクルならば必ずや」
 
正直途方もない話過ぎて判断に苦しむところであった。
しかしそんな途方もなさが、目の前の危機から逃れるために汲々としていたヨハネスにとっては新鮮であり、それが実現してしまうのではないか?と感じさせるヴラドに
興味を惹かれずにはいられなかった。
 
 
「―――――――それはいささか見込みが甘いのではないか?使者殿よ」
 
朗々たる美声でありながら、わずかに少女特有の舌足らずさを感じさせる、そんな声が広間に響き渡ったのはそのときだった。
しかしさすがはワラキアきっての伊達男の面目躍如といったところであろうか。
驚きをおくびにもださず温和な笑みを湛えてイワンはゆっくりと問いかけた。
 
「これはこれは麗しいご尊顔を拝しこのイワン感嘆の極みでございます、ヘレナ殿下」
 
 
 
 
「ワラキア公はハンガリーを併呑して教皇庁を敵に回したとしても、我らローマの後ろ盾があればキリスト教国との全面戦争は避けられると踏んでいるのであろうが………残念ながら我が国に正面からワラキアを擁護するだけの余裕はない。精々が黙認を見せつける程度のことしかできぬよ。それでは教皇庁のおひざ元のヴェネツィアもフィレンツェも表面上は敵に回らざるをえまい」
 
「こらっ!ヘレナ!控えなさい!皇帝陛下の御前だぞ?」
 
そういいつつもソマスは娘の確かな識見に瞠目し驚きを隠せない。
これほどの正確な政治的認識を娘が所有していることをソマスは今の今まで知らずにいたのだ。
確かにローマの帝室の血を引くというのは並大抵のことではないが、女性の地位が非常に低かった時代である。
ソマス自身もヘレナに対してなんら帝王学を教えた記憶はなかった。
 
「そこでだ。ワラキア公の正統性と権威を確立させる名案が妾にはあるのだが聞き届けてはいただけまいか?陛下」
「ほう………では可愛い姪の名案を聞いてみるとしようか」
 
まだ10歳を過ぎたばかりの少女ではあるが、決してただの少女でないことはさきほどの言葉が証明していた。
ヨハネスとしてはワラキアに賭けてみようか、という気持ちが内心で固まりつつある。
頑是ない少女の言葉ではあるが、帝国とワラキアを結び付ける名案というのならば聞きとどけるのもやぶさかではない。
 
「何、簡単なことじゃ。妾がワラキア公のもとに嫁げばよい」
 
まるで物見遊山にでも行くように気軽に言いきった少女の言葉に最も激しく反応したのはやはり実の父でもあるアカイア侯ソマスであった。
 
「何を馬鹿な――――お前は、お前は帝国の血に連なるものなのだぞ!?」
「亡国を目前に控えた帝国の血がどれほど高く売れるものかわからぬが…………ワラキア公にはその価値が十分にあるのじゃ。のう、そうであろう?宰相閣下」
 
突然ヘレナに会話を振られたノタラスは少女が言外に指摘している事実に背筋が寒くなる思いであった。
事実この老練な宰相は会議の行方によっては隠している切り札を切るつもりであったからだ。
しかしヘレナのような少女に内心を悟られるほどノタラスは凡庸な政治家ではなかったし、その手腕はヨハネスも認めざるを得ないほどのものであったはずだった。
果たしていったいどうやってこの少女は自分の切り札に気がついたのか。
 
「ワラキア公は天然痘の画期的な予防方法を発見した―――――そうであるな?宰相閣下」
「いや…………確かにイワン卿から聞いてはいるが…………」
「天然痘が!?」
「なんと!それは真か!」
 
コンスタンティノポリスのような大都市でこそ、伝染病の防疫は喫緊の課題である。
12世紀の大流行時には数万単位で死亡者が出たことをコンスタンティノポリスの為政者達は忘れてはいなかった。
ペストと天然痘による人口の激減は領土を統治する支配者にとって今なお頭の痛い問題であったのだ。
 
「確認の取れていない情報でぬかよろこびさせてはいけないと思いまして………」
 
気まり悪そうにノタラスは言い訳をしなくてはならなかった。
知りながらあえて隠していたということになれば、宮廷内での自分の立場が悪化しないとも限らないからだ。
 
「確認なら妾が自ら取っておる。子供相手だと船乗りの口は軽くなるのでな。なんでも東欧が世界に誇る大天才だそうだぞ?ワラキア公が自ら作られた新型の羅針盤はどんな嵐のもとでも正確に方角を指し示し、遠眼鏡と申す道具などは遥か彼方の風景をまるで眼前にあるが如く見せられるそうな。船乗りにとってはこれはこたえられまい」
 
現にヴェネツィアの船乗りは聖アンセルムスの生まれ変わりと崇拝していたぞ?
そんなヘレナの言葉がヨハネスたちの脳内に浸透するまで、しばしの時間が必要であった。
それほどにヘレナの告げたワラキア公の業績というものは常軌を逸していたのである。
 
「ワラキア公が作られたというザワークラウトなるものも珍味であったぞ。一年を通して保存がきくので売れ行きは順調だそうだ。しかもこれを食すれば壊血病に罹らずに済むと言う。おそらくこれだけでもヴェネツィアはワラキアに頭が上がるまいよ。そのことだけとっても妾がワラキアに嫁ぐには十分な理由だと思うが」
 
「「「「ななななななにいいいいいいいいいい!!??」」」」
 
「うきゅっ……うるさいのじゃ」
 
父たちローマ帝国の重鎮たちがあげた叫び声に耳を押さえて瞳を潤ませる子供っぽい様子は、さきほどまで見せていた怜悧な政治家のような姿が信じられなくなりそうな可愛らしさであった。
しかしそんなことに気を回す余裕ハヨハネスたちにはない。
ヘレナのいうことが事実ならば確かにワラキアは新たな秩序の担い手に相応しい資格がある。
 
「ノタラス………ヘレナのいうことは本当なのか?」
「私も噂では天然痘のことは聞き及んでおりましたが羅針盤や保存食のことまでは………しかし姫殿下が船乗りから直接聞き出したのであれば事実である可能性は高いかと……」
 
そういいつつもノタラス自身が半信半疑という様子を隠せない。
この歴戦の老練な宰相をして戸惑わせるほどにあまりにヴラドという存在は規格外すぎた。
正直天然痘の一事だけをもってしても世界が変わりかねないのである。
 
「―――――そう難しく考えることもあるまい。まずは妾が陛下の名代として真実を見極めて見せようほどに」
 
まるで二十を過ぎた大人のように妖艶な気配を漂わせて少女が笑う。
顔立ちと仕草だけは間違いなく小さな子供のそれなのだが、意志の強すぎる瞳とオーラがそうした外見を完全に裏切っていた。
 
「では道中よろしく頼むぞ、イワン殿」
 
まるでそれが決定事項のようにヘレナがイワンに微笑みかけるのを誰も止めようとはしなかった。
ワラキアの美の守護者として、数々の婦人と浮名を流したこともあるイワンとしたことが、この姫君の暴挙に対してなんら手を打つことが出来ずにいた。
いったい誰が予想するだろう。
千年の時を越えて存続するローマの由緒正しき姫君がまさか自らワラキアに嫁ごうなどと言いだすなどと。
しかもその品定めに乗り込もうとするなどということを。
 
(―――――殿下、すいません。これは私の手に負える範疇を超えております)
 
外交官としても政治家としても貴族としても2流のそしりを免れないイワンだが、この手の女性に男たちが勝てたためしのないことだけは経験的に知っていた。
確かに世俗的には女性の地位は低いままであったが、太古の昔から家庭の最高権力者は女性であると相場が決まっているのである。
あの少女は智恵と勇気よ美貌を兼ね備えた女性のなかでももっとも性質の悪い部類に属する存在であろう。
果たしてヴラドでも扱いきれるものかどうか………。
同じ男として思わずイワンはヴラドに対して深い同情を覚えずにはいられなかった。
ローマとワラキアの未来がどうなるかはわからないが、イワンにはヴラドとヘレナの未来は見えたような気がしたのである。
 
 
―――――――――ご愁傷様です、殿下。
※ヘレナ合法ロリ化を修正
 
芸術の守護者を自任するイワンにとってコンスタンティノポリスは長年夢見た美の宝庫である。
実のところ一昨日には着いていたのだが、思わず観光に一日丸ごと費やしてしまい、本来の目的であるコンスタンティノポリスでの交渉のために宰相ノタラスの屋敷を訪れたのは昨日のことであった。
ともに着いてきた秘書官に大目玉をくらわなければもっと観光していたいと思っていたのはヴラドには内緒である。
――――――ああ、ここはまさに理想郷か!?
広間の正面に飾られた絵画はアンドレイ・ルプリョーフの大作に他ならず、テーブルを彩る器の数々は色絵も鮮やかな陶器ばかり。
後にビザンツ家具とまで呼ばれる家具の色調もあでやかな曲線もイワンの心を魅了してならぬものだった。
今日ほどヴラドに仕えて良かったと思ったことはない。
 
「イワンと申したか。してワラキア公には如何なる用向きの来訪か?」
 
物怖じしないイワンの様子に興味をそそられたらしい皇帝が問いかける。
洗練された物腰に夜会の絵になるような美貌の伯爵を送りこんできたワラキア公の思惑はいったい何か皇帝としても気になるところであった。
 
「トランシルヴァニアの大半を掌中に収めたばかりかヤーノシュ公の二人の息子も人質にしていると聞く。ワラキア公の望みはなんだ?余にいったいどんな仲裁をさせたいというのだ?」
「いえ、全ては皇帝陛下の御意のままに―――――我がワラキアはいかなる決定でも皇帝陛下の命に従いましょう。それが我が主君の言葉でございます」
「なっ…………!!」
 
あまりにも完全に予想外の返答にその場にいた誰もが言葉を失っていた。
てっきりワラキアに有利な仲裁を引き出すために、イワンからなんらかの提案が行われるものと予想していたのである。
それでは何のためにわざわざ総大主教庁に仲裁を依頼したのかわからないではないか。
 
「と、トランシルヴァニアから撤兵せよ、と命じたならば素直に言うことを聞くというのか?」
「無論、すぐさまワラキアへ戻りましょう。もちろん捕えている両公子はそのままお返し申し上げる」
「何と殊勝な申し出か!陛下……!せっかくのワラキア公の申し出、ここは有難くお受けしては………?」
 
思いのかけぬ僥倖にソマスが明るい声をあげるのをヨハネス8世は本能的に押しとどめた。
 
「待て、待つのだソマス………!」
 
危険だ。それだけは何があっても選択してはいけない。
理性ではなく本能によって皇帝はそれを察した。
何だ?いったい私は何を見逃しているのだ?
ワラキアの狙いはどこにある?
余の歓心を買うことに意味などないのはわかっているだろうに―――――。
そう思ったところでヨハネスは気づいた。気づいてしまった。
違う――――今や滅亡の瀬戸際に追い込まれたローマ帝国にわざわざワラキアが利など求めるはずがない。
利を求めているのは自分たちであり、試されているのが我々なのだ!
 
「………どうやらワラキア公は噂に違わぬ人物であるようだな。余を、このローマ皇帝を試したか」
「――――滅相もございませぬ」
「よい、それで何が望みなのだ?まさか余を試すためだけにヤーノシュを敵に回したわけではあるまい?」
 
残る寿命も少ないヨハネス8世に往年の気概が蘇りつつあった。
無謀にもオスマンを敵とし、ローマ帝国の復興を果たそうとした若い日の覇気が。
 
「さきほど私が申し上げたことは真実であります。公は決して陛下の命に背きませぬ。しかし陛下から再びご下問があったならばこう答えるようにと申しつかっておりました」
「申してみよ。遠慮はいらぬ」
「されば、―――――5年後ワラキアの力が今のままであれば帝国の滅亡は免れぬものと」
「なっ!?ぶ、無礼であろう!?」
 
不吉なイワンの予測にソマスが激昂し、ノタラスもまた渋面を隠そうとしなかった。
誰も否定できないとはいえ、他国の人間から帝国の滅亡を指摘されることが不快であることに変わりはないのだ。
 
「よい、遠慮はいらぬと申したのは余だ。それで?ワラキアが帝国を救うためには何が必要なのだ?」
 
おそらくワラキア公ヴラドは東西合同や欧州各国の援助では帝国の滅亡を防ぐには間に合わぬと予想したのであろう。
そのうえでワラキアならば帝国を救うことが可能であると言っている。
しかしそれは無条件のものというわけではない。
今や世界最大最強の国家になりおおせたオスマンを敵に回そうと言うのだ。
当然それに見合うだけの力を手に入れなければそれは痴人の妄想となんら変わるところがない。
 
「上部ハンガリーと同盟してハンガリー王位を奪います。おそらくは教皇庁を完全に敵に回すでしょうが陛下にはこれを認可いただきたい」
「トランシルヴァニアばかりかハンガリー王国自体を呑みこむつもりか!?」
 
ハンガリー王国はポーランド王国と並んだ東欧の雄であり、対オスマンでは盟主としてキリスト教連合軍を率いたほどの大国である。
それが戦によって敗北することはあろうとも、まさか滅んでしまうことがあろうとはヨハネス自身想像すらしていなかった。
しかし考えてみればローマ帝国自体がまさに滅亡の危機に瀕しているのである。
それより歴史の浅いハンガリー王国が滅ぶことも当然想定してしかるべきであるはずだった。
 
「できるか?それが?」
「我が主ヴラド・ドラクルならば必ずや」
 
正直途方もない話過ぎて判断に苦しむところであった。
しかしそんな途方もなさが、目の前の危機から逃れるために汲々としていたヨハネスにとっては新鮮であり、それが実現してしまうのではないか?と感じさせるヴラドに
興味を惹かれずにはいられなかった。
 
 
「―――――――それはいささか見込みが甘いのではないか?使者殿よ」
 
朗々たる美声でありながら、わずかに少女特有の舌足らずさを感じさせる、そんな声が広間に響き渡ったのはそのときだった。
しかしさすがはワラキアきっての伊達男の面目躍如といったところであろうか。
驚きをおくびにもださず温和な笑みを湛えてイワンはゆっくりと問いかけた。
 
「これはこれは麗しいご尊顔を拝しこのイワン感嘆の極みでございます、ヘレナ殿下」
 
 
 
 
「ワラキア公はハンガリーを併呑して教皇庁を敵に回したとしても、我らローマの後ろ盾があればキリスト教国との全面戦争は避けられると踏んでいるのであろうが………残念ながら我が国に正面からワラキアを擁護するだけの余裕はない。精々が黙認を見せつける程度のことしかできぬよ。それでは教皇庁のおひざ元のヴェネツィアもフィレンツェも表面上は敵に回らざるをえまい」
 
「こらっ!ヘレナ!控えなさい!皇帝陛下の御前だぞ?」
 
そういいつつもソマスは娘の確かな識見に瞠目し驚きを隠せない。
これほどの正確な政治的認識を娘が所有していることをソマスは今の今まで知らずにいたのだ。
確かにローマの帝室の血を引くというのは並大抵のことではないが、女性の地位が非常に低かった時代である。
ソマス自身もヘレナに対してなんら帝王学を教えた記憶はなかった。
 
「そこでだ。ワラキア公の正統性と権威を確立させる名案が妾にはあるのだが聞き届けてはいただけまいか?陛下」
「ほう………では可愛い姪の名案を聞いてみるとしようか」
 
まだ10歳を過ぎたばかりの少女ではあるが、決してただの少女でないことはさきほどの言葉が証明していた。
ヨハネスとしてはワラキアに賭けてみようか、という気持ちが内心で固まりつつある。
頑是ない少女の言葉ではあるが、帝国とワラキアを結び付ける名案というのならば聞きとどけるのもやぶさかではない。
 
「何、簡単なことじゃ。妾がワラキア公のもとに嫁げばよい」
 
まるで物見遊山にでも行くように気軽に言いきった少女の言葉に最も激しく反応したのはやはり実の父でもあるアカイア侯ソマスであった。
 
「何を馬鹿な――――お前は、お前は帝国の血に連なるものなのだぞ!?」
「亡国を目前に控えた帝国の血がどれほど高く売れるものかわからぬが…………ワラキア公にはその価値が十分にあるのじゃ。のう、そうであろう?宰相閣下」
 
突然ヘレナに会話を振られたノタラスは少女が言外に指摘している事実に背筋が寒くなる思いであった。
事実この老練な宰相は会議の行方によっては隠している切り札を切るつもりであったからだ。
しかしヘレナのような少女に内心を悟られるほどノタラスは凡庸な政治家ではなかったし、その手腕はヨハネスも認めざるを得ないほどのものであったはずだった。
果たしていったいどうやってこの少女は自分の切り札に気がついたのか。
 
「ワラキア公は天然痘の画期的な予防方法を発見した―――――そうであるな?宰相閣下」
「いや…………確かにイワン卿から聞いてはいるが…………」
「天然痘が!?」
「なんと!それは真か!」
 
コンスタンティノポリスのような大都市でこそ、伝染病の防疫は喫緊の課題である。
12世紀の大流行時には数万単位で死亡者が出たことをコンスタンティノポリスの為政者達は忘れてはいなかった。
ペストと天然痘による人口の激減は領土を統治する支配者にとって今なお頭の痛い問題であったのだ。
 
「確認の取れていない情報でぬかよろこびさせてはいけないと思いまして………」
 
気まり悪そうにノタラスは言い訳をしなくてはならなかった。
知りながらあえて隠していたということになれば、宮廷内での自分の立場が悪化しないとも限らないからだ。
 
「確認なら妾が自ら取っておる。子供相手だと船乗りの口は軽くなるのでな。なんでも東欧が世界に誇る大天才だそうだぞ?ワラキア公が自ら作られた新型の羅針盤はどんな嵐のもとでも正確に方角を指し示し、遠眼鏡と申す道具などは遥か彼方の風景をまるで眼前にあるが如く見せられるそうな。船乗りにとってはこれはこたえられまい」
 
現にヴェネツィアの船乗りは聖アンセルムスの生まれ変わりと崇拝していたぞ?
そんなヘレナの言葉がヨハネスたちの脳内に浸透するまで、しばしの時間が必要であった。
それほどにヘレナの告げたワラキア公の業績というものは常軌を逸していたのである。
 
「ワラキア公が作られたというザワークラウトなるものも珍味であったぞ。一年を通して保存がきくので売れ行きは順調だそうだ。しかもこれを食すれば壊血病に罹らずに済むと言う。おそらくこれだけでもヴェネツィアはワラキアに頭が上がるまいよ。そのことだけとっても妾がワラキアに嫁ぐには十分な理由だと思うが」
 
「「「「ななななななにいいいいいいいいいい!!??」」」」
 
「うきゅっ……うるさいのじゃ」
 
父たちローマ帝国の重鎮たちがあげた叫び声に耳を押さえて瞳を潤ませる子供っぽい様子は、さきほどまで見せていた怜悧な政治家のような姿が信じられなくなりそうな可愛らしさであった。
しかしそんなことに気を回す余裕ハヨハネスたちにはない。
ヘレナのいうことが事実ならば確かにワラキアは新たな秩序の担い手に相応しい資格がある。
 
「ノタラス………ヘレナのいうことは本当なのか?」
「私も噂では天然痘のことは聞き及んでおりましたが羅針盤や保存食のことまでは………しかし姫殿下が船乗りから直接聞き出したのであれば事実である可能性は高いかと……」
 
そういいつつもノタラス自身が半信半疑という様子を隠せない。
この歴戦の老練な宰相をして戸惑わせるほどにあまりにヴラドという存在は規格外すぎた。
正直天然痘の一事だけをもってしても世界が変わりかねないのである。
 
「―――――そう難しく考えることもあるまい。まずは妾が陛下の名代として真実を見極めて見せようほどに」
 
まるで二十を過ぎた大人のように妖艶な気配を漂わせて少女が笑う。
顔立ちと仕草だけは間違いなく小さな子供のそれなのだが、意志の強すぎる瞳とオーラがそうした外見を完全に裏切っていた。
 
「では道中よろしく頼むぞ、イワン殿」
 
まるでそれが決定事項のようにヘレナがイワンに微笑みかけるのを誰も止めようとはしなかった。
ワラキアの美の守護者として、数々の婦人と浮名を流したこともあるイワンとしたことが、この姫君の暴挙に対してなんら手を打つことが出来ずにいた。
いったい誰が予想するだろう。
千年の時を越えて存続するローマの由緒正しき姫君がまさか自らワラキアに嫁ごうなどと言いだすなどと。
しかもその品定めに乗り込もうとするなどということを。
 
(―――――殿下、すいません。これは私の手に負える範疇を超えております)
 
外交官としても政治家としても貴族としても2流のそしりを免れないイワンだが、この手の女性に男たちが勝てたためしのないことだけは経験的に知っていた。
確かに世俗的には女性の地位は低いままであったが、太古の昔から家庭の最高権力者は女性であると相場が決まっているのである。
あの少女は智恵と勇気よ美貌を兼ね備えた女性のなかでももっとも性質の悪い部類に属する存在であろう。
果たしてヴラドでも扱いきれるものかどうか………。
同じ男として思わずイワンはヴラドに対して深い同情を覚えずにはいられなかった。
ローマとワラキアの未来がどうなるかはわからないが、イワンにはヴラドとヘレナの未来は見えたような気がしたのである。
 
 
―――――――――ご愁傷様です、殿下。
※ヘレナ合法ロリ化を修正
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