彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版

高見 梁川

第二十二話 ドラキュラの花嫁その1

鮮やかな地中海の赤い夕陽に照らされて、ローマの特徴的な円形の屋根が鈍い陰影を作り上げていた。
かつてあった力を失い、老いさらばえた醜い肢体をさらしていても、背負い続けた膨大な過去がもたらす栄光の輝きは消えない。
誰もがそれを信じ、そして納得してしまいそうな荘厳な風景であった。
しかし暗闇に沈んでいく古い石造りの街並みは、彼らの未来を暗示しているようにも思えるのだった。
 

ローマ
その名は全ての欧州世界の精神的な源流である。
しかし今やその名を受け継ぐ帝国はかろうじて息をしているだけの瀕死の病人のようでもあった。
後の世にビザンツ帝国とも東ローマ帝国とも呼ばれるこの大国は、わずかばかりの領土と皇帝が存在するというだけの名ばかりの存在に成り果てていた。
その猫の額のような国土も巨大なオスマン帝国によって包囲されており、莫大な朝貢金を払ってようやく存在を許されている。
かつての栄光を知るものにとってそれは屈辱以外の何物でもなかったのである。
 

―――――かの有名なコンスタンティヌス帝がボスポラス海峡のマルマラ海側の突端に首都を建設したのは西暦330年のことになる。
コンスタンティノポリスと呼ばれたこの首都はローマ帝国の東西分裂後、新ローマあるいは第二のローマと呼ばれ最盛期には人口四十万を擁するキリスト教圏最大の都市として機能した。
強固な城壁に守られた帝都は難攻不落であるかに思われたが、第四回十字軍によってあろうことか味方であったはずのキリスト教徒によって一旦滅亡の憂き目をみる。
その後帝国はミカエル8世のもとで復活するもかつての繁栄を取り戻すことはなかった。
 

 

世界に冠たるローマの正統な後継者にしてキリスト教正教会の総本山でもあるコンスタンティノポリスは今唐突に訪れた機会に荒れていた。
政治的影響力を失って久しいコンスタンティノポリス総主教庁にワラキアとハンガリーの調停が持ち込まれたからであった。
正教会
ローマの分裂とともに教会もまた東西に分かたれており、西方のカトリック教会に対し東方を正教会という。
ルーマニアはいうに及ばず、セルビア・ブルガリア・ウクライナ・ポーランド・ロシア・ギリシャなど東欧の諸国のほとんどはこの正教会に所属していると言っていいだろう。
帝国の衰亡とともにその影響力は低下していたが、正教徒にとっての信仰の源であるという巨大な権威は健在であった。
ゆえにこそワラキア公はローマ教皇庁にではなくコンスタンティノポリス総主教庁に調停を委ねたのである。
彼らにとってこの調停に成功すれば再び東欧でも影響力を取り戻せるかもしれないという希望を抱かせるには十分な問題であった。
 

「教皇庁からはヴラド・ドラクリヤを破門してしまうようにとの督促が参っております」
「全く不遜な連中だな。いったいどんな理由でだ?」
「ワラキア公はオスマンに臣従しているからだそうで」
「ふん!我らが帝国もオスマン朝に形式的には臣従しているのだが、それは遠まわしに我々を異端と呼んでいるのかね?」
 

でっぷりと肥えた壮年の男がテーブルの水差しに手を伸ばした。
その態度にいささか反感を覚えるものもいるが、誰ひとり彼に諫言しようとするものはいない。
実質的な権力において、宰相であるノタラスに対抗しうるものは少ないのだ。もし彼にものを言えるものがいるとすればそれは――――――。
 

「彼らは同じ神の使徒であり、兄弟である。決して我らに仇為すものではない」
 

鷲のように鋭い眼光。
痩せた頬には骨が浮き出ているが、人を惹きつける大きな瞳と威厳に満ちた容貌を損なうことはない。
彼こそはこのローマ帝国の皇帝ヨハネス8世であった。
現在のローマ帝国の窮状は実のところ皇帝ヨハネス8世の失政に負うところが大きかった。
もし彼がムラト1世死去に及んで、オスマン朝の分裂を画策しなければ温厚をもってなるムラト2世の事である。
今でも帝国とオスマンは平和的な友好関係を維持することも不可能ではなかったであろう。
だからこそ、このところ体調の悪化を自覚している皇帝としては、自分の生あるうちによりよい未来への道標を後に残すものたちのために示す必要に迫られていた。
 

「―――――かといってワラキア公は同じ正教会の同胞だ。これを見捨てれば我が正教会の権威は地に堕ちる」
「しかしそれでは教皇庁がっ!」
 

もはや単独でオスマンに対抗することが不可能になったローマ帝国は分裂してしまったカトリックと正教を合併することでより巨大な宗教組織として延命しようと画策していた。
これは東欧において布教が滞っているカトリックとしても渡りに船のような提案であり、両者の協議は順調に推移していたと言っていい。
いずれオスマンに滅ぼされるくらいならカトリックの力を借りてでも異教徒を倒す。仮に失敗してもカトリックのなかに正教の命脈は残り続ける。
そう考えた皇帝であったが国内の聖職者や国民から思わぬ猛反発を受け、この合同は現在のところ挫折していた。
しかし皇弟であるコンスタンティノスはなおも合同への希望を諦めてはいなかった。
ワラキアを救うという皇帝の判断に思わず彼が叫んでしまったのはそう言う理由であった。
 

「皇弟殿下、我々はいったい何のために東西合同を推し進めてきたのでしょう?」
 

静かな声でコンスタンティノスに問いかけたのは髪を真っ白に染めた立派な顎髭を伸ばしたやせぎすの老人だった。
老人の名をグレゴリウス3世という。
もともとは長身でその存在感に相応しい巨躯の男であったが、この数年の東西合同に関わる軋轢の後遺症か、このところめっきり老いさらばえてしまっていた。
皇帝ヨハネス8世に親しかった彼はコンスタンティノポリス総大主教の地位にありながら東西合同には常に賛成の立場を取り続けていた。
 

「答えは簡単です。我々が生き延びるためには他国の力を借りる必要があったからです。十字軍のような大軍によってオスマンの影響を排除しなければ遠からず帝国が滅亡すると思われたからです」
「そのとおりだ!今教皇庁の不興を買えば十字軍の遠征など夢のまた夢に終わるだろう!」
「………はたしてそうでしょうか?」
 

カトリックと正教会、ローマ分裂とともにわかたれた兄弟の合同にずっと賛成してくれていたはずの総大主教の言葉にコンスタンティノスは思わず呻いた。
彼がいつの間にか教会合同の否定へと傾いていたことに気づいたのだ。
 

「彼らはオスマンの脅威に直面しているわけではありません。神聖ローマ帝国は対外遠征に否定的でイングランドとフランスは戦争の真っ最中。形ばかり傭兵数千を派遣してもらったところで寿命が何年かのびるだけ。それで彼らは東西のキリスト教を代表するという果実だけを貪るのではないですか?私は陛下とともに各国の使者に会い、各国の現実を見てきました。彼らが十字軍に大軍を派遣できるとはどうしても思えないのですよ」
 

「―――――ですが、その数千の傭兵すらなければこの都市は明日にも滅びかねないのです!」
 

コンスタンティノスは理性の人である。
確かにグレゴリウス3世のいうように今の世界情勢では獅子心王や尊厳王のような君主直卒の大軍がコンスタンティノポリスを救援に来るという可能性が低いことはわかっていた。
しかし同時にヴェネツィア艦隊の支援や数千の援兵程度は十分に見込めるとも思っている。
コンスタンティノポリス防衛の上でこれらの戦力はなくてはならないのものであった。
帝国が抱える旧態然とした騎士だけではとうていこの巨大な都市を守りきるには足らないし、独自に傭兵を雇うほどの予算が帝国にはなかった。
 

「そう、殿下のおっしゃるとおりです。しかしその程度の戦力ならばわざわざ教皇庁に頭を下げる必要はないのではないですか?」
「はっ?」
「―――――ですから、その程度の戦力ならワラキア公でも提供できる可能性があると申し上げているのです」
 

なにをそんな馬鹿なことを―――――と言い切ることはできなかった。
それを言うならばわずか数千の軍しか所有していないワラキア軍が即位して間もない16歳の少年に率いられてトランシルヴァニアを占領したことのほうがよほどありえない。
しかもワラキアに帰還したばかりのころはともかく、トランシルヴァニア侵攻にはオスマンの力を一切借りていないのである。
万が一さらにヤーノシュが敗れるようなことがあれば東欧随一の大国ハンガリーまでもがワラキアの軍門に降ることになりかねなかった。
そうなればワラキアは堂々とオスマンに挑戦するだけの、キリスト教世界を代表する資格を手に入れたというべきであろう。
 

「で、ですがワラキア公はオスマンに臣従している身。はたして我々に味方してくれますかどうか?」
 

もう一人の皇弟、アカシア侯ソマスが恐る恐る反論した。
滅亡の瀬戸際にいる帝国にとってワラキアという賭けの対象はリスクが大きすぎる。
やはりカトリックという巨大な組織力を頼るべきなのではないか。
コンスタンティノスもソマスも、地平線の彼方まで埋め尽くすかに思えたオスマンの侵攻を昨日のことのように覚えている。
その恐怖を払しょくするにはワラキアの存在感はまだまだ小さくか弱いものに思われた。
 

「それについては私より彼に語ってもらうほうが早いだろう」
 

パンッという乾いた音を立ててノタラスが両手を合わせるのを合図にして、広間の扉がゆっくりと開かれた。
そこには憧れの地にやってきて心を熱く昂らせるワラキアきっての伊達男、イワン・ソポロイがその美麗な顔に微笑を湛えて佇んでいた。
 

 

 

 

 

金角湾の波止場では、荒くれの船乗りでごった返す桟橋にはあまりにも不似合いな少女が、目を輝かせて一人の船乗りの話に聞きいっていた。
年の頃は十を少し超えたところであろうか。
ビスクドールのような白磁の肌にさくらんぼのような愛らしい小振りの唇が幼い少女の愛らしさをこのうえなく強調していて、荒くれものの船乗りもこの可愛らしさには目尻を下げてしまうしかなかった。
この世に天使がいるとすればこんな少女であるのかもしれない。
船乗りの男は半ば本気で同量の黄金よりも美しく輝く少女の見事な髪に目を奪われながらも、少女の歓心を買おうと必死で言葉を紡ぎ出した。
 

「そりゃあ俺達だって一流の船乗りだ。星を読み、風を読んで船の場所を探ることだって出来らあ。だけどよ、都合よく星が拝めるなんで保障ありはしねえんだ。現に3日に一度は星の読めねえ闇夜にぶつかる。そしたら錨を下ろしてその夜は店じまいさ。なぜかって?お嬢ちゃん、一晩で船がどれだけ進むか知ってるかい?風向きにもよるがへたすりゃ5・60キロはもっていかれる。それが北なのか南なのか、東なのか、西なのかもわからないとなりゃ最悪目的地に着くまでに水と食糧が尽きちまうんだ。嵐が何日も続いたりした日にはとても生きた心地がしねえもんさ………ところが今はワラキアのおえらいさんが考え出したらしい新型の羅針盤があってな。この羅針盤ってなあ方角を示すカラクリなんだが、今までのは水に浮かべてるだけなんで嵐の日にゃ使いものにならなかったさ。それがもうどんな嵐でも暗闇でもきっちり方角のわかる羅針盤のおかげで船旅が何日も短縮できて大助かりよ」
 

「すごいわね。それじゃこれから港に入る船はもっと増えるかしら」
 

無邪気に笑う少女に船乗りの男はますます調子にのって話し出した。
不思議なことだが少女を喜ばせるためにはどんな話をしたらいいか必死に考えている自分がいる。
もともと男は話好きな男であったが、傍から見ればまるで惚れた女の気を惹こうとしている埒もない男のようでもあった。
あるいは幼女嗜好の変態に見られたかもしれないが。
 

「ああ、間違いなく増える。それにこれからの航海は絶対に長足………遠くて長い航海が当たり前になる。さっきの羅針盤だけの話じゃねえんだ。味は酸っぱくて俺の好みじゃねえんだが、一年は保存がきいて壊血病に罹らずに済む魔法の食べ物をそのワラキアのおえらいさんが作ってくれたんでな。おかげで腐って食べられない不良品を掴まされることも少なくなって食い物のためにいちいち寄港する必要もなくなったのさ。ありゃあきっと本当に聖アンセルムスの化身なんだろうぜ」
 

「ふふふ…………きっと船乗りのおじさんに神様がご褒美をくれたのね」
 

珍しい話を聞かせてもらった、と目を丸くして驚いてみせる少女に船乗りは照れたような苦笑を浮かべていたが、もう少し観察力のある人間なら少女の目が決して笑っていないことに気づいただろう。
実際に少女の内心は驚きと恐れで嵐のように荒れ狂っていたのだ。
なんじゃ?なんなのじゃ?その非常識な発明のオンパレードは?
壊血病ってあの船乗り殺しの呪いみたいな病気のはず。それが食べ物で予防できるものなのか?
だいたいいったいどうやったら干物以外で一年以上も食べ物が保存できる?
 

「おいこらっ!いつまでも余所もんと食っちゃべってるんじゃねえ!!」
 

大きな手振り身振りで盛んに少女に話しかけようとする部下に業を煮やしたのか、中年の航海長が船から桟橋に下りてきた。
興味は尽きぬがどうやら潮どきが来たらしいことを少女は悟った。
 

「お嬢ちゃん、こんな男の話を聞くより家に帰って習いごとでもしたほうが何倍も将来の役に立つぜ?」
「おやっさん、そりゃねえでしょう?」
「あほぅ!子供相手だと思って余計なことまでペラペラしゃべりやがって!今度しゃべったら沖でふかの餌にするぞ!」
「へ、へえっ………すいやせん………」
 

航海長の言葉に脅し以上のものを感じ取った男は目に見えて萎縮した。
彼が漏らしたことの内容は、実際に公になれば処刑されても文句は言えない類のものであることを男もようやく思いだしたのである。
 

 

「お願い、おじさん。叱らないであげて?私小さいからあまりよくわからなかったけど、お兄さん私にいろいろ面白い話を聞かせてくれただけなの!」
「ああ、嬢ちゃん、こいつのヨタ話は忘れて親の言いつけをちゃんと聞きな。今でもそれだけ可愛いんだ、この先年頃になればきっとえらい美人になっているだろうぜ?」
「………そうね、ありがとうおじさん…………」
 

にこやかに笑う少女の瞳に、少女らしからぬ鋭い知性の光が宿っていることに船乗りたちは気づかなかった。
甲板へと姿を消していく男たちを見送って、少女は振り返ると胸の高鳴りに頬をほころばせて船着き場から一本入った裏路地で待つ侍女のもとへと足を向けた。
 

「どうやら収穫がおありでしたようですね?」
「ふふふ……大収穫じゃ。妾もまさかこれほどとは思わなかったわ」
 

先ほどまでの無邪気な様子とは打って変わって少女は適齢期の女性のような大人びた笑いを浮かべた。
やれやれと言いたげに侍女が肩をすくめて嘆息する。
これさえなければ姫はどこに出しても恥ずかしくない完璧な令嬢なのだが。
そう考えながらも侍女は彼女がその生まれもった性質のままに生きられることを望んでいた。
 

侍女の名をサレス・マジョラスと言う。
長身でスラリと伸びた手足は良く見れば鍛え上げられ刃物を扱うための筋肉が無駄なくついていることが窺える。
もともとは彼女はオスマンからコンスタンティノポリスに送りこまれたスパイであった。
ひょんなことから少女に素性を暴かれて一時はサレスも死を覚悟したのだが、なぜか今では侍女兼護衛として少女に雇われる身となっていた。
しかしそんな環境がなぜかとても心地いい。
――――――サレスにとって少女はまたとない命を託すに足りる主人であったのである。
 

少女の名をヘレナ・パレオロギナ。
数奇な運命を背負って生まれてきた、ローマ帝国でも数少ない帝家の姫君だった。

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