彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版

高見 梁川

第十七話  トランシルヴァニア侵攻その1

トランシルヴァニアの経済的支配階級はドイツ系サス人(ザクセン人)である。
ハンガリーの王位をドイツ人である神聖ローマ帝国皇帝が兼任した結果、植民したドイツ系移民は様々な特権を現地で享受することができたからだ。
彼らは商業を中心に成功を収め、トランシルヴァニア内にドイツ風の自治都市を建設するまでに繁栄した。
この都市群をジーベンビュルゲンといい、ブラショフとシギショアラはその中心的役割を果たす商業都市でありサス人の砦でもあった……………。
 

 

「失敗したというのですか??」
「まったく悪運の強い男でして……」
 

トランシルヴァニアの二大都市ブラショフ商会の会頭であるバルドイは失望に思わず声を荒げた。
あの男がワラキアの大公になってからというものトランシルヴァニア商人は各地の市場で駆逐されつつある。
もともと価格自由権という反則じみた特権にあぐらをかいていたのが悪かった。
といってもこちらの言い値で売り、買値も思うがままなどという恐喝紛いの商売が成立してはまともに働こうと考えることは難しい。
何の苦労もなく、一方的にルーマニア人から搾取することのできる商売に浸りきっていたサス商人は、いつものようにハンガリー王国に助けを求めたのだが、あろうことか
ワラキア公ヴラドはハンガリーの英雄ヤーノシュを撃退してしまう。
まさかワラキアの若僧が英雄ヤーノシュを撃退するとは思ってもみなかったトランシルヴァニアの商業を支配するサス人は慌てた。
このままではいつになったらヴラドを引きずり降ろせるかわかったものではない。
その間にもワラキアの市場は発展を続け、トランシルヴァニアの経済圏は縮小する一方なのだ。
それどころかいつの間にかヴェネツィアの商人までが遠路はるばるワラキアのような田舎を訪れて長年の販路を奪い去っていく。
 

しかも2ケ月前から施行された強制貨幣通用令はもはやサス人に一刻の猶予もないという危機感を抱かせるには十分すぎた。
多国籍化したワラキアの経済市場のなかで通用貨幣としてオスマンのアスパー銀貨とワラキアのダカット金貨の併用が定められ、さらに
ハンガリーの一フロリン金貨も含めた強制交換比率が施行されたのである。
これにより、ハンガリーのフロリン金貨とワラキアのダカット金貨の交換比率をことさら高く設定していたサス人商人は再び大打撃を蒙っていた。
泣きっ面にハチとはこのことである。
 

「せっかくヤーノシュ公に忠勇な神の戦士を選んでもらったというのに…………」
 

本心を言えば上部ハンガリーなどよりワラキアの方に軍を向けて欲しかった。
しかし将来のハンガリー王を狙うヤーノシュとしてはワラキアは所詮国外の話であり、上部ハンガリーはなんといってもハンガリー国内の問題なのである。
国内の敵対貴族たちに対して優位を保つためには上部ハンガリーの奪還こそが急務であった。
かといってこのままヴラドを放置しておくという選択肢はない。
幸いにして急進的な国内改革を推し進めるヴラドは国内貴族から既得権益の侵害者として認識されていた。
手引きに協力してくれるものも多く、暗殺は有効な手段であると思われた。
確実を期すためにヤーノシュから教皇庁の伝手まで頼って屈強の戦士を送り込んだというのにどこまで悪運の強い男なのか―――――。
 

「バルドイ殿には誠にご苦労をおかけする。奴を打ち払い正当な公位を回復した暁にはこのヴラディスラフ必ずや恩義に報いよう」
 

バルドイとともに使者の報告を待っていたのは先年の戦いの後、トランシルヴァニアに亡命していた前ワラキア大公ヴラディスラフであった。
彼としてはこんなことでパトロンでもあるバルドイに下りられてはかなわない。
現在のところヴラドの排除に関する両者の利害は一致しているが、商人であるバルドイがヴラドに頭を下げてワラキア市場に参入する可能性はゼロではないのだ。
自分に投資することがトランシルヴァニアの未来の利益であることを主張しておくのは当然であった。
 

「いかにあの男でも所詮は人間。しかも後継者のいない虚弱な政権は奴ひとりが倒れるだけで瓦解する砂上の楼閣のようなもの。すでに我が手の者が次の手を打っております」
 

果たしてどこまで信用していいものかな?
バルドイは迷い始めていた。
ヴラディスラフは当時の人間としては決して無能な人間ではない。
史実においても混迷のワラキアの独立をその死にいたるまで守り通したことでも水準以上の手腕を所有していたことを窺わせる。
しかし彼にはヴラドを打倒しうる軍を組織することはできないだろうし、ヤーノシュをワラキアに引き込むだけの政治力もないであろう。
そのうえ野心は旺盛で彼が大公位を奪い返した後、バルドイとの約束を守るかどうかは不確定なように思われた。
 

―――――――いや、やはりそれでも彼にヴラドを倒してもらわねばならぬ。
隣国に誕生した英明な君主など、こちらにしてみれば迷惑以外のなにものでもない。
操りやすい愚鈍な君主に名誉と権力を与え、そして我々は金を得る。そんな関係こそが望ましいのだ。
 

しかしそれぞれの互いの未来に思いを馳せる二人が、全く見逃している事実がある。
それは利益を共有しているかのように見えるヴラディスラフとバルドイだが、彼ら自身の不利益もまた共有しているという事実であった。
彼らの敵は黙って受け身でいられるほど忍耐強い人間でも慈悲深い人間でもなく、むしろ己の敵を引き裂くことに喜びを見出す類の悪魔に等しい人物であったのである。
 

 





 

「お加減はいかがでしょうか?殿下」
「大事ない」
 

あの暗殺未遂事件以来ベルドがまるで母親のようにまとわりついて困る。
確かに目前で暗殺犯の凶行を阻止できなかったことに忸怩たるものがあるであろうことはわかるのだが、さすがに執務室の中くらいは息を抜かせてほしい。
だいたいあれからシエナの手で綿密な身元調査が行われた精鋭の護衛団が組織されているからベルドにできることはないのだ。
 

「――――――やはりお考えなおしはいただけないでしょうか?」
「こればっかりは無理だな」
 

ベルドが俺の体調を慮ってくれるのは有難いがこればかりは話が別だ。
暗殺未遂事件で意識を回復させた俺はトランシルヴァニア侵攻を宣言していた。
これは本来の力関係からすればありえないことだ。
ハンガリー・トランシルヴァニア連合とワラキアとの国力差は隔絶しており、その差は生半なことで埋まるものではない。
しかし今にかぎってはその前提が崩れていた。
すなわち上部ハンガリーの雄、ヤン・イスクラとヴラドは対ハンガリー戦において盟友関係にあったからである。
どっぷりと上部ハンガリーに拘束されているヤーノシュは、トランシルヴァニアを早急には救援することができないはずであった。
それに殺されかかって何のお返しも考えないほど俺はお人よしな人間ではない。
 

最初俺が自ら出陣すると言ったときにはベルドもネイもタンブルも揃って反対した。
敵地奥深く侵攻する危険を考えれば大公自ら出陣するのは危険だ、と。
しかしこの程度の敵を相手に敗北するようではどのみち俺の地位も長続きするものではない。
上部ハンガリーを片づけたヤーノシュが本腰をあげてワラキア征服に乗り出せばいずれにせよワラキアのジリ貧は避けられないのだ。
それに首尾よくトランシルヴァニアを占領したとしても、その後の政治的落とし所を探るのは俺でなくてはならなかった。
 

「今のうちに学んでおけ。いずれお前が決断をしなくてはならないその日のために」
「…………はい」
 

悔しいがまだ自分には力が足りない。
殿下の代わりを務めるだけの知識も経験も度量もない。
それがベルドにはたまらなく悔しく無念であった。
―――――あの日殿下に命を救われたのはこんな無力な自分を自覚するためではなかったはずだ。
いつか必ず殿下に追いつく。追いついてみせる。
そして殿下の理想を実現するための頼れる力となるのだ!
 

 

常備軍のほぼ全軍となる兵二千、そして友好的な貴族軍からなる数百の軍勢がトゥルゴヴィシュテに集められていた。
真紅の軍装で統一された煌びやかな近衛軍はその中でもひと際異彩を放っている。
中世ワラキアの赤備えを率いるのは俺の代理を務める側近のベルドである。
その中を一糸乱れぬ統率ぶりで配下の精鋭とともに粛々とヴラドの前に進み出たゲクランがその長い手で剣を抜き、ゆっくりと儀式の礼をとった。
 

「我らが大公殿下に聖アンデレの祝福あれ!アンデレ、ヴラド!アンデレ、ヴラド!アンデレ!ヴラド!」
「アンデレ!ヴラド!」
「アンデレ!ヴラド!」
「アンデレ!ヴラド!」
 

はちきれんばかりに膨れ上がった士気とともに兵士たちの鬨の声がこだまする。
小国であったワラキアが、攻められるばかりであったワラキアが、遂にこちらからうって出るという事実が兵士たちを昂揚させていた。
もはやそこに素人臭かった農家の次男坊の面影や、荒くれで教養のない傭兵の面影はない。
どこの国にも負けぬ精鋭の軍人の姿がそこにあった。
 

――――――俺に喧嘩を売ったことを地獄の底まで後悔しろ。
 

昨年のヤーノシュ侵攻を退けたのはまだ運の要素も濃かった。
しかし今日からはもうまともに戦っても負けん。
俺は固唾を呑んで命令を待つ信頼すべき兵士たちにむかって高らかに戦いの開始を告げた。
 

 

 



 

―――――――おかしい。
 

ヤーノシュの勘が警告を発している。
戦いの推移はそれほど予想と変わらぬはずなのに、不可思議な違和感と焦燥は募る一方であった。
いったい何が違う?
私はいったい何を見逃しているというのだ?
 

この焦燥感には覚えがあった。
忘れもしない、ヴァルナの戦いで国王ヴワディスワフ1世が突撃する前に感じたものと同種のものだ。
ならば私はこのまま戦いを続ければ陛下のように命を落とすとでもいうのか?
そんな馬鹿な――――――。
 

 

ヤン・イスクラ率いるフス派の残党との戦闘は、彼らの防御壁を突破することが出来ずにこう着状態に陥っていた。
装甲を施した堡類車両と短銃で武装した彼らの戦術は、先年野戦築城によってハンガリー軍を撃破したヴラドが模倣するほどに優れたものだ。
だからこそ、今回の出兵でヤーノシュは軽騎兵を下馬させ、さらに攻城兵器まで投入して射撃戦に徹していた。
ハンガリーが誇る野戦機動部隊はこの種の防御部隊に相性が悪すぎるのだ。
 

おかげで損害は極限され、ヤン・イスクラに与えている被害もこれまでで一番成果があがっていると言っていい。
しかし不審なのはいつになくヤン・イスクラの守備が重く感じられることであろうか………。
 

彼らは土地を守ることに固執しない。
戦況が悪くなれば恥も外聞もなくとっとと逃げ出し敵を懐に引きずりこんで再び反撃に出る。
現在のように延々と続く射撃戦は決して彼らを利するものではないはずだ。
にもかかわらず消耗を承知で射撃戦を継続する彼らが、ヤーノシュには何とも言えず不気味に思えるのだった。
 

…………何がある?いったい何をたくらむというのだ、ヤン・イスクラ!
 

目に見えて敵の防御火力が落ち込んでいる。
堡塁車両を連結した防御線は健在だが、そのいくつかはヤーノシュが持ち込んだ攻城用の大砲によって使用不能に追い込まれていた。
それでも疑念が晴れない。またもや罠に引きずり込まれているようなそんな予感が消えない………。
 





 

「はっはあ!今頃頭悩ましてるんだろうなあ、ヤーノシュの親父よぉ!」
 

ヤン・イスクラは悪戯に成功した子供のように満面に笑みを浮かべていた。
さすがはヤーノシュ、馬鹿の一つ覚えのように突撃を繰り返していたドイツ騎士団の連中とはさすがに一味も二味も違っている。
二つだけとはいえ、この戦場に大砲を持ち込んだことは感嘆に値した。
おかげで貴重な堡塁車両を幾台も失うはめになってしまった。
 

「しっかしなあ………自分が有利なうちは退けんだろう?ヤーノシュさんよ」
 

戦が不利な時に退くことは容易い。
しかし現に味方が押している状態で退くことは至難の技だった。
もうひと押し、もうひと押しで敵を崩せるという勝利への誘惑はなにものにも抗しがたく恐ろしいほどに魅力的なのである。
それがこれまで苦渋を飲まされてきた相手ならなおのことだ。
 

しかし残念ながらヤーノシュがいくら頑張ったところで味方は崩れはしない。崩させはしない。
ヤーノシュの目には我々が弱りつつあるように見えるのだろうが、それはあえて兵を退かせ、わざと示弱してみせているにすぎないのだ。
ともすれば演技に付け込まれて突破されかねない戦線を寡兵で支えているのは、実に歴戦の指揮官であるヤン・イスクラの名人芸ともいうべき運用能力によるものだった。
 

「坊主…………あんまりオレを待たせんじゃねえぞ!」
 

射撃戦のあい間に行われるハンガリー歩兵の突撃への対応を的確に指示しながらヤン・イスクラは遠い東の空へ獰猛な笑みを向けた。
今頃あの愉快な友人はトランシルヴァニアに通じる南カルパチア山脈を越えているはずであった。
 




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