彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第八話 故郷への帰還その3
「それでオスマン軍は帰還したのだな?」
「はっ、間違いなく………」
 
先ごろのワラキアでも完全に予想外の敗北にヤーノシュは柄にもなく激昂し、側近達の制止がなければ危うくパスラフに死を宣告するところであった。
そもそもヤーノシュとしては念には念を入れて必勝の態勢を築いたつもりなのである。
これで敗北したとなれば、次は自分自身が出馬しなくては対抗することの難しい容易ならざる敵ということになる。
出来ればワラキアなどに関わり合っていたくないヤーノシュにとって痛恨の蹉跌であった。
 
とはいえ明るい材料がないわけではない。
せっかく勝利したヴラド・ドラクリヤは慢心したのか降伏してきた貴族を厳罰に処し、中立派の貴族との間に不和を招いていた。
勝利とともにオスマンの援軍が撤兵することを考えれば国内貴族の懐柔は必須であり、それが出来なかったヴラドの戦力は先ごろよりもむしろ縮小していると聞く。
ヴラドに追放されたワラキア貴族は現在トランシルヴァニアで復仇の機会を狙っており、ほぼその全員がヴラディスラフのもとでハンガリーに組することを誓っていた。
それほど役に立つとも思えないが、弾よけの捨て石くらいにはつかえるだろう。
今はハンガリー兵は一兵であっても惜しい時なのだから。
 
このときフニャディ・ヤーノシュ38歳、まさに男盛りといっていい年齢である。
彼は若き日神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントに見出され、傭兵隊長からトレンシルヴァニア公へと抜擢された。
もともとはワラキアからトランシルヴァニアへ流れてきた豪族の出身であるとも言われ、決して高貴な身分などではなくただその力量によってハンガリー王国の摂政にまでのぼりつめた立志伝中の人物である。
身長は小柄ながら炯炯と輝く眼光と知性にあふれる表情は彼が一代の英雄であることを告げているかのようであった。
しかし弱点がないわけではない。
下層階級の出身であることから後ろ盾が薄く、ヴァルナの戦いで主君ウラースロー1世を失ったときには危うく責任をとって処刑される寸前まで追いやられた。
彼が救われたのは、国王を失ったことでハンガリー国内が未曾有の混乱に陥ったこと、そして皇帝ジギスムントの腹心として培われたローマ教皇庁との太いパイプのおかげであった。
ヤーノシュはキリスト教の擁護者として、オスマンに立ち向かう英雄として、現在ローマ教皇庁の期待に応えられる数少ない人材である。
史実において彼が十字軍を組織し、たびたびオスマン朝と戦ったのもその期待と決して無縁なものではない。
だからこそ彼はハンガリー王国の喉の奥に刺さったままの小骨。
すなわち、上部ハンガリー地方を実行支配するキリスト教異端、フス派の生き残りを早急に処分する必要に迫られていた。
 
「親子揃って我が前に屍をさらしてくれる――――――!」
 
圧倒的に国力で勝るとはいえヤーノシュの政治的基盤はそれほど強固なものではない。
短期決戦で、しかも反撃の余地もないほどに叩きつぶす。
オスマンの兵制を取り入れたものかどうも不可思議な兵の使い方をするらしいが、そうした小細工で埋まり切るほど両国の戦力差は少ないものではなかった。
そして生じる損害の大小を抜きにすれば自分がヴラドに負けるなどということを、ヤーノシュは想像すらできずにいたのである。
 
 
 
 
 
「ハンガリー連合軍の総兵力は一万余、というところですか………まあ妥当なところですね」
 
斥候部隊を率いたベルドは眼下を行進してくる大軍を見下ろしていた。
いくらヤーノシュが短期決戦を指向していても、相手が乗ってこなくては話にならない。
兵站にかかる負担を考慮するならばやはり一万程度の軍勢が維持的に妥当な数になるのである。
これが十字軍のように各国から資金の提供を受け、現地調達を容赦なく行えるということであれば話は別だろうが、今回のようにもう一人のワラキア公ヴラディスラフを同行している現状では
それを無秩序に行うことは許されまい。
 
「………それにしても本当に殿下のいうとおり2カ月以内にきましたね。さすがです」
 
全幅の信頼をおいている主君ではあるが、わずか2ケ月以内にヤーノシュが来襲すると言われたときには耳を疑ったものである。
それほどに軍事行動というものは準備と労力に時間がかかるのが常識であった。
逆にいえば、それだけヤーノシュが主君ヴラドを危険視していることの証左でもあるだろう。
ここは気を引き締め主君の役に立たなくてはならなかった。
 
「手はず通りにハンガリー騎兵の鼻面を引きずりまわしてやりなさい」
 
ヤーノシュは間違いなくあせっている。
ようやく手に入れたハンガリー王国摂政という地位と、もはや指呼の間にとらえた感のあるハンガリー王位という果実を失うことを恐れている。
ワラキアという小国相手にたび重なる敗北は、軍事的勝利によって現在の地位を築き上げてきたヤーノシュの影響力の低下を必然的に招くものであった。
長引かせずに鮮やかに勝ちたい。
そのためにはまず何をおいてもヴラド率いるワラキア軍の主力を捕捉することが重要であった。
 
「いかにも必死に本隊にむかって逃げていると見せかければよい」
 
積極的な軍事行動を望んでいる軍であるならば、偶発的にも戦端が開いてしまえばあとはなし崩し的に全面対決になだれ込む。
経験豊富なヤーノシュが策をめぐらす時間を与えぬうちに戦端をひらかせてしまうこと。
それがベルドたちに与えられた任務なのだった。
 
 
ハンガリー軍の先頭集団を率いるのは先ごろの戦においてヴラドに完敗したパスラフ将軍である。
もともと騎兵を操るのに巧みな戦術指揮官であった彼は汚名返上のために先陣を願い出て許されたことで旺盛な戦意に満ちあふれていた。
騎兵指揮官は馬に弱気を伝えてはならない。
そうした意味で、もはや後のないパスラフを先陣にあてたことは実にヤーノシュらしい人事の妙ということも出来たのだった。
ただヴラドの思惑を別にすればだが。
威力偵察に来たらしい少数のワラキア軍騎兵を発見したパスラフな獰猛な笑みを浮かべて気合いをいれるとともに馬腹を蹴った。
――――――決して逃がさん。
ワラキアごときの三流騎兵が我が剣先から逃れらると思わぬことだ。
事実騎兵としての力量も戦力もワラキアはハンガリーの足元にも及ばないであろう。
取り乱したように一目散に逃亡するワラキア兵を追って、パスラフは復讐の快感に酔っていた。
さらに別方面で接敵した前面部隊のいくつかも、釣られるようにして敗走するワラキア騎兵の後を追いつつあったのである。
 
 
 
 
「さて、まずは予定どおりか」
 
生きのいい餌に食いついたハンガリー騎兵を見て俺はホッと胸をなでおろしていた。
なんといっても我が軍の戦略の肝は敵の方から攻め込んでもらうことにこそある。
まともに戦っては勝てないための窮余の一策である。
傭兵たちはともかく雇ったばかりの新兵はまともに槍を振ることさえおぼつかないのだ。
間諜からの情報で先陣がパスラフであると知ったときには我が事成れり、と思わず小躍りしたい気持ちでいっぱいだった。
 
「おいっ!てめえら!心配しねえで訓練どおりに動け!グダグダぬかす奴は明日から一週間休みなしで穴掘りだ!」
「それだけは勘弁してください!」
 
ゲクランの野太い雄たけびに突貫工事と訓練の日々を思い起こした新兵たちが魂の底から嘆願の叫びをあげ、それを聞いた傭兵たちが笑う。
農家の次男三男の多い新兵たちでさえ、連日の訓練の厳しさは骨身に浸みていたらしかった。
迫りくるハンガリー騎兵の恐怖すら忘れるほどに。
 
「褒美をもらって休みが欲しいか?なら目ん玉かっぽじって獲物を見ろ!よっく狙ってハンガリーの玉無しどもに鉛玉をプレゼントしてやれ!」
「おおおっ!」
 
 
「ほう、叫びおるわ。ワラキアのくずどもめが」
 
パスラフは逃げまどう騎兵とは裏腹に戦意の旺盛なワラキア歩兵たちの雄たけびに口元を歪めた。
戦意ある兵士たちを蹂躙してこそ復讐の快感も増すというものだ。
確かにテルシオは堅陣かもしれないが、今回は部隊の主力はハンガリー軍であり、さらに歩兵の支援も受けられるはずであった。
何より今日の主将はヴラディスラフのような堕弱者ではなく、キリスト教世界に冠たる用兵家フニャディ・ヤーノシュなのである。
 
「突げええええええええきっ!」
 
パスラフに他の先遣部隊も加わって千を超える騎兵部隊が馬蹄を轟かし、土煙をあげてワラキア軍の本陣へと吶喊した。
すると近づくにつれて不自然に打ちこまれた杭と杭の間に何やら紐のようなものが結ばれているのが見受けられた。
しかし金属鎧を身に纏った騎兵部隊を相手に紐ごときが役に立とうはずもない。
そう考えたパスラフの眼前で、驚くべきことに自慢の精鋭騎兵たちが次々と悲鳴をあげて愛馬とともに大地に倒れ伏していったのである。
 
「なんだ?いったい何が起こっている?」
 
慌てて手綱を引き、突撃を留まろうとするのと同時にワラキア軍から射撃が開始された。
重い騎士を乗せて突撃に移った馬を止めるのは熟練の騎士でも非常に難しい技量が要求される。
ただでさえ馬に無理をさせているところに、表面積の大きな騎兵が制止してしまえばそれはもはや格好の的にしかならなかった。
 
「てめえら!よっく狙ったか?ならば放てええええ!!」
 
ゲクランの怒号と同時に満を持して銃と弩がいっせいに放たれる。
あるものは馬を射られて愛馬の下敷きになり、またあるものは強力な鎧の鉄板を銃弾に貫かれ血反吐を吐いて即死した。
実のところ近距離で放たれる火縄銃の貫徹力は現代のライフル銃にも劣るものではない、むしろ破壊力では勝っていると言える。
劣るとすれば連射率と命中率くらいなものなのである。
次々と打ち倒されていく僚友たちにパスラフは奥歯を噛みしめて怒号した。
 
「卑怯な………!!」
 
ようやくパスラフの目にワラキア軍が設置したであろう罠の正体が明らかになっていた。
鉄線である。
ねじり合わせることで強度を増した鉄線が杭と杭の間に張り巡らされていた。
棘のように張り出しを有した鉄線がからみつき、一旦これにからまればもはや容易に抜け出すことは出来ない。
なんという悪辣な手段を考えついたのだ……!
 
これは有史以来初めて実戦に投入された有刺鉄線であった。
もともとは1865年にフランスで発明されたもので、アメリカの西部開拓地で農地を防御する必要から急速に普及していった。
その効果と有用性は現代でもなお有刺鉄線がごく身近に使われていることでも理解できるだろう。
設置と生産方法が容易なだけに、わずか2ケ月の間に準備することができたワラキア軍の切り札だった。
 
「くそっ!退け!早く歩兵を…………!」
 
配下の騎兵部隊の無駄死にを阻止すべく、撤兵と歩兵の進出を促そうとしたパスラフの胴体を一発の弾丸が貫き、現代の銃に比べて口径の大きな鉛の弾丸はそのエネルギーを彼の背中に向かって解放して
見るも無残な破口を穿つことに成功した。
血と臓腑を盛大に弾丸とともに撒き散らしたパスラフが沈黙とともに倒れたとき、ハンガリー騎兵部隊は無秩序な混乱を立て直すことのできる人物を失った。
悲鳴と絶叫があがり、哀しげな声で馬がいななく。
それでもワラキア軍の射撃は止まない、止むはずがない。
せっかくの獲物を一匹たりも逃がすまいと猛烈な射撃が継続した。
いつしかワラキア軍の前面はハンガリー軍の人馬によって鮮血と汚物が撒き散らされた煉獄と化しつつあった。
 
 
 
先頭集団がワラキア軍との戦闘に入ったという報告を受けて、ようやくヤーノシュが戦場に姿を現したとき、すでに先鋒軍は何百と言う屍をさらして壊滅したあとであった。
 
「なんということだ………………」
 
すでにして鮮やかな完勝という立場は失われていた。
そして長年苦労して育て上げてきた精鋭無比の騎兵たちをも。
ハンガリー軍の戦意の高さをものの見事に逆手に取ったヴラドが本陣で高笑いしている気がして、ヤーノシュはわれ知らずギョロリと特徴的な大きな目を剥いて唇を噛みしめたのだった。
 
「はっ、間違いなく………」
 
先ごろのワラキアでも完全に予想外の敗北にヤーノシュは柄にもなく激昂し、側近達の制止がなければ危うくパスラフに死を宣告するところであった。
そもそもヤーノシュとしては念には念を入れて必勝の態勢を築いたつもりなのである。
これで敗北したとなれば、次は自分自身が出馬しなくては対抗することの難しい容易ならざる敵ということになる。
出来ればワラキアなどに関わり合っていたくないヤーノシュにとって痛恨の蹉跌であった。
 
とはいえ明るい材料がないわけではない。
せっかく勝利したヴラド・ドラクリヤは慢心したのか降伏してきた貴族を厳罰に処し、中立派の貴族との間に不和を招いていた。
勝利とともにオスマンの援軍が撤兵することを考えれば国内貴族の懐柔は必須であり、それが出来なかったヴラドの戦力は先ごろよりもむしろ縮小していると聞く。
ヴラドに追放されたワラキア貴族は現在トランシルヴァニアで復仇の機会を狙っており、ほぼその全員がヴラディスラフのもとでハンガリーに組することを誓っていた。
それほど役に立つとも思えないが、弾よけの捨て石くらいにはつかえるだろう。
今はハンガリー兵は一兵であっても惜しい時なのだから。
 
このときフニャディ・ヤーノシュ38歳、まさに男盛りといっていい年齢である。
彼は若き日神聖ローマ帝国皇帝ジギスムントに見出され、傭兵隊長からトレンシルヴァニア公へと抜擢された。
もともとはワラキアからトランシルヴァニアへ流れてきた豪族の出身であるとも言われ、決して高貴な身分などではなくただその力量によってハンガリー王国の摂政にまでのぼりつめた立志伝中の人物である。
身長は小柄ながら炯炯と輝く眼光と知性にあふれる表情は彼が一代の英雄であることを告げているかのようであった。
しかし弱点がないわけではない。
下層階級の出身であることから後ろ盾が薄く、ヴァルナの戦いで主君ウラースロー1世を失ったときには危うく責任をとって処刑される寸前まで追いやられた。
彼が救われたのは、国王を失ったことでハンガリー国内が未曾有の混乱に陥ったこと、そして皇帝ジギスムントの腹心として培われたローマ教皇庁との太いパイプのおかげであった。
ヤーノシュはキリスト教の擁護者として、オスマンに立ち向かう英雄として、現在ローマ教皇庁の期待に応えられる数少ない人材である。
史実において彼が十字軍を組織し、たびたびオスマン朝と戦ったのもその期待と決して無縁なものではない。
だからこそ彼はハンガリー王国の喉の奥に刺さったままの小骨。
すなわち、上部ハンガリー地方を実行支配するキリスト教異端、フス派の生き残りを早急に処分する必要に迫られていた。
 
「親子揃って我が前に屍をさらしてくれる――――――!」
 
圧倒的に国力で勝るとはいえヤーノシュの政治的基盤はそれほど強固なものではない。
短期決戦で、しかも反撃の余地もないほどに叩きつぶす。
オスマンの兵制を取り入れたものかどうも不可思議な兵の使い方をするらしいが、そうした小細工で埋まり切るほど両国の戦力差は少ないものではなかった。
そして生じる損害の大小を抜きにすれば自分がヴラドに負けるなどということを、ヤーノシュは想像すらできずにいたのである。
 
 
 
 
 
「ハンガリー連合軍の総兵力は一万余、というところですか………まあ妥当なところですね」
 
斥候部隊を率いたベルドは眼下を行進してくる大軍を見下ろしていた。
いくらヤーノシュが短期決戦を指向していても、相手が乗ってこなくては話にならない。
兵站にかかる負担を考慮するならばやはり一万程度の軍勢が維持的に妥当な数になるのである。
これが十字軍のように各国から資金の提供を受け、現地調達を容赦なく行えるということであれば話は別だろうが、今回のようにもう一人のワラキア公ヴラディスラフを同行している現状では
それを無秩序に行うことは許されまい。
 
「………それにしても本当に殿下のいうとおり2カ月以内にきましたね。さすがです」
 
全幅の信頼をおいている主君ではあるが、わずか2ケ月以内にヤーノシュが来襲すると言われたときには耳を疑ったものである。
それほどに軍事行動というものは準備と労力に時間がかかるのが常識であった。
逆にいえば、それだけヤーノシュが主君ヴラドを危険視していることの証左でもあるだろう。
ここは気を引き締め主君の役に立たなくてはならなかった。
 
「手はず通りにハンガリー騎兵の鼻面を引きずりまわしてやりなさい」
 
ヤーノシュは間違いなくあせっている。
ようやく手に入れたハンガリー王国摂政という地位と、もはや指呼の間にとらえた感のあるハンガリー王位という果実を失うことを恐れている。
ワラキアという小国相手にたび重なる敗北は、軍事的勝利によって現在の地位を築き上げてきたヤーノシュの影響力の低下を必然的に招くものであった。
長引かせずに鮮やかに勝ちたい。
そのためにはまず何をおいてもヴラド率いるワラキア軍の主力を捕捉することが重要であった。
 
「いかにも必死に本隊にむかって逃げていると見せかければよい」
 
積極的な軍事行動を望んでいる軍であるならば、偶発的にも戦端が開いてしまえばあとはなし崩し的に全面対決になだれ込む。
経験豊富なヤーノシュが策をめぐらす時間を与えぬうちに戦端をひらかせてしまうこと。
それがベルドたちに与えられた任務なのだった。
 
 
ハンガリー軍の先頭集団を率いるのは先ごろの戦においてヴラドに完敗したパスラフ将軍である。
もともと騎兵を操るのに巧みな戦術指揮官であった彼は汚名返上のために先陣を願い出て許されたことで旺盛な戦意に満ちあふれていた。
騎兵指揮官は馬に弱気を伝えてはならない。
そうした意味で、もはや後のないパスラフを先陣にあてたことは実にヤーノシュらしい人事の妙ということも出来たのだった。
ただヴラドの思惑を別にすればだが。
威力偵察に来たらしい少数のワラキア軍騎兵を発見したパスラフな獰猛な笑みを浮かべて気合いをいれるとともに馬腹を蹴った。
――――――決して逃がさん。
ワラキアごときの三流騎兵が我が剣先から逃れらると思わぬことだ。
事実騎兵としての力量も戦力もワラキアはハンガリーの足元にも及ばないであろう。
取り乱したように一目散に逃亡するワラキア兵を追って、パスラフは復讐の快感に酔っていた。
さらに別方面で接敵した前面部隊のいくつかも、釣られるようにして敗走するワラキア騎兵の後を追いつつあったのである。
 
 
 
 
「さて、まずは予定どおりか」
 
生きのいい餌に食いついたハンガリー騎兵を見て俺はホッと胸をなでおろしていた。
なんといっても我が軍の戦略の肝は敵の方から攻め込んでもらうことにこそある。
まともに戦っては勝てないための窮余の一策である。
傭兵たちはともかく雇ったばかりの新兵はまともに槍を振ることさえおぼつかないのだ。
間諜からの情報で先陣がパスラフであると知ったときには我が事成れり、と思わず小躍りしたい気持ちでいっぱいだった。
 
「おいっ!てめえら!心配しねえで訓練どおりに動け!グダグダぬかす奴は明日から一週間休みなしで穴掘りだ!」
「それだけは勘弁してください!」
 
ゲクランの野太い雄たけびに突貫工事と訓練の日々を思い起こした新兵たちが魂の底から嘆願の叫びをあげ、それを聞いた傭兵たちが笑う。
農家の次男三男の多い新兵たちでさえ、連日の訓練の厳しさは骨身に浸みていたらしかった。
迫りくるハンガリー騎兵の恐怖すら忘れるほどに。
 
「褒美をもらって休みが欲しいか?なら目ん玉かっぽじって獲物を見ろ!よっく狙ってハンガリーの玉無しどもに鉛玉をプレゼントしてやれ!」
「おおおっ!」
 
 
「ほう、叫びおるわ。ワラキアのくずどもめが」
 
パスラフは逃げまどう騎兵とは裏腹に戦意の旺盛なワラキア歩兵たちの雄たけびに口元を歪めた。
戦意ある兵士たちを蹂躙してこそ復讐の快感も増すというものだ。
確かにテルシオは堅陣かもしれないが、今回は部隊の主力はハンガリー軍であり、さらに歩兵の支援も受けられるはずであった。
何より今日の主将はヴラディスラフのような堕弱者ではなく、キリスト教世界に冠たる用兵家フニャディ・ヤーノシュなのである。
 
「突げええええええええきっ!」
 
パスラフに他の先遣部隊も加わって千を超える騎兵部隊が馬蹄を轟かし、土煙をあげてワラキア軍の本陣へと吶喊した。
すると近づくにつれて不自然に打ちこまれた杭と杭の間に何やら紐のようなものが結ばれているのが見受けられた。
しかし金属鎧を身に纏った騎兵部隊を相手に紐ごときが役に立とうはずもない。
そう考えたパスラフの眼前で、驚くべきことに自慢の精鋭騎兵たちが次々と悲鳴をあげて愛馬とともに大地に倒れ伏していったのである。
 
「なんだ?いったい何が起こっている?」
 
慌てて手綱を引き、突撃を留まろうとするのと同時にワラキア軍から射撃が開始された。
重い騎士を乗せて突撃に移った馬を止めるのは熟練の騎士でも非常に難しい技量が要求される。
ただでさえ馬に無理をさせているところに、表面積の大きな騎兵が制止してしまえばそれはもはや格好の的にしかならなかった。
 
「てめえら!よっく狙ったか?ならば放てええええ!!」
 
ゲクランの怒号と同時に満を持して銃と弩がいっせいに放たれる。
あるものは馬を射られて愛馬の下敷きになり、またあるものは強力な鎧の鉄板を銃弾に貫かれ血反吐を吐いて即死した。
実のところ近距離で放たれる火縄銃の貫徹力は現代のライフル銃にも劣るものではない、むしろ破壊力では勝っていると言える。
劣るとすれば連射率と命中率くらいなものなのである。
次々と打ち倒されていく僚友たちにパスラフは奥歯を噛みしめて怒号した。
 
「卑怯な………!!」
 
ようやくパスラフの目にワラキア軍が設置したであろう罠の正体が明らかになっていた。
鉄線である。
ねじり合わせることで強度を増した鉄線が杭と杭の間に張り巡らされていた。
棘のように張り出しを有した鉄線がからみつき、一旦これにからまればもはや容易に抜け出すことは出来ない。
なんという悪辣な手段を考えついたのだ……!
 
これは有史以来初めて実戦に投入された有刺鉄線であった。
もともとは1865年にフランスで発明されたもので、アメリカの西部開拓地で農地を防御する必要から急速に普及していった。
その効果と有用性は現代でもなお有刺鉄線がごく身近に使われていることでも理解できるだろう。
設置と生産方法が容易なだけに、わずか2ケ月の間に準備することができたワラキア軍の切り札だった。
 
「くそっ!退け!早く歩兵を…………!」
 
配下の騎兵部隊の無駄死にを阻止すべく、撤兵と歩兵の進出を促そうとしたパスラフの胴体を一発の弾丸が貫き、現代の銃に比べて口径の大きな鉛の弾丸はそのエネルギーを彼の背中に向かって解放して
見るも無残な破口を穿つことに成功した。
血と臓腑を盛大に弾丸とともに撒き散らしたパスラフが沈黙とともに倒れたとき、ハンガリー騎兵部隊は無秩序な混乱を立て直すことのできる人物を失った。
悲鳴と絶叫があがり、哀しげな声で馬がいななく。
それでもワラキア軍の射撃は止まない、止むはずがない。
せっかくの獲物を一匹たりも逃がすまいと猛烈な射撃が継続した。
いつしかワラキア軍の前面はハンガリー軍の人馬によって鮮血と汚物が撒き散らされた煉獄と化しつつあった。
 
 
 
先頭集団がワラキア軍との戦闘に入ったという報告を受けて、ようやくヤーノシュが戦場に姿を現したとき、すでに先鋒軍は何百と言う屍をさらして壊滅したあとであった。
 
「なんということだ………………」
 
すでにして鮮やかな完勝という立場は失われていた。
そして長年苦労して育て上げてきた精鋭無比の騎兵たちをも。
ハンガリー軍の戦意の高さをものの見事に逆手に取ったヴラドが本陣で高笑いしている気がして、ヤーノシュはわれ知らずギョロリと特徴的な大きな目を剥いて唇を噛みしめたのだった。
 
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