彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第九話 故郷への帰還その4
完全な勝利がのぞむべくもなくなった今、ヤーノシュに求められているのは相対的勝利。
すなわち内外に政治的に勝利を宣言できるだけのワラキア軍に対する戦術的勝利となった。
少なくとも、ワラキア軍を敗走させたという事実が必要となったのである。
 
「騎兵の収容を急がせよ。一人でも多く生かして故郷へ連れて帰るのだ!」
 
しかし仮に勝利したとしてもこれほどの騎兵の損害は痛恨事であった。
馬という動物は飼育と調教に時間がかかり、これを保持し、運用することのできるものの多くは裕福な騎士であり、とてもではないが一朝一夕に補充できるものではなかったからだ。
 
「両翼を伸ばせ!全方位から圧力をかけるのだ!」
 
さすが歴戦の勇士であるだけに、ヤーノシュはワラキア軍の弱点を正確に看破していた。
そもそも軍という組織は高度な規律と訓練を必要とする組織である。
軍としての主力を傭兵に頼らざるをえないワラキア軍はこの組織力において非常なもろさを内包していた。
ならばそのもろさを露呈するほどにただ圧力をかけ続けるだけで、遠からず致命的な失敗を犯してワラキア軍は崩壊する。
練度の低いワラキア軍が長時間のハンガリー精鋭に対する戦闘を継続できないことは、もちろんヴラドもゲクランもよく承知していた。
 
 
 
「確かにこっちはまだまだ弱いが弱いなりにちゃんと準備はしてるんだぜ?ヤーノシュ」
 
確かに兵力と質において圧倒するハンガリー軍が小細工する必要はない。
ただ真っ当に正攻法を取るだけで結成から間も浅いワラキア軍の敗北は確実なのだから。
事実俺も正面から殴りあったらおそらく一時間ともたないであろうことは予想していた。
だから当然まともにやりあうことなど思いもよらない。
弱者には弱者なりの戦いがあるということをもう一度ヤーノシュに思い出させてやる。
 
 
ガラガラガラガラ
 
車輪の回る音が響き渡り、射撃を終えた兵士が後方に下がるのに合わせて車輪の大きな馬車が入れ替わるように前進してきた。
馬車同士は巨大な鎖で連結されており、馬車を守るようにして長槍兵部隊が槍襖をつくって展開していくのを悪夢でも見るような思いでヤーノシュは唖然と凝視した。
彼はそのものを何度も見た経験があったからだ。
 
「ヴラド…………貴様!勝利のために悪魔に魂を売ったか!?」
 
巨大な馬車を連結し、ぶ厚いオーク材で装甲された馬車のなかから、ただ火力だけで戦うために編み出された新戦術。
軍人ではない信徒の農民や市民を戦力化するために、天才ヤン・ジシュカが発明したもっとも近代に近い戦術にヤーノシュは幾度となく苦杯を嘗めさせられてきた。
ヴラドが戦場に持ちだしたそれは不敗の異端、フス派の使用する戦車に酷似していた。
 
「恥知らずめ!やはり貴様はあの男の息子だ!悪魔め!悪魔の申し子め!」
 
脳の血管が灼ききれるのではないか、というほどに怒り狂ってはいたが、ヤーノシュの戦略家としての頭脳は勝機がもはや過ぎ去ったことを諦念とともに理解していた。
あの馬車で造られた城塞はまともな野戦で攻略することは難しい。
何度も敗北を繰り返してわかったことだが、フス派の馬車は移動する一個の城であった。
すなわち、必要とされるのは野戦における機動力と士気ではなく、攻城戦における火力と兵数なのである。
今日の戦いを短期決戦のつもりで臨んだハンガリー軍に攻城戦を行うだけの準備はない。
 
それにあの戦術はフス派の悪魔が練度の低い農民でも、騎士を相手に戦うことができるよう編み出されたものだ。
強固な防御施設である馬車の中で、軍事訓練を碌に受けていない信徒を射撃だけに専念させる。
傭兵あがりの軍人に馬車を守らせ、素人の平民を戦力化するというこの手法は当時の封建社会の中ではコロンブスの卵的な発想だった。
攻めれば貴重な熟練兵がワラキアの新兵に倍する速度で失われていく。
ヤーノシュにとって血筋と莫大な育成費用をかけた騎士と平民は決して同価値なものではなかった。
フス派が勝ち続けた理由は、確かに画期的な戦術に負うところも大きいが、平民ごときのために名のある騎士を殺したくないというのも大きな理由のひとつであったのである。
実体験としてそれが理解できるだけにヤーノシュには歯がゆい。
それではなぜヤーノシュがこれほど有用な戦術を模倣しなかったのか?ということになればそれは当然ヤーノシュ自身が野心家であると同時に敬虔なキリスト教徒であったからだ。
悪魔の手先である異端の考案した戦術など彼が採用できるはずがなかった。
 
「この屈辱は忘れん…………悪魔には悪魔に相応しい天罰があることを思い知らせてくれる!」
 
無念に顔を蒼白にしてブルブルと頬を震わせたヤーノシュは復讐を誓った。
今は凱歌をあげるがいい。
だが主は決して貴様の罪を見逃すことはない。
悪魔と手を結んで一時勝利を得たとして、それが長続きなどすることはないのだ。
 
 
「殿はワラキアの貴族どもに任せろ。あんな連中でも弾よけくらいにはなろう。逃げようとするならば遠慮なく斬り殺せ!」
 
撤退を開始したハンガリー軍に見捨てられた格好になったワラキア貴族は哀れであった。
もともと強い方の尻馬に乗ることしかできなかった彼らが最前線に投入されたのだ。
追撃のために出撃したワラキア騎兵と、隊伍を組んで前進を開始したテルシオが彼らを否応なく殺戮の巷へと巻き込んでいく。
逃げようとした幾人かの貴族が背後からハンガリー兵に斬り殺され、彼らは自らが生き残るために絶望的な抵抗を選択せざるをえなかった。
 
「畜生!ハンガリーの奴らめ!都合のいいこちばかり言いやがって………」
「わ、私はこんなところで死ぬわけにはいかん!いやだ!死ぬのはいやだ!」
 
勢いに乗るヴラド軍に士気の崩壊したワラキア貴族が相手になるはずもない。
次々と彼らの手兵は討たれ、あるいは逃亡して、見る間に彼らを守るべき兵たちは姿を消していった。
刻一刻と迫りくる死という現実を必死に受け入れまいと彼らは力の限りに叫んだ。
 
「防げ!なんとしても防ぐのだ!」
「わ、わしを置いていくな!つ、連れていってくれ!!」
 
生贄に捧げられた彼らの運命は過酷であった。
勝利の名分が得られたとはいえこのままハンガリー軍に戦力を温存されるのはワラキアにとっても好ましいものではない。
少しでもハンガリー軍に痛撃を与えようとヴラド軍の容赦のない攻撃が続く。
ネイとタンブルに率いられた騎兵の一隊が遂に止めの牙となって彼らの隊列を真っ二つに切り裂いた。
 
「た、頼む!助けてくれ!」
 
死神の槍をしごいた騎士が接近してくるのを目撃した貴族は無意識のうちに失禁し、汚物で下半身を汚しながら身を投げ出して命乞いをした。
そこには居丈高な貴族の名誉も誇りもなく、ただ生にしがみつきたいだけの幼児の姿だけがあった。
 
「神に頼め」
 
短く呟いてネイは槍を振り下ろした。
グサリと鈍い音がして、槍の穂先が男の背中から突き抜けると、口元から血をあふれさせながら涙を流して男は「死にたくない、死にたくない」と独り言をつぶやき続けた。
神の御許で天国に召されるだけの自信が、男には全く不足していたのだった。
 
「誰だって死にたくはなかったろうさ。我が父もな」
 
そう言ってネイは無感動に次の獲物を探す。
名もなき人々の犠牲の上に我が世の春を謳歌してきた貴族たちがようやくその罪を購う時が来ただけのことだ。
神の前で自分がどれだけ恥知らずであったか告白すればいい。
きっと素敵な褒美がいただけることだろう。
 
オスマンの捕虜になる前、ネイは旧ブルガリアとの国境に近いシリストラの下級貴族であった。
痩せた土地とわずかばかりの俸給でその日を暮らすのがやっとの貧乏暮らしであったが、父はヴァルナの戦いにも参戦したという腕自慢の猛者であり、地元の領民たちの信頼も厚かった。
しかし強大なオスマンを敵に回すことを恐れた領主が裏でオスマンと手を握ったことで、勇猛かつ人望の厚かったネイの父親は邪魔な存在になった。
そしてあの運命の日、父は信頼していた味方の手によって不意に縄をうたれ敵に引き渡されたのである。
ネイもまたそのときに捕えられた一人であった。
その後ほとんど時をおかずに父はオスマンの兵士によって首をはねられた。
ヴラド殿下に救われて九死に一生を得たのちは別れた母と妹の安否を確かめるために情報を集めたが、母は父と自分が捕えられたあとすぐに自ら命を絶ったという。
妹の所在は今も杳としてわからない。
 
一時は復讐の炎に身を焼きつくそうかと思ったこともあった。
自慢の父だった。
優しく包容力のある母だった。
神に対してなんら恥ずべきことのない堂々たる人生を送っている家族だった。
にもかかわらず非情にも一貴族の利益のためにささやかな家族の幸福はいとも簡単に生贄の祭壇にささげられた。
 
 
――――――ともにそんな世界を正そう。
 
ヴラド殿下にそう聞かされたときは盲を開かれた思いだった。
貴族の利益のために領民があるのではない。
名もなき領民たちの平和を守るために国と貴族があるのだ。
そうでないというのなら俺達がワラキアをそんな国に生まれ変わらせよう。
 
今は何の逡巡もなく断言することが出来る。
ネイ・クリエストラという騎士はヴラド殿下に仕えるためにこそこの世に生を受けたのだと。
 
「殿下の障害となるものはこの槍にかけて刺し穿つ!」
 
 
 
 
結局捨て石のワラキア貴族と一部の殿軍を犠牲にして、ヤーノシュは整然と損害らしい損害も出さずに退却を完了した。
その鮮やかな手腕はさすがはハンガリーの英雄らしい見事さであった。
 
「やはりそう楽には勝たせてくれない…………か」
 
うまくすれば全軍の崩壊ということもありうるか、という俺の願いもむなしくヤーノシュはその勢力を温存することに成功した。
もちろんワラキアの若僧に連敗したと言う事実はヤーノシュの政治的影響力に無視できぬ蹉跌となるであろう。
ワラキア国内で潜在的敵対勢力になるはずだった貴族が相当数粛清された効果も大きい。
これらの貴族所有地を没収するだけで、ワラキア公家は国内貴族に対して圧倒的な優位に立つことが可能であった。
 
それにしても危うかった。
勝利の安堵とともにがっくりと全身から力が抜けていくのを俺は他人事のように見つめていた。
手のひらは震え足は踏ん張りが聞かず、かろうじて馬の上にバランスをとって乗っているのが精いっぱいである。
 
「殿下、どうぞ、水でございます………」
「すまん」
 
ベルドに差し出された水を貪るように飲む。
自分でも気がつかなかったが、いつの間にか喉がひりつくほどに水分を欲していたらしかった。
冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚が、少しずつ昂揚していた神経を癒していくのが自分でもわかった。
そもそも昂揚していたことに今まで気がつかなかったほど、俺は緊張していたのである。
 
 
おそらくヤーノシュが信頼する副将に軍を与え、側方を迂回させていたら敗北していたのは自分であった。
百年戦争でのアジャンクールの戦い以来、少しずつ普及しつつある騎兵による側方迂回は古くはマケドニアの槌と金床戦法の応用にすぎない。
だがしかし東欧においてはまだまだ知られていない戦術ではあった。
だからこそ俺はヤーノシュが短期決戦を望んでいることを奇貨として防御戦術による出血の強要を採用した。
攻め込んでくるのがヤーノシュである以上、これを撃退することが出来れば戦略的にワラキアの勝利となるからであった。
それでももしも先鋒の将軍がパスラフではなく、もっと戦意の乏しい将軍であったなら。
もしもヤーノシュが危険を承知で長期戦を戦う覚悟を決めたなら。
俺の命はこの瞬間にも失われていたかもしれない……。
 
「お見事でした!大公殿下!!」
 
うっすらと涙さえ浮かべながらベルドは感激も露わに祝いの言葉を捧げた。
この主君に仕えることが出来たことが誇らしく、この戦いを勝利できたことがたまらなくうれしかった。
 
「まあ、運も実力のうちでさあね、大将」
 
俺の疲労を軍人として理解してくれているゲクランが人懐こい笑みを浮かべて頷いて見せた。
いくら勝てる算段をめぐらしても負けるときは負けるし、破れかぶれの負け戦に思えてもなぜか勝てるときは勝てる。
勝つために努力を惜しむべきではないが、今日勝てた幸運を今は喜ぶべきである。
ゲクランはそう言っているのであった。
 
 
「皆もよく戦ってくれた」
 
禍根の根は残ったかもしれないがとにかく俺は今日の賭けに勝った。
史実の2ケ月天下を覆し、押しも押されぬワラキア公としての地盤を築きあげることに成功したのだ。
 
「勝鬨をあげよ!」
 
万感の思いをこめて俺は剣を天にむかって突きあげる。
 
 
「ワラキア万歳」
すなわち内外に政治的に勝利を宣言できるだけのワラキア軍に対する戦術的勝利となった。
少なくとも、ワラキア軍を敗走させたという事実が必要となったのである。
 
「騎兵の収容を急がせよ。一人でも多く生かして故郷へ連れて帰るのだ!」
 
しかし仮に勝利したとしてもこれほどの騎兵の損害は痛恨事であった。
馬という動物は飼育と調教に時間がかかり、これを保持し、運用することのできるものの多くは裕福な騎士であり、とてもではないが一朝一夕に補充できるものではなかったからだ。
 
「両翼を伸ばせ!全方位から圧力をかけるのだ!」
 
さすが歴戦の勇士であるだけに、ヤーノシュはワラキア軍の弱点を正確に看破していた。
そもそも軍という組織は高度な規律と訓練を必要とする組織である。
軍としての主力を傭兵に頼らざるをえないワラキア軍はこの組織力において非常なもろさを内包していた。
ならばそのもろさを露呈するほどにただ圧力をかけ続けるだけで、遠からず致命的な失敗を犯してワラキア軍は崩壊する。
練度の低いワラキア軍が長時間のハンガリー精鋭に対する戦闘を継続できないことは、もちろんヴラドもゲクランもよく承知していた。
 
 
 
「確かにこっちはまだまだ弱いが弱いなりにちゃんと準備はしてるんだぜ?ヤーノシュ」
 
確かに兵力と質において圧倒するハンガリー軍が小細工する必要はない。
ただ真っ当に正攻法を取るだけで結成から間も浅いワラキア軍の敗北は確実なのだから。
事実俺も正面から殴りあったらおそらく一時間ともたないであろうことは予想していた。
だから当然まともにやりあうことなど思いもよらない。
弱者には弱者なりの戦いがあるということをもう一度ヤーノシュに思い出させてやる。
 
 
ガラガラガラガラ
 
車輪の回る音が響き渡り、射撃を終えた兵士が後方に下がるのに合わせて車輪の大きな馬車が入れ替わるように前進してきた。
馬車同士は巨大な鎖で連結されており、馬車を守るようにして長槍兵部隊が槍襖をつくって展開していくのを悪夢でも見るような思いでヤーノシュは唖然と凝視した。
彼はそのものを何度も見た経験があったからだ。
 
「ヴラド…………貴様!勝利のために悪魔に魂を売ったか!?」
 
巨大な馬車を連結し、ぶ厚いオーク材で装甲された馬車のなかから、ただ火力だけで戦うために編み出された新戦術。
軍人ではない信徒の農民や市民を戦力化するために、天才ヤン・ジシュカが発明したもっとも近代に近い戦術にヤーノシュは幾度となく苦杯を嘗めさせられてきた。
ヴラドが戦場に持ちだしたそれは不敗の異端、フス派の使用する戦車に酷似していた。
 
「恥知らずめ!やはり貴様はあの男の息子だ!悪魔め!悪魔の申し子め!」
 
脳の血管が灼ききれるのではないか、というほどに怒り狂ってはいたが、ヤーノシュの戦略家としての頭脳は勝機がもはや過ぎ去ったことを諦念とともに理解していた。
あの馬車で造られた城塞はまともな野戦で攻略することは難しい。
何度も敗北を繰り返してわかったことだが、フス派の馬車は移動する一個の城であった。
すなわち、必要とされるのは野戦における機動力と士気ではなく、攻城戦における火力と兵数なのである。
今日の戦いを短期決戦のつもりで臨んだハンガリー軍に攻城戦を行うだけの準備はない。
 
それにあの戦術はフス派の悪魔が練度の低い農民でも、騎士を相手に戦うことができるよう編み出されたものだ。
強固な防御施設である馬車の中で、軍事訓練を碌に受けていない信徒を射撃だけに専念させる。
傭兵あがりの軍人に馬車を守らせ、素人の平民を戦力化するというこの手法は当時の封建社会の中ではコロンブスの卵的な発想だった。
攻めれば貴重な熟練兵がワラキアの新兵に倍する速度で失われていく。
ヤーノシュにとって血筋と莫大な育成費用をかけた騎士と平民は決して同価値なものではなかった。
フス派が勝ち続けた理由は、確かに画期的な戦術に負うところも大きいが、平民ごときのために名のある騎士を殺したくないというのも大きな理由のひとつであったのである。
実体験としてそれが理解できるだけにヤーノシュには歯がゆい。
それではなぜヤーノシュがこれほど有用な戦術を模倣しなかったのか?ということになればそれは当然ヤーノシュ自身が野心家であると同時に敬虔なキリスト教徒であったからだ。
悪魔の手先である異端の考案した戦術など彼が採用できるはずがなかった。
 
「この屈辱は忘れん…………悪魔には悪魔に相応しい天罰があることを思い知らせてくれる!」
 
無念に顔を蒼白にしてブルブルと頬を震わせたヤーノシュは復讐を誓った。
今は凱歌をあげるがいい。
だが主は決して貴様の罪を見逃すことはない。
悪魔と手を結んで一時勝利を得たとして、それが長続きなどすることはないのだ。
 
 
「殿はワラキアの貴族どもに任せろ。あんな連中でも弾よけくらいにはなろう。逃げようとするならば遠慮なく斬り殺せ!」
 
撤退を開始したハンガリー軍に見捨てられた格好になったワラキア貴族は哀れであった。
もともと強い方の尻馬に乗ることしかできなかった彼らが最前線に投入されたのだ。
追撃のために出撃したワラキア騎兵と、隊伍を組んで前進を開始したテルシオが彼らを否応なく殺戮の巷へと巻き込んでいく。
逃げようとした幾人かの貴族が背後からハンガリー兵に斬り殺され、彼らは自らが生き残るために絶望的な抵抗を選択せざるをえなかった。
 
「畜生!ハンガリーの奴らめ!都合のいいこちばかり言いやがって………」
「わ、私はこんなところで死ぬわけにはいかん!いやだ!死ぬのはいやだ!」
 
勢いに乗るヴラド軍に士気の崩壊したワラキア貴族が相手になるはずもない。
次々と彼らの手兵は討たれ、あるいは逃亡して、見る間に彼らを守るべき兵たちは姿を消していった。
刻一刻と迫りくる死という現実を必死に受け入れまいと彼らは力の限りに叫んだ。
 
「防げ!なんとしても防ぐのだ!」
「わ、わしを置いていくな!つ、連れていってくれ!!」
 
生贄に捧げられた彼らの運命は過酷であった。
勝利の名分が得られたとはいえこのままハンガリー軍に戦力を温存されるのはワラキアにとっても好ましいものではない。
少しでもハンガリー軍に痛撃を与えようとヴラド軍の容赦のない攻撃が続く。
ネイとタンブルに率いられた騎兵の一隊が遂に止めの牙となって彼らの隊列を真っ二つに切り裂いた。
 
「た、頼む!助けてくれ!」
 
死神の槍をしごいた騎士が接近してくるのを目撃した貴族は無意識のうちに失禁し、汚物で下半身を汚しながら身を投げ出して命乞いをした。
そこには居丈高な貴族の名誉も誇りもなく、ただ生にしがみつきたいだけの幼児の姿だけがあった。
 
「神に頼め」
 
短く呟いてネイは槍を振り下ろした。
グサリと鈍い音がして、槍の穂先が男の背中から突き抜けると、口元から血をあふれさせながら涙を流して男は「死にたくない、死にたくない」と独り言をつぶやき続けた。
神の御許で天国に召されるだけの自信が、男には全く不足していたのだった。
 
「誰だって死にたくはなかったろうさ。我が父もな」
 
そう言ってネイは無感動に次の獲物を探す。
名もなき人々の犠牲の上に我が世の春を謳歌してきた貴族たちがようやくその罪を購う時が来ただけのことだ。
神の前で自分がどれだけ恥知らずであったか告白すればいい。
きっと素敵な褒美がいただけることだろう。
 
オスマンの捕虜になる前、ネイは旧ブルガリアとの国境に近いシリストラの下級貴族であった。
痩せた土地とわずかばかりの俸給でその日を暮らすのがやっとの貧乏暮らしであったが、父はヴァルナの戦いにも参戦したという腕自慢の猛者であり、地元の領民たちの信頼も厚かった。
しかし強大なオスマンを敵に回すことを恐れた領主が裏でオスマンと手を握ったことで、勇猛かつ人望の厚かったネイの父親は邪魔な存在になった。
そしてあの運命の日、父は信頼していた味方の手によって不意に縄をうたれ敵に引き渡されたのである。
ネイもまたそのときに捕えられた一人であった。
その後ほとんど時をおかずに父はオスマンの兵士によって首をはねられた。
ヴラド殿下に救われて九死に一生を得たのちは別れた母と妹の安否を確かめるために情報を集めたが、母は父と自分が捕えられたあとすぐに自ら命を絶ったという。
妹の所在は今も杳としてわからない。
 
一時は復讐の炎に身を焼きつくそうかと思ったこともあった。
自慢の父だった。
優しく包容力のある母だった。
神に対してなんら恥ずべきことのない堂々たる人生を送っている家族だった。
にもかかわらず非情にも一貴族の利益のためにささやかな家族の幸福はいとも簡単に生贄の祭壇にささげられた。
 
 
――――――ともにそんな世界を正そう。
 
ヴラド殿下にそう聞かされたときは盲を開かれた思いだった。
貴族の利益のために領民があるのではない。
名もなき領民たちの平和を守るために国と貴族があるのだ。
そうでないというのなら俺達がワラキアをそんな国に生まれ変わらせよう。
 
今は何の逡巡もなく断言することが出来る。
ネイ・クリエストラという騎士はヴラド殿下に仕えるためにこそこの世に生を受けたのだと。
 
「殿下の障害となるものはこの槍にかけて刺し穿つ!」
 
 
 
 
結局捨て石のワラキア貴族と一部の殿軍を犠牲にして、ヤーノシュは整然と損害らしい損害も出さずに退却を完了した。
その鮮やかな手腕はさすがはハンガリーの英雄らしい見事さであった。
 
「やはりそう楽には勝たせてくれない…………か」
 
うまくすれば全軍の崩壊ということもありうるか、という俺の願いもむなしくヤーノシュはその勢力を温存することに成功した。
もちろんワラキアの若僧に連敗したと言う事実はヤーノシュの政治的影響力に無視できぬ蹉跌となるであろう。
ワラキア国内で潜在的敵対勢力になるはずだった貴族が相当数粛清された効果も大きい。
これらの貴族所有地を没収するだけで、ワラキア公家は国内貴族に対して圧倒的な優位に立つことが可能であった。
 
それにしても危うかった。
勝利の安堵とともにがっくりと全身から力が抜けていくのを俺は他人事のように見つめていた。
手のひらは震え足は踏ん張りが聞かず、かろうじて馬の上にバランスをとって乗っているのが精いっぱいである。
 
「殿下、どうぞ、水でございます………」
「すまん」
 
ベルドに差し出された水を貪るように飲む。
自分でも気がつかなかったが、いつの間にか喉がひりつくほどに水分を欲していたらしかった。
冷たい液体が喉を滑り落ちていく感覚が、少しずつ昂揚していた神経を癒していくのが自分でもわかった。
そもそも昂揚していたことに今まで気がつかなかったほど、俺は緊張していたのである。
 
 
おそらくヤーノシュが信頼する副将に軍を与え、側方を迂回させていたら敗北していたのは自分であった。
百年戦争でのアジャンクールの戦い以来、少しずつ普及しつつある騎兵による側方迂回は古くはマケドニアの槌と金床戦法の応用にすぎない。
だがしかし東欧においてはまだまだ知られていない戦術ではあった。
だからこそ俺はヤーノシュが短期決戦を望んでいることを奇貨として防御戦術による出血の強要を採用した。
攻め込んでくるのがヤーノシュである以上、これを撃退することが出来れば戦略的にワラキアの勝利となるからであった。
それでももしも先鋒の将軍がパスラフではなく、もっと戦意の乏しい将軍であったなら。
もしもヤーノシュが危険を承知で長期戦を戦う覚悟を決めたなら。
俺の命はこの瞬間にも失われていたかもしれない……。
 
「お見事でした!大公殿下!!」
 
うっすらと涙さえ浮かべながらベルドは感激も露わに祝いの言葉を捧げた。
この主君に仕えることが出来たことが誇らしく、この戦いを勝利できたことがたまらなくうれしかった。
 
「まあ、運も実力のうちでさあね、大将」
 
俺の疲労を軍人として理解してくれているゲクランが人懐こい笑みを浮かべて頷いて見せた。
いくら勝てる算段をめぐらしても負けるときは負けるし、破れかぶれの負け戦に思えてもなぜか勝てるときは勝てる。
勝つために努力を惜しむべきではないが、今日勝てた幸運を今は喜ぶべきである。
ゲクランはそう言っているのであった。
 
 
「皆もよく戦ってくれた」
 
禍根の根は残ったかもしれないがとにかく俺は今日の賭けに勝った。
史実の2ケ月天下を覆し、押しも押されぬワラキア公としての地盤を築きあげることに成功したのだ。
 
「勝鬨をあげよ!」
 
万感の思いをこめて俺は剣を天にむかって突きあげる。
 
 
「ワラキア万歳」
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