彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版
第六話 故郷への帰還その1
ヴラド2世の死後、ハンガリーの宰相フニャディ・ヤーノシュはワラキア公家の一員であるダネスティ家からヴラディスラフを迎え、これをワラキア公として推戴することを宣言した。
出来うることならばオスマンを相手に善戦を続けるヴラド2世を処分するのは惜しかったのだが、中途半端に有能なばかりにハンガリーにまで敵対行動をとるヴラド2世を排除するようにという
国内の声に逆らうことが出来なかったのだ。
それにヴァルナの戦いでハンガリー国王を戦死させてしまったヤーノシュはヴラド2世にその責任を糾弾され、あわや処刑の危機にさらされている。
多少役に立つという程度ではその恨みを水に流すことは不可能であった。
 
「ままならぬものだ、な…………」
 
傀儡として担ぎあげたヴラディスラフだが、必ずしもハンガリーに益をもたらしてくれるとはかぎらない。
史実においてもヴラディスラフはワラキアの政治的独立を死守し、オスマンとハンガリーの双方にワラキアを高く売りつけることに成功していた。
決して戦上手な人物ではないが、その外交手腕はあなどれるものではなかった。
しかしたとえそうだとしてもオスマンの後押しで登場したヴラドの息子などにワラキアを渡すよりは何層倍もましである。
ハンガリー王国の実質的指導者としていずれは名実ともにハンガリー王家を乗っ取ることを望んでいるヤーノシュにとって、ワラキアはオスマンとの緩衝地帯として機能してもらわなくては困るのだった。
 
「あの男の息子とはいえ所詮は14の若僧だが………まあ念には念を入れておくか…………」
 
たかが小僧ひとりと侮ったりはしない。
なんといっても奴はあのヴラド・ドラクルの息子なのだ。
わずか数百の兵力で数年に渡り大国オスマンに逆らい続けた稀代の武将の――――。
 
とはいえ彼にヴラド・ドラクル2世ほどの求心力がないのもまた確かなことであった。
何の実績もないオスマンの傀儡に味方するほどワラキア貴族は甘くない。
彼らの身勝手な日和見と保身ぶりはワラキアを統治するものにとって長く頭痛の種であったのである。
おそらくはオスマンがどの程度の兵を出すか、ハンガリーがどの程度本気でヴラディスラフに肩入れするかで彼らの動向は容易に変わるだろう。
だからこそここで手を抜くわけにはいかないのだ。
 
「パスラフを呼んでおけ」
 
初老を迎えた年来の宿将の名を呼び、ヤーノシュはすでにワラキアでの決戦後へと思いを馳せていた。
侮っているつもりはなかったが、それでも歴戦の英雄であるヤーノシュにとって負けるはずのない相手という認識は変わらなかったのである。
 
 
 
 
 
オスマン朝から与えられた二千ほどの援兵を加え、総勢五千に膨れ上がったヴラド軍は怒涛の勢いでワラキア公国南部を侵食した。
これはベルドやネイ、タンブルたちの親族を中心に、南部地方の小領主がこれ以上のオスマン朝との戦いを避けヴラドを君主として推戴することに同意したというのが大きい。
もっともその大半は好意的中立という日和見的なものではあったが。
予想以上に厭戦気分の高まっていた南部貴族が好意的中立とはいえほとんどヴラド側についたことにハンガリーの支援を受けた一方の雄、ヴラディスラフは驚きの念を禁じ得なかった。
このままヴラドに鞍替えする貴族が出てくる前に一刻も早くヴラドを撃破しなくてはならない。
ハンガリーから派遣されてきたパスラフ将軍を副将に据え、およそ八千にのぼる軍勢を組織してヴラディスラフはヴラドの迎撃に進発したのである。
 
 
 
 
「………思ったよりも気張りやがったな…………」
 
正直兵力的にはなんとか互角になるのではないかと考えていた。
さすがはヤーノシュ、俺を倒すために兵力の出し惜しみはするべきではないと悟ったか。
父ヴラド・ドラクルが最大に動員しても五千弱、自ら自由に動かせる兵力は数百であったことを考えればヴラディスラフの動員した兵力は破格のものだ。
もっともその大半は向背定かならぬワラキア貴族と、利害の必ずしも一致しないハンガリーの援軍であろう。
ならば恐れるべきなにほどのこともない。
 
「殿下、ご命令を」
「粉砕しろ!ワラキアの支配者が誰であるのか、物の見えぬ愚か者に教育してやれ」
「御意」
 
不敵にゲクランが嗤う。
見事な統制力を発揮したテルシオが槍先を並べてゆっくりと前進を開始した。
 
「……可哀そうだがお前らみんな禿鷹の餌だ」
 
敵のなかでもっとも高い戦力であることは疑いないハンガリー騎兵部隊だが、残念なことにこの騎兵はテルシオに致命的なほどに相性が悪い。
密集隊形の極致たるテルシオを撃ち破るためには、テルシオを上回る火力の集中が必須であった。
しかし雑多な貴族軍を主力とするヴラディスラフ軍にそんな集中など望むべくもなかった。 
傭兵を中心とするヴラドのテルシオはまだ十分と言えるほどの練度ではないが、ゲクランが頼りにする腕ききの傭兵が中隊ごとに士官として配分されその運用を補完している。
仮にヴラディスラフが一万の兵を率いていたとしても、ゲクランは微塵も負けるなどとは思っていなかった。
 
「奴らが少しでも殿下の恐ろしさがわかっていればあんな調子にのってはいられないはずなんですがねえ……」
「馬鹿は俺達の褒美の種さ。今も昔も変わっちゃいねえ」
「へっ!そりゃ違えねえ!」
 
殺到するヴラディスラフ軍にむかってテルシオの外縁部から一斉に弩と火縄銃が放たれる。
この時代まだまだ普及の追いついていない火縄銃の轟音に、士気の低い貴族軍が浮足立つのが俺の場所からも見て取れた。
この程度でビビるくらいなら最初から出てこなければいいものを……。
こんな連中を数としてあてにしてたとすれば今頃ヴラディスラフも真っ青であろう。
火力支援を潜り抜けた連中がようやくテルシオの前面にたどりつくが、岸壁にぶつかって砕け散る波のように、強固な槍兵の防御力の前にあっさりと蹴散らされていたずらに傷口を広げるだけであった。
 
「これはいかん………!」
 
ヤーノシュに派遣されたパスラフ将軍はさすがに味方の劣勢を正確に洞察していた。
数こそ多いものの戦意のあるのは一部の傭兵とヴラディスラフの一族のみで、大半の貴族はただ勝ち馬に乗ろうとしただけにすぎない。
負けを意識した瞬間に八千の軍勢が砂上の楼閣のように崩れ去ってしまうのは明らかだった。
「このままでは士気が持たん………出るぞ!」
 
乗馬騎兵による蹂躙が戦場の華であった時代である。
いまだスイス槍兵がブルゴーニュ公をその槍先にかける前の時代にテルシオの真価を理解できるものがどれほどいることか。
パスラフ自身も、テルシオは傭兵の逃亡を防止し、士気を保つための手段であることを疑っていなかった。
傭兵の平民づれなど我が馬蹄にかけて踏みつぶしてくれる!
勇敢なハンガリー騎兵を率いて、けたたましい地響きとともに突撃を開始したパスラフは勝利を確信していた。
なんといってもハンガリー騎兵は東欧に精兵の名も高く、ヴァルナの戦いではあと一歩でスルタンの首をとる寸前まで追い詰めたのである。
衆寡敵せずイェニチェリに敗れ去ったものの、スルタンの心胆を寒からしめたその突撃衝力は国王の死とともに伝説の域にまで高められていた。
 
「てめえらもっと腰を落とせ!女抱くつもりで尻に力入れろ!」
「へへへ……女はもっと優しくしてやるもんだぜ?レーブ」
「そうそう!だからお前は女にもてねえんだ」
「なんだとこの野郎!」
 
しかしワラキア軍の中核たる傭兵たちは一向に恐れ入るつもりはないらしかった。
確かに迫りくる馬の巨体と甲冑の騎士たちの迫力は大したものだが、それが見かけほどに強いものではなく、むしろ脆弱でさえあることを男達は経験的に知っていた。
ゲクランをはじめとする一部の傭兵はフランスでの百年戦争に参加した経験があったのである。
 
「いまだ!突けええ!」
 
前衛隊長であるレーブの掛け声とともに一糸乱れぬ整然さで槍先が突きだされる。
ここまで完璧な迎撃を受けるとは予想していなかったハンガリー騎兵は次々と馬を傷つけられ落馬して大地に叩きつけられた。
猛スピードで迫りくる騎兵はその迫力だけで士気の低い軍勢を壊乱に追い込むだけの魔力がある。
しかしヴラド軍は彼らの予想に反して意気軒高であり、ゲクランやレーブはハンガリー騎兵がテルシオの敵ではないことを訓練を通じて体験的に熟知していた。
たちまちハンガリー騎兵の三割が落馬しその戦力としての機能を失った。
敵の弱点を蹂躙する際には無類に力を発揮する騎兵も、強固に守備を固められた歩兵を相手にはそのもろさを露呈する。
そもそも馬という生き物は気が弱く、さらに怪我にも弱い脆弱な動物なのである。
悪夢としか思えぬ破滅的な光景にパサラフは絶句した。
彼の戦場でも経験から言えば、歩兵というものは城塞のような防御施設から投射武器で戦う場合を除いては騎兵を正面から撃破できる兵科ではなかったからであった。
 
「これは………これはいったい何の魔術だ?」
「将軍!お退きください!このままでは………公よりお預かりした騎兵が全滅します!!」
「うぐっ」
 
ここでハンガリー軍にとっては所詮他国の助け戦であるという現実が災いした。
確かにヴラドを撃ち破りヴラディスラフにワラキアを統治してもらうのがハンガリーにとっては最良の結果だが、それが叶わないというのならば最悪再戦のための戦力を温存しなくてはならない。
もちろんここで勝ち目があるならば全力で抗戦するという手もあるが、想定外の被害を受けてパサラフにはここでヴラドに勝つ自信がどうしても持てなかった。
 
「くそっ!この借りは必ず返すぞ!」
 
兵書に歩兵に退却なく騎兵に退路あり、と言う。
テルシオのように鈍重な密集方陣はなおのこと追撃を行うことが難しい。
パサラフが戦場からの退却を決断したこの瞬間にヴラディスラフの命運も尽きた。
 
 
「そんな……!話が違うではないか!!」
 
頼りにしていたパサラフ将軍の離脱によって、かろうじて戦線に踏みとどまっていたワラキア貴族たちが一斉に逃亡を開始した。
残されたヴラディスラフの一族はわずか数百程度にすぎない。
君主といってもワラキア公が掌握する兵力はずっと以前からその程度の数にすぎなかった。
この状態は史実のヴラド三世が、貴族に頼らぬ直轄軍を拡充するまで続いた。
 
ヴラドの息子など鎧袖一触だと言っていたではないか、とヴラディスラフはハンガリー軍の不甲斐なさに憤慨したが自らこの敗勢を覆そうなどとは考えても見なかった。
もともと自分が戦場での猛将ではないことを彼は十分よく承知していた。
全く甘く見過ぎなのだ。
我々が暗殺する以外に結局ヴラド・ドラクルを滅ぼすことは出来なかった。
こうした戦であの男の息子を討ち果たそうとするのならば、ヤーノシュ自らが出陣してしかるべきであった。
新たなワラキア公として薔薇色の未来を予想していた時は考えもしなかったことだが、真実ヴラディスラフはそう信じかつ憤慨していた。
もう少しハンガリー軍が踏ん張っていてくれれば戦の展開も変わったものになるはずだった。
 
 
「―――――ネイ、タンブル、引導を渡してやれ」
 
両翼からヴラド軍の騎兵が矢のように飛び出していく。
ハンガリー騎兵が壊滅していたために、これに対応するだけの騎兵がヴラディスラフは掌握出来ずにいた。
ただでさえ戦線を離脱しつつあった貴族軍はこの追撃を受け被害を増し、さらにテルシオが前進を開始するにいたってヴラディスラフ軍の士気は完全に崩壊した。
 
「ヴラディスラフを逃がすな!」
「ヴラド殿下に栄光あれ!」
 
二人とも馬を維持していくのもやっとな下級騎士の出身であるが、騎兵指揮官としての才能には天性のものがある。
ゲクランの話ではあるが歩兵指揮官と騎兵指揮官は要求されるセンスが異なるものであるらしい。
水を得た魚のように鮮やかな機動で歩兵の戦列を切り裂いていく二人の手腕には俺も口を開けて感嘆するしかなかった。
 
――――――わずか五百のこの騎兵突撃がとどめであった。
貴族軍に続いてヴラディスラフの指揮するダネスティ家の本隊が退却を決断するに及んでヴラディスラフ軍は四分五裂の有様で潰走に移った。
無秩序に我先に逃げていく貴族たちを見ているとヴラディスラフが気の毒になってくるほどだ。
そう思えること自体が勝利を確信したことによる余裕なのだろうか。
 
「―――――どうやら勝ったな」
「お見事です!ヴラド殿下!」
 
素直に崇敬の眼差しを向けてくるベルドには悪いが実のところ背中も手のひらも汗でびっしょりである。
こんなところで躓いてしまっては、理想を果たすどころかただ生き延びることすらおぼつかない。
ほぼ勝てるという計算はあったが、こうして実際に勝利を手にするまではほとんど薄氷の上に立つ思いだった。
深い安堵とともに息を吐き出しつつ、俺は意気揚々とベルドに言った。
 
「それでは凱旋するとしようか、我が故郷に!」
 
 
出来うることならばオスマンを相手に善戦を続けるヴラド2世を処分するのは惜しかったのだが、中途半端に有能なばかりにハンガリーにまで敵対行動をとるヴラド2世を排除するようにという
国内の声に逆らうことが出来なかったのだ。
それにヴァルナの戦いでハンガリー国王を戦死させてしまったヤーノシュはヴラド2世にその責任を糾弾され、あわや処刑の危機にさらされている。
多少役に立つという程度ではその恨みを水に流すことは不可能であった。
 
「ままならぬものだ、な…………」
 
傀儡として担ぎあげたヴラディスラフだが、必ずしもハンガリーに益をもたらしてくれるとはかぎらない。
史実においてもヴラディスラフはワラキアの政治的独立を死守し、オスマンとハンガリーの双方にワラキアを高く売りつけることに成功していた。
決して戦上手な人物ではないが、その外交手腕はあなどれるものではなかった。
しかしたとえそうだとしてもオスマンの後押しで登場したヴラドの息子などにワラキアを渡すよりは何層倍もましである。
ハンガリー王国の実質的指導者としていずれは名実ともにハンガリー王家を乗っ取ることを望んでいるヤーノシュにとって、ワラキアはオスマンとの緩衝地帯として機能してもらわなくては困るのだった。
 
「あの男の息子とはいえ所詮は14の若僧だが………まあ念には念を入れておくか…………」
 
たかが小僧ひとりと侮ったりはしない。
なんといっても奴はあのヴラド・ドラクルの息子なのだ。
わずか数百の兵力で数年に渡り大国オスマンに逆らい続けた稀代の武将の――――。
 
とはいえ彼にヴラド・ドラクル2世ほどの求心力がないのもまた確かなことであった。
何の実績もないオスマンの傀儡に味方するほどワラキア貴族は甘くない。
彼らの身勝手な日和見と保身ぶりはワラキアを統治するものにとって長く頭痛の種であったのである。
おそらくはオスマンがどの程度の兵を出すか、ハンガリーがどの程度本気でヴラディスラフに肩入れするかで彼らの動向は容易に変わるだろう。
だからこそここで手を抜くわけにはいかないのだ。
 
「パスラフを呼んでおけ」
 
初老を迎えた年来の宿将の名を呼び、ヤーノシュはすでにワラキアでの決戦後へと思いを馳せていた。
侮っているつもりはなかったが、それでも歴戦の英雄であるヤーノシュにとって負けるはずのない相手という認識は変わらなかったのである。
 
 
 
 
 
オスマン朝から与えられた二千ほどの援兵を加え、総勢五千に膨れ上がったヴラド軍は怒涛の勢いでワラキア公国南部を侵食した。
これはベルドやネイ、タンブルたちの親族を中心に、南部地方の小領主がこれ以上のオスマン朝との戦いを避けヴラドを君主として推戴することに同意したというのが大きい。
もっともその大半は好意的中立という日和見的なものではあったが。
予想以上に厭戦気分の高まっていた南部貴族が好意的中立とはいえほとんどヴラド側についたことにハンガリーの支援を受けた一方の雄、ヴラディスラフは驚きの念を禁じ得なかった。
このままヴラドに鞍替えする貴族が出てくる前に一刻も早くヴラドを撃破しなくてはならない。
ハンガリーから派遣されてきたパスラフ将軍を副将に据え、およそ八千にのぼる軍勢を組織してヴラディスラフはヴラドの迎撃に進発したのである。
 
 
 
 
「………思ったよりも気張りやがったな…………」
 
正直兵力的にはなんとか互角になるのではないかと考えていた。
さすがはヤーノシュ、俺を倒すために兵力の出し惜しみはするべきではないと悟ったか。
父ヴラド・ドラクルが最大に動員しても五千弱、自ら自由に動かせる兵力は数百であったことを考えればヴラディスラフの動員した兵力は破格のものだ。
もっともその大半は向背定かならぬワラキア貴族と、利害の必ずしも一致しないハンガリーの援軍であろう。
ならば恐れるべきなにほどのこともない。
 
「殿下、ご命令を」
「粉砕しろ!ワラキアの支配者が誰であるのか、物の見えぬ愚か者に教育してやれ」
「御意」
 
不敵にゲクランが嗤う。
見事な統制力を発揮したテルシオが槍先を並べてゆっくりと前進を開始した。
 
「……可哀そうだがお前らみんな禿鷹の餌だ」
 
敵のなかでもっとも高い戦力であることは疑いないハンガリー騎兵部隊だが、残念なことにこの騎兵はテルシオに致命的なほどに相性が悪い。
密集隊形の極致たるテルシオを撃ち破るためには、テルシオを上回る火力の集中が必須であった。
しかし雑多な貴族軍を主力とするヴラディスラフ軍にそんな集中など望むべくもなかった。 
傭兵を中心とするヴラドのテルシオはまだ十分と言えるほどの練度ではないが、ゲクランが頼りにする腕ききの傭兵が中隊ごとに士官として配分されその運用を補完している。
仮にヴラディスラフが一万の兵を率いていたとしても、ゲクランは微塵も負けるなどとは思っていなかった。
 
「奴らが少しでも殿下の恐ろしさがわかっていればあんな調子にのってはいられないはずなんですがねえ……」
「馬鹿は俺達の褒美の種さ。今も昔も変わっちゃいねえ」
「へっ!そりゃ違えねえ!」
 
殺到するヴラディスラフ軍にむかってテルシオの外縁部から一斉に弩と火縄銃が放たれる。
この時代まだまだ普及の追いついていない火縄銃の轟音に、士気の低い貴族軍が浮足立つのが俺の場所からも見て取れた。
この程度でビビるくらいなら最初から出てこなければいいものを……。
こんな連中を数としてあてにしてたとすれば今頃ヴラディスラフも真っ青であろう。
火力支援を潜り抜けた連中がようやくテルシオの前面にたどりつくが、岸壁にぶつかって砕け散る波のように、強固な槍兵の防御力の前にあっさりと蹴散らされていたずらに傷口を広げるだけであった。
 
「これはいかん………!」
 
ヤーノシュに派遣されたパスラフ将軍はさすがに味方の劣勢を正確に洞察していた。
数こそ多いものの戦意のあるのは一部の傭兵とヴラディスラフの一族のみで、大半の貴族はただ勝ち馬に乗ろうとしただけにすぎない。
負けを意識した瞬間に八千の軍勢が砂上の楼閣のように崩れ去ってしまうのは明らかだった。
「このままでは士気が持たん………出るぞ!」
 
乗馬騎兵による蹂躙が戦場の華であった時代である。
いまだスイス槍兵がブルゴーニュ公をその槍先にかける前の時代にテルシオの真価を理解できるものがどれほどいることか。
パスラフ自身も、テルシオは傭兵の逃亡を防止し、士気を保つための手段であることを疑っていなかった。
傭兵の平民づれなど我が馬蹄にかけて踏みつぶしてくれる!
勇敢なハンガリー騎兵を率いて、けたたましい地響きとともに突撃を開始したパスラフは勝利を確信していた。
なんといってもハンガリー騎兵は東欧に精兵の名も高く、ヴァルナの戦いではあと一歩でスルタンの首をとる寸前まで追い詰めたのである。
衆寡敵せずイェニチェリに敗れ去ったものの、スルタンの心胆を寒からしめたその突撃衝力は国王の死とともに伝説の域にまで高められていた。
 
「てめえらもっと腰を落とせ!女抱くつもりで尻に力入れろ!」
「へへへ……女はもっと優しくしてやるもんだぜ?レーブ」
「そうそう!だからお前は女にもてねえんだ」
「なんだとこの野郎!」
 
しかしワラキア軍の中核たる傭兵たちは一向に恐れ入るつもりはないらしかった。
確かに迫りくる馬の巨体と甲冑の騎士たちの迫力は大したものだが、それが見かけほどに強いものではなく、むしろ脆弱でさえあることを男達は経験的に知っていた。
ゲクランをはじめとする一部の傭兵はフランスでの百年戦争に参加した経験があったのである。
 
「いまだ!突けええ!」
 
前衛隊長であるレーブの掛け声とともに一糸乱れぬ整然さで槍先が突きだされる。
ここまで完璧な迎撃を受けるとは予想していなかったハンガリー騎兵は次々と馬を傷つけられ落馬して大地に叩きつけられた。
猛スピードで迫りくる騎兵はその迫力だけで士気の低い軍勢を壊乱に追い込むだけの魔力がある。
しかしヴラド軍は彼らの予想に反して意気軒高であり、ゲクランやレーブはハンガリー騎兵がテルシオの敵ではないことを訓練を通じて体験的に熟知していた。
たちまちハンガリー騎兵の三割が落馬しその戦力としての機能を失った。
敵の弱点を蹂躙する際には無類に力を発揮する騎兵も、強固に守備を固められた歩兵を相手にはそのもろさを露呈する。
そもそも馬という生き物は気が弱く、さらに怪我にも弱い脆弱な動物なのである。
悪夢としか思えぬ破滅的な光景にパサラフは絶句した。
彼の戦場でも経験から言えば、歩兵というものは城塞のような防御施設から投射武器で戦う場合を除いては騎兵を正面から撃破できる兵科ではなかったからであった。
 
「これは………これはいったい何の魔術だ?」
「将軍!お退きください!このままでは………公よりお預かりした騎兵が全滅します!!」
「うぐっ」
 
ここでハンガリー軍にとっては所詮他国の助け戦であるという現実が災いした。
確かにヴラドを撃ち破りヴラディスラフにワラキアを統治してもらうのがハンガリーにとっては最良の結果だが、それが叶わないというのならば最悪再戦のための戦力を温存しなくてはならない。
もちろんここで勝ち目があるならば全力で抗戦するという手もあるが、想定外の被害を受けてパサラフにはここでヴラドに勝つ自信がどうしても持てなかった。
 
「くそっ!この借りは必ず返すぞ!」
 
兵書に歩兵に退却なく騎兵に退路あり、と言う。
テルシオのように鈍重な密集方陣はなおのこと追撃を行うことが難しい。
パサラフが戦場からの退却を決断したこの瞬間にヴラディスラフの命運も尽きた。
 
 
「そんな……!話が違うではないか!!」
 
頼りにしていたパサラフ将軍の離脱によって、かろうじて戦線に踏みとどまっていたワラキア貴族たちが一斉に逃亡を開始した。
残されたヴラディスラフの一族はわずか数百程度にすぎない。
君主といってもワラキア公が掌握する兵力はずっと以前からその程度の数にすぎなかった。
この状態は史実のヴラド三世が、貴族に頼らぬ直轄軍を拡充するまで続いた。
 
ヴラドの息子など鎧袖一触だと言っていたではないか、とヴラディスラフはハンガリー軍の不甲斐なさに憤慨したが自らこの敗勢を覆そうなどとは考えても見なかった。
もともと自分が戦場での猛将ではないことを彼は十分よく承知していた。
全く甘く見過ぎなのだ。
我々が暗殺する以外に結局ヴラド・ドラクルを滅ぼすことは出来なかった。
こうした戦であの男の息子を討ち果たそうとするのならば、ヤーノシュ自らが出陣してしかるべきであった。
新たなワラキア公として薔薇色の未来を予想していた時は考えもしなかったことだが、真実ヴラディスラフはそう信じかつ憤慨していた。
もう少しハンガリー軍が踏ん張っていてくれれば戦の展開も変わったものになるはずだった。
 
 
「―――――ネイ、タンブル、引導を渡してやれ」
 
両翼からヴラド軍の騎兵が矢のように飛び出していく。
ハンガリー騎兵が壊滅していたために、これに対応するだけの騎兵がヴラディスラフは掌握出来ずにいた。
ただでさえ戦線を離脱しつつあった貴族軍はこの追撃を受け被害を増し、さらにテルシオが前進を開始するにいたってヴラディスラフ軍の士気は完全に崩壊した。
 
「ヴラディスラフを逃がすな!」
「ヴラド殿下に栄光あれ!」
 
二人とも馬を維持していくのもやっとな下級騎士の出身であるが、騎兵指揮官としての才能には天性のものがある。
ゲクランの話ではあるが歩兵指揮官と騎兵指揮官は要求されるセンスが異なるものであるらしい。
水を得た魚のように鮮やかな機動で歩兵の戦列を切り裂いていく二人の手腕には俺も口を開けて感嘆するしかなかった。
 
――――――わずか五百のこの騎兵突撃がとどめであった。
貴族軍に続いてヴラディスラフの指揮するダネスティ家の本隊が退却を決断するに及んでヴラディスラフ軍は四分五裂の有様で潰走に移った。
無秩序に我先に逃げていく貴族たちを見ているとヴラディスラフが気の毒になってくるほどだ。
そう思えること自体が勝利を確信したことによる余裕なのだろうか。
 
「―――――どうやら勝ったな」
「お見事です!ヴラド殿下!」
 
素直に崇敬の眼差しを向けてくるベルドには悪いが実のところ背中も手のひらも汗でびっしょりである。
こんなところで躓いてしまっては、理想を果たすどころかただ生き延びることすらおぼつかない。
ほぼ勝てるという計算はあったが、こうして実際に勝利を手にするまではほとんど薄氷の上に立つ思いだった。
深い安堵とともに息を吐き出しつつ、俺は意気揚々とベルドに言った。
 
「それでは凱旋するとしようか、我が故郷に!」
 
 
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