彼の名はドラキュラ~ルーマニア戦記~改訂版

高見 梁川

第五話 覚醒編その4

ヴラド・ドラクル2世死すの報は大国オスマンにとっても無視することのできぬ重大事として受け止めらた。


ハンガリー王国との緩衝地帯であるワラキアがどの陣営に属するかは両国の世界戦略にとって非常に大きな比重を占めていたからである。


とりわけ国力において劣るハンガリー王国としてはオスマン朝との直接対決を避けるためにも是が非でも抑えておきたい戦略上の要地であることは疑いない。


逆を言えばオスマン朝にとっては小うるさい蜂のような邪魔者を取り除き、欧州に確固たる橋頭保を築けるチャンスでもある。


 



「ふむ……このときのために飼っておいた犬だ。使わぬ手はあるまい」


 



スルタンムラト2世が俺を御輿に使ったワラキア攻略戦を決意するには当然の成り行きであった。


幸いなことにその犬はヴラド2世とわたりあえるほどに有能であるらしい。


もっともあまり有能すぎる場合には新たな犬を用意する必要があるだろうが………。


 



手をつかねてハンガリーにワラキアを従属させるという選択肢はありえない。


この機会にオスマンの息のかかった人間にワラキアを統治してもらい、きたるべき欧州侵攻の尖兵となってもらうのがオスマン朝にとって最良の選択である。


ムラト2世は温和な表情をかえぬままに鈴の音を鳴らして腹心カリル・パシャを呼び出した。


オスマン朝がヴラド2世の息子たるヴラド・ドラクリヤを支援してワラキアを支配することが決定されたのはその日の夕刻のことであった。


 



 



―――――――それは同時にこの2年で住み慣れてきたエディルネのモラトリアムを抜け出し、オスマン朝の未来の幹部として将来を期待されているラドゥとの別れを意味していたのである。


 



 



 



 



 



 



 



「………兄様、長い間本当にありがとうございました」


 



スルタンから与えられたワラキアの公子としてはいささかみすぼらしい邸宅。


その薄暗い一室で俺とラドゥは向かい合っていた。


このところどんどん大人びていくラドゥの表情が、俺の胸を重くさせ息苦しさを加速させていく。


この時代は子供が子供として過ごすことのできる時間が短すぎる。


何と言って声をかけていいかわからぬままに、ラドゥに先に礼を言われて思わず俺は目頭が熱くなるのを自覚した。


新生ワラキア軍の組織造りと練兵に忙しい俺と、次代の官僚としてメムノンに目をかけられているラドゥはこのところ顔を合わすことも珍しくなっている。


考えてみればほんの1年ほど前までは、ともに食事を取り、ともに野で遊び、ともに同じベッドで寝ていたはずなのに……時の流れのなんと早く残酷なことだろうか。


 



「礼を言うのはこっちのほうだ。………たとえ離れても俺はお前を見守っているぞ」


 



――――――それは俺の偽らざる本心だ。


この現代とは何もかも違う世界に目覚めて、ただラドゥ一人が俺にとっての家族であった。


気の置けない仲間が増え、ともに同じ理想を追う同士も得たが、やはり無条件の信頼を与え合いワラキア公子という公人としての立場を捨てることができるのは家族の前以外にはない。


もしもラドゥがいなかったらと考えると、それだけで背筋が寒くなるほどの寂寥感を感じる。


 



だが同時に俺がラドゥを置き去りにして故郷へ戻るというのも偽らざる事実であった。


かつて父と兄が、あっさりと俺達を捨ててオスマン朝に叛旗をひるがえしたのと同じことをしようと俺は考えている。


俺が生き延びるための道筋をオスマンの属国としての立場には描けないからだ。


そして俺はすでに個人的な欲求だけでワラキアという国に忠誠を誓った仲間たちの将来を決定してよい立場ではなかった。


 



父もこんな気持ちであったろうか。


あれほど憎んだのに。


この悪しき世界を生きるくらいならと死を選ぼうとすらしたはずなのに。


今もその憎しみも悲しみの熱も、灰に埋もれた埋み火のようにこの胸に確かに残されているのに。


 



ヴラドよ。


本当にこれでよかったのか?


やはりあのとき、俺は死んでしまうべきだったのではなかったか?


俺という人間がラドゥの運命をねじまげてしまうことなど許されるものなのか?


 



この世界で生き抜いていこうという意思と


ラドゥを大切に思う心と


ワラキアを故郷とする仲間達の志が俺の心の中でせめぎ合う。


いっそ何もかも投げ出して現代に帰れたらどんなに楽なことだろうか。


 



 



「…………信じています、兄様。たとえお立場がどのように変わろうとも」


 



 



このときのラドゥの透明な笑顔を、俺は生涯忘れることはないだろう。


まだ幼い顔立ちに、寂しさも不安の色も何一つ浮かべず、無垢の笑顔でラドゥはただ事実だけを受け入れていた。


そのうえで俺の心だけは信じていると―――――たとえワラキア公という立場から俺がオスマンに敵対する日が来ようとも。


 



「お前は俺の大切な弟だ。たとえこの立場がいかに変わろうとも」


 



なんと情けない。


慰めるつもりが幼い弟に逆に慰められて涙を流すなんて、とても部下に見せられるものじゃないな。


ラドゥの細い身体を抱き締めて、俺は声を押し殺して啼いた。


 



明日からはこのぬくもりのない戦いの日々が待っている。


動き始めてしまった運命の歯車が、どうか幸ある未来に繋がっていくことを俺は祈らずにはいられなかった。


 



 



 



 



 



「いってらっしゃいませ。どうかご武運を」


 



1447年9月3日、ラドゥに見送られて新生ワラキア軍は故郷に向かってついに進軍を開始した。


いたるところでこの2年の間に結ばれたのであろう、女や友や知り合いたちと別れを惜しむ兵士たちの姿が見受けられる。


そのなかには俺とほとんど変わらぬ身長にまで成長したベルドの姿もあった。


この2年の間に親友といっていい間柄になっていたベルドとラドゥが遠目に何やら一言二言言葉を交わし合っていたが、お互いに固く両手を握りしめるとベルドは何かを振り切るように俺に向かって馬を駆けさせてくる。


ベルドの目尻に涙が浮かんでいるのを俺は見た。


 



「―――――いいのか?」


 



いいのか、と聞いたのはこのままベルドがラドゥのもとに残ってもいいという意味だ。


父の復讐を誓っているベルドにはつらい決断かもしれないが、それでもなおラドゥの傍にいる方がベルドにとっては安全で心やすいという思いもある。


あるいはそれもラドゥに対する罪悪感のなせるわざなのかもしれないが。


 



「よいのです。私の居場所は殿下のお傍にありますから」


 



まだ瞳は充血して赤かったがためらいなくベルドは言いきった。


年も若く既成観念がないため、俺の現代人的なものの考え方を教え込んだベルドは実のところ得難い存在である。


こっちで残ってもいいと言っておきながら、断られてホッとしている自分の度し難さに頭を振る。


 



――――――本当に昨日から俺は情けないところばかりだな。


 



 「殿下、ご命令を」


 



丸太のように厚みのある鍛え上げられた身体を鎖帷子で覆ったゲクランが、傭兵らしからぬ礼儀正しさでうやうやしく頭を下げた。


もしかしたら彼も傭兵になるまえはそれなりに地位のある貴族であったのかもしれない。


いつの間にか別れの喧騒は過ぎ去り、総勢三千に達しようという軍勢が固唾を呑んで俺の命令を待っていた。


 



もう昨日までの日だまりには戻れない。


いや、本当はとっくに戻れなくなってはいたのだが、それが少しばかり明確になるだけのことなのだ。


ひとつため息とともに瞳を閉じると、俺は高々と剣を掲げた。


 



「これより祖国を奪還する――――――ワラキア万歳」


 



 



集められた兵士の大半はワラキア公国とは縁のない傭兵である。


それでもともに練兵し互いの技量を高め合った連帯感は出身とは関係のない絆として間違いなくワラキア軍に浸透しつつある。


戦いのなか故国を離れ、不本意な捕虜の屈辱に甘んじ、今再び故郷の地を踏もうとしているワラキア騎士たちの昂揚については言うまでもなかった。


戻れる――――ついに戻れる日がやってきたのだ。あの懐かしいワラキアの地に。


類稀なカリスマ的な君主とともに。


 



「万歳!」


「万歳!」


「ワラキア万歳!」


「ヴラド殿下万歳!」


 



はじめはさざめきのように、そして次の瞬間には雷鳴のような怒号となって万歳の唱和が轟いた。


それは単にワラキアへの帰還を喜ぶ歓喜の声には留まらない。


この悪しき世界のなかで―――それがどんなものかはわからないにせよ―――何か漠然と救いをもたらしてくれるのではないかという期待がいつしかヴラドに――――俺に向けられているらしかった。


誰もかれもがこの遠征の先に、よりきらびやかな極彩色の未来を描いている。


惨めな敗残兵などではなく、故国を立て直す使命を背負った名もなき英雄たらんとネイもタンブルも雄たけびをあげて燃え盛る激情のままに咆哮していた。


それはたった一度の敗北で地獄の煮え立つ釜に叩き落とされる、割の合わない賭けのようなものなのだが。


 



 



―――――ならば勝つしかない。勝って勝って勝ち続けてこの地上に俺の居場所を築き上げる。


 



誰にも脅かされることのない確固とした居場所を確保すれば、幸福も希望も後からついてきてくれるかもしれない。


そんな甘いものではないと頭では理解しているが、俺には俺と仲間たちが幸せな未来を手に入れるために勝ち続ける以外の方法が見いだせなかった。


現代人の記憶があるとはいえ、所詮俺と言う人間の器は一介の大学生のものにすぎないのだ……。


 



 



「出発」


 



短く発した言葉のなかに、後戻りのできぬ修羅の道へ飛び込む万感の覚悟がこめられていた。


 






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