アラフォー社畜のゴーレムマスター
第一話 そして社畜は転生する
――――松田毅は社畜である。
勤続二十二年、これまで無遅刻無欠勤は無論のこと、毎日サビ残に明け暮れ休日は三年に一日でしかとっていない。
もちろん有給など言葉に出したことすらなく、人柄はあくまで温厚で部下のために骨を折ることを惜しまない男であった。
ついた綽名がミスターターミネーターである。
彼が支社長を勤める警備業界は、世間でブラックと呼ばれる業界のなかでも五本の指に入ると悪評も高い業界であった。
四十八時間連続勤務、七十二時間連続勤務は当たり前、事務用品は全部自腹で、仕事上のミスに関する賠償も会社は決して肩代わりしてはくれない。
警備業界の過酷さは、俗に3Kと言われる居○屋業界や介○業界に比べても決してひけを取るものではないのである。
そんな過酷な業務のなかで、松田はまさに『絶対に辞めない社畜VSどんな社員も辞めさせるブラック企業』という究極の対決に勝利し続けてきたのだった。
――しかしちょっと待って、待っていただきたい。わざわざ誰が好き好んで社畜になどなるだろうか。いや、なるはずがない。(反語)
「辞める理由より続ける理由で自分を語れよ!」と言っていた同期はとうの昔に松田を置いて退社していた。
あのとき奴と一緒に退社していれば、と毎日のように妄想する松田であった。
おおよそ社畜には二つのパターンがあるという。
ひとつには頼るべきものもおらず、進むことも引くこともできない状態である。
妻子を抱えてギリギリの生活をして貯金がないうえに、両親が早くに亡くなっていたり折り合いが悪い場合がこれにあたる。
経済的理由から転職先も決まらぬうちに退職できない。だが転職活動をする時間そのものが取れない。
辞めたら生活が破たんするという恐怖が、団○六のごとく社畜を縛りつける。
もうひとつが社畜であることに慣れてしまう諦めてしまう、あるいはさらに進んで洗脳されてしまう状態であった。
相談する相手もいないぼっちで、仕事以外に趣味らしい趣味がないと嵌りやすい罠であり、松田の状態がまさにこれである。
彼はなかでも一番性質が悪い日本人にありがちなおひとよし――部下たちには自分と同じ目には合わせたくない、などと考える人物だった。
こうした人間はひたすら自己犠牲によって心身をすり減らしていく。
「体調悪いんで休ませてください」
「友達と旅行の約束をしちゃって……」
「実家の農作業の手伝いをしていたら腰を……」
「――わかった。こちらのことは気にせず休みなさい」
部下のために自分の休暇をつぶし、上司の無理難題に応えるため体に鞭を打って睡眠時間を削るのである。
若いうちはそれでもよいが(いや、断じて良くはない)、歳をとってくると肉体のほうが先に限界を迎えるのは当然だ。
完全無欠の社畜ターミネーターとはいえ、四十路を過ぎた松田が一人暮らしのアパートで突然の心不全を起こすのも、必然の結果とよぶべきかもしれなかった。
錐に心臓を刺されたような激痛のなかで、松田は思う。
(……社畜なんて永久に呪われればいい。俺だって好きで社畜になったわけではないんだ。できるものならもっと思うがままに生きてみたかった)
まだ学生であったころには、そんな生活を夢見たこともあった。
何より諦めに身を任せた人生を送るなど考えもしなかった。
そう思うと、死ねることに安堵すら抱いている自分が無性に腹立たしく思えた。
(もし、生まれ変われたら――――)
その思考を最後に、松田毅の心臓は永久に停止した。
一人の社畜の死に、会社は事務的に花輪と弔電のみを送り、搾取できる獲物を失ったことだけをいたく悲しんだという。
※※※※※※※※※※※※※※
「――社畜を呪うとは、また自己否定も甚だしい言葉だね」
「失礼だがどなたですか?」
死んだ、そう思った次の瞬間には、松田は白い壁に埋め尽くされた二十畳ほどの殺風景な部屋にいた。
先ほどの言葉は目の前の色男であるらしい。
金髪碧眼、鼻梁は整いつくされており往年の名俳優シ○ーン・コネリーを彷彿とさせる見事な美形である。
が、目と目が合った瞬間から背筋に冷たい何かが走り、松田は警戒のレベルを最大級に引き上げた。
折り目正しく温厚そうで人を惹きつけるカリスマと、それを引き立てる高額アイテムで武装したこの手の人間を松田は嫌というほど見てきたのだ。
彼らはみな等しくどれほど才能や権力に満ち溢れていても、社畜にとって外道というほかない天敵であった。
「――お好きなように呼んでください。観測者とでも、道化とでも、愉快犯とでも…………神とでも」
「ではとりあえず社長と呼ばせていただきましょう」
「しゃ、社長? なぜに社長? え? え?」
その反応は想定外であったとばかりに男は目を瞬かせた。大阪人であればなんでやねん、とハリセンで突っ込むくらいはしたかもしれない。
というより、神というキーワードを思いっきりスルーされたのは、さすがの彼にも初めての経験だった。神といえど決して全知全能というわけではないのである。
「や、やりづらいな……とりあえず君、自分が死んだという自覚はあるかい?」
「やはり死にましたか。このところ動悸が治まらず眩暈がしたり不眠になったり不整脈の気配があったりしたので、時間の問題とは思っていましたが」
「なんで放っておくんだよ! そこまでわかってたんなら医者に行こうよ!」
「体が動かせる限りは万難を排して出社する。それが社畜です」
「でも、その社畜を君は呪っていたじゃないか……?」
男の言葉に松田は苦笑した。
「なかには洗脳されるやつもいますが、社畜が社畜であることに不満がないわけはないじゃないですか。私はただ単に諦めていただけです」
「そこで諦めんなよ! もっと熱くなれよ!」
「…………例えば残業が月に惨(誤字ではない)百時間を超えたとするじゃないですか」
「超えていい数字とは思えないけど、とりあえずわかった」
「なぜか残業させた会社のほうではなく、残業しなくて済んだ同僚を呪う。俺が残業しているのに一人だけ定時で帰るなんて許さない。それが社畜です」
「――助け合って環境を改善しようとは思わないの?」
「ありえません。例えばここにイエス・キリストが現れて、定時に帰ったことがない者だけが女に石を投げなさい、と言ったとします(ヨハネによる福音書第八章第一節~より)」
「そういえば立川のロンゲがそんなことを言っていたね」
いや、それは罪を犯したことのない者だけが女に石を投げなさいの間違いだろう。
「間違いなく誰も石を投げるのを止めないでしょう」
「いったいどうなってるの君の会社! こんなの絶対おかしいよ!」
社畜にとって、定時とはTen・o`clockつまりT時であるという俗説もある。世間の常識で判断してはいけないのだ。
つくづく社畜とは業の深い生き物であった。
「しかしそんな貴方に朗報が!」
もういろいろとスルーすることに決めた男は、いかにも善意に満ち溢れた慈愛の笑みでここぞとばかりに両手を広げた。
「今なら自由と希望に満ち溢れた異世界に貴方をご招待! しかも特別限定特典として貴方のステータスを大幅に向上して生まれ変わらせて差し上げます!」
「ずいぶん堂に入った売り文句ですね、社長」
「いつでも現場を忘れないのは大事だよね? ところでその社長呼びは固定なの?」
「まあ……今さらそんな売り口上を聞いて神様というのもどうかと」
「し、しまったああああああっ!」
割と男にとって神という立ち位置は重要な問題であったようで、深刻そうに頭を抱えてしまった。存外ノリのよい男である。
「ぶっちゃけるとね。君にはその世界に適性があるんだ。むしろ君が生きていた世界に適性はなかったね」
しかも立ち直りまで早い。
松田も地方とはいえ支社長にまで出世したのだから、適性が全くなかったとは言えないかもしれない。
もっとも松田が向いていなかったのは、仕事というよりは生き方の問題だから、関係ないとも言える。
「要するに私に社長のいう異世界に輪廻転生しろ、と?」
「まあ、端的にいうならそういうことだね。リクエストがあるなら聞けるだけは聞くよ?」
松田は腕組みして深刻そうにしばし頭をひねった。
「……定時で帰宅できる労働条件のはっきりしたホワイトな世界で」
それはサラリーマンの誰もが望むであろう夢。松田が遂に叶えることのなかった見果てぬ夢である。
もっとも松田の魂からの渇望は、男の感銘を呼ぶものではなかったらしい。
「ド、ドライだね。普通はイケメンにしてくれ、とかチートスキルをくれとか言うんだが……ほら、例えばアットホームな職場というのもいいんじゃないかな?」
「断言しますが、アットホームを謳う会社がアットホームであったためしはありません!」
意訳させてもらえば、アットホームな会社ですよ、というのは家族同然なんだから無料奉仕も当然よね? という奴隷募集と変わりがない。(マジで)
その言葉に騙されて善意の無料奉仕を強要される社畜のなんと多いことだろうか!
呪われてしまえアットホーム! 滅べ! 爆発しろ!
「君を見ていると社畜というのが本当に恐ろしくなるよ……定時に帰宅できるホワイトな世界、ね。まあ問題はないだろう。さすがにそれだけだと気が引けるので、もともと君は土属性に才能があるようだから、その才能を上げておくよ」
「――――労働条件の返事を聞いていませんが?」
ギクリ、と男は硬直してタラリ、とこめかみから汗を一筋流した。
「では頑張ってくれ。君の新たな人生に幸多からんことを祈っているよ?」
「スルーすればお茶を濁せると思うのは経営者の悪い癖ですよ? どうせ貴方も社畜なんてスマホと同じだと思ってるんでしょう!」
「え……と、なんでスマホ?」
「定額使い放題(残業代なにそれ? 美味しいの?)」
「――――君さあ、実はわりと余裕あるんじゃないの?」
「これ以上ないほどギリギリです」
管理者であり調停者であり、神でもあるはずの男が、社畜という生き物の業の深さには驚嘆の念を禁じ得ない。
とはいえ松田の要求を全て叶えるつもりは男には毛頭なかった。
悪いが転生するのに労働契約書など存在しない。してよいはずがないのだ。
「でも、現実は非情。これから君の行く世界は剣と魔法が支配する、いわゆるファンタジーと呼ばれる世界。当然そこに労働基準法などはない」
「おい、待て、定時帰宅とホワイトの約束はどうなった?」
どうやら男に騙されていたことに気づいた松田は一転して声を荒げた。
くそっ! やはり面接で提示された条件など信頼に値するものではなかったか。職安の求人票ですら信用できないのに俺としたことが!
「無論、定時に帰宅するのもホワイトな生活をするのも君の自由さ。ただし、君の自己責任においての話だ!」
「自営業なら何をしても許されると思うなよ?」
「だが君に拒否権は存在しない! 君に許されるのは服従あるのみ!」
勝ち誇ったようなドヤ顔で、男は高く右手をあげる。見る間にその右手に白い光が集まっていくのを松田は睨んだ。
「説明を! これから転移する世界に関する詳細な説明、および十分な研修期間を要求する!」
「ふははは! 今まで十分な研修を受けたことなど君にあったかい?」
「ぬぐぐ……それは確かに一度もないがっ!(本当にないのだ) いくらなんでもファンタジー世界に飛ばされるとか無理にもほどがあるだろう!」
「…………無理というのはね。嘘つきの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるのであって、途中で止めなければ無理じゃなくなるんですよ」
どこかで聞いたような経営者の無茶ぶりに松田は激昂した。
「いつだってお前ら経営者はそうだ! いくら甘い言葉を紡いでみてもその実、自分の利益のためだけにしか行動しない!」
「よくわかってるじゃないか。それでは私の楽しみと仕事のために旅立ってくれ。君がホワイトな生活を送れるよう祈っているよ」
そのとき松田が見た男の顔は、決して実現する可能性のない夢を語る社長の嗤い顔によく似ていた。
努力次第でいくらでも出世、成績次第で倍増する給料、厳正な労務管理でホワイトな労働時間、言うだけはただだが、叶えるつもりなど微塵もない経営者の顔だった。
「だが覚えておいて欲しい。私は自身の利益になるかぎりにおいて、君に好意的にもなれるのだということを」
君は実に楽しませてくれそうだ、と男はひらひらと手を振った。
それはただの好意の押し売りだと言い返す間もなく、松田は無数の粒子となって白い部屋を飛び去った。
「実に興味深い生き物だな。社畜というものは」
面白いおもちゃにそう簡単に死なれては困る。言葉通り、男は確かにあくまでも自身の利益のために松田にチートを付与してくれたのであった。
勤続二十二年、これまで無遅刻無欠勤は無論のこと、毎日サビ残に明け暮れ休日は三年に一日でしかとっていない。
もちろん有給など言葉に出したことすらなく、人柄はあくまで温厚で部下のために骨を折ることを惜しまない男であった。
ついた綽名がミスターターミネーターである。
彼が支社長を勤める警備業界は、世間でブラックと呼ばれる業界のなかでも五本の指に入ると悪評も高い業界であった。
四十八時間連続勤務、七十二時間連続勤務は当たり前、事務用品は全部自腹で、仕事上のミスに関する賠償も会社は決して肩代わりしてはくれない。
警備業界の過酷さは、俗に3Kと言われる居○屋業界や介○業界に比べても決してひけを取るものではないのである。
そんな過酷な業務のなかで、松田はまさに『絶対に辞めない社畜VSどんな社員も辞めさせるブラック企業』という究極の対決に勝利し続けてきたのだった。
――しかしちょっと待って、待っていただきたい。わざわざ誰が好き好んで社畜になどなるだろうか。いや、なるはずがない。(反語)
「辞める理由より続ける理由で自分を語れよ!」と言っていた同期はとうの昔に松田を置いて退社していた。
あのとき奴と一緒に退社していれば、と毎日のように妄想する松田であった。
おおよそ社畜には二つのパターンがあるという。
ひとつには頼るべきものもおらず、進むことも引くこともできない状態である。
妻子を抱えてギリギリの生活をして貯金がないうえに、両親が早くに亡くなっていたり折り合いが悪い場合がこれにあたる。
経済的理由から転職先も決まらぬうちに退職できない。だが転職活動をする時間そのものが取れない。
辞めたら生活が破たんするという恐怖が、団○六のごとく社畜を縛りつける。
もうひとつが社畜であることに慣れてしまう諦めてしまう、あるいはさらに進んで洗脳されてしまう状態であった。
相談する相手もいないぼっちで、仕事以外に趣味らしい趣味がないと嵌りやすい罠であり、松田の状態がまさにこれである。
彼はなかでも一番性質が悪い日本人にありがちなおひとよし――部下たちには自分と同じ目には合わせたくない、などと考える人物だった。
こうした人間はひたすら自己犠牲によって心身をすり減らしていく。
「体調悪いんで休ませてください」
「友達と旅行の約束をしちゃって……」
「実家の農作業の手伝いをしていたら腰を……」
「――わかった。こちらのことは気にせず休みなさい」
部下のために自分の休暇をつぶし、上司の無理難題に応えるため体に鞭を打って睡眠時間を削るのである。
若いうちはそれでもよいが(いや、断じて良くはない)、歳をとってくると肉体のほうが先に限界を迎えるのは当然だ。
完全無欠の社畜ターミネーターとはいえ、四十路を過ぎた松田が一人暮らしのアパートで突然の心不全を起こすのも、必然の結果とよぶべきかもしれなかった。
錐に心臓を刺されたような激痛のなかで、松田は思う。
(……社畜なんて永久に呪われればいい。俺だって好きで社畜になったわけではないんだ。できるものならもっと思うがままに生きてみたかった)
まだ学生であったころには、そんな生活を夢見たこともあった。
何より諦めに身を任せた人生を送るなど考えもしなかった。
そう思うと、死ねることに安堵すら抱いている自分が無性に腹立たしく思えた。
(もし、生まれ変われたら――――)
その思考を最後に、松田毅の心臓は永久に停止した。
一人の社畜の死に、会社は事務的に花輪と弔電のみを送り、搾取できる獲物を失ったことだけをいたく悲しんだという。
※※※※※※※※※※※※※※
「――社畜を呪うとは、また自己否定も甚だしい言葉だね」
「失礼だがどなたですか?」
死んだ、そう思った次の瞬間には、松田は白い壁に埋め尽くされた二十畳ほどの殺風景な部屋にいた。
先ほどの言葉は目の前の色男であるらしい。
金髪碧眼、鼻梁は整いつくされており往年の名俳優シ○ーン・コネリーを彷彿とさせる見事な美形である。
が、目と目が合った瞬間から背筋に冷たい何かが走り、松田は警戒のレベルを最大級に引き上げた。
折り目正しく温厚そうで人を惹きつけるカリスマと、それを引き立てる高額アイテムで武装したこの手の人間を松田は嫌というほど見てきたのだ。
彼らはみな等しくどれほど才能や権力に満ち溢れていても、社畜にとって外道というほかない天敵であった。
「――お好きなように呼んでください。観測者とでも、道化とでも、愉快犯とでも…………神とでも」
「ではとりあえず社長と呼ばせていただきましょう」
「しゃ、社長? なぜに社長? え? え?」
その反応は想定外であったとばかりに男は目を瞬かせた。大阪人であればなんでやねん、とハリセンで突っ込むくらいはしたかもしれない。
というより、神というキーワードを思いっきりスルーされたのは、さすがの彼にも初めての経験だった。神といえど決して全知全能というわけではないのである。
「や、やりづらいな……とりあえず君、自分が死んだという自覚はあるかい?」
「やはり死にましたか。このところ動悸が治まらず眩暈がしたり不眠になったり不整脈の気配があったりしたので、時間の問題とは思っていましたが」
「なんで放っておくんだよ! そこまでわかってたんなら医者に行こうよ!」
「体が動かせる限りは万難を排して出社する。それが社畜です」
「でも、その社畜を君は呪っていたじゃないか……?」
男の言葉に松田は苦笑した。
「なかには洗脳されるやつもいますが、社畜が社畜であることに不満がないわけはないじゃないですか。私はただ単に諦めていただけです」
「そこで諦めんなよ! もっと熱くなれよ!」
「…………例えば残業が月に惨(誤字ではない)百時間を超えたとするじゃないですか」
「超えていい数字とは思えないけど、とりあえずわかった」
「なぜか残業させた会社のほうではなく、残業しなくて済んだ同僚を呪う。俺が残業しているのに一人だけ定時で帰るなんて許さない。それが社畜です」
「――助け合って環境を改善しようとは思わないの?」
「ありえません。例えばここにイエス・キリストが現れて、定時に帰ったことがない者だけが女に石を投げなさい、と言ったとします(ヨハネによる福音書第八章第一節~より)」
「そういえば立川のロンゲがそんなことを言っていたね」
いや、それは罪を犯したことのない者だけが女に石を投げなさいの間違いだろう。
「間違いなく誰も石を投げるのを止めないでしょう」
「いったいどうなってるの君の会社! こんなの絶対おかしいよ!」
社畜にとって、定時とはTen・o`clockつまりT時であるという俗説もある。世間の常識で判断してはいけないのだ。
つくづく社畜とは業の深い生き物であった。
「しかしそんな貴方に朗報が!」
もういろいろとスルーすることに決めた男は、いかにも善意に満ち溢れた慈愛の笑みでここぞとばかりに両手を広げた。
「今なら自由と希望に満ち溢れた異世界に貴方をご招待! しかも特別限定特典として貴方のステータスを大幅に向上して生まれ変わらせて差し上げます!」
「ずいぶん堂に入った売り文句ですね、社長」
「いつでも現場を忘れないのは大事だよね? ところでその社長呼びは固定なの?」
「まあ……今さらそんな売り口上を聞いて神様というのもどうかと」
「し、しまったああああああっ!」
割と男にとって神という立ち位置は重要な問題であったようで、深刻そうに頭を抱えてしまった。存外ノリのよい男である。
「ぶっちゃけるとね。君にはその世界に適性があるんだ。むしろ君が生きていた世界に適性はなかったね」
しかも立ち直りまで早い。
松田も地方とはいえ支社長にまで出世したのだから、適性が全くなかったとは言えないかもしれない。
もっとも松田が向いていなかったのは、仕事というよりは生き方の問題だから、関係ないとも言える。
「要するに私に社長のいう異世界に輪廻転生しろ、と?」
「まあ、端的にいうならそういうことだね。リクエストがあるなら聞けるだけは聞くよ?」
松田は腕組みして深刻そうにしばし頭をひねった。
「……定時で帰宅できる労働条件のはっきりしたホワイトな世界で」
それはサラリーマンの誰もが望むであろう夢。松田が遂に叶えることのなかった見果てぬ夢である。
もっとも松田の魂からの渇望は、男の感銘を呼ぶものではなかったらしい。
「ド、ドライだね。普通はイケメンにしてくれ、とかチートスキルをくれとか言うんだが……ほら、例えばアットホームな職場というのもいいんじゃないかな?」
「断言しますが、アットホームを謳う会社がアットホームであったためしはありません!」
意訳させてもらえば、アットホームな会社ですよ、というのは家族同然なんだから無料奉仕も当然よね? という奴隷募集と変わりがない。(マジで)
その言葉に騙されて善意の無料奉仕を強要される社畜のなんと多いことだろうか!
呪われてしまえアットホーム! 滅べ! 爆発しろ!
「君を見ていると社畜というのが本当に恐ろしくなるよ……定時に帰宅できるホワイトな世界、ね。まあ問題はないだろう。さすがにそれだけだと気が引けるので、もともと君は土属性に才能があるようだから、その才能を上げておくよ」
「――――労働条件の返事を聞いていませんが?」
ギクリ、と男は硬直してタラリ、とこめかみから汗を一筋流した。
「では頑張ってくれ。君の新たな人生に幸多からんことを祈っているよ?」
「スルーすればお茶を濁せると思うのは経営者の悪い癖ですよ? どうせ貴方も社畜なんてスマホと同じだと思ってるんでしょう!」
「え……と、なんでスマホ?」
「定額使い放題(残業代なにそれ? 美味しいの?)」
「――――君さあ、実はわりと余裕あるんじゃないの?」
「これ以上ないほどギリギリです」
管理者であり調停者であり、神でもあるはずの男が、社畜という生き物の業の深さには驚嘆の念を禁じ得ない。
とはいえ松田の要求を全て叶えるつもりは男には毛頭なかった。
悪いが転生するのに労働契約書など存在しない。してよいはずがないのだ。
「でも、現実は非情。これから君の行く世界は剣と魔法が支配する、いわゆるファンタジーと呼ばれる世界。当然そこに労働基準法などはない」
「おい、待て、定時帰宅とホワイトの約束はどうなった?」
どうやら男に騙されていたことに気づいた松田は一転して声を荒げた。
くそっ! やはり面接で提示された条件など信頼に値するものではなかったか。職安の求人票ですら信用できないのに俺としたことが!
「無論、定時に帰宅するのもホワイトな生活をするのも君の自由さ。ただし、君の自己責任においての話だ!」
「自営業なら何をしても許されると思うなよ?」
「だが君に拒否権は存在しない! 君に許されるのは服従あるのみ!」
勝ち誇ったようなドヤ顔で、男は高く右手をあげる。見る間にその右手に白い光が集まっていくのを松田は睨んだ。
「説明を! これから転移する世界に関する詳細な説明、および十分な研修期間を要求する!」
「ふははは! 今まで十分な研修を受けたことなど君にあったかい?」
「ぬぐぐ……それは確かに一度もないがっ!(本当にないのだ) いくらなんでもファンタジー世界に飛ばされるとか無理にもほどがあるだろう!」
「…………無理というのはね。嘘つきの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるのであって、途中で止めなければ無理じゃなくなるんですよ」
どこかで聞いたような経営者の無茶ぶりに松田は激昂した。
「いつだってお前ら経営者はそうだ! いくら甘い言葉を紡いでみてもその実、自分の利益のためだけにしか行動しない!」
「よくわかってるじゃないか。それでは私の楽しみと仕事のために旅立ってくれ。君がホワイトな生活を送れるよう祈っているよ」
そのとき松田が見た男の顔は、決して実現する可能性のない夢を語る社長の嗤い顔によく似ていた。
努力次第でいくらでも出世、成績次第で倍増する給料、厳正な労務管理でホワイトな労働時間、言うだけはただだが、叶えるつもりなど微塵もない経営者の顔だった。
「だが覚えておいて欲しい。私は自身の利益になるかぎりにおいて、君に好意的にもなれるのだということを」
君は実に楽しませてくれそうだ、と男はひらひらと手を振った。
それはただの好意の押し売りだと言い返す間もなく、松田は無数の粒子となって白い部屋を飛び去った。
「実に興味深い生き物だな。社畜というものは」
面白いおもちゃにそう簡単に死なれては困る。言葉通り、男は確かにあくまでも自身の利益のために松田にチートを付与してくれたのであった。
「ファンタジー」の人気作品
書籍化作品
-
-
26950
-
-
140
-
-
4
-
-
22803
-
-
34
-
-
11128
-
-
59
-
-
4112
-
-
35
コメント