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守銭奴にも武士の魂 ~札束風呂の元祖、岡定俊の貫いた武士の一分~

高見 梁川

第四十二話 後を継ぐ者

 全身の血が沸騰したかのように熱かった。心は水のように冷たく柔らかであれ、という角兵衛の教えなど瞬時に忘れた。ただ幼子のような衝動に突き動かされるままに八郎は物言わぬ角兵衛の躯へと走った。
「御爺! 御爺!」
「馬鹿者! 忍びが泣くな!」
 自らも瞳を充血させていながら、咎めるように方丈斎は叫ぶ。
 忍びにとって死はごく身近なものである。十人中九人までは三十を迎えることなく死を迎える。だからこそ死を解放と捉えるのが彼らの流儀であった。いちいち悲しんでいては生きていくのがつらすぎるのである。そんな忍びとしての基本的な心構えを、角兵衛は八郎には伝えていなかった。もはや古い忍びの生き方を伝える必要はないと考えたからだ。
「目を開けてくれ御爺、俺を一人にしないでくれ」
「なんたる弱さよ! そんな様で鵜飼藤助の後継が務まるか!」
 それでは八郎の奮起を促すために死んだ鵜飼藤助が報われぬ。何より肉親の死に戦意を失うようでは忍びではない。
 だが八郎はそんな方丈斎の罵声に反応しようともしなかった。ただただ角兵衛の亡骸を掻き抱き慟哭し続けた。角兵衛に忍びの技は伝えられたが、八郎は心に刃を隠し持つことを教えられていないのである。
 鵜飼藤助最後の弟子、角兵衛が最後までその勝利を疑うことのなかった天才ともあろうものが、まるで素人のような心構えでしかないことに方丈斎は嚇怒した。それは鵜飼藤助への、忍びへの冒涜であると受け取ったのである。
「――――死ね」
 八郎の後頭部を狙って放った苦無が、なんの前触れもなく礫に弾かれて落ちた。
「馬鹿な…………」
 方丈斎は怒ってはいたが、決して油断などしていなかった。八郎は両手で角兵衛を抱えており、礫を放っていない。方丈斎はその様子を確かにその目で見ていた。だが、苦無は礫によって弾かれている。それは錯覚ではなく現実であった。
 ようやく角兵衛があれほど八郎の才を信じた理由が、実感となって方丈斎の首筋を粟立たせていった。
「忍びが哀しんだらいけないのか」
「当り前ではないか」
「御爺はそうは言わなかった。苦しいと言ってはいけないとは言われたが、笑いたいときには笑い泣きたいときに泣けと教えられた」
 それは角兵衛が八郎を忍びにするつもりがなかったことを意味していた。裏切られた、と方丈斎は思った。技だけで心を伝えておらぬ忍びになんの価値があろう。それは正しく忍びの否定である。戦国を生き抜いた伝説の忍びである鵜飼藤助自身が、とうに忍びの未来を見限っていたのだ。
「認めぬ――――認めぬぞ、貴様が鵜飼藤助の後継者などと!」
 技が優れているだけなら忍びでなくともよい。武芸者でも十年技を磨けば忍びと同等の力を身に着けることが可能であろう。だがそれは、方丈斎の知る忍びではなかった。
「誰に求められなくとも、俺は御爺の息子で後継ぎだ!」
 名残惜しそうに八郎は角兵衛の亡骸を横たえた。
 まだ泣きたい気持ちはある。置いていかれたことに対する恨み言を言いたい気持ちも。しかし今は何よりも優先させなければならないことがあった。すなわち――八郎こそが角兵衛の息子でありその技と志を継ぐものであるという証を立てる必要があるのであった。
「ふん、餓鬼のくせにいっぱしの目をしおる」
 八郎の忍びとしての精神性を認めることはできないが、その目の色から発せられる威圧感は本物であると、さすがの方丈斎も息を呑んだ。ほんの少しでも油断すれば次の瞬間には礫で脳天を割られているような、そんな危機感が肌を突き刺すかのようである。その方丈斎の直感は完全に正しかった。
「見ていてくれ、御爺」
 これはいかん、と方丈斎は内心肝を冷やしている。正しく鋼の意志を宿した目であった。若者が格上を相手に生き残る必須の能力のうちひとつを、鵜飼藤助の思惑通り、八郎が手にしたことを悟ったのである。ここに有り余る運が加われば、場合によっては自分は負ける。過去に敗れ去った数多の優秀な忍びと同じように。
「――――この幻影の方丈斎、貴様のような若造に超えられる壁ではないわ!」
 そんなことはありえない、と方丈斎は己に活を入れた。いったいこれまでどれほどの天運の持ち主を倒してきたと思っている。運も意志も兼ね備えた雄敵を葬り続けてきたからこそ今なお方丈斎は生きているのだ。数え切れぬ雄敵が、また一人増えるだけのことであった。
「お前なんか、御爺の相手じゃない。御爺の凄さがお前なんかにわかるもんか!」
 角兵衛は最初から死ぬつもりだった。たとえ怪我をしていたとしても、そうでなくてどうして御爺が伊賀者などに負けようか。そう信じるからこそ八郎は角兵衛が自分を置いていったことを信じて疑わないのだった。
 やはり餓鬼だ、と方丈斎は思う。忍びにとって勝った者が強いのであり、強いと思われたかどうかに意味はない。八郎の知る鵜飼藤助がどれほど強くとも、敗北したのは弱かったからにほかならないのである。そんな当たり前のこそさえ教えていなかったのか、と改めて鵜飼藤助に対する怒りが募った。
「忍びの忍びたるゆえんを知らぬ餓鬼が、偉そうな口をほざくな!」
 怒り、失望、憎悪、天下に君臨する伊賀組の組頭たる方丈斎の殺気たるや平常の人間であればそれだけで気を喪失するだけの圧迫感がある。あまりの殺気に森の獣や虫たちまで息を殺したため、恐ろしいほどの静寂が八郎を押し包むかのようであった。
「――――殺すと思わばすなわち殺気を生ず。遊ぶがごとくただ空であれ」
 子供のころの修行で角兵衛から教えられた言葉を八郎は口ずさんだ。その言葉の通り、すでに角兵衛は本来の忍びではなくなっていたのである。主君長束正家が死んだときに鵜飼藤助もまた死に、角兵衛という好々爺が生まれた。心を殺し、肉親の情を殺し、敵を容赦なく殺すことにかけては手段を選ばない。そんな修羅道のことなど忘れたように、角兵衛は八郎を慈しんだ。
「小僧! 坊主にでもなったつもりかっ!」
 方丈斎に禅の悟りのような問答をする気はなかった。それに角兵衛に刺された腹の傷は致命傷ではないが重傷には違いない。早めに決着をつけるにこしたことはなかった。
 方丈斎の投げた苦無が、高い音を立てて交差した。投擲武器を交差させて軌道や速度を修正するのは何も印字打ちの専売ではない。さらに驚くべきことに、抜刀して吶喊した方丈斎は、この交差して跳ね返った苦無をさらに忍び刀で打ち返し、苦無を追い越すかのような速さで八郎に肉薄する。
 しかし八郎はそれを泰然と受け止めた。八郎は千変万化の印字打ちを角兵衛に叩きこまれている。方丈斎の秘術ともいうべき変則も、そうしたものの応用にすぎなかった。
 いともあっさりと八郎は苦無を印字で迎撃し、方丈斎の刀を電光石火の早業で手首を蹴りつけることで逸らした。正しく天才の証といえる見事な見切りであった。
「…………まずは見事と言っておこう」
 八郎の蹴りを浴びた手首が痺れるような痛みを発している。あるいは骨に罅ぐらいは入っているかもしれない。方丈斎ともあろうものが避けることも防ぐこともできなかった。かろうじて忍び刀を落とすような失態をせずに済んだのは、蹴りの衝撃を逃がすことが間に合ったからにすぎない。
「その蹴りも鵜飼藤助から受け継いだものか?」
「応とも、だけど御爺の体術はこんなものじゃなかったぞ」
 もしここに角兵衛が生きていれば、すでに八郎の体術は自分の全盛期を超えていると答えただろう。しかし八郎にとってはいまだ角兵衛は超えることのできない憧れとしてそこにいる。
 かつて憧れた角兵衛は、八郎にとっての見果てぬ理想に昇華され、いまだ八郎はその理想を追い続けているのだった。
「いかさま、甲賀の鵜飼藤助といえば印字打ちだけでなく、体術の練達として恐れらておった。あの男にかかればいかなる堅城も野を歩くがごとしであったと聞く」
 関ヶ原の折、名城のひとつに数えられた伏見城になんなく忍び込み、徳川に味方していた甲賀忍びの裏切りを促したのも鵜飼藤助の功績として知られる。たとえ同じ忍びが守りを固めていても、鵜飼藤助の前にはなんら障害とはなりえなかった。
 だが、だからといって八郎に――鵜飼藤助に勝てないとは方丈斎は微塵も思わない。強敵を打倒するためにこそ丹精した技があり、心の陰から雄敵を仕留めてこそ忍びの本懐があるはずである。何より方丈斎には鵜飼藤助をも倒した秘術があった。
「――――よいか小僧。貴様が鵜飼藤助を慕い、その背中を追いかけているかぎりこの俺に勝つことはできぬ。父を倒し、師の背中を乗り越えてこそ、忍びは忍び足りうるということを教えてやるぞ。冥途の土産にとくと見よ」
 暖かい家族のぬくもりに癒され、父と母を慕い無条件にその庇護を受けてきた忍びなど一人もいないし、いたとすればそれはもう忍びではない、と方丈斎は信じる。
 忍びとは、生き方である。生きざまである。その法度を超えた者は殺す。そんな峻厳な生と死を分かつ掟こそが忍びを忍び足らしめてきた。
 その忍びの手本となるべき鵜飼藤助が、世捨て人となって忍びの心を全く弟子に伝えていないことに、方丈斎は嚇怒していた。これまで生きてきたなかで一度もないほど腸が煮えくり返っていた。
 人生の価値を共有してきた最後の友に手ひどく裏切られたような思いであった。
 だからこそ――――八郎を葬る、葬り去らずにはいられない。
「御爺を馬鹿にするやつはこの俺が許さない」
 八郎には八郎の思いがあり、怒りがある。方丈斎の忍びに対する思いなど知ったことではなかった。ただ角兵衛の仇であり、自分は角兵衛の息子なのだと証明すること、すなわち方丈斎に勝利することだけが大事であった。
 敢然と方丈斎を睨みつけ、八郎はもう一度角兵衛の亡骸を見た。
(見ていてくれ、親父殿)
 言いたくて一度も言えなかった言葉を心で呟き、八郎は方丈斎との決着をつけるべく一歩を踏み出した。
 思いのほかに近くで派手な爆発音と紅蓮の火柱が上がったのはその時であった。

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