守銭奴にも武士の魂 ~札束風呂の元祖、岡定俊の貫いた武士の一分~

高見 梁川

第二十一話 琵琶沢村の襲撃その2

 音松の無残な最期を見た小六は、すぐさまこのまま戦うことの無駄を悟った。
 すでに重蔵は定俊の槍に貫かれ、配下の忍びは全滅。肝心要の音松まで討たれ、下忍一人を残すのみとなっている。小六自身、完全に重吉に抑えこまれていた。口惜しいことだが小六の腕では重吉一人にさえ勝てない。
 今となってはアダミを拉致してここを逃れることは不可能と言ってよかった。ではどうするか?
 ――――決まっている。逃げるのだ。そして後からやってくる黄番に情報を引き継がねばならぬ。運が悪ければ黄番も全滅し、伊賀組から二つの番が消滅することになる。それは下手をすれば伊賀組そのものが処罰の対象になりかねない失態であるはずだった。
「散――――喝」
 伊賀組にのみ通じる符牒を叫び、小六は懐に手を伸ばした。
 その一瞬の隙を重吉は見逃さない。忍びに情報を持ち帰らせればあとあとが厄介になることは重吉もよく承知していた。
 この日初めて重吉は防御から攻撃へと転じた。防御用として用いていた小太刀を本来の攻撃としての役割に戻したのである。小太刀の間合いの狭さは問題にならなかった。伊賀組の使用している忍び刀は小太刀よりもさらに間合いが狭いものであるからだ。
 かろうじて小六は重吉の太刀の一撃を凌ぐが、ほとんど同時に襲いかかってきた小太刀まで懐に手を入れた状態で避けることは不可能であった。小六を支援すべき下忍は、急に攻撃に転じた重吉の豹変についていけないでいる。
 小六は懐から取り出した丸い物体を鷲掴みにして、咄嗟に小太刀の前に差し出した。もちろんそんなもので小太刀を防げないことは百も承知、だが決して効果がないわけではない。
 なぜならその丸い物体の正体は煙幕玉であり、小太刀を受け止めると同時に起爆したからである。
(ちぃっ! 指が二本持っていかれたか)
 煙幕玉が盾としての役目を果たさぬ以上、それを掴んでいた小六の指が斬られるのは自明の理である。当然のことと受け止めながらも、長年鍛えあげてきた己の一部を失うのは存外に腹立たしいものであった。
 閃光とともに濛々たる煙が湧きおこる。もちろん一流の剣士にとって視界の不良は決定的な障害ではないが、こと攻撃に関しては大いに問題であった。
 そればかりではない。煙幕を合図にして下忍たちは一斉に腰に巻きつけていた火口に火をつける。彼らは小六を逃がすために自ら自爆するつもりなのだ。
 一人でも多く道連れにせん、と三人の下忍たちは駆け出した。もちろんその標的は重吉と定俊である。
「定俊様――――」
 主の危機におりくは慌てて吹き矢を放つが、それよりも定俊が動くほうが早かった。
 爆弾を胸に道連れにしようと向かってくる伊賀組に、定俊は自分のほうから吶喊したのである。 
「ふんっ!」
 あえて鞘ごと愛刀を腰から抜き放ち、定俊は嗤う。歴戦の戦人は戦いの引き出しの数が違うのだ。たかが命を懸ける程度でこの岡越後を討ち取れると考えているなら見込み違いもいいところであった。
 刃を鞘に納め、一個の鈍器と化した刀は、下忍の身体に触れるやまるで巨馬が後ろ脚で蹴飛ばしたようにその身体を弾き飛ばした。まともに刃で斬っていれば定俊も爆発に巻き込まれただろう。
 それがわかっているから、否、わかるより先に定俊の五体が行動していた。生きようとは思っていないのに身体が勝手に生き延びるために動く。だからこそ戦人にとって死に場所とは得難く尊いのである。
 何かに裏切られたような驚きの表情を張りつかせたまま、空中で下忍の身体は轟音とともに四散して真っ赤な大輪の花を咲かせた。
 残る一人は達介の狙撃を受けて即死し、もう一人も重吉に小太刀を投擲されてあっさりと動きを封じられていた。刀は武士の魂などと言われるのはまだ後の世の話で、このころの武士はそれほど刀を大事にしていない。まして小太刀など投げるのに躊躇するはずがなかった。
 ただの一人も敵を減らすことができず全滅した下忍たちだが、少なくとも最低限の目的は達成した。小六はそのときすでに定俊たちから逃走し十分な距離を稼いでいたのだ。
 もう鉄砲も弓矢も届かない。音松のような神足通の使い手でもないかぎり、追いつかれることはないだろう。
 確かに小六の思惑は当たっていた。おりくも達介も、定俊も重吉も小六の逃走を防ぐことができずに切歯していた。いかに戦人といえど、逃げ足では忍びには敵わない。下忍たちはその生命と身体をなげうち彼らの役割を全うしたのである。
 ――問題は彼が逃走した先にあった。


 人差し指と中指を失い、戦闘力が半減したといっていい小六は追跡の難しい山中へと逃げこみようやく一息をついた。
 予想していたより遥かに恐ろしい相手であった。わけても定俊の戦ぶり――そう、あれは正しく戦であった。たった十人あまりしかいなくとも、先ほどの戦闘は間違いなく小六の知る戦であった。戦であれば、まともに戦えば戦人に忍びが勝てるはずがない。 
 もちろんまともでない戦いかたをすれば勝てるからこそ忍びは闇の戦人なのであるが、もはや伊賀組のなかにも、そんな闇の戦人は数えるほどしかいなくなっていた。
 いや、たとえそうだとしてもその貴重な闇の戦人を投入しなくてはあの魔物のような男たちには勝てぬ。戦を知らぬ若い伊賀者など、いくら率いても刀の錆となるのが関の山であろう。
 仲間を失い、方丈斎に命じられた任務にも失敗したというのに、小六の胸にじりじりと熱い炎が燃え上がろうとしていた。
 久しく出会うことのなかった敵に会えた。闇の戦をするに相応しい敵が現れたことが小六の血を騒がせたのである。ゆえにこそ失われた指が惜しまれてならなかった。この怪我さえなければまだまだ自分は戦えるものを――――
「こんな昼間っから伊賀者がどうしてうろついておる?」
「何やつだっ?」
 唐突に小六の頭上から声がした。咄嗟に声のした方向へ苦無を放つが、そこにはすでにあるべき人影はなかった。気配がつかめないところを見ると最初からいなかったのかもしれない。
「手負いか。どうやらすでに一戦交えたようだな」
「いけねえ。遅れちまったかな御爺」
「おそらくは大丈夫であろうよ。そうでなくては手負いがこんなところまで逃げてくる理由がないゆえな」
 老齢と思われる男のほかに、もう一人若い男の声がする。どちらも小六がここまで気配がつかめないということは忍びであろう。それもかなりの腕だ。
「いずこの手の者だ? 蒲生家の子飼いの甲賀者か?」
「さて、教える義理もないが……どうせすぐわかることか。甲賀者じゃよ」
 数ある忍びの流派には、それぞれ独特の癖や特徴などが存在し、わかる人間にはすぐに相手がどの忍びの流派がわかってしまう。角兵衛が小六を伊賀者と断じたのも、その癖を見破ってのことだ。
 甲賀忍者二人を相手にどうやってこの場を逃れるか、小六はめまぐるしく思考を戦わせていた。まともに戦っては勝てない。相手の腕はおそらく小六と同等かそれ以上であり、逃げるだけでも至難の業に思われた。
「甲賀組は静観する約定があったはずだが?」
「生憎とわしらは流れでな。統領の指図は受けぬよ」
「流れとて誰にでも噛みつけばよいというものではあるまい」
 小六たちが受けた命令はアダミの誘拐であり、蒲生家と陥れることではない。下手に邪魔だてをすれば、逆に蒲生家が危機に陥ることもありうるのである。
 そう小六が言外に匂わせたことは、角兵衛にいささかの感銘も呼ばなかった。もとより角兵衛たちはおりくの助けにきたのであって、蒲生家に義理があるのではないのだ。
「…………おぬしら、蒲生家子飼いではないな?」
 蒲生家が飼っている忍びであれば、少なくともお家の損得について考えるくらいはする。最初から伊賀者抹殺の命令でも出ていれば別だが、そうした殺気は感じられなかった。であるならば、この甲賀者はいったい何者なのか。
「――逃がすわけにもいくまい。ここで出会ったが不運と諦めてもらおうか」
 角兵衛は小六がすでに戦闘力を半ば失っていることに失望していた。気配からして先日の伊賀者よりはよほど腕が立つと思われるのに残念なことである。さすがの小六も、角兵衛たちが金でも命令でもなく、義理と酔狂によってやってきたとは思いもよらなかった。
 のっそりと角兵衛が茂みから姿を現す。やはり先ほどの声が聞こえた方角とはまるで違っていた。
「ご老体、どこかで会ったか?」
 七十も過ぎた枯れた細木のような老人に、小六は妙な既視感を覚えた。古い記憶である。まだ自分が若く、敵と戦うことに恐れを感じなかったころの話だ。あの頃はまだ戦うことの怖さを知らなかった。敵に力量さえ測ることができなかった。
 はたしているから自分は戦いの怖さを知ったのか。そこまで考えたとき、小六の記憶と感情が激しく交錯する情景があった。
「――――まさか……鵜殿藤助! 貴様、生きていたのか!」
「ほう、まだ俺の名を知っている者がいたか」
 白昼幽霊にでも出会ったかのように小六は唖然として口を開けた。
 小六が初めて角兵衛――鵜殿藤助と接敵したのはあの関ヶ原の前哨戦において、安濃津城をめぐり冨田信高が東軍に寝返ったときのことだ。
 東海道と伊勢街道を扼し伊勢湾海上交通の要衝である安濃津城の去就は、両軍にとって大きな問題であった。事実この安濃津と、同じく交通の要衝である大津が三成を裏切ったことが西軍の分散の原因となり、最終的には関ヶ原の戦いの西軍敗北の遠因になったともいえる。
 別して冨田信高は当初西軍に組したとみられており、彼が東軍に寝返って籠城したという事実は一刻も早く家康のもとへ知らせなくてはならぬことだった。
 それは逆にいえば、西軍としては安濃津を奪還するまで冨田信高の籠城を家康に知られたくないということだ。
 当初情報戦において優位に立っていたのは、伊賀者を大量に配下に抱えた家康のほうであった。西軍の将、長束正家は甲賀を支配していたものの、掌握できていた忍びはおよそ三割程度にすぎなかった。その三割の中にあの鵜飼藤助もいた。
 彼の役目は、毛利秀元率いる攻略部隊が安濃津城を陥落させるまで、情報を家康に届けさせないことだった。東海道を下る小六たちが藤助によって捕捉されたのは、浜松を望む浜名湖のほとりである。
 正直なところいったい何が起こったのか、いまだ小六の記憶は霞がかかったように不透明なままである。気がついたときには浜名湖の入り江で藻にからまって浮いていた。おそらくは印字の一撃を受けて、意識を失い浜名湖に転落した結果、奇跡的に助かったのだろう。唯一覚えているのは、痩せぎすで矮躯の男に「鵜飼藤助、推参なり」と叫ぶ頭目の最後の言葉であった。
 とうの昔に死んだはずだと思っていた。いや、そもそも徳川家の目の敵である藤助が生きている理由がわからない。この男を生かしておくべき利点が小六には理解できなかった。
 同時に、あのときは手も足もでなかった自分が、どこまで藤助に通用するのか試したい、と歓喜にも似た感情がこみ上げてくる。もはや自分が助かるという可能性を小六は捨て去った。藤助はそれほどの相手だった。
「――――何故生きていたかは問うまい。一手おつきあい願おうか」
 小六の言葉に藤助――角兵衛は静かに頷いた。
「八郎、ここは任せよ」
「やれやれ、御爺ばかりいいところを持っていく」
 せっかく住み慣れた山を下りて腕試しにやってきたのに、骨がありそうな相手を取られて、八郎は不満そうに頬を膨らませた。
「すまぬな」
 ここで自分が鵜飼藤助だと知る人間に出会ったのも何かの縁であろう。てっきりもう自分を知る者などほとんど残っていないと思っていたが、存外戦国の生き残りというのはいるものだ。
 そう考える、なぜか心の奥が温かくなる角兵衛であった。
「――――何のめぐりあわせかは知らねど、ここで会ったからにはいずれかが死ぬ以外の決着はないものと心得よ」
「もとより承知!」
 期せずして二人は嗤った。小六は忍び刀を手に神足通で距離詰める。指を失っている今中距離ではまず勝ち目がないからだった。

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