化物

観楽

化物は、どっち?


 頭上から落ちてきた大きな水の塊が僕の頭を殴打する。ポタポタと顔を滑り落ちる黒ずんだ水滴に濡れて纏わりついた髪の毛を指で押し退け、水の落ちてきた方を見上げれば、トイレ掃除用のバケツを手に、ニヤニヤと笑いながら全身濡れ鼠となった僕を見下ろすクラスメイトたちと視線が合った。彼等の口がゆっくりと開き、僕を指差して言う。
 化物、と。

 僕は濡れた身体を引き摺り、登校してくるクラスメイトたちの嘲笑と侮蔑の視線から逃げるようにトイレへと駆け込んだ。ハンカチで顔を拭いていると、ふと、目の前の鏡が目に入る。僕は心に重く圧し掛かるような暗い憂鬱に襲われた。鏡の中から覗き込んできたのは見るも醜い顔の男だ。脂肪の重みでたるんだ二重の顎が短い首を覆い隠し、下膨れの顔のそこら中に赤いニキビが散らばっている。横向きに二つ、重なった大きなタラコ唇の間からは黄色く汚れた歯と虫の集っている蕪のように歪な形へと変貌した虫歯が微かに顔を覗かせていた。顔の中心を陣取る大きな団子鼻は豚の鼻のように上を向き、深いトンネルのような穴が二つほど虫食いのように口を開けている。斜めに歪んだ左右非対称の眼が瞼の分厚い脂肪で細く潰れ、死んだ魚のように生気のない、疲れ切った視線で僕を見返した。僕が今にも零れそうな涙を堪えるように笑みを浮かべれば、鏡の中の男のタラコ唇が大きく湾曲し、汚れに塗れた歯を惜しげもなく押し出す。その悍ましい笑顔はクラスメイトの言うように、醜い化物そのものだった。
 まだ少し湿った身体で自分の教室に入ると、一瞬クラスメイトたちの会話が止まったかと思えば、そこらかしこからクスクスという嘲笑が木霊する。
 「化物が戻って来たよ」
 「うわ、アレまだ湿ってるじゃん」
 「戻ってこなくていいのにねぇ」
 「一生トイレに住んでればいいのに」
 向けられる視線と言葉はナイフのように鋭利な蔑みを孕んで僕に突き刺さった。身体はなんともないのに、心はザクザクと穴が開き、真っ赤な血が噴水のように噴き出している。僕は痛みを堪えるように力なく笑みを浮かべ、彼等におはようと返した。それに返されたのは挨拶ではなく幾つものわざとらしい悲鳴だ。
 「やあ、おはよう、化物君。珍しく遅かったね。トイレにでも篭もっていたのかな」
 「はは……そんなところだよ」
 クラスメイトの瀬谷君が親しげに声を掛けてくる。しかし、その端正な顔には嘲笑が浮かび、向けられる視線には侮蔑が込められていた。クラスを先導する中心的な存在で、何が気に入らないのかは知らないけれど、僕を最も執拗にいじめてくる。爽やかで格好いい容姿と穏やかな物腰で皆から慕われている、僕とは正反対のような人だ。
 「昨日の給食はいっぱい食べていたからね。そのせいかな?」
 「それは……関係ないよ」
 昨日の給食は裏庭から拾ってきたのだろう、泥や虫をたくさん入れられた。僕は食べたくなかったけれど、瀬谷君は僕の口を開けさせて無理やり詰め込んできたのだ。僕はあまりの異物感に息が苦しくなり、慌ててトイレに駆け込んで胃が全部ひっくり返そうなほど吐き出すと、飛び出した黄色い胃液が喉を灼いた。その日は一日中ずっと腹が締め付けられるような腹痛が止まらなかった。
 僕は瀬谷君に曖昧な笑みを浮かべ、ぶつけられる嘲笑の礫をその身に受けながら、自分の席へと向かう。僕の机の上には白い花瓶が置かれ、その中には枯れ果てて萎びた花が頭を垂れていた。その花弁の落ちた先は『化物!』『死ね!』『消えろ!』といった罵詈雑言で埋め尽くされている。僕はいつものことだと気にしないように自分に言い聞かせながら、椅子を引いた。机の下から顔を出した椅子の上では針を上に向けた幾つもの画鋲が僕を刺そうと狙っている。僕はそれらを落とさないように丁寧に掻き集め、制服のポケットに突っ込むと、ようやく椅子に腰かけた。椅子がギシィと悲鳴を上げて軋む。鞄から教科書を取り出し、机の中に入れようと手を突っ込むと、返ってきた感触とグチュリという気味の悪い水音に思わず悲鳴を上げた。
 「ヒッ!」
 「おやおやぁ、どうしたのかなぁ、化物君」
 「い、いや、何でもないよ、はは……」
 満足げに嫌な笑みを浮かべながら僕を見つめるクラスメイトたちの視線を受け止めながら、僕は机から零れ落ちたモノを怯えるように見つめた。背筋にゾクゾクと寒気が走る。机の中から落ちたのはクネクネと身をくねらせて動き回るミミズだった。恐る恐る机の中を覗き込んでみれば、そこには無数のミミズが互いに絡まり合いながら這い回っている。数匹が狭い机の中は我慢できないとでも言うように机から這い出し、ボトボトと教室の床に零れ落ちた。
 「おいおい、ミミズを学校に持ってくるんじゃねぇよ、化物よぉ」
 「今日のおやつにでもするつもりかい?」
 「おぇ~、気持ち悪ぅ」
 クラス中から聞こえるクスクスという笑い声に、僕は何も言い返さなかった。ただ、涙を堪えるように唇を噛みしめ、曖昧な笑みを返す。皆からは囃し立てるような笑い声が返ってきた。
 その声に被せるようにチャイムの音が鳴り響く。その音と共に、教室の扉が開かれ、先生が入ってきた。透明な角眼鏡を掛け、ピシッと黒いスーツを着こなした真面目そうな風貌の男だ。
 「ホームルームを始めるぞ。お前ら、早く席に着け」
 その言葉に、皆は人が変わったように笑みを引っ込め、前を向く。背筋を伸ばして先生に視線を集める優秀な生徒たちに満足げに視線を向け、しかし、ふと、まだ席にも座っていない僕を見つけた。その足元には未だに這い回るミミズが教室の床を汚している。先生の顔が怪訝そうな表情に変わる刹那、一瞬だけ微かに笑ったような気がした。
 「なんだ、何をやっている。鞄の中の物をしまうのはホームルームが始まる前にやっておけ。お前一人のために皆が迷惑することになるんだぞ。申し訳ないと思わないのか」
 「……はい、すみません」
 「それに、なんだ、そのミミズは。学校にそんなものを持ってくるな。早く外に捨ててきなさい」
 「……はい」
 先生が僕を叱りつける様を、皆はニヤニヤ笑いながら見ている。僕はただ泣かないように唇を噛みしめ、謝るだけで釈明もしない。本当のことを言えば、皆が怒られることになってしまうからだ。僕は説教が終わるまでじっと耐え続け、ようやく終わると、悄然と肩を落としたまま、ミミズを腕に抱えて外へと出ていった。扉をくぐった途端、堪え切れなくなった涙が一粒、床に落ちる。

 放課後、僕は裏庭に蹲り、痛みに耐えていた。身体中にできた痣がじわじわと続く痛みを訴え、散々踏みつけられた制服は泥に塗れている。今日のいじめは何時にも増して苛烈なものだった。鞄の中にゴミや虫を詰められ、給食の時には排水溝の中のヘドロを混ぜられた熱いスープを無理やり流し込まれた。放課後、男子たちに呼び出されたかと思えば、瀬谷君が悠然と見下ろす先で殴られ蹴られと激しい暴行を受ける。やめて、と喚いても彼等は一層笑い声を上げるだけだった。
 「ふぐっ……ぐっ……ふっ……」
 殴るのに飽きたのか、誰もいなくなった裏庭で一人、僕は一日中堪え続けた涙を流す。一度流せば、堰を切ったように涙は止まらず、僕の顔に付いた泥を落とした。一体、僕が何をしたというのだろう。僕はただ、皆と仲良くしたいだけなのに。そんなに自分のこの醜い顔が悪いのか。
 僕は顔の汚れを落とそうとハンカチを取り出し、そして、朝の水でびしょ濡れになったことを思い出して落ち込んだ。トイレの水で濡れたハンカチで顔を拭こうとは思わない。
 僕が諦めてそのまま帰ろうとすると、ふと、頬にひんやりとした心地好い感触が当たった。僕は突然の感触に、肩を震わせ、飛び上がる。
 「なっ、なっ、何っ?」
 「あ、ごめん、驚かせて。痛そうだったからつい」
 勢いよく振り向けば、そこにいたのはクラスメイトの美絵さんだった。クラスメイトの中でもいじめに加わっていない一人だ。彼女の手には濡らしたピンクのハンカチが握られている。さっき、頬に触れた感触はそれのようだ。綺麗な生地を僕の頬に付いた泥が汚していくのを見て、背徳感のような感情が胸の内を占める。
 「だ、大丈夫だよ、ありがとう」
 僕が上擦った声でそう言うと、彼女はすまなそうに眉を垂らした。俯いた顔を長い艶やかな黒髪が覆い隠す。
 「ごめんね、いつも皆を止められなくて。いじめられているのに」
 「き、気にしないで。僕を助けたりなんかしたら美絵さんもいじめられちゃうよ」
 僕は今までにないほど動揺していた。こんなに人に優しくされたのは初めてのことである。しかも、その相手は美絵さん、僕が密かに想いを寄せていた相手だ。苛烈ないじめで氷のように冷え切っていた心を溶かすように胸が熱を帯び、気持ちが高揚する。緊張のあまり、上手く喋ることが出来ず、言葉に詰まる自分が恥ずかしくて顔が熱くなった。
 「実は、私、ずっと話してみたいと思っていたの。よかったら、一緒に帰らない?」
 「う、うん」
 僕が頷くと、彼女は嬉しそうにふんわりと笑った。僕の顔が再び火を噴く。

 「へ、へぇ、そうなんだ」
 「うん、それでね……」
 まるで夢のような時間だ。川沿いの土手の道を美絵さんと並んで、他愛のない話をしながら歩いていく。吹き荒ぶ風は冷たくとも、顔の熱が冷めることはなく、頭の中は空を飛んでいるかのようにふわふわと落ち着かない。僕は胸に溢れ出る想いを抑えようとするけれども、彼女の可愛い笑顔を見る度に決壊しそうなほどにその奔流は激しかった。学校での辛かった出来事がまるで遠い遥か昔の過去のようだ。胸を止め処なく埋め尽くしていく彼女への恋は火傷するほど熱く、それでいて、甘い幸福に満ちていた。ああ、この河川敷の道が永遠に続けばいいのに。僕は溶けた頭で、そんなことを願っていた。
 しかし、夢はあまりにも唐突に終わりを告げた。
 「おらぁ!」
 蹴られた。背後からドン、と自分の身体を襲った強い衝撃に、そうだと気付いた時には既に遅く、僕は前のめりに倒れ、固いコンクリートの地面に鼻を強かに打ち付ける。団子が潰れ、中から赤く生暖かい血が溢れ出て、せっかく彼女が拭いて綺麗にしてくれた顔を汚した。
 「おぉ! いい蹴り入りましたぁ!」
 「次、俺、行きまぁす!」
 クラスメイトたちのはしゃぐ声と共に、今度は脇腹を思いきり蹴り上げられる。スニーカーの爪先が柔かい肉に突き刺さった。サッカーボールのようにでっぷりと太った僕の身体は土手の坂を転がり落ち、河岸に無様に転がる。
 僕は痛みに呻きながらも、震える足で立ち上がった。鼻血は止め処なく流れて僕の顔に真っ赤な化粧を施していく。背中と脇腹に残る鈍い痛みが喉を締め付けているかのように呼吸が苦しく、口からは風が抜けるような音ばかりが漏れていた。
 しかし、いつものようにやられてばかりではいられない。僕一人ならば、耐えれば終わる話だ。でも、今は美絵さんがいる。彼女が僕に優しくしてくれたと知れば、彼等は彼女にも危害を及ぼそうとするだろう。美絵さんを守らなければ。そう思い、僕は決死に立ち上がる。
 しかし、再びクラスメイトに背中を蹴られ、僕は地面に横たわった。
 「おぅおぅ、頑張るねぇ。これが愛の力ってやつかぁ?」
 「やぁん、僕ちゃん、カンドウしちゃうわ! ヒヒヒヒ」
 「ぐっ……!」
 囃し立てるクラスメイトが倒れた僕の背中を踏みつける。腹が押し潰され、呼吸が苦しい。逃れようと必死に土を引っ掻く爪は裂けて血が滲んだ。もがく僕の無様な姿を見て、クラスメイトたちが笑っている。
 「やぁ、化物君。恋人ごっこは楽しかったかな?」
 瀬谷君の心底楽しそうな声が聞こえて、僕は顔を上げる。そして、目の前に飛び込んできた光景に目を見開いた。瀬谷君は美絵さんの腰を抱き、彼女もまた、しなだれがかるように瀬谷君に身体を預けている。その表情は頬を赤らめ、うっとりと恍惚に満ちているようだ。
 瀬谷君は悠然と僕を見下ろす。その視線には紛れもない嘲りと侮蔑の色が込められていた。
 「ふふ、どうだった? 好きだったんだろう、彼女のことが。だから、僕がお願いして君の相手をしてあげるように頼んだんだ。感謝してよね。彼女は相当嫌がったけど、最後は渋々協力してくれたよ」
 嘘だ。
 「美絵さん、楽しかった?」
 「ぜーんぜん、面白くなかったぁ。顔真っ赤にして話しかけてくるし、どもるし、話は面白くないし、超キモかったよぉ。でもでも、私、瀬谷君の頼みだから頑張ったんだぁ」
 嘘だ。
 「うん、ありがとう。おかげで、いい見世物が見られたよ。あ、そういえば、あのハンカチはどうしたの?」
 「さっき、ゴミ箱に捨てたよぉ。あんな汚いハンカチ、もう使う気起きないしぃ」
 嘘だ。
 「そう、ごめんね。今度の日曜日、代わりのハンカチ一緒に買いに行こう」
 「え! ほんとぉ! やったぁ!」
 ……全部、嘘だったんだ。あの優しい瞳も、甘い言葉も、綺麗な笑顔も。嬉しそうな笑顔で瀬谷君に抱き着く美絵さんの姿が涙で霞んでいく。もう、脇腹も背中も痛くなかった。ただ、心が罅割れ、ピシピシと悲鳴を上げている。崩壊した穴の奥からは血がダクダクと流れて止まらない。粉々に砕けた心の破片をクラスメイトたちが踏み躙っていった。
 彼等はゲラゲラ笑いながら呆然自失の僕の身体を両脇から支え、瀬谷君の正面に立たせる。僕の後ろでは河が音を立てて流れていた。
 「……どうして」
 「ん?」
 僕は聞かずにはいられなかった。他でもない、彼に。
 「どうして、瀬谷君は……僕が、何かした?」
 「ははは、そんなこと、決まっているじゃないか」

 「理由なんてないよ」

 そう言って、瀬谷君は僕の腹を思いきり蹴り飛ばす。衝撃に飛ばされたまま、僕の身体は後ろに倒れ、河の中へと飛び込んだ。
 薄れゆく意識の中、僕は皆の笑う顔を見る。しかし、それは到底人間とは思えないような醜い顔だった。不気味に吊り上がった眼の中に浮かぶ爬虫類のように細い瞳孔は血走っており、黄色い眼光を放っている。鼻は長く伸び、その先は鉤爪のように大きく折れ曲がっていた。ボサボサの振り乱された髪の隙間から覗く耳は鋭く尖り、そこまで届くほどに大きく口角の裂けた口が三日月型に歪んでいる。その中には牙が何本も立ち並び、その間から二股に分かれた舌が暖炉の中の炎のように揺らめいていた。
 ああ、彼等はなんて醜いんだろう。あの顔は、あの醜悪な顔はまるで。

 ――まるで、化物じゃないか。

 そう思った瞬間、彼の意識は水に呑まれ、水泡と共に消えた。

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