美しきこの世界

Rickey

三十四

 七月の初めの空には、水で溶かした絵の具のような薄白い雲が滲んでいます。梅雨入りの後もそれほど大きな雨は降らず、ぐずついた天気が続いていました。それはまるで、夢達の気持ちを表すかのように青い空を覆っていたのです。
 退院直後、体調の良かったおばあさんは日が経つに連れ、尿の出が不安定になって行きました。それに伴い血圧も日ごとに上がって行き、百三十から一時百八十にまで達してしまう時もあったのです。夢達は積極的に体位変換やマッサージ等を行い、体内の尿が一部で留まらないようにしました。尿路を詰まらせる沈殿物が出来ないようにしてゆけばきっと良くなってくれる、そう夢達は願っていたのです。さらにケンシは排尿が二、三時間確認出来なければ、尿道カテーテルが閉塞していないかどうかカテーテルチップを使って調べ、詰まりがあればそれを除去してゆきました。そうして再び排尿が始まれば血圧も下がり、おばあさんの表情も落ち着いて行きました。
 しかしこれはあくまでも応急処置で、どれほど効果があるのか夢達には分かりません。病状が急変する可能性もあるので、救急車の出動を要請する事も常に頭に入れています。そしてそのタイミングも逃さないよう訪問診療や訪問看護でおばあさんの日日の状態を密に共有し、その際には医療従事者の意見も聞けるよう準備をしています。今の所、家でおばあさんを診てもらう限りではそれほど緊急性はないそうです。
 それでも、夢達の緊張は解けませんでした。漸く掴んだ未来への道があったからです。七月十一日からナガの病院で入院し、十三日と十八日に手術が行われます。夢達はやっと見えたその場所を、見失わないよう強く見つめ、一日一日を過ごしているのです。
 そして今日という日もまた、そこへ向かう一歩にしなければいけません。
 今は午後の五時。おばあさんの家には夢と訪問看護師が居ました。昨日の昼頃から尿の排出量が減り始め、その日の夜中にはほとんど出なくなりました。心配になったケンシが訪問看護師へ電話で相談し、臨時で訪問してもらいました。
 おばあさんは今、ベッドの上でいつものように横になって寝ています。
「酸素が測れない」
 おばあさんの人差し指を挟んでいるパルスオキシメーターを確認した訪問看護師が、夢に視線を向けてそう言いました。動脈に流れる血液中の酸素の割合である酸素飽和度を測定するパルスオキシメーター、そのディスプレイには何も表示されませんでした。指を挟めば自動で電源が入るのですが、反応しません。看護師は電池の残量を確認し、他の指でも試したのですが同じでした。夢は冷静になろうと恐怖心を抑え込み、急いで茶箪笥の棚に置いてあるパルスオキシメーターを手に取ると、おばあさんの人差し指に取り付けました。訪問看護師はその間に血圧を測ろうと、ナイロン製の大きな手提げ袋から聴診器とカフを取り出して、おばあさんの腕にそのカフを巻きつけました。反応の無かったパルスオキシメーターを睨んでいた夢は、おばあさんの人差し指からそれを取ると、自分の人差し指に取り付けました。その瞬間ピッと音が鳴り、一秒ほどで電源が入りました。それを確認した夢はもう一度パルスオキシメーターをおばあさんの人差し指に取り付けました。ピッ。今度はその音と共に電源が入り、ディスプレイに文字が表示されました。夢は一瞬安堵したのですが、ディスプレイに表示されるはずの酸素飽和度や脈拍数が出てきませんでした。ただ、心臓の拍動によって出される脈波形や脈拍の強さを表すグラフには、ハッキリとした形ではないものの、微かな力を感じることが出来る精一杯の反応がありました。
「血圧がとれない、ショック状態かも、夢さん。それに」
 そう言った看護師は、人差し指を挟んでいるパルスオキシメーターに目をやりました。夢はおばあさんの横顔に視線を向けました。
「不整脈、ですね。どうしよう、ショック状態です」
 そう夢に伝えた看護師は冷静さを見せようとしていましたが、今何をすべきか、それを理解している内心の焦りが表情に浮かんでしまい、さらにそれが夢の心に伝染しました。夢は、看護師が言った不整脈という言葉に結び付く知識を頭の中に呼び起こしました。不整脈、薬の副作用とか高齢とか、そうか、よくある言葉、よく聞く言葉、大丈夫な言葉。危険じゃないと想いたい夢はそう繰り返し、しかしそれでも押し寄せる恐怖で夢の表情は険しくなり、瞳に力が入りました。
 いけない。そんな安心出来る言葉に逃げてはいけない。
「救急車呼んだ方がいいですか?」
 夢がそう聞くと看護師は手提げ袋から携帯電話を取り出し、「先生に電話してみます」と言いました。電話はすぐに繋がったようで、看護師はおばあさんがショック状態である事を医師に伝えました。そして看護師は間を置くことなく携帯電話を夢に差し出し、「先生が代わってと」と言いました。
 携帯電話を受け取った夢は、冷静さを保ちながら話しました。
「代わりました」
「救急車を呼んだ方がいいです」
「分かりました」
「ナガの病院でなく」
 医師がそう言ったのは、前回の入院直前のケンシとの電話のやり取りであったことを意識していたのかもしれません。もちろん夢も、今まで利用していた病院であればおばあさんに関する多くの情報があるので迅速な対応が行えるという事や、今は前回の入院時よりも深刻だという事は分かっています。
「分かりました」
 夢はそう答えると、つながったままの携帯電話を看護師に渡し、おばあさんの横顔に目をやりました。きっと今は、目を覚ましています。
「はい。はい」
 医師の指示を受ける看護師の声だけが聞こえる部屋の中。夢は、恐怖心から生まれる声や音に耳を塞がれていました。それでも夢はそれを掻き消そうと「絶対に良くなる」そう強く願い、おばあさんを見つめているのですが、目の前にある一つの事実をどうしても受け入れられずにいました。おばあさんはいつものように横になっているのですが、気持ちを伝える力が残っていたはずのおばあさんの目蓋は力なく薄らと開いているだけで、瞳にあった感情の輝きも消えてしまっていました。夢の中にある遠くて近い記憶、色鮮やかに覚えている旅立つ時の両親の瞳と今のおばあさんが重なってしまいました。
「夢さん、救急車呼びますね」
「はい、お願いします」
 夢の言葉を聞いた看護師はすぐに救急車両を要請しました。
 夢は「絶対大丈夫」そう自分の心を支えました。そして吸引をするために手袋をはめたると、看護師の通話が終わったことを確認し、気管切開からの吸引を行いました。
 看護師はおばあさんの手を擦り、「あぁ、ミロクさん」と声を漏らしました。看護師の声は夢を少し不安にさせましたが、夢はなんとか冷静でいようと心を震わせました。ただ、夢の瞳の中には、いつも苦しそうにしていたはずの気管切開からの吸引をしてもピクリとも反応しなかったおばあさんの横顔が焼き付いていました。

「付き添いの方ですね?」
 急いで玄関から出てきた夢に、三十代の男性の救急隊員がそう声を掛けました。
「はい!」
 夢はそう返事をすると、家の前で止まっている救急車の後部に駆け寄りました。三十代の男性隊員が「中に入って下さい」と夢に声を掛けると、上に開いている救急車のバックドアに手を掛けました。夢が「はい」と返事し車内に乗り込むと、隊員はすぐにバックドアを閉めました。夢は、担架で横になるおばあさんを力強く見つめながら、手に持っていたレジ袋を座席に置きました。レジ袋には外側のおむつと二種類のパッドをそれぞれ二つずつと、排泄介助の道具やおしり拭きや洗剤等が入っています。
「頑張れ」夢の心の声が漏れました。
 騒がしく担架で運ばれ数分。おばあさんは家に居た時と同じ表情をしていました。
 今日の朝までは見えていたおばあさんの表情はゆっくりと力を失ってゆき、次第に意識は薄れ、起きた瞳のまま眠りにつきました。脳の信号と一緒に消失してゆくおばあさんの全身の意志。それは、怖いほどに鮮明な現実でした。しかし、瞳をそらさず見つめる夢の心には、少し前まで満たしていた過去の辛い記憶はなく、未来を信じ願う想いで一杯でした。
「おば様、大丈夫だから。大丈夫」
 夢はいつだって希望を絶やさないのです。
 ふと話し声が耳に入った夢は救急車の外に目をやりました。救急車のスライドドアは開いていて、四十代男性の救急隊員が訪問看護師におばあさんの容態や人工呼吸器について質問している様子が見えました。丁度その時、開いている乗降口から三十代の隊員が乗り込んできて、持っていたクリップボードを台の上に置くと、複数のコードを取り出しておばあさんの体に装着してゆきました。おばあさんの上半身に貼り付けた電極は車内に設置されたモニターと繋がっていて、その画面に心電図が表示されます。それと同時に指先から測定した動脈血酸素飽和度と、腕から測定した血圧もモニターに表示されています。
 そしておばあさんの体には全てのコードが装着されました。隊員はすぐさま動き出したモニターに視線を移し、反映された数値を確認した、その瞬間のことでした。隊員の空気は緊急時のように張り詰め出し、体に貼り付けた電極を全て取り外すと、おばあさんのTシャツをつかんで布に緩みが出来ないよう張らせました。
「ミロクさん! ミロクさん! 分かる!」
 隊員が大きな声で呼び掛けても、おばあさんは反応しませんでした。
「シャツ切っていいですか!」
「はい!」
 隊員のその言葉に夢は間髪を容れずにそう返事をしました。隊員は車内に設置された棚の引き出しからハサミを取り出すと、おばあさんのTシャツをつかんで引っ張っている手元から縦にハサミを入れて行き、全て切り開きました。
 運転席側のドアが開くと、ベテランの男性の救急隊員が乗り込んで座席に着きました。
 四十代の隊員が開いている乗降口から体半分まで乗り込み現状を目にすると、急いだ口調で外に居る看護師に問い掛けました。
「呼吸器これ酸素はつないでる!」
「酸素なしです! 呼吸器の後ろにあります! そのままつないで大丈夫です!」
 看護師がそう答えると、夢は「この後ろです」と声を掛け、座席の上に置かれた人工呼吸器の背面にある酸素取入れ口コネクタを指差しました。
 乗降口から車内に上半身を入れた看護師が「そのままで大丈夫です」と声を掛けると、四十代の隊員がコードを取り出し夢が指差したコネクタに接続しました。
 四十代の隊員が「繋ぐだけでいいの?」と聞くと、看護師は「はい」と答えました。
 三十代の隊員は、重ねて組んだ両手をおばあさんの胸の真ん中に当てると、手のひらの付け根を使って胸骨圧迫心マッサージを開始しました。胸骨圧迫心マッサージは胸が五センチ沈むまで両手で圧迫します。骨が折れる事もあるのですが、何よりも命を最優先し、ためらう事なく圧迫します。
 思考を奪うように張り詰めた空気の中で、圧迫されるたびに揺れるおばあさんの顔。まるで、電車の窓に流れる遠くの風景を眺めたまま、心だけがどこかの世界に行ってしまった時のように、おばあさんの顔は揺れていました。
 夢は、ふと気付けば見えてしまうそんな恐怖から、無意識に、自分自身を守るように、頭は何も語らず、心は何も描かず、ただ、おばあさんを真っ直ぐ見つめているだけでした。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫、
 夢はまた、再び自分の心を輝かせ、闇を照らして行きました。
 それでも、いくら想いを込めて心の中で響かせても、溜まることなく消えていく言葉。宙であがく心が、どこかへ引っ張られそうになります。
 それでも夢は、何度でも、何度でも、明るい未来を信じ、その心を響かせます。かつての時と同じように、光ある未来を信じ、その心を響かせ続けます。
 四十代の隊員がスライドドアのドアハンドルに手を掛けると、車外に居た看護師は「お願いします」と言葉を掛け、救急車から少し距離を取りました。四十代の隊員は「ありがとうございました」と声を掛け、スライドドアを閉めました。
 四十代の隊員は、台の上に置いてある赤色の四角いケースをおばあさんの頭の側に置くと、そのケースのファスナーを開きました。中には青色のAEDが入っていました。隊員達は言葉を交わしながら救急救命処置を行い始めました。
 夢は、その隊員達の会話を耳に入れようとしているのですが頭の中に入ってこず、何かを待っているかのように、ただ、変化が見られないおばあさんの表情を見つめていました。
 すると、三十代の隊員に掛けた四十代の隊員の言葉が、ふと頭の中に入ってきました。
「どうせもう、」
 四十代の隊員はそこまで話すと、ピタリと言葉を止めました。
 その言葉も、その先の言葉も、救急隊員が言うべき言葉ではありません。
 それでも夢は、言葉の続きが分かった今も夢は、ただ未来を信じ、おばあさんを見つめ続けていました。大事な時はいつだって想う事しか出来ないのです。だからこそ日常があるのです。
 その言葉に対し返事をしなかった三十代の隊員は救急救命処置を続けました。自分が何を言おうとしたのか気付いた四十代の隊員は言葉を発することが出来なくなっていました。そして数秒の沈黙が続いた後、四十代の隊員はケースから電極パッドを取り出すと、おばあさんの右の鎖骨の下と、左の脇腹にしっかりと貼り付けました。電極パッドはAEDへつ繋がっています。
「ここに座っててもらっていい」
 AEDの準備を終えた四十代の隊員は夢にそう声を掛け、おばあさんの頭の側に設置されている座席を手で差しました。
「はい」夢はそう返事をし、その座席に移動すると、横を向くおばあさんの頭にそっと手のひらで触れました。一人じゃない、いつものように私達が側に居るんだと感じてもらいたいのです。そして想いが届くようにと優しく撫でる夢の手。その手には、取り外し忘れた手袋がありました。サー、サー、おばあさんの髪と手袋が擦れ、手のひらから響く音と振動が、夢の体に伝わりました。大丈夫、大丈夫、頑張れ、大丈夫。夢は心の中で何度も何度も叫びました。
「心電図を解析中です」
 それはAEDの音声ガイダンスでした。その声に合わせて夢はおばあさんの頭から手を離し、三十代の隊員も両手を上げました。
「身体から離れて下さい。心電図を解析中です。身体から離れて下さい」
 音声ガイダンスがそう声を上げると、数秒間の沈黙が流れました。
「ショックは不要です」
 再び音声ガイダンスが流れると、隊員はすぐに胸骨圧迫心マッサージを再開しました。
「身体に触れても大丈夫です。ただちに胸骨圧迫と人工呼吸を開始して下さい」
 ショックの不要を告げた音声ガイダンスは、続けてそう言いました。電気ショックによる除細動が行えない状態なのだと夢は理解しました。三十代の隊員の胸骨圧迫心マッサージの再開と同時に、夢もまたおばあさんの頭に手のひらを重ね、心の声が届くようにと優しく強く撫で始めました。
 AEDは二分置きに心電図の解析を行いました。
「心電図を解析中です。身体から離れて下さい。心電図を解析中です」
「ショックは不要です」
 救急車のバックドアが再び開かれるまで、それは続いたのでした。

 夢は今、病院の救急外来受付前の長椅子に座っています。瞳を閉じ、呼ばれるのを待っている夢の心は、おばあさんへの想いで溢れていました。
 夢がふと壁に掛かった時計に目をやると、針は七時二十分を差していました。今から一時間半ほど前に、夢はおばあさんと離れました。ストレッチャーの上で横になったままICUに運ばれて行くおばあさん。怖くて辛いはずなのにおば様を一人にさせてしまった、そんな想いが溢れてきて、いつも胸が締め付けられます。
 夢はまた目蓋を閉じました。一人になったおば様はどんな表情をしているのだろう。すると、苦しくて辛そうなおばあさんの顔が目蓋の裏に映し出され、途端に夢の心は悲しみで満ちてしまいました。それでも夢は、強くおばあさんを想う事で側に居れる、そんな気持ちで必死に未来を願いました。もしも今、目蓋を開いたとしたらきっと、夢の瞳からはぽろぽろ大粒の涙が零れ落ちるでしょう。想えば想うほど色んな姿が溢れてきて、目蓋の淵に溜まってゆくのです。
「そうだわ」
 頬を袖で拭った夢は、レジ袋から携帯電話を取り出しました。夢は救急搬送前にケンシに電話を掛けていたのですが繋がらず、突然の事で混乱しながらも家に書き置きをしておいたのです。
「やっぱり」
 携帯電話の画面を見た夢はそう呟きました。ケンシから折り返しの電話が何件も表示されていたのです。しかし時間的に救急車で搬送されている時だったので、夢は気付く事が出来ませんでした。夢は長椅子に置いたレジ袋を手に持つと、その場所から移動しようとしました。
「すいません!」
 白衣を着た男性が突然夢の前に現れ、急かせるようにそう声を掛けてきました。その男性は救急科の医師で、病院に着いた直後に「どこまでの救命処置を行いますか」と夢に確認を取りに来ていました。その時夢は、みんなと話し合って決めていた方針通り「出来る事は全てやって下さい。お願いします」と伝えていました。
「はい」
「ミロクさん意識を取り戻しました! すぐ来て下さい!」
「はい! 分かりました!」
 良かった、またおば様に会える。今までと同じ、もう一度頑張ろう。
 そんな温かい気持ちが夢の心に通い出し、瞬く間に力溢れる安心感に包まれました。夢はレジ袋を握り締め、長椅子から立ち上がると、ふと救急隊員の事を思い出しました。
 ほらッ。
 救急隊員達は病院にはもう居ないと分かっています。でももし居たら、強いおばあさんを自慢するように「ほらッ」そんな顔を見せるのに。夢はついついそんな事を考えてしまうのでした。
 タッタッタッタッ。夢の足取りは力強く、そして一歩、一歩、進んで行くその先にある明るい未来を見つめていました。


























 タッタッタッタッタッ
 夢は廊下を歩いています
 タッタッタッタッタッ
 自動ドアを通ると医師が処置した結果について夢に報告しました
 タッタッタッタッタッ
 おばあさんは薬の作用で何とか意識がある状態になっているそうです
 タッタッタッタッタッ
 医師は早足で歩きながら夢にもう一つ伝えました
 タッタッタッタッタッ
 ミロクさんは頑張っています
 声を掛けてあげてください
 タッタッタッタッタッ
 医師はICUの自動ドアをセキュリティーカードで開けました
 タッタッタッタッタッ
 中に入ると全てのベッドはカーテンで閉じられていました
 タッタッタッタッタッ
 ただ一つだけ一番奥のカーテンは開かれています
 タッタッタッタッタッ
 左の視界に流れるカーテンの列
 タッタッタッタッタッ
 いつもここで待っていてくれたのは元気になってくれたおばあさん
 タッタッタッタッタッ
 でも今日のおばあさんはひと味もふた味も違うのです
 タンタンタンタンタン。
 一人で頑張った、本当によく頑張ったおばあさんがいるのです。







 いつもそうでした。
 ICUの中、歩く速度に合わせて視界に流れる卵色のカーテンがフワリと途切れると、開けた空間が現れます。ICUに入ってから唯一ある焦点はその空間に吸い込まれ、おばあさんへと繋がります。カーテンで仕切っただけの空間なのに特別で、その中心に居るおばあさんに近付けば近付くほど、震えるような嬉しさと安心感が胸の奥からジワリと広がってゆくのです。
 でも、今日だけは違いました。
 おばあさんが視界に入った瞬間の嬉しさや安心感は、側に近付けば近付くほど悲しい涙となり、夢の頬をポロポロポロポロ流れてゆきました。ベッドで横になるおばあさんは仰向けのまま、顔が向こうを向いていました。そして誰かを探しているのか周りを見ようと顔を動かしていて、夢は、そんなおばあさんの横顔を見つめました。離れる時まで見えていた、心が遠くへ旅立ってしまいそうな力のない表情はありませんでした。おばあさんはいつものように目をパッチリと開け、声に出来ない苦しみを必死に訴えていました。
「もう、ぅ、無理ですか」
 溢れ出して止まらない涙が夢の言葉の邪魔をします。
 きっと、ここに居る夢以外の周りの人達は、こんな場面を沢山見てきたのでしょう。医師は、夢に余計な感情を与えないよう落ち着いた声で答えました。
「今もし助かったとしても、この後は、ミロクさんにとって本当に辛い状態になります」
 分かっています。夢は医師が何を言うのか、もう分かっているのです。
 側に行きたい。夢はおばあさんに向かって一歩を踏み出しました。しかし、そこで立ち止まってしまいました。今のおばあさんの、想像を絶する現実が、夢の瞳に映ったからです。
 見えなかったのです。
 夢の立っていた角度からは、おばあさんの喉元が見えなかったのです。視線を下に落とした夢は、平静を失わないように、涙で詰まった声で精一杯に言葉を出しました。
「心臓を、ぅ、ん、止めるくゥ、りはないですか」
「え、すいません」
 医師は、夢の声が聞き取れませんでした。夢はうつむいたまま、なんとか言葉になるように、声を絞り出しました。
「心臓を止める、ぅ、薬はないですか、止めてあげれないですか」
 この時出た夢のこの言葉は、いつも言葉を大切に使う夢では想像がつかないほどに似合わない真っ直ぐな言葉でした。
 医師は夢のその言葉を理解しました。
「出来ないんです。してはいけない事になってるんです」
「このまま待つしか、ないですか」
「はい。声を掛けてあげてください」
 医療が出来るのは、ここまででした。
 そして夢は、全てを受け入れました。
「二人にしてもらっていいですか」
 夢がそう伝えると、医師は「はい」と返事をし、おばあさんの側に駆け寄りました。少し離れて待っていた看護師も、おばあさんの側に駆け寄りました。そして医師は、おばあさんの喉元につながる回路を手に取ると、看護師に指示を出しました。
「新しいものに替えとこう」
 医師がそう言うと、看護師はベッドの近くに置いてあるワゴンから封の空いていないフレックスチューブを取り出し、包装を破って開けました。医師はそれを確認すると、おばあさんの喉元の気管カニューレからフレックスチューブを取り外し、さらに回路からもフレックスチューブを取り外しました。つまり順に繋がった、おばあさんの喉元にある気管カニューレ、フレックスチューブ、回路、人工呼吸器、その中のフレックスチューブを取り外したという事です。
 そして、医師が取り外した回路を傾けた、その時でした。
 バシャッ。
 ICUに響いたそれは、回路内に溜まっていた大量の血液が床に落ちた音でした。そしてこの音と共に、夢は全てを理解しました。おばあさんの喉元から溢れ出た血液が回路に溜まっていて、それを医師が床に流し落としたのです。もしかすると、苦しさで食い縛った歯が口内の皮膚や舌を傷付けて出た血液も混ざっているのかもしれません。
 医師はフレックスチューブを黒色の袋に入れると、回路内に残っている血液をタオルに向けて流し出し、少し残った分をトントンとタオルに当てて落としました。タオルをワゴンに置いた医師は、看護師が差し出していた新しいフレックスチューブを受け取ると、回路、そして気管カニューレに繋ぎ直しました。
「時間は気にしないで下さい」
 その様子を見ていた夢にそう声を掛けた医師は丁寧に会釈をすると、外に向かって歩き出し、カーテンの側にあるパソコンの前で立ち止まりました。そのままパソコンを数秒操作した医師はキーボードから手を離すと、おばあさんと夢の方へ振り向き、もう一度丁寧に会釈をし、同時に会釈をした看護師と共にカーテンの外へ向かいました。後に出た看護師がカーテンを閉め、二人はこの場を離れて行きました。
 そうしてこの場所は、おばあさんと夢だけの世界になりました。
 夢はレジ袋をパイプ椅子の上に置き、おばあさんの側に駆け寄りました。
「おば様、おば様、おば様」
 気付いてもらえるように、安心してもらえるように、悲しい、寂しい、どうして怖い、助けて、嫌だ、行かないで、ごめんなさい、夢の色んな想いや色んな気持ちがおばあさんを呼ぶ涙の声から溢れ出しました。そしておばあさんに触れようとした時、夢は自分の両手の手袋に気付きました。慌てて手袋を外すとベッドの端に置き、夢はおばあさんの頭に両手を添え、横になっていた顔を優しくそっと上に向けました。
 頭を動かす事が出来ず、恐怖のにじむ視線を彷徨わせ、必死に誰かに訴えていた瞳に、夢の涙の顔が映りました。
「待ってて、おば様」
 夢はそう声を掛けるとスカートのポケットに入っている携帯電話を取り出し、ケンシに電話を掛けました。そして会話中の音声をスピーカーから聞こえるように設定すると、おばあさんの耳元に置きました。携帯電話から三度の呼び出し音が鳴り、少し慌てた様子のケンシの声が聞こえました。おばあさんと一緒に居ない時のケンシに電話を掛けると、いつも慌てながらこう言うのです。
「どうした? 何かあったか?」
 夢は冷静になって伝えようとしました。しかし、知らず識らずのうちに平静さを失っていた夢にはそれができませんでした。
「ケンシさん。おば様、ぉぅ、もうしぬから、声を掛けてあげて」
「何が? どういう事? 今どこおんの? 病院?」
「病院。おば様死ぬから、ん、声を掛けて」
「何で? ゆぅ、ぇ、何で。病院やな? すぐ行くから!」
「違う、間にぁ、わないから、お願い、おば様に聞こえるようにしてるから」
「何で、ばあちゃん頑張って! すぐ行くから! 頑張って!」
「最後だから! 言って!」
「頑張ってばあちゃん! 夢、すぐ行くから!」
 そして、携帯電話から通話の終了音が鳴りました。
 夢はおばあさんの顔に目をやりました。ケンシの声が届いたおばあさんの表情には、悲しみの色が滲んでいました。ただ夢には、おばあさんに掛けてほしい言葉がありました。どうしても、ケンシ自身から掛けてほしい言葉がありました。もしかするとケンシは、助かるための処置をしている、そう思ったのかもしれません。
 夢は、右の手のひらをおばあさんの頭の後ろに、左の手のひらを肩の後ろに持ってゆくと、抱きかかえるように体を支え、おばあさんと正面から向き合いました。おばあさんに触れた感覚は、いつもと変わりませんでした。
 おばあさんの手はいつもと同じように曲がっていて、一日に何度も支える頭の重さもいつもと同じ、手に触れた髪の毛の硬さもいつもと同じで、触れた瞬間の幸せな気持ちもいつもと同じ、おばあさんの温かさもいつもと同じ。病気になる前も、なった後も、夢はずっとおばあさんの全てが大好きです。夢は瞳に焼き付けるように、心に焼き付けるように、おばあさんの存在を感じました。
「おば様、ごめんなさい。こんな事になるなんて、ごめんなさい」
 夢の瞳から溢れ、頬の途中でこぼれ落ちた涙は、ぽつり、ぽつり、おばあさんの頬へと伝わって行きました。
 おばあさんは、再び夢に訴え始めました。苦しいのかもしれない、そう感じた夢はおばあさんの喉元に視線を移しました。やはりまた、気管の奥から溢れ出た血液がカニューレまで上がって来ていました。夢の瞳から熱い涙が溢れ出し、光の跡を伝って行きました。
 出来る事は全てやって下さい。
 それは、終わろうとしている生命を呼び起こす事。それは、数パーセントの可能性をこじ開けるために必要なあらゆる手段を使って、心臓の拍動と呼吸を再開させる事を意味します。夢はおばあさんの瞳と気管カニューレを、忘れないように何度も見つめました。生きてきたどの瞬間よりも残酷な現実を、忘れないようにじっと見つめました。
 ボコボコ、ボコボコ。おばあさんの気管カニューレの中に溢れる血液は、止まる事の無い人工呼吸器の呼気と吸気の流れに合わせ、ボコボコボコボコ揺れています。
 夢はおばあさんの介護が始まった時から、絶対に避けたいと思っていた事がありました。それは、窒息してしまうような状態になる事でした。過去の事故でその苦しみを知っている夢は、絶対に避けたかったのです。
「ごめんなさい」
 肺に血液が溜まってしまい、息が出来ないのかもしれない。
 もし、あのまま家で静かに眠れていたら。
「おば様、私、私ね」
 夢は震える声でそう言葉を零し、涙の瞳におばあさんの顔を映した、その時でした。


「ちょっと待ってて、おば様!」
 そう声を掛けた夢は慌てて茶箪笥に駆け寄り、そこにあるビデオカメラを取りました。
 台所で炊事をしていたオッカは部屋の騒がしさに気付き、暖簾から顔を出しました。
「どうしたのさ?」
「新しいサインなの! 目を二回ぎゅっと閉じるのよ!」
「何のサインなんだい?」
 夢は顔いっぱいの笑みを浮かべ、嬉しそうに言いました。
「ありがとうのサイン!」


 おばあさんは、ぎゅっ、ぎゅっ、と最後の想いを振り絞り、何度も、何度も、何度も、夢に「ありがとう」を叫びました。おばあさんの言葉は夢の全てに流れ込み、まぶしくて温かい、そんな優しい悲しみで溢れて行きました。
「おば様、おば様、ありがとう! 辛い時ずっと側に居てくれてありがとう! 私、一人じゃ生きていけなかった。おば様が居たから、私寂しくなかった。ありがとう」
 夢は、ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙いっぱいの顔で、想いのすべてを込めて「ありがとう」をおばあさんに伝えました。
 それは最期のように聞こえてしまう。だからずっと心の中で押し止めていた気持ちは夢の体に響き渡り、そして堪えきれなくなったその想いは開放され、愛の言葉になりました。満足出来る人生を終え、旅立つおばあさんにとっての、最後の素敵な愛の言葉です。
 ありがとう。
 大好き。

 涙は少し落ち着き、抱きかかえたまま、おばあさんを見つめる夢。
 しばらくするとカーテンの開く音が響き、この場を離れていた医師が中に入ってきました。会釈をした夢はおばあさんからそっと手を離しました。
 夢は歩いてくる医師に「あの」と声を掛けました。
「今、は、もう、口は」
 夢がおばあさんに手を向けると、意味を理解した医師は「はい」と頷き答えました。
「今はもう亡くなっています。最後は、こうなるんです」
「分かりました」
 夢はそう返事をすると、おばあさんに視線を向け、力無く見つめました。おばあさんの表情は最後の時のままで、まるで呼吸をしているかのように顎だけが上下に動いていました。心停止の状態になると起こる死戦期呼吸。呼吸をするように顎は動いているのですが、実際には肺に空気は届いておらず、酸素を体内に取り込む事は出来ていません。なので、通常であればAEDを使い救助を行います。
 壁の時計に視線を向けた医師は、現在の時刻を確認しました。
 夢はおばあさんを見つめたまま、受け入れなければいけない現実の中で立ち尽くしていました。

 七月一日 十九時四十九分

 おばあさんと夢達にとって大切な時刻となりました。
 無限に過ぎる時の中に訪れた、一つの旅立ちです。
 何も考えず、何も思わず、ただおばあさんを見つめていた夢。ふと視線を上げると、先程居た看護師もいつの間にか戻ってきていました。
「今から体を綺麗にします」看護師が夢にそう告げました。
 他の誰かに任せないで自分達で出来る事は全てしたい、そう想った夢は「私も一緒に手伝っていいですか」と尋ねると、笑顔を向けた看護師は「はい、お願いします」と答えました。夢もそっと笑顔を向け、「ありがとうございます」と言いました。
「カニューレや胃瘻のペグを取り外す処置を先に行うので別室で待機していて下さい」
 看護師は夢にそう伝えました。
 人工呼吸器もカニューレも胃瘻も、おばあさんには、もう、必要ありません。喉元と腹部に開けた穴を塞ぎ、やっと体は元に戻ります。
 おば様、やっと、病気が終わったね。頬笑んだ夢は頬を袖で拭いました。
「お願いします」
 丁寧に伝えた夢は医師と看護師に頭を下げ、視線を落としたまま外へ歩き出しました。
 おば様を一人にしたくない。
 夢はおばあさんを背にした瞬間、胸の奥でジワリと熱い痛みを感じました。
 その想いは、今でも、変わりませんでした。
 夢が抱くその想いは、これからも、ずっと、変わることはありませんでした。

 今日という日があるのを、介護を始めた夢達は心の奥底で覚悟をしていました。ただ、その日が訪れるのはもっとずっと後だと思っていました。だから夢達は、未来にある色んな日を想い描いていたのです。
 窓のない八畳ほどの部屋の中、壁際に置かれた長椅子に夢は一人座っています。部屋には出入り口の引き戸と、もう一つ別の引き戸があるのですが、今は閉まっているので中は見えません。そんな何もない空間だからこそ、夢は静かに自分の心を見つめることが出来ました。そして今、夢が見つめているのは、ジワリジワリと満たしてゆく圧倒的な現実です。それは、これから幾度となく夢達の目の前に現れます。たとえどんな時であろうとも、優しく、厳しく、温かく、辛く、夢達の心に現れます。その現実を、自分の胸に自分の力で抱いてゆかなければいけないのです。
 でももしも、辛くて辛くてどうすることも出来ない時、楽しい方へ向けばいい。夢はそうやって、ずっと長い間、大切な人達と向き合ってきました。何度も立ち止まり、うつむき、振り返り、そうやって現実と向き合ってきました。
 もちろんそれは簡単なことではありません。大きな存在だからこそ、生まれた悲しみをも終えたくないのです。それでもいつの日か、大きな悲しみは自分の勇気となり、支えとなり、癒しとなり、この胸に心地よい痛みを与えてくれる力となるのです。歩む先が見えなくなった時の道標となるのです。
 ガララッ。
 突然、レールの上を走る引き戸の音が静かな部屋に響きました。心の中にあった夢の意識は一瞬にして視野の先に切り替わり、振り返った夢の瞳にケンシの姿が映りました。
「夢」
 ケンシの声とともに夢は立ち上がり、そして涙を流しました。
「ケンシさん、ごめんなさい。おば様にあんな」
 夢を知っていれば、言葉は必要ありません。全てを見てきた夢の気持ちを感じ取ったケンシは、部屋に入ると引き戸を静かに閉めました。
「さっきばあちゃんに会ってきた。側におってくれたんが夢で良かった。ありがとうな」
 そう言葉を掛けたケンシの頬笑みは、感謝の気持ちで満ちていました。
「でも、最後は」
「最後の瞬間は」
 ケンシは夢の言葉を遮り、真剣な顔を見せると、夢の肩にそっと触れました。
「最後はケンカしたかもしれんし、気付けんかった事があるかもしれん。人それぞれには色んな最後がある。でもな、生きてほしいって願う限り、最後の瞬間なんて誰にも選ばれへん。明日もあるって信じとうから、今日が普通の日になんねん」
 そしてケンシは「夢」と声を掛け、温かく頬笑みました。
「本当に大変で、本当に大切なんは、それまでがどうやったか、どんな日日を送ってきたかや。普通でいられる特別な日日を、幸せでいられる最高な日日を、夢がばあちゃんに運んでくれた」
 夢はうつむいたまま、頬に伝う涙を拭かず、ただケンシの言葉に心を寄せました。
「俺はな、俺を成長させてくれたばあちゃんと、ばあちゃんを幸せにしてくれた夢には、感謝しかない。夢」
 夢は唇をギュッと閉じたまま、そっと顔を上げました。ケンシはニカッと笑い、とても明るい声で夢に言葉を掛けました。
「ありがとう」
 ケンシの笑顔と言葉は、悲しみに溢れていた夢の心に届きました。小さくうつむいた夢は顔を左右に振ると、涙を手で拭い、そして顔を上げました。
「ケンシさんが町に来る日が決まった時、ちょっと残念だなって思ったことがあったの」
 ケンシは「うん」と頷き、嬉しそうに頬を上げました。夢は力の入った表情で唇を閉じると、そのまま視線を下に落とし、深く息を吸い、ケンシに視線を向けました。
「おば様と、もう一緒に夜を過ごせないのかなって。朝になる少し前に起きて、朝の用意をして、安心して寝ているおば様を起こすの。私、あの瞬間がとても大好きだから。でもケンシさんは、クイナに来てからも、おば様の側に私を居させてくれた」
 夢の言葉を頷きながら聞いていたケンシは、笑顔のまま「そっか」と囁きました。そしてケンシは夢の肩から手を離すと、過去を想いながら話し始めました。
「父さん介護しとう時な、人に頼る事をやめた。だから他人に任せて俺が側におらん時は心配で仕方無かった。クイナ来て、ばあちゃん介護始まって初めて知ったんや。信頼出来る人がばあちゃんの側におってくれたら、離れてても幸せな気持ちになれるんやなって」
 小さくうつむいた夢はふわりと笑みを浮かべ、「そっか」と囁きました。
「ケンシさん」
 夢は瞳を上げ、おばあさんへの想いも込めて言いました。
「私も、ありがとう。おば様と一緒に居させてくれてありがとう」
 夢の言葉にケンシは満面の笑みを見せ、「うん」と大きく頷きました。そしてケンシはそのままうつむき、ゆっくりと呼吸をすると、顔を上げて何もない宙に目をやりました。
「なあ、夢」
「うん」
「本当は辛いはずやのに、何も感じへんねん。俺。夢は?」
 ケンシが話した正直な気持ち。その言葉を聞いた夢は悲しそうに頬笑むと、顔を左右に振り、「ううん」と答えました。
「想い出とか現実とか、断片的に頭の中に。大丈夫かなぁ、私。怖いなぁ」
「うん。一人になりたなった時は、何も言わんでええからな」
 笑顔で話したケンシの言葉に夢は笑みを向け、「ありがとう」と言いました。
 過去と今と未来を想いながら話す夢とケンシ。その想いの中には二人が経験した両親との別れもあります。一番最初に愛してくれて、一番最初に愛した人との別れです。そしてそれは一つではありません。それぞれの形を持った一番最初があり、別れがあるのです。
 少しの沈黙が二人の間に流れた後、コン、コン、と引き戸をノックする音が部屋に響きました。ケンシは「はい」と返事をし、引き戸の前から離れました。
「失礼します」女性の声とともに引き戸が開くと、部屋を後にしていた看護師が立っていました。
「準備が出来ました。奥の部屋へ、失礼します」
 看護師はそう言うと、眠っているおばあさんを乗せたベッドを押しながら部屋の中に入りました。さらに看護師は奥の引き戸を開けると、再びベッドを押して奥の部屋に入りました。二人の前を通り過ぎたおばあさんは、いつものように眠っていました。二人も続いて奥の部屋に入ると、最後に入ったケンシがドアを引いて閉めました。
 看護師はおばあさんを乗せたベッドを部屋の真ん中で固定させると、今から行う事と必要な物を夢とケンシに話し始めました。夢とケンシは「はい」と返事をしているのですが、ベッドの上で横になるおばあさんを見つめていると、色んな感情が胸の中に現れ、看護師の話に集中出来ませんでした。
 そうしていると、夢はふと自分の手にあるレジ袋に気付きました。レジ袋の中に入っているのは、夢が無意識のうちに持ってきた入院生活に使うおむつや様様な道具です。介護のために揃えた、おばあさんへの想いのこもった物達です。夢は、心の中に現れた介護に関わる全ての物とその日日が結び付き、キラキラキラキラ輝き出したのを感じました。介護に関わる一つ一つに夢達の想いが存在するのです。夢は手に持っていたレジ袋をそっと、部屋に用意されていたパイプ椅子の上に置きました。
 説明を終えた看護師は「用意しますね」と二人に声を掛けると、部屋を後にしました。
 部屋に残った夢とケンシはそのまま、眠っているおばあさんの顔をじっと見つめていました。今おばあさんは、悲しみも苦痛も無い、無垢で穏やかな表情をしています。やっと病気が終わった。それを伝えるようにおばあさんの顔や髪や体に触れても、夢達が声を掛けても、もう何をしても、おばあさんの表情を変える切っ掛けにはなりませんでした。
「失礼します」
 少しすると、看護師がワゴンを押して部屋に戻ってきました。ワゴンの上には湯の入ったステンレス製のボールと、袋に入った清拭用の蒸しタオルが五、六枚、さらにおむつを替える道具等、色色な物が乗っていました。そして、夢とケンシに現実を突き付けるようにエンゼルケアのセットも一緒に置かれていました。この部屋は、エンゼルケアを行うためにあるのです。
「おむつ、新しいおむつに替えましょうか」
 看護師がそう言うと、ケンシはワゴンに目をやり尋ねました。
「持ってきてるんで、いつも使ってるやつで」
「どうぞどうぞ! 大丈夫ですよ」
 看護師がそう返事をすると、ケンシは「ありがとうございます」と会釈をしました。最後のおむつ交換なので病院が用意した物は使わず、夢が偶然持ってきていたいつもの道具を使うことにしました。さらにケンシが「自分達で交換してもいいですか?」と尋ねると、看護師は笑顔で「どうぞ」と答えました。
「最後、夢が洗うか?」
 ケンシがそう尋ねると、夢は嬉しそうに頷きました。
「じゃあ俺がばあちゃんの体支えるから、頼むな」
 夢はまた、嬉しそうに頷きました。その様子を見ていた看護師は「すぐに戻ってきます」と二人に声を掛けると、小走りに部屋を後にしました。看護師を見送った夢は、レジ袋の中から七十枚入りのウェットティッシュと、赤ちゃんの全身が洗えるボディーソープが入った泡ポンプのボトル容器を取り出しました。その間にケンシはおばあさんの上半身と足を支え、夢が排泄介助をしやすいように姿勢を作りました。
「不思議な感覚。治すため、じゃないんだね」
 おばあさんの仙骨の上に出来た褥瘡を、泡を乗せたウェットティッシュで丁寧に洗いながら、夢はそう呟きました。
「ほんまやな」思わずケンシは寂しそうな笑みを浮かべ、力無くそう言いました。
「明日につながらないんだね」ぽつりとそう話した夢も、悲しそうに頬笑みました。
 明日につなげ、未来のために行ってきた事も今は治療のためではなく、おばあさんの体を綺麗にするためだけに行っています。これは旅立つ支度なんだと、認めたくなくてもそう感じてしまうのです。
 夢はおばあさんの体に残った泡を湯で綺麗に流し、濡れた肌をタオルで拭いてゆきました。いつもこの後には褥瘡の所に治療の薬を塗っていたのですが、今回は塗らず、傷が擦れて痛くないようにガーゼだけを貼ることにしました。長く続いた褥瘡の手当も今日で最後です。
「テープ用意するわ」
 そう声を掛けたケンシはパイプ椅子に駆け寄ると、レジ袋の中からサージカルテープを取り出し、適度な長さに切ったテープを三枚分作って自分の手の甲に貼りました。このサージカルテープはおばあさんの肌を考慮して選んだ製品で、通常のタイプでは肌から剥がす時に痛く、さらに肌が荒れてしまうので、インターネットで探し、今使っているサージカルテープに出会いました。それだけでなく夢が手に持っている滅菌済みガーゼも、おむつ交換時に使う道具も様様な消耗品も、おばあさんに関わる物事全てに夢達の想いが詰まっています。その一つ一つに触れるたび、幸せそうに試行錯誤するみんなの姿が想い出のように鮮明に映し出され、胸の中を焼けるように熱くさせるのです。
 夢は綺麗になった褥瘡の上に優しくガーゼを重ねました。その瞬間、新しい涙が夢の頬をすっと流れ落ちました。おばあさんの青白い肌。今までどうやってテープを貼っていたか分からなくなるくらい、違う肌に見えてしまうのです。夢は光る頬を肩で拭いました。涙のせいか目がチリチリチリと痛くなり、夢は目蓋をギュッと閉じると、もう一度肩で強く拭いました。ケンシは心配そうに頬笑むと、テープを貼った手の甲を夢に差し出し、静かに声を掛けました。
「大丈夫か?」
 夢は笑顔で頷くと、ケンシの手に貼ってあるテープを取りました。そしてガーゼをもう一度褥瘡に重ね、手に取ったテープを丁寧に、綺麗に、動いても痛くならないように貼り付けました。最後に、持ってきていた外側のおむつとパッドをいつものように当て、腹部が圧迫されて苦しくならないように閉じてゆきました。
「そうや、服持ってきてないやんな?」
 ケンシは、ワゴンに乗った透明のポリ袋を見つめながら夢にそう聞きました。透明のポリ袋の中にはおばあさんが今日着ていた服や、搬送時に家のベッドからタンカに移動する際にベッドから剥がして使ったベッドシーツや、その時そのまま運ばれた枕が入っています。今日着ていたTシャツは前面が縦に切れていて、最後まで使っていた枕は左下の一面が血液の色で染まっています。
 夢はおむつのマジックテープを摘んだまま顔を上げました。
「看護師さんがさっき言ってたかもしれない」
「コンビニに売っとうって言ってたな、俺ちょっと行ってくるわ!」
 ケンシはそう言うと、急いでドアに駆け寄りました。夢は慌てて「ありがとう」と声を掛けました。
「おう! すぐ帰って来る」
 引き戸を開けながらそう返事をしたケンシは、言葉が終わらないうちに戸を閉めて部屋を後にしました。
 ケンシの足音を耳に残しながら、夢はまた服の袖で涙を拭いました。おむつを替え終わっても、おばあさんは眠ったままでした。手を握っても足をマッサージしても背中を撫でても、閉じられた目蓋は開きません。ただ、安らかに眠る今の姿は、あの日から毎日のように触れてきた表情と同じでした。だからこそ、だからこそ目覚めるはずのおばあさんが目覚めないという現実に打ち拉がれてしまい、どうすることも出来ない別れへの恐怖心は、焦りと悲しみを全身に走らせるのです。おばあさんの目蓋は、もう開かないのです。そんな想いが込み上げ涙になると、夢は視線をそらしました。堪えきれないのです。それでもまた必ず視線を戻し、おばあさんを見つめます。自分が目をそらしてしまうと、おばあさんが一人ぼっちになってしまうような気がするからです。
 夢は、おばあさんの体が横向きになるよう支えていた背中の毛布をゆっくりと外しました。そしてその毛布を広げ、おばあさんの体に掛けようとした時、壁の向こうから引き戸の開く音が聞こえました。すぐに小走りのような足音がし、部屋の引き戸が開きました。
「浴衣みたいなんが売ってた」
 そう言いながら引き戸を閉めたケンシは、すぐにレジ袋から花模様が綺麗な白い和服を取り出しました。浴衣の形状をしたこの和服は、本来ならば寝巻として使うのですが、夢達と同じような目的を持って使うことも少なくはありません。
「ありがとう」
 夢のその言葉にケンシは「おう」と笑顔で答えました。
 丁度同じタイミングで看護師も部屋に戻ってきました。
「早いですね。じゃあ髪の毛を綺麗にしましょうか」
 看護師は笑顔でそう言うと、ワゴンから洗髪に使う吸水シートを数枚取り出しました。移動が難しいおばあさんが病院で洗髪する場合、ベッドの上半分に吸水シートを敷いて、その上で洗髪を行います。ケンシは和服をレジ袋に入れるとパイプ椅子の上に置き、夢はおばあさんの体を真っ直ぐに整えると、毛布を腰から掛けました。看護師がベッドの側に来ると、夢はおばあさんの頭をそっと浮かせました。看護師は夢に「すいません」と声を掛け、吸水シートを数枚使ってベッドの上全体を覆うように敷いてゆきました。
「じゃあミロクさん、髪を洗いますね」
 看護師はそう声を掛けると、ワゴンに置いたシャワー状に中の液体が出るボトルを手に取り、おばあさんの頭に手を添えながら、ゆっくりと髪全体に掛けてゆきました。夢はその間、おばあさんの顔に掛かっている髪の毛を綺麗に整えてゆきました。髪全体に湯が行き渡ると、看護師はボトルをワゴンに戻し、そこからシャンプーの入った紙コップを手に取りました。
「あの、俺も手伝っていいですか?」
 側で見ていたケンシが看護師にそう声を掛けました。看護師は笑みを見せ、「どうぞどうぞ」と言うと、紙コップをケンシに差し出しました。ケンシは「すいません」と紙コップを受け取ると、夢に話し掛けました。
「夢洗い方分かるやろ? 男の俺には分からんし、支えとくから洗って」
「いいの?」
 ケンシが笑顔で頷くと、夢は嬉しそうな表情で「ありがとう」と言いました。
「おば様、頭を戻すね」
 夢はそう声を掛けると、おばあさんの頭をそっとベッドに戻し、ケンシから紙コップを受け取りました。
「何回もごめんな。顔上げるで、ばあちゃん」
 ケンシは笑顔でそう声を掛けると、おばあさんの頭に両手を添え、そっとベッドから浮かせました。夢はシャンプーの液を手のひらに流すと、紙コップをワゴンに置き、手のひらに乗せた液を少し泡立たせました。そしてそのままおばあさんの髪の中に泡を染み込ませ、さらに泡立たせてゆくと、手のひらに広がった粘りのある感触は次第に軽くなり、懐かしい香りとともにおばあさんの髪の毛全体を包んでゆきました。痛くないように、安らぐように、気持ちが良くなるように、綺麗になるように、夢は指の腹で丁寧に洗ってゆきました。
 ごしごしごし。幸せな音と香りは広がり、洗うたびに揺れるおばあさんの顔。
 ごしごしごし、夢は温かい気持ちになりました。
 そんな幸せな空気に触れていると突然、もう戻れない遠い日のおばあさんの表情が目の前に浮かび、現実にある眠ったままのおばあさんの表情と重なりました。強く目蓋を閉じた夢は、胸が締め付けられるように苦しくなりました。
「綺麗な髪になったな。白髪も減って癖も落ち着いたしな、ばあちゃん」
 ケンシは嬉しそうに笑いながら、夢にそう話し掛けました。夢も小さく頬を上げ、介護が始まった頃の事を思い出しました。
「訪問の看護師さんが昔言ってたの。栄養剤の食事が始まると、白髪が減ったり髪の量が増える事があったりするって。おば様癖っ毛を気にしてたから、落ち着いて良かった」
「そうなん? 知らんかった。気にすんねやばあちゃんも」
「アパレル関係の仕事をしてたからかな、身だしなみは大切にしていたわ」
「そうなん? 服売ってたん? 知らんかった」
 全く記憶になかったケンシは思わず笑みを浮かべました。
「うそ、知らなかったの? 駅前の百貨店? 全国でナンバーワンになったんだから!」
 夢の話に「すげぇな、ばあちゃん!」と驚いたケンシは、想像もしなかった新しいおばあさんに出会え、小さな感動に包まれました。元気な時に話しておけばよかった。そんなふうに思える事が、当たり前の日日の中には沢山あるのです。
 穏やかな時間は過ぎ、夢の丁寧な洗髪は終わりました。夢はワゴンのボトルを手に取ると、おばあさんの髪の泡を湯で流し始めました。すると、様子を見ていた看護師は夢の側に歩み寄り、吸水シートの端をつかみました。そして吸水シートが湯で一杯になると、看護師はそのシートを抜き取り、下に敷いていた新しいシートを表に出させました。夢はそのたびに「ありがとうございます」と看護師に声を掛け、泡の感触が無くなるまで湯を流してゆきました。そうしておばあさんの髪はとても綺麗になりました。夢は嬉しそうに頬を上げ、ケンシと微笑み合いました。夢はボトルをワゴンの上に戻すと、おばあさんの髪を一束にして軽く絞り、残った水分をシートの上に落としました。
「どうぞ」
 タオルを差し出した看護師がそう声を掛けると、夢は「ありがとうございます」と笑顔で答え、受け取ったそのタオルをおばあさんの頭の下に、ポン、ポン、と当てました。その間に看護師は吸水シートをさらに一枚抜き取り、最後のシートを表に出しました。夢とケンシはおばあさんの髪をしっかりとタオルで拭いてゆき、最後にドライヤーで綺麗に乾かしながら整えてゆきました。おばあさんが頑張った跡である、髪に付いた血液や唾液は全て落とされ、キラキラキラキラと、とても綺麗に輝きました。
 看護師が最後の吸水シートを抜き取ると、ベッドの上に畳んだタオルを置いたケンシはおばあさんの頭をそっとそのタオルの上に乗せました。
「櫛ある?」
 ケンシは思い出したように夢にそう聞きました。
「うん」
 夢はそう言うとパイプ椅子に駆け寄り、レジ袋からなでしこの花の模様が綺麗な巾着を取り出しました。巾着には櫛の他に、色色な日用品が入っています。
「ありがとう」
 ケンシは夢にそう言葉を掛けると、受け取った櫛でいつものようにおばあさんの髪をすいてゆきました。夢達はこれを朝晩の日課にしていたので、ケンシは器用におばあさんの頭を浮かせながら髪を整えてゆきました。そしていつもならこの後に、手のひらサイズの粘着テープのカーペットクリーナーを使って、ベッド全体の髪の毛やほこり等を取ってゆくのですが、それももう行えなくなります。家でも入院中でも毎日行ってきたその掃除は、もう必要ないのです。
 ケンシはおばあさんの髪の毛を櫛で後ろに流してゆきました。いつもおばあさんは夢達が櫛で髪を整え始めると、それと同時に目を閉じていました。しばらくするとまた目を開き、髪を整え始めるとまた目を閉じます。それはその時だけでなく、夢達が顔を近づけると目を閉じて、しばらくすると目を開く、日常の中にはそんな何気ない仕草が沢山あり、その瞬間に触れた夢達の心を幸せな気持ちで満たしてくれました。
「オッケー」
 満足そうなケンシの声。おばあさんの髪は綺麗に整いました。湯につかる入浴は毎日行えなかったので、いつかおばあさんとのんびりテレビを見ながら毎日入浴出来るようにしようと夢達は想い描いていました。こんなふうに前向きに思えるのは、介護の世界に居れたからこそ知ることができた価値観を夢達が持っているからなのかもしれません。
 ケンシはおばあさんの髪の毛を後頭部の方へ流して手のひらで固定し、頭をそっとタオルの上に戻しました。
「それでは、体も綺麗にしていきますね」
 看護師はそう声を掛けると、ワゴンから清拭用の蒸しタオルを取りました。夢とケンシもタオルを取り、いつものように全身を綺麗に拭いてゆきました。血液が通わなくなったおばあさんの体は穏やかな表情とは裏腹に、青白く、そして冷たくなってゆきました。おばあさんはそうやって、心と現実に生じてゆく距離を夢とケンシに見せてくれました。
「体綺麗になりましたね。それと、服はありましたか?」
 看護師がそう尋ねると、ケンシはパイプ椅子に置いたレジ袋を手に取りました。
「これ買ってきました。後、すいません、ちょっとだけ話がしたいんで、三人にしてもらって良いですか?」
 ケンシがそう言うと、看護師は「分かりました」と笑顔で答え、部屋を後にしました。
「さぁばあちゃん、着よっか」
 ケンシがそう言うと、夢は足元にずらしていた毛布を畳み、パイプ椅子に置きました。
「こうやって過ごす時間も、当たり前だったのにね。なんだか寂しいね」
 そう話した夢が寂しそうに頬笑むと、ケンシも「うん」と頷き、寂しそうな笑みを浮かべました。当たり前のように存在していたものが、二度と触れる事ができない想い出になる、そんな日は、生きる全てのものに訪れます。そのことを身に染みて知っている二人でも、大切なものとの別れは怖く辛いものなのです。夢とケンシはこれまでの介護の日日を想いながら、おばあさんの体に和服を通してゆきました。夢とケンシの着付けはとても丁寧で、二人の愛が見えるほどに綺麗でした。
「早いなやっぱり」
 ケンシが寂しそうにつぶやくと、夢も同じ表情で「うん」と小さく頷きました。今日のように和服を着るのは入院中だけで、特に入院中は人工呼吸器や点滴やパルスオキシメーター等を考慮しながら着替えていたので、もう少し時間が掛かっていました。
「やっとおば様、自由になれたから」
 夢がそう言うとケンシは悲しい笑みを見せ、「うん」と小さく笑いました。そのまま二人は、注射の痕、人工呼吸器や胃瘻の痕、おばあさんの身体中に残る頑張ったそれぞれの跡を心に焼き付けるように見つめていました。
 そんな静かな時間が流れていると、突然ケンシが何か思い出したように「フフ」と笑みを零しました。思わず頬笑んだ夢は「どうしたの?」とケンシに聞きました。
「好きな歌思い出した。父さん時も、ばあちゃん時も、よう頭ん中流れてた」
「どんな曲?」
「翼をください」
「あ、うん。そっか」
 そう呟いた夢は、自分の頬に流れた涙の熱さを感じました。
「ばあちゃんの病気が全部無くなって、二人で空ん中を自由に飛べたらなぁって。もしそれが叶うんやったら、俺もうええかなぁって、想った時もあった」
 ケンシの言葉に夢はうつむき、強く閉じた唇には悲しみの力がこもっていました。そんな夢の様子に気付いたケンシは優しく頬笑み、言葉を続けました。
「別に死にたいわけじゃないよ。あまりにもかわいそうに想う時があって、辛いことも、悲しいことも、何もない空を自由に飛べたらなぁって」
 ケンシはそう話すと、おばあさんの左手を包み込むように自分の左手を重ねました。細くなった手の甲には、深紫より深く、至極色に広がる点滴の痕があります。ケンシは心を寄せるように、おばあさんの頑張ったその跡を親指で優しく撫でました。
「そうや、さっきオッカに電話してきた。ケンちゃん達と一緒に来るって」
「そうだ、ごめんなさい。私がちゃんと連絡しないといけなかったの」
 ケンシは笑みを浮かべ、「ううん」と顔を左右に振ると、おばあさんの顔に視線を向け、明るい声で話しました。
「夢は俺に電話してくれたよ。もし俺やったら、絶対大丈夫、これはいつもの事、って怖がって電話することすらせえへんかったと思うで」
 そう自信有り気に話すケンシに夢は「フフ」と思わず小さく笑ってしまいました。そして夢が「分かる気がするわ」と言うと、大きな笑顔を見せたケンシは「俺も」と言いました。夢とケンシはいつの間にか、家で過ごしている時のような自然な会話をしていました。ただ、そんなふうに話している今も、この部屋に入った時から二人はずっと不思議な感覚に包まれていました。それはまるで、ふわりと体が浮いていて、心だけが違う世界に居るような感覚でした。もしかすると、涙と笑顔に溢れたこの場所は、遠い空の世界と繋がっているのかもしれません。
 それから少し経つと、部屋を後にしていた看護師が戻ってきました。
「あ、終わりました? 大丈夫ですか?」看護師はそう尋ねました。
「はい」夢が頷くと、看護師は「ありがとうございます。では、少し待っていて下さい。すぐ終わります」と声を掛け、緑が綺麗な翡翠色の箱をワゴンから取り、その箱の中から、何かが充填されているシリンジと十五センチほどの長さのカテーテルを取り出しました。そしてそのシリンジの筒先にカテーテルを取り付けると、そのままそのカテーテルをおばあさんの鼻の中に挿入してゆき、ある程度まで奥に入ると取り付けたシリンジの押子を力を込めてグッと押し始めました。ゆっくりと押子が筒の中に入っていくと、充填されていたゼリー状の物は鼻から体内に入ってゆきました。体内に入ったゼリーは気管と食道を塞ぎ、体液が体外へ漏出するのを防ぎます。看護師はしばらく押子を押し続け、シリンジ内のゼリーは残り半分になりました。すると看護師はシリンジにゼリーを残したままそのカテーテルを鼻から抜いてしまいました。どうやらカテーテルが奥まで入っていなかったようで、看護師はもう片方の鼻へ挿入し始めました。しかしそれでもカテーテルは途中で止まってしまい、次第に看護師は強い力を入れ始めました。
「やりましょうか?」
 その様子を見ていたケンシが看護師にそう声を掛けました。
「すいません、お願いします」
 看護師は笑みを浮かべながらそう答えると、ケンシにシリンジを差し出しました。笑顔で会釈をしたケンシはそのシリンジを受け取ると、おばあさんの鼻に挿入し始めました。しかし、ケンシが同じように行ってもカテーテルは奥まで入り切りませんでした。
 人工呼吸器を使う事で口や鼻での呼吸は必要無くなります。口腔内は舌の動きや唾液の流れやケア等で清潔な状態を維持しているのですが、鼻腔内のケアは難しく、閉め切った部屋のような状態になってしまいます。鼻腔内の状態を把握するのは難しく、もしかすると、使わないと判断された鼻の通り道は小さくなってしまったのかもしれません。
 ケンシはカテーテルをおばあさんの鼻から引き抜き、挿入を中断しました。
「ある程度の量のゼリーは入ったので大丈夫ですよ」様子を見ていた看護師はそう判断しました。「分かりました」ケンシはそう返事をし、シリンジをワゴンに戻しました。ゼリーを残したことにケンシは少し不安を感じていたのですが、それ以上に避けたかった事があったのです。実はケンシがカテーテルの挿入を代わりに行ったのは、自分なら出来るかもしれないと思ったからではありません。看護師が無理にカテーテルを鼻の中に挿入している様子を見ていると、おばあさんに痛い思いをさせてしまっている、そう感じ辛かったからです。「同じ痛みであったとしても愛をもって行いたい」そう想ったケンシは気が付けば声を掛けていました。意味があるかないかではなく、ただ純粋におばあさんを想う気持ちがケンシを心のままに動かしたのです。
 次の処置に移った看護師は翡翠色の箱から綿球を取り出すと、おばあさんの鼻と耳に詰めてゆきました。その処置を側で見ていた夢とケンシの全身に、突然現実という恐怖が流れ込んできました。外見でハッキリと分かる、天国へ旅立つ姿に近づいたからです。
「お化粧はどうしますか? 一応このセットにもあるのですが」
 看護師はそう尋ねると、翡翠色の箱から簡易的な化粧セットを取り出しました。おばあさんを見つめていたケンシは夢の方に振り向くと、「どうする?」と声を掛けました。
「お化粧は後でも行えるから」
 夢がそこまで言うと、笑顔を見せたケンシは「分かった」と返事をしました。そして、最後の化粧はオッカとハツエが来てからにしよう、二人はそう決めました。
 看護師は笑顔で「分かりました」と答えると、「葬儀を請け負う業者が決まり次第知らせて下さい」と夢とケンシに伝え、部屋を後にしました。
 そうして、今の段階で行わなければいけない処置のほとんどを終える事ができました。どれ程時間が経ったのかも分からず、ただ一つ一つ必要なことを終えていった夢とケンシは声を出すことさえ忘れ、おばあさんの寝顔を見つめ続けていました。これから夢達は、今この瞬間の事だけでなく、この先に待ち受けている現実に向き合わなければいけません。一人一人に何があろうとこの世界は、当たり前のように動き続けるのです。
「髪の毛、もう一度綺麗にするわ」
 夢はそう声を掛けると、おばあさんの顔の側に置いてある櫛を手に取り、おばあさんの頭をそっと浮かせて髪をすき始めました。
「髪、綺麗になったね」
 夢は眠っているおばあさんに届くように、想いを込めて言葉を掛けました。病気が終わって良かった、痛みや苦しみが消えて良かった、良い人生だった、そんな喜びを一杯に抱えて旅立って欲しいと掛ける夢の言葉には、沢山の色の涙が溢れていました。そう、夢は今でも、そしてこれからもずっと、おばあさんの幸せを願い続けるのです。
「夢」
 綺麗になった髪に、もう一度、もう一度と櫛を通す夢に、ケンシは優しく声を掛けました。しかし、おばあさんの顔を見つめる夢は、髪をすくのを止めませんでした。頭を支えている夢の左の手のひらにおばあさんの頬が触れているので、櫛で髪をすくたびに頬が引っ張られ、とても愛らしく表情が動くのです。夢のような日日の中にあった、当たり前のように見る事ができていたおばあさんの表情です。悲しそうに頬を上げた夢の瞳から、ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙が零れ落ちました。どんなに上手に髪をすいても、いつも喜んでくれた話や笑ってくれた話をしても、目蓋を閉じたおばあさんの表情はいつまでも眠ったまま、起きる事はありません。おばあさんの笑顔が見たくて始めた介護。明日を、そして未来を目指し、光を紡いできた介護。それももう、終わりにしなければいけないのです。
「楽しかったなぁ」
 涙に染まる夢の笑顔は、キラキラ、キラキラ、温かく輝いていました。
 そんな夢を見つめていたケンシは顔を左右に振り、力強く声を掛けました。
「気持ちは分かる。でもそれじゃ辛くなるだけやと思う。言葉の違いだけかも知れんけど、楽しかったんじゃなくて楽しい、幸せやったんじゃなくて幸せ、今日を切っ掛けに変わってしまうんじゃなくて、楽しいまま、幸せなまま居続けたら、ばあちゃんも安心して天国行けると思うねん」
 ケンシは自分の心をそのまま言葉にして、大切な仲間である夢に話しました。夢はおばあさんの顔を見つめながら、ケンシの言葉を心の中で描いてゆきました。懐かしい優しさを感じやわらかな笑みを浮かべた夢は、櫛をベッドの上に置き、おばあさんの髪を後ろに流して綺麗に整えると、浮かせていた頭をそっとタオルの上に戻しました。そして夢は体を起こし、おばあさんの寝顔を見つめると、突然「ンフフ」と嬉しそうな笑みを零しました。つられるようにケンシも頬を上げ、「何? どうした?」と笑い声で夢に聞きました。
「前にケンちゃんがね、ミゲロさんが天国に行った時、言ってくれた言葉があるの」
 そして夢はケンジが言ってくれた言葉をそのままケンシに伝えました。優しさや思いやりのこもったその言葉はとても繊細で、ケンシの頭の中にあるケンジと結び付かなかったようで、ケンシは驚いてしまいました。でも、どこか嬉しそうでした。
「俺と同じようなこと言ってる、信じられん。ケンちゃんのあの辞書には載ってないはずや。そんな感性ないはずや」
 ケンシが顔を左右に振りながらそう言い切ると、夢は「フフフ」と笑い、おばあさんの右腕に優しく触れました。おばあさんの腕は至極色に色付いていました。
「でも素敵な言葉。みんなの事を想ってるわ。ミゲロさんの事も。それに、今までケンシさんが言ってくれた言葉も忘れないわ。おば様、ケンシさん、ありがとう」
 おばあさんとケンシを見つめた夢の瞳は真っ直ぐで、そして悲しいぐらいに純粋でした。そんな夢の真っ直ぐな言葉に照れて頬笑んだケンシは小さく何度も頷きました。
 そうして少し落ち着いた空気になった時、「失礼します」と部屋の外から女性の声が聞こえました。次に入り口の引き戸の開く音が鳴り、「どうぞ」とまた女性の声が聞こえると、夢達の居る部屋の引き戸の磨りガラスに看護師の姿が微かに写り込みました。引き戸の向こうの様子を感じ取った夢とケンシは、思わず堪えるように頬に力が入りました。
「失礼します」
 夢達が見つめる引き戸のすぐ向こうから看護師の声が聞こえ、ガララッと引き戸が開くと、先ほど部屋を後にした看護師が現れました。さらに引き戸はそのまま流れ、開けたそこにはおばあさんに会いに来たオッカの姿がありました。夢はもう一度、新鮮な悲しみに触れたように涙しました。
 案内を終えた看護師は何も言わずに会釈をすると、部屋を後にしました。そうしてこの部屋はまた、悲しみの場所になりました。でもこれはこの場所に限る事なく、これから誰かと会うたびに新しい悲しみに触れなければいけないんだと夢は知っています。
 涙で痛くなった目元を手の甲で拭った夢は、微かな声で「オッカさん」と呟きました。オッカは部屋に入らず立ち止まったまま、何も話しませんでした。その姿に視線を落としていたケンシがふと顔を上げると、たった今到着したケンジの姿がオッカの奥に見えました。部屋に入らず立ち止まったままのオッカに気付いたケンジは、後に付いて来たフクとフミを手で静止させ、オッカから視線を外しました。
 それぞれの心情を察したケンシは「夢」と声を掛け、二人で部屋を出ようとしました。
「大丈夫さ」
 夢達にそう声を掛けたオッカ。そして覚悟するようにゆっくりと呼吸をし、足を踏み出そうとしました。しかし、オッカはその一歩をどうしても踏み出すことが出来ませんでした。オッカの視線の先にある、開いた引き戸の向こうには、ベッドの上で横になっている、花模様の白い和服を着たおばあさんの足が見えているのです。全てを意味するその姿が先に心に入ってきて、その一歩をどうしても踏み出せずにいたのです。堪えていた涙は溢れ出し、オッカの頬を伝いました。顔を上げることが出来ないオッカは瞳を閉じ、ゆっくりと空気を吸い込みました。そしてゆっくりと空気を吐き、瞳を開けるとその一歩を踏み出し部屋に入りました。そんな勇気を出したオッカの瞳に広がったのは、これで最後になる、一生忘れることのない、いつものように眠るおばあさんの姿でした。その場で足を止めたオッカは受け入れたくなかった現実を目の当たりにし、自然と溢れた涙が頬をすべるのを感じました。
 何も言わず視線を落としていたケンシの視界の端に、立ち止まったオッカの姿が映りました。いつもと違う友の様子は、これでもかというほどにケンシに現実を突き付けました。しかしそれ以上に、同じ気持ちでいてくれることに何よりも嬉しさと安心を与えてくれました。
 おばあさんから目を離さす見つめ続けていたオッカは、やがて悲しみの衝動に体を突き動かされ、おばあさんの所へ駆け寄ると、強くそっと抱き締めました。目の前にある現実を受け止めるように包んだオッカの腕の中はとてもひんやりとしていて、温かくて、心地よくて、おばあさんの存在そのものを抱きしめているような、心いっぱいに広がったその感覚はとても不思議で安らかでした。オッカは今、おばあさんと過ごした日日を抱きしめているのです。
「姉さん? 姉さん? 大丈夫だったかい?」
 オッカは、おばあさんの人生が幸せなものであってほしいと願うように言葉を掛けました。そしてそっとおばあさんの頭に触れました。
「よく頑張ったね。本当に、よく頑張ったね」
 溢れ出したオッカの涙は瞳を離れ、おばあさんの頬へと伝わってゆきました。
 後もう少しです。遠く輝く宇宙の星をただ見つめるように、涙や言葉や手のひらは届かなくなります。自分を呼んでくれた、自分を見つめ目で追ってくれた、そんなおばあさんとの全ての日日が想い出になります。それを知る夢達は、触れることの幸せを、触れることが出来る幸せを離さないように胸の奥に抱き続けました。そして、ここまで来ることができました。しかし、それでも夢達の心を深く包む悲しみは、後悔させることを忘れません。心にあった日日の光は闇に隠れ、悲しませてしまった時の、辛い想いをさせてしまった時の、涙を流させてしまった時の姿だけが心に浮かんでしまい、激しく胸をかきむしるのです。たとえその時の自分の行動が過ちではなかったとしてもです。その何もかもに触れるたび、新鮮な痛みがズキリと胸の奥で広がるのです。ただ、その心の光は消えてしまったわけではありません。胸を刺すその痛みはいつの日か自分の力となり、大切な人を想い流れる悲しみの涙は幸せに満ちた喜びの涙となるのです。
 夢は昔、今と同じ悲しみの中に居た事がありました。それも一度ではありません。そんな夢の所へ、ミロクおばあさんは毎日会いに来てくれました。おばあさんと夢は長い時間を掛け、終えることができなかったその悲しみの涙を、キラキラキラキラ輝く笑顔へと変えていったのです。だから夢は知っています。この悲しみも、いつの日か必ず自分を救う光となって側に居てくれるということを。

 少し落ち着いたオッカはおばあさんの頬にそっと自分の頬を重ね、瞳を閉じました。おばあさんの存在をとても近くに感じることができるのです。穏やかに頬笑むオッカの頬に涙の跡はもうありません。心を決めたように笑顔になったオッカは重ねていた頬をそっと離し、抱きしめていた腕をゆっくりと広げて体を起こしました。そして綺麗になったおばあさんの喉元を指先で優しく撫でました。
「夢が側にいてくれたのかい?」
 おばあさんを見つめながらオッカがそう聞くと、夢は頷き「うん」と答えました。
「それなら良かった。本当に良かった」
 夢に笑みを向けたオッカはとても嬉しそうにそう言いました。
「おばさん!」
 静かな部屋に突然響いたのはハツエの声でした。ハツエは涙で顔をクシャクシャにしながらおばあさんに駆け寄りました。ハツエらしい真っ直ぐなその姿に思わず笑みを零した夢達は、どこか温かくて嬉しくて、晴れやかな涙を流しました。ハツエはオッカと同じように、過ごしてきた日日の中におばあさんが居るのです。ハツエはおばあさんの体を強くそっと抱き締めました。
 前を見ることができずに俯いていたケンシは顔を上げ、部屋の外で待っていたケンジに視線を向けました。どこか遠くを見るようにおばあさんの居る方を眺めていたケンジはケンシの視線に気付き、笑みを浮かべて小さく頷きました。そして側に居たフクとフミに「入ろか」と声を掛け、静かに歩き出しました。いつもより大胆でないケンジの姿は今の心の中を表しているようで、しかしそれでも前に進んだケンジなのですが、部屋に入るとそこで足を止めてしまったのでした。ケンジの見つめる先にあるのは、花模様の白い和服を着て眠るおばあさんと、そんなおばあさんを抱きしめ涙するハツエの姿でした。
 視線を上げた夢は、そこで立ち止まるケンジと、一緒に入ってきたフクとフミの姿を見た瞬間、一人一人の悲しみが心の中で重なり合い、ぽろぽろぽろぽろ涙となって溢れ出てきました。おばさんの側に居たオッカは、そんな夢にそっと歩み寄りました。
 立ち尽くすケンジを追い越したフクとフミはおばあさんの側に歩み寄ると、おばあさんの曲がった手を、いつもと同じように優しくそっと握り締めました。
 おばあさんを見つめていたケンジは呼吸をし、そして俯くケンシに頬笑み掛けました。
「ケンシ、よう頑張ったな。ありがとうな」
 思いもしなかったケンジの言葉に、自然と顔を上げたケンシは照れ笑いを浮かべると、頬を上げたまま俯き、そして想いを込めて言葉を掛けました。
「ケンちゃんも。ありがとうな」
 ケンシの言葉にケンジは大きな笑みを見せ、そのままおばあさんに視線を戻しました。
 オッカは隣で涙を流す夢の背中にそっと触れ、温かな声で話し掛けました。
「夢。姉さんの化粧道具持ってきたよ」
 涙を袖で拭った夢はオッカに笑顔を向けました。
「そっか。そうだね。うん」
 夢はおばあさんの側に歩み寄り、みんなに向かって話し始めました。
「私、おば様の側に居れて」
 みんなは夢に視線を向けました。
 夢は視線を少し落とすと小さな深呼吸を一つして、今度はしっかりと顔を上げました。
「だから、知っていてほしくて。最後の時の事と、おば様の、みんなに向けた最後の言葉を」

 きらきらきら。クイナの丘の頂上から見える夜空には、数多に在る宇宙の星が輝いています。しかしこの街の夜空は違っていて、まるで鏡のようです。自分の姿ばかりが夜空に映ってしまい、遠く微かに輝く光は見えません。もしかするとその光は人の心を救う手掛かりになるのかも知れないのです。そんな星の少ない夜空の下、後少しで今日という日が終わります。
 おばあさんの最後の化粧は夢とオッカとハツエが張り切って行いました。こういう時に男達は利いた風なアドバイスをしてくるのですが、もちろんおばあさんの普段の化粧を全く分かっていません。
「うるさい!」
 なので男達はオッカとハツエに怒られました。男達はそそくさと部屋を出ると、みんなの飲み物を買いにコンビニへと向かいました。そんな光景を眺めていた夢はとても楽しそうに笑っていました。夢はおばあさんを感じる事が出来る話であれば、心から笑うことが出来ました。しかし話がおばあさんから離れてしまうと、夢が瞳に焼き付けた家での最後の表情や、ICUで見た最後の姿が映し出され、まるでその瞬間の自分に戻ったように新鮮な悲しみが溢れ出てきます。それだけでなく、おばあさんと違う話の中で笑ってしまうと、おばあさんをひとりぼっちにしてしまう、そんな気がして笑いたくなくなるのです。今はまだしばらくは、おばあさんの側に居たいのです。
 それから少しして、おばあさんの最後の化粧が終わりました。すぐ後に葬儀を依頼した業者が訪れ、病院を出る支度が行われました。必要な手続は全て終えてあるので、後はもう、家に帰るだけです。明日一日は家で過ごし、その次の日に通夜を、そして最後の日に葬儀を行います。
「二人が一緒に帰ってやってくれへんか?」
 ケンジは笑顔で夢とケンシにそう言いました。
「あたしからもお願いするよ」
 オッカも頬笑みながらそう言うと、ハツエとフクとフミも笑顔で頷きました。
「分かった。ありがとう」
「うん。ありがとう、みんな」
 おばあさんと話をしながら見慣れた町を行く。
 それは悲しくて、心温かな三人だけの時間でした。

 体という概念は無になり、意識は空の中にあります。見渡す限りに広がる雲は撫子色や桜色をしていて、強い光に照らされた雲は薄桜や純白に輝いています。そして幾重にも重なる少年達のカノンの合唱は世界中に隙間無く行き渡っていて、気付けば雲のように留まりながらその響きを全身に感じていました。
 しかし突然その響きは急激に増幅して行き、まるで頭の中で鐘が鳴るように反響し始め、
「ハッ!」
 息を吹き返したように空気を吸い込んだケンシは、夢とは思えないほどリアルな感触の世界を抜け、目を覚ましました。目蓋を開いたケンシの目の前には、家のおばあさんのベッドでうつぶせになって睡眠をとる時に見える、いつもの風景がありました。ただ目が覚めた今でも、空に広がる光と雲や響く少年達の歌声は頭の中にハッキリと残っていました。
 ケンシは重くなった上体を起こすと深い溜め息をもらし、「夢か」と呟きました。そして視線を上げ、ベッドの上のおばあさんに目をやりました。業者が用意した布団と業者が用意した枕、その中でおばあさんは何もない表情で眠っていました。胸元の所が膨らんでいるのは両手を組ませているからなのですが、見ていると少し違和感はありました。それだけでなく、誤嚥することを考えればベッドの角度を今のように垂直にすることはないとか、おばあさんはこの姿勢よりも好きな姿勢があるとか、視界にみんなが見えるように顔の角度を変えるとか、しかしケンシはそこまで考えるとまた俯き、小さな溜め息をつきました。
「そっか。病気終わったから、もういいんやな、ばあちゃん」
 ケンシは全てを思い出し、もう一度おばあさんの死を受け入れました。眠りについて目を覚ますたびにその事を思い出し、そして思い出すたびに新鮮な痛みを感じなければいけません。恐怖でもだえるように項垂れたケンシはか細く長く息を吐くと、「きつい」と声を漏らしました。本当はこのまま何もせず、ただおばあさんの事だけを想いたかったのですが、それはできません。ケンシは何も考えないようにして無理やり気持ちを落ち着かせました。頭の中が熱くなるような感覚を覚え、それを振り払うように顔を上げたケンシはベッドの反対側に目をやりました。病院から一緒に帰ってきた夢は今、おばあさんの方に頭を向けながら仰向けに寝ていました。夢とケンシはおばあさんと一緒に家に帰り、先に病院を出ていたみんなと合流しました。その後みんなと家を片付け、明日以降の予定を決めて解散しました。家に残った夢とケンシはベッドで眠るおばあさんを間にして、沢山話をしました。懐かしい話も。後悔の話も。そうやって想い出に触れる事で、生きている姿を感じたかったのかもしれません。でもそうやって仲間と話せたおかげで二人は少し気持ちが楽になれました。明日は朝早くにみんなが家に来るので、いつものように常夜灯をつけたまま、夢とケンシはおばあさんと一緒に眠りにつきました。
 か細く長い溜め息をついたケンシは、ふとおばあさんの顔に目をやりました。
「え、何で?」
 思わずそう声を上げたケンシは縁側の方に振り向くと、二重にして閉じている薄いカーテンに目をやりました。外から差すまばゆい光が隙間無く閉じているカーテンを越え、部屋の中に射し込んでいたのです。ケンシはもう一度おばあさんに目を向けました。やはり何度見ても金色に輝くその一筋の光はおばあさんを照らしています。それはまるで天国へ向かう光の道のような、そんな輝きをしていました。そんな説明がつかない光景にケンシはとても不思議な気持ちになったのですが、だからこそ嬉しくも感じました。小さく微笑んだケンシは俯くと、「何でもいい。どんな現象でも奇跡でもいいからばあちゃんを幸せにしてほしい」心からそう願い、夢の方へ振り向きました。
「夢」
「うん」
 夢の返事を聞いたケンシは部屋の隅にあるデスクの上から携帯電話を取りました。
「さっき夢見てな、流れとった曲があんねん。聴いてみて」
 ケンシはそう言うと、携帯電話に入っている音楽のアプリを起動させました。
 ケンシは目覚める直前の一部分しか覚えていなかったのですが、夢の中で響いていた歌は「サンクトゥス」だとすぐに分かりました。それはパッヘルベルのカノンをリベラ(イギリスの少年合唱団)のためにアレンジした曲で、特にケンシは二〇一二年にアレンジされたサンクトゥスを好んで聴いていて、携帯電話にも保存していました。
 ヨハン・パッヘルベルのカノン。他の為に命を使い、自らは天に昇って行く。
 そもそもパッヘルベルのカノンが大好きなケンシは、以前からカノンに対してこのようなイメージを持っていました。もしかするとその強いイメージが現状と重なり、自然とケンシの夢に影響したのかもしれません。
 ケンシは音楽を再生させて曲の音量を上げると、おばあさんの胸元にそっと携帯電話を乗せました。夢は瞳を閉じたまま、目元を手首で軽く押しました。沢山泣いたからなのか、それが心地良く感じました。
 そして、曲が流れ始めました。
『安らかな空を描くように音は広がり、静寂が生まれました。
 穏やかに奏でられた楽器の音は、心を抱き、大空へ導きます。
 天使のように無垢な声、悲しみを包むその優しさは、終わりを告げてくれました』
「これが流れてな、思ってん。あぁ、ばあちゃん天国行ったんやなぁ、って」
 ケンシはおばあさんの寝顔を見つめながら、夢の中の世界を言葉にしました。
 歌声に心を寄せていた夢は旅立つおばあさんを想い、涙が溢れました。そして込み上げる涙の声を手のひらで抑え、大好きなおばあさんを想いました。
『カタルシスによって溢れた歌声は光となり、瞳を閉じるおばあさんに降り注ぎました。
 時を迎えたおばあさんは、きらきら、まばゆい光子となり、光に導かれて行きます。
 誰にも見えない永遠の光子は想う者へ絶望と恐怖と喜びを与え、美しく輝きます』
 ふと何かを感じたケンシは顔を上げて外の方へ振り返り、眩い軌跡を見つめました。微かに残っていた輝きは次第に消えて行き、そしてまた始まるクイナの町の朝、一日の眠りの中に光が訪れました。ケンシは力無くため息をもらしながら、ゆっくりと視線を戻しました。そして顔を上げ、眠るおばあさんの顔を見つめました。

 今日の準備に一段落つけたオッカは、部屋にある柩の中のおばあさんを見つめていました。昨日までここにあったおばあさんのベッドは、男達が午前中に奥の部屋へ移動させました。そしていつも寝ていたこの場所に、おばあさんは戻ってきたのです。
「ねぇ、夢。姉さんの髪、もう一度綺麗に整えようかね?」
 卓袱台の上で果物を皿に盛り付けている夢に、オッカはそう聞きました。夢は手に持っていた葡萄をパックに戻し、オッカの隣に立ちました。
「そうね、私も手伝うわ! 待ってて手を洗ってくる!」
 夢がそう言うとオッカは笑顔で頷き、卓袱台に置いていた櫛を手に取りました。
 夢とオッカはこうやって、少しずつ、柩の中のおばあさんを綺麗にしてゆきました。今日と明日が過ぎても後悔しないよう、想いの全てを形にし、愛を満たしたいのです。
「うん! いい感じだ。ねぇ、夢」
「うん! 素敵だわ!」
 夢とオッカはおばあさんに届くように言葉を掛けました。願うだけじゃなく、今はまだおばあさんに触れることが出来る、手が届き何かが出来る、温かくて悲しいその喜びは夢達の心を癒してくれました。
 おばあさんの好きな髪型は何だろう、二人がそんな話を始めた時、「オッカ、夢」と台所の方から呼ぶ声が聞こえました。その声に夢とオッカが振り返ると、卓袱台に目をやりながら歩いてくるケンジがいました。
「何か他あるか? ないんやったら飲みもん少ないから買いに行くわ。後、ベッドは?」
 ケンジはそう話すと、奥のおばあさんの部屋に視線を向けました。
「レンタルだからお葬式が終わったら連絡するわ。後からでもいいって」
 夢がそう答えるとケンシは小さく頷き、「そうか」と呟きました。長い間おばあさんと夢達と共に過ごし、沢山の想い出が詰まっているベッド。後日業者へ連絡し、引き取りに来てもらいます。今日という日を迎えた夢達の心には、おばあさんの介護を手伝ってくれた沢山の物達への感謝の気持ちと愛情が溢れていました。
「ケンちゃん買い物に行くなら私も行くわ」
 夢がそう声を掛けると、オッカは「そうだね」と頷きました。
「夢なら色色分かるだろうから、付いて行ってあげな」
 オッカが夢にそう言うと、ケンジは「おし、じゃあ行こか」と声を掛けました。
「そうだ、これもお願いするよ」
 玄関に向かった二人にオッカはそう声を掛け呼び止めると、茶箪笥の上の小さなノートを取りました。そしてその紙に必要な物を書き付けると、その部分をちぎって夢に渡しました。
「うん。じゃあオッカさん、行ってきます」
 そうして二人は軽トラックに乗り、オレンジ通りへ買い出しに向かいました。
 二人を見送ったオッカはそのまま部屋に戻り、おばあさんの側へ行きました。そして柩の縁にそっと手を付きおばあさんの寝顔に目をやると、次はどんな話をしようかと楽しそうに考え始めました。するとその時、台所の暖簾をくぐりケンシが部屋にやってきました。
「あれ、ケンちゃんは?」
 ケンシが周りを見渡しながらそう言うと、オッカは「買い物」と一言だけ答えました。
「ふぅん。じゃあちょっと休憩するか」
 そう呟いたケンシは柩の側に行くと、そっとおばあさんの頬に自分の手のひらを重ねました。ひんやりと冷たくて、いつもの柔らかさはありませんでした。
「話しでもするかい」
 オッカはケンシにそう声を掛けると、庭の草履を履いて縁側に腰を掛けました。
「うん」
 笑顔でそう頷いたケンシはオッカと同じように縁側に腰を掛けました。そして気持ちを前向きにさせるように深呼吸をし、そのまま空を見上げました。丘を覆うように薄い雲が広がっていました。クイナはまだまだ梅雨の真ん中で、気温も高いせいか蒸し暑さも感じられました。 
 何も考えず庭を眺めていたオッカは、いつものように話し出しました。
「あんたも夢も、何も食べてないだろ」
 オッカにそう言われたケンシは思わず足元に目をやると、小さく笑みを浮かべました。
「なんか、腹も減らんし、味あるもん口に入れたないねん」
 オッカは寂しそうに頬を上げると「そうかい」と呟きました。
 二人の静かな会話は止まり、自然や町の音が流れました。庭の草木や二人の髪を揺らした微かな風は雨の匂いがしました。天気予報によると、明日は晴れる事なく昼を過ぎる頃には雨になるそうです。
 ケンシは俯いたまま、ぽつりぽつりと話し始めました。
「ばあちゃんの人生、何やったんやろ」
 それはケンシの正直な気持ちでした。オッカは「うん」と呟き、ケンシの言葉を待ちました。
「病気んなって、しゃべられへんなって、体動かんなって、家族の名前も思い出せへんなって、何でこんな目にあわなあかんねん」
 ケンシは気持ちを頭で整理せず、心のままを言葉にしていました。苛立ちや虚しさが籠った言葉に聞こえるのですが、ケンシの心に怒りはありませんでした。結局何も出来なかった、何もしなかった、そんな消えることのない後悔がケンシの心を満たしていたのです。
 視線を落としたケンシは何もない地面を見つめ、気付けば頭の中に映し出された過去の自分を眺めていました。その記憶の中のケンシは大きめの黒いスーツを着ていて、葬儀会場の中でパイプ椅子に座りながらロクの入った柩を見つめていました。当時ケンシはロクの介護に関して言葉だけだった人とは疎遠にしていたので、葬儀にはほとんど誰も呼びませんでした。そこに負の感情は無く、寧ろこの方がケンシは楽だったのです。ケンシは誰にも声を掛けず、ただロクの柩の前で涙を流していると、ドアの開く音が聞こえました。ケンシは確認のためだけに振り返り視界の端に目をやると、ミロクおばあさんの姿がありました。おばあさんは何も話さないままパイプ椅子に腰を下ろすと、隣でぽろぽろぽろぽろ涙を流すケンシの頭を、優しく、ぽん、ぽん、と触れました。それからおばあさんはひとりぼっちになっていたケンシの側にずっと居てくれました。
 本当に嬉しかった。その日の事を思い出したケンシの心に、どうしようもないほど寂しさが込み上げてきました。
「なぁ、ばあちゃん、幸せやったかな。俺でよかったんかな」
 ケンシは誰に問い掛けるでもなく、ただ想ったことが言葉になって出ていました。静かに聞いていたオッカはケンシに視線を少し寄せ、話し出しました。
「心の中の姉さんと話してごらん」
 思い掛けない言葉に思わず笑顔になったケンシはオッカに振り向きました。
「心の中?」
「そうさ」
 オッカは笑みを浮かべながらそう返事をし、前を向くと遠くの空を見つめました。
「姉さんみたいにね、真っ直ぐに正直に生きた人間は、居なくなった後でもちゃんと」
 オッカはケンシに振り向き、自分の胸元にトントンと手を当てました。
「心の中で、答えてくれるのさ」
 心のまま向き合ってきたからこそ、天国へ行った今でもおばあさんの言葉は生まれるのだと、オッカはケンシに伝えました。
 おばあさんをも想う優しいオッカの言葉に、ケンシは頬笑みながら小さく何度も頷きました。そして背中を伸ばしたケンシは体一杯に深呼吸をすると、後ろに傾けた体を床に付いた手で支え、遠くの空に目をやりました。
「そっか。そっか。うん、そやな。今はきついけど、ばあちゃんと向き合ってみる」
 オッカに満面の笑みを見せたケンシの声は、少し明るくなっていました。

 缶、瓶、紙パック、色色な酒類が並ぶ棚に向かって夢は眉間に皺を寄せていました。
「選んだか?」
 夢がその声の方へ振り向くと、ケンジがケース一つを両手で抱えながら向かって来ていました。そのケースには、三五〇ミリリットル、缶ビール、二十四本、と書かれていて、いつもと変わらないケンジの姿に夢の心は温かくなり、自然と笑みがこぼれました。
「まだ。おば様は何を飲むのかしら? 家で飲んでいるのほとんど見た事ないわ」
「ジントニック」
「え、そうなの?」
 振り向いた夢がそう聞くと、ケンジは笑顔で「おう」と答えました。
「そっか。へぇー、良い事聞いた」
 新しいおばあさんに出会えた夢は、とても嬉しそうに頬笑みました。
 酒屋で飲み物を買い終えると、夢とケンジは止めていた軽トラックに戻りました。
「そうだ、ちょっとだけ買い足さないといけない物があったの! 待ってて!」
「分かった。ここおるわ」
 ケンジは軽トラックの荷台にケースを乗せながらそう言うと、運転席に乗り込みました。必要な物がどこに置かれているか覚えている夢は小走りで商店に入ると、そのまま目的の棚に向かいました。しかし、夢はその途中で突然足を止めてしまいました。思わず立ち止まった夢が見つめるのは、沢山の調味料が並ぶ棚の中にある、ポリ袋に入ったシナモンパウダーでした。その商品を目にした夢は突然思い出したのです。
 それは、おばあさんがALSだと分かる少し前の事でした。自分の体の異変に気付いていたおばあさんは不安な日日を過ごしていました。そんなおばあさんを心配した夢は、何か体に良い物はないかと調べ始めました。すると、シナモンは血管や血流を良くして体を温める、という情報を見つけたのでした。夢はオレンジ通りに探しに行き、見つけたのがこのシナモンパウダーでした。
 まだ元気だったおばあさん。そして一生懸命だった自分。鮮明に浮かんだ過去の記憶が心から溢れ出て、夢の頬を伝いました。もう二度と、あの頃に戻ることは出来ません。どうしようもない寂しさが、夢の胸の奥で広がり、じわりと熱い痛みとなりました。
 私じゃなければ、もっと長く生きる事が出来たかもしれない。
 夢はどうしても、自分を許す事が出来ませんでした。

 庭の草葉と落ちる雨粒が打ち合い、ポツ、ポツポツ、ポツ、と音を作ります。はっきりしなかった空から、微かに感じられる程度の雨が降り始めました。
 ケンシは縁側に立ち、ガラス戸の向こうに広がる空の雲を眺めていました。
「ケンシ」
 その声にケンシが振り返ると、喪服を着たフクがニヤニヤと笑いながらペンギンのぬいぐるみをケンシに差し出すようにして持っていました。床に座り同じ服装をしたケンジとフミもニヤニヤとした顔をケンシに向けていました。
「自分で持っとくか?」
 フクがそう言うとケンシはぬいぐるみを受け取り、そしてペンギンの顔を自分の方へ向けました。
「持っときたい」
 ケンシはハッキリそう言うと、ペンギンのぬいぐるみを親指でそっと撫でました。昔からこの家にあったペンギンのぬいぐるみ。おばあさんの側にずっと居てくれました。
「けど、ばあちゃんの友達やから」
 ケンシはそう言うと、ペンギンのぬいぐるみをおばあさんの左手の側に添えました。
「いつも一緒。ありがとうな」
 感謝の気持ちを込めて言葉を掛けたケンシは、ペンギンに笑みを向けました。
 柩の中のペンギンは、おばあさんの左手と綺麗に重なっています。ベッドで寝た切りになったおばあさんの左手を支えてきたこの位置が、ペンギンのいつもの居場所なのです。時にはおばあさんの枕になることもあったので、お腹の部分がペチャンコになっていて、見ているだけで微笑ましい気持ちになってきます。
 ケンシ達が柩を中心にしてペンギンの話をしていると、奥の部屋に居た夢がみんなの所にやって来ました。
「選んだ?」
 フミがそう聞くと、夢は手に持っている物をみんなに見せ、嬉しそうに頬笑みました。そして夢は柩の側に立ち、なでしこの花の模様が綺麗な巾着をおばあさんの右手の側に、ねずみ色のTシャツを右肩の側にそっと添えました。
「そのシャツは?」
 ケンジはねずみ色のTシャツを見つめながら夢にそう聞きました。夢はケンジの方に振り向くと、「フフ」と嬉しそうに笑いました。
「覚えてない? ケンちゃん、シャツ」
 夢に目をやったケンジは不思議そうな表情で、「何やったっけ?」と呟きました。ケンジのこの様子から、全く記憶に無いのだとみんなは理解しました。
「ケンシさんは知らないわ。ケンちゃんが前にね、おば様に服をプレゼントするって、」
「あ! そうや、しまった」
 ケンジは思い出しました。そして切羽詰まった表情で「夢!」と声を掛けました。
「夢が代わりにプレゼントしたん? これ? お揃いか? ネズミか?」
 ケンジが可笑しな表情で矢継ぎ早にそう聞くので、夢は笑いながら頷きました。
「じゃあわし払った分出す! なぁばあちゃん?」
 ケンジはあたふたしながらそう声を掛けると、おばあさんにぎこちない笑顔を向けました。
「それ意味あんの?」
 そう問い掛けたケンシは軽蔑の笑みを浮かべながらケンジを横目で見つめました。
「ないな」
 フクは他人事のように嬉しそうにそう言い切りました。
「さああんた達! 出来たよ!」
 オッカの大きな声にみんなが台所の方へ振り向くと、オッカとハツエが暖簾をくぐり部屋に入ってきました。オッカの手には深めの紙皿に盛られた肉豆腐とたこ焼きとコロッケがありました。後から出てきたハツエは卓袱台の上に置いていた手のひらサイズの箱を三つ取ると、おばあさんの側に歩み寄りました。
 柩の横に立ったオッカはおばあさんの大好物をおばあさんの左肩の側に添えました。
「少しずつだけどね。姉さん、もう何でも食べられるのさ」
 オッカは寂しそうに頬笑むと、そう言葉を掛けました。
「これも隣に置いておくよ」
 ハツエはそう言葉を掛けると、柩に入った紙皿の隣に三つの箱を添えました。
「あ! 懐かしい!」
 その箱を目にしたケンシは思わず満面の笑みを浮かべ、そう声を上げました。ハツエが添えた箱は、バター味とヨーグルト味のスカッチキャンデーのチェルシーと、ミルクのキャラメルのハイソフトでした。
「おばさん、いつも持ってたからね」
 昔を想いながらそう話したハツエは懐かしそうに寂しそうに頬笑みました。
 いつの間にかみんなは言葉を忘れ、ただおばあさんを見つめていました。話していても、前に進んでいても、悲しいものは悲しいのです。ただ、夢だけはケンシの頬笑みの奥に見える深い悲しみを見ていました。そしてその悲しみに向き合えていないケンシの心を想い、とても心配していました。
「これ歌なかった?」
 頬の涙を指で拭ったフミがみんなにそう話し掛けました。
 するとケンシが「あぁ」と声を漏らし、聴き馴染んだ歌を口ずさみました。
「ホラ、チェルシー」
「ああ!」
 ケンシの歌にみんなはそう声を上げました。
 そんなみんなの反応を見たケンシは思わず笑ってしまいました。
「これもっと長いねんけど知っとった? 一番しか知らんけど三番まであんねんで」
 ケンシはそう話すと、自然と歌い出しました。
 夢達の心に、幼い頃の温かい記憶が流れました。
『なつかしい人に出逢ったような
 やさしいたよりが いまとどいた
 忘れかけていた幸せ
 あなたにも わけてあげたい
 ホラ、チェルシー
 もひとつチェルシー
 ホラ、チェルシー
 もひとつチェルシー』

 葬儀にはクイナの町の住人や遠方に住むおばあさんの友人が来てくれました。おばあさんと友人との間には、夢達が心配していたような隔たりはありませんでした。集まったみんなはおばあさんを間にして、おばあさんの事を楽しそうに話していました。
 そうしていると、心のこもった手紙が家に届きました。そこには形式張った文はなく、ありのままの言葉がありました。沢山の温かい心は側に居た夢達も幸せな気持ちにしてくれました。
 そして来賓への挨拶は、みんなの薦めで夢が行う事になりました。
 夢は、おばあさんのために来てくれた事を感謝しました。
 夢は、おばあさんとみんなが出逢ってくれた事を感謝しました。
 夢は、おばあさんが命を燃やし、みんなを成長させてくれた事を感謝しました。
 夢はおばあさんへ、介護で失ったものは何も無いという事を伝えました。
 夢はおばあさんから、介護を通して大切な心を与えてくれた事を感謝しました。
 そして夢は、おばあさんと過ごしたこれまでの日日が本当に楽しかったんだと、これからもずっと私もみんなも幸せで楽しい日日が続くんだと、おばあさんへ届くように心からのありがとうを伝えました。
 夢の挨拶が終わると、おばあさんの眠る柩の蓋が開かれました。ケンシは用意していた音楽プレイヤーを会場の隅に設置し、おばあさんの好きな曲を流しました。洋楽のポップスやクラシック、みんなの気持ちと重なる歌や懐かしい曲、それらが流れ華やかになった会場の中で行われたのは別れ花です。祭壇に飾られた生花を一本ずつ、一人一人の手で柩の中に入れてゆきます。いつしか柩の中は生花で満ち、おばあさんの顔の周りは綺麗な花の色で彩られました。頬笑む生花に抱かれ眠るおばあさん。安らかで愛らしくて、キラキラととても綺麗に輝いていました。
 そうしてそれぞれが想いを伝え、肌に触れ、おばあさんの旅立ちを受け入れてゆき、最後の別れの時がやってきました。一人一人が描く悲しみの中、葬儀スタッッフが柩の蓋を持ち上げて閉めようとした、その時でした。
「ちょっと待って下さい」
 突然そう声を掛けたのは夢でした。
 スタッフは夢に笑顔を向け、「大丈夫です」と答えると、柩の蓋を持ったまま後ろへ下がりました。夢はスタッフに「すいません」と頭を下げ、柩の側に歩み寄りました。そして夢は柩の縁に両手を付いて体を支え、おばあさんの額にキスをしました。そのままおばあさんの頬と自分の頬をそっと重ね、誰にも聞こえない小さな声で想いを伝えました。
「おば様、今までありがとう。またすぐ会えるから、先に、天国で待っててね」
 夢の瞳から溢れた涙は、重ねた頬に伝わりました。その悲しみの涙は温かく、優しく、キラキラと輝いていました。
「おば様。大好き」
『そして彼女は最後に絵を描いたんだ。
 未完成じゃない、世界で一番の完成品さ。
 とても大きくて、とてもカラフルで、とても素敵な絵なんだ』

 柩と共に夢達は、クイナの丘の隣にある小さな山の頂上にやって来ました。山頂には壁がガラスで出来ている大きな斎場があり、火葬場も併設されています。
 施設に入った霊柩車が斎場の前で停車すると、夢とケンシが降りてきました。そのすぐ後に止まった車から降りてきたのはオッカとハツエとフクとフミで、四人を降ろした車はまたすぐに動き出し、駐車場へ向かいました。
 夢達とおばあさんの柩は葬儀スタッフに案内され、火葬場に向かいました。夢達が中に入るとすぐに斎場の男性係員がやって来て、簡単な挨拶とこれからの流れを確認しました。今は火葬を行う準備をしているそうなので、おばあさんの柩を係員に預け、夢達はその準備が整うまで待ち合い場の中で待機する事になりました。
「降ってきたなぁ」
 フミが喪服に掛かった雨を手で払いながらそう言うと、みんなは山に掛かった雲に目をやりました。そして何も話さないままガラス越しの景色を眺めていると、車を駐車場に停めに行っていたケンジが待ち合い場に駆け込んできました。
「降ってきたな」
 ケンジがみんなにそう声を掛けた次の瞬間、ガラスを小さく叩いていた雨の音が突然激しく鳴り出しました。その音で外に目をやったケンシはそれでも表情を変えないまま、そこから見える空をただ見つめ続けていました。天気予報の通り、ぱらついていた雨は次第に強くなり、昼を過ぎると本格的に降り始めました。
 それから数分後、この場を後にしていた係員が再びやって来ました。火葬の準備が整ったそうです。夢達は係員に案内され建物の外に出ると、またすぐに円柱の建物が見えてきました。その建物の中には等間隔に火葬炉が設置されていて、柩はここで火葬されます。
 前を歩いていた係員は足を止め、夢達の方へ振り返りました。係員が立ち止まった火葬炉の前には、一つの柩がぽつんと置かれていました。おばあさんの眠る柩です。そして柩はもう、火葬炉と繋がる台車の上に乗っていました。
 夢は胸の奥が刺されたように痛くなり、ジワリと熱い悲しみが広がりました。夢は気持ちを落ち着かせようと、ゆっくり深く呼吸をしました。
「では、こちらへお願いします」
 そう声を掛けた係員はそれぞれの立つ位置を案内し、夢達はおばあさんを見送る形に並びました。次に係員は、これから行う火葬についての説明を始めました。火葬場では特に夢達が何かを行うわけではないので、全ての事に関わってきた夢やケンシには余計に虚無を感じてしまう時間になってしまいました。
 そして係員の説明は終わり、最後の時が訪れました。係員は柩の乗った台車に両手を掛けると、火葬炉の中へと動かし始めました。おばあさんの柩を見つめていた夢は台車が動き出すと、向かう先にある重重しく開いた空間に目をやりました。そこは薄暗くて狭く、扉が閉まればきっと光は届かなくなってしまいます。おばあさんの眠る柩はその場所へ向かい、夢達から遠ざかって行きます。ゆっくりと、止まることなく進み、そして柩は完全にその中に入りました。
 そこは薄暗くて狭い場所。
 夢はその瞬間、ドライヤーの熱で酷い仕打ちを受けるおばあさんの姿、暗く狭い火葬炉の中で怖がっているおばあさんの姿、そして、ひとりぼっちになったおばあさんの姿、まるで実際に目にした事があるかのようにハッキリとした、おばあさんの姿が目の前に映し出されたのでした。心を握り潰されるような痛み、胸の奥がジワリと熱くなるほどの焦燥、夢はおばあさんが居なくなる事が怖くてたまりませんでした。
 おば様、ひとりじゃない、大丈夫、怖くない。
「ありがとう! おば様! またね!」
 夢は気付けば想いを言葉にしていました。大好きなおばあさんへ、届きますようにと。
『最後まで諦めない気持ち。
 大切な人を想い、夢達は走り続けました。
 最後まで諦めない気持ち。
 悲しみを見ないように、夢達は走り続けました。
 もしかするとその気持ちは、夢達自身の心をも守る鎧だったのかもしれません』

 火葬が終わるまでまだ時間があったので、夢達は斎場に設けられた軽食喫茶室で昼食を取る事にしました。火葬場では他の利用者には会わなかったのですが、ここでは十人ほどの客が半数の席を埋めていました。斎場では葬儀も行われるので、その利用者なのかもしれません。
 一つのテーブルに着いた夢達の元に、注文した料理が運ばれてきました。夢達は食事を取りながらポツリポツリと会話をしているのですが、自分自身の心と向き合う瞬間が不意に訪れ、黙ってしまう時間も少なくありませんでした。しかしケンシだけは、手元にあるソース焼きうどんに手を付けないまま、ただそれを見つめているだけでした。
「食べないと」
 その声にケンシが視線を上げると、夢が頬笑んでいました。頬を上げたケンシは「うん」と頷くと、そのまま手元に視線を戻しました。
「別に食べられへんってわけじゃないねんけどな。お腹が空かへんねんなぁ」
 ぽつりとそう話したケンシは笑みを浮かべ、大丈夫そうな様子を夢に見せました。ケンシはおばあさんが天国へ行ったあの日から今日まで水分しか取っていませんでした。しかし、それでも不思議と空腹を感じることはありませんでした。無理をしているわけでもなく、食べられないわけでもなく、食べる意欲がないのです。ただ、注文したソース焼きうどんはもう目の前にあります。残すわけにはいきません。
「いただきます」
 そう挨拶したケンシはソース焼きうどんを食べ始めました。味は普通でした。もちろん食べる前から分かってはいたので期待はしていません。やっぱばあちゃんの焼きうどんが無敵で一番、ケンシは心の中でそう自慢しました。
 そうして数分で食べ終えたケンシは気付けば空になった皿をただ見つめ、おばあさんとの日日を想い出していました。他人から見れば大変そうに見える介護、しかし夢達にとっておばあさんとの日日は間違いなく生き甲斐でした。おばあさんとの日日こそが自分の時間であり、喜びであり希望でした。そんな大好きなおばあさんは柩の中に、そして今は火葬炉の中に居ます。ケンシはちゃんと分かっています。おばあさんの死を受け入れたその向こう側に、とても大きな恐怖があるという事を。そしてその恐怖から自分の心を守ってしまっているという事を。
 いつの間にかケンシは、遠くから眺めるように自分自身を見つめていました。
「え、あ、うん! 食べれたで」
 ケンシは笑顔で夢にそう答えました。ケンシは皿を見つめている間、夢が話し掛けていた事に気付いていました。気付いてはいたのですが、体が反応しませんでした。
「ここね、ミックスジュースがあるの! 飲まない?」
 夢はケンシに笑みを向け、そう話し掛けました。
「あ、懐かしいな。飲むわ」
 思わず笑みを浮かべたケンシは、明るくそう答えました。ケンシは子供の頃、よくおばあさんに連れられて喫茶店に行っていました。その時ケンシは必ず、ミックスジュースを注文していたのです。

 軽食喫茶室を出た夢達は骨壷を買うため斎場内にある仏具店に入りました。ただ、夢とケンシは骨壷に対する知識がありません。適当なものを選びたくない二人は、まずはショーケースに並ぶ骨壷を見比べてみよう、そう話してショーケースに目をやった、その瞬間のことでした。夢とケンシは瞳を輝かせ、桜の花びらがデザインされた骨壷に目を奪われてしまったのでした。おじいさんとおばあさんは毎年春になると桜を見に行っていました。道の途中で弁当を買い、丘の上で花見をするのです。でもおばあさんは桜がすごく好きかと言えばそうではありません。一緒に行く、おじいさんの事が大好きなのです。夢とケンシは、桜がそんな二人を天国で結び付けてくれるかもしれない、そう想ったのです。そうして夢とケンシの骨壷選びは数秒で終えることができました。
 仏具店を出た夢達は、火葬場へ行くにはまだ早いので、待ち合い場で休憩を取る事にしました。外の風はより一層激しくなり、降る雨や山の木木を引っかき回しています。建物の中にまで聴こえる風や雨や枝葉の音は、梅雨の雨以上に騒がしく感じました。
 そんな中、夢達が待ち合い場で待機していると、何組かの団体がバスに乗ってこの斎場までやってきました。ケンシはその時ふと思ったのです。その人達も、軽食喫茶室に居た人達も、それほど悲しみを抱えている様には見えない、きっと他の人からは自分も同じ様に見えているんだろうと。心に抱えているものは、思っている以上に他人には見えないものなのかもしれません。ケンシは溜め息をつき、そしてまた外の景色に目をやりました。
 それから少しすると壁の時計に目をやったケンジが立ち上がり、「そろそろ行こう」とみんなに声を掛けました。火葬の終わる時間が近くなったので、夢達は少し早めに火葬場へ向かう事にしました。夢達は斎場を後にし、屋根のある外の廊下を通って火葬場の中に入ると、斎場の係員が夢達の所へやって来ました。おばあさんの火葬は終わったそうです。収骨の準備も整っているそうなので、今から骨上げを行うことになりました。夢達はそのまま奥へ進み、おばあさんの柩を見送った火葬炉の前までやってきました。そこには畳一枚分ほどのコンクリート製の台がありました。夢は一瞬足を止めたのですが、逃げないように一歩を踏み出し、ゆっくりとその台に歩み寄りました。夢達の瞳に映るのは、燃え尽くして白い木炭の様になった、おばあさんの遺骨です。現実を受け入れなければいけない夢は、少しずつ、おばあさんの姿を心に焼き付けようとしました。しかし、夢の唇は固く閉じて震え出し、前に進めなくなってしまいました。砂の様に灰になった遺骨、沢山の想い、佇む夢の瞳には望んでいなかった世界が映っているのです。それでも前に進まなければいけない。夢はそう思い一歩を踏み出しました。すると、楽しそうに笑うおばあさんの顔や楽しかった日日が突然心に浮かんできて、夢の瞳からポロポロポロポロ涙となって溢れ出てきました。もう、おばあさんに触れることは出来ません。心を一つにしてきた夢達は、遺骨になったおばあさんを見つめ、想いました。介護は心のために行うんだと。そしてそれは何よりも難しくて、何よりも大切なんだと。
 ただ、ケンシだけはもう一つの感情が芽生えていました。遺骨だけになったおばあさんの姿が瞳に映った瞬間、おばあさんや自分の存在が全て否定されたような、おばあさんや自分の過去が全て否定されたような、そんな無を感じる白い光の衝撃が全身に走ったのでした。それはあまりにも純白で、あまりにも無垢で、そのまま自分が消えてしまいそうなほどの恐怖でした。しかし、その感覚はすぐに薄れてゆきました。ゆっくりと深呼吸をしたケンシは、目の前にあるただ一つの現実を瞳に焼き付けました。
 そうして歩き出した夢とケンシは、台の側で待っている係員の隣に立ちました。オッカ達も二人に続いて台の周りに立つと、係員が説明を始めました。これから行うのは、みんなの気持ちの整理を手伝う骨上げです。骨上げには長さの違う箸を使います。箸の素材も違っていて、一本は竹製、もう一本は木製です。そして一人一つずつ、足元の遺骨から上半身の遺骨までその箸を使って順に拾い上げ、骨壺に納めてゆきます。そして最後にのど仏を拾い上げ、骨壺に納めます。その時係員は一つ一つの遺骨について説明を行いながら骨上げの順序を案内して行きます。
 そして骨上げが始まりました。最初はおばあさんに一番近いケンシが行いました。ケンシは係員が示した足元の遺骨をそっと拾い上げ、骨壺の中に納めました。箸で触れた遺骨は軽くて白く、確かにおばあさんはこの世界を生きてきたという事を、そして、天国へ行ったという事をケンシに感じさせてくれました。
 別れの時に何を想いどうするのか、それは一人一人違います。しかし、見送った人のその時の行動こそが、旅立った人の存在した意味となるのです。
 ケンシは夢に頬笑み掛けました。ケンシの隣に居た夢が次に骨上げを行います。笑顔で頷いた夢は箸でそっと遺骨を拾い上げ、ゆっくりと骨壺へ運び、中に納めました。夢の次はオッカが行い、ケンジ、ハツエ、フク、フミ、順に骨上げをしてゆきました。
 みんなが拾い上げる遺骨を見つめていた夢は、ケンシに小さな笑みを向けました。
「全部、分かるわ」
 寂しそうに頬笑んだ夢は、ぽつりとそう言いました。
 少し硬くなった右手の親指は痛くないように、ゆっくりと広げてリハビリ。
 右足は開き気味だから毛布を使って真っ直ぐに。
 汚れが残りやすい耳の裏は一日に一回必ず洗うわ。
 唾液は大切だから、歯磨きごとにしっかり口の中を刺激する。
 首や肩を痛めてしまうと何日もずっと辛くなるから入念にマッサージを。
 みんなには綺麗なおば様だけを知っていてほしいからリンパのマッサージ。
 夢は唇をグッと閉じ、温かな涙を流しました。

 ケンジの運転する車はクイナの丘を登ります。
 二列目の後部座席に座るケンシは、隣の夢に視線を向けました。夢はおばあさんの遺影を手に、窓の外をぼんやりと眺めていました。俯いたケンシは自分の手に持った、白い布に包まれた木箱に視線を落としました。木箱の中には桜の花びらが綺麗な骨壺が入っています。ケンシはまた、窓の外に目をやりました。
 雨上がりの空には相変わらず雲が広がっていて、自然と視線が重くなってきます。
 そんな空を寂しそうに見つめながら、ケンシは現実と向き合っています。
 もう一つの現実と。

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