美しきこの世界

Rickey

二十三

 ALSの診断を受けた病院の救急外来受付前。そこに置かれた長椅子に、うつむき座る夢の姿がありました。家でのおばあさんの反応に良くない変化が現れ、救急搬送されて来ていたのです。うつむく夢は、過去に見た状態と似ていた事で重ねてしまう良くないイメージを払拭しようと考えを巡らせていました。
 ふと夢が壁の時計に目をやると、針は午後一時を指していました。おばあさんが救急車で病院に搬送されてから一時間が過ぎていました。夢はまた視線を落とし、熱の上がった瞳を閉じました。そして何が問題だったのか、夢はまた考え始めました。しかし、投薬や入院生活がまた始まるのではないか、そんな不安に襲われてしまい頭が考えようとしませんでした。おばあさんに尿路結石が出来て以来みんなと頑張ってきた、その頑張りがあった分だけ夢の動揺は大きかったのです。夢はそんな不安をねじ込めるように抑え、無理矢理思考の中に入って行きました。夢が何を掴もうとしているのか、それは自分達が行ってきた事の結果でした。例えば、クランベリーには尿路感染症や尿路結石を予防する効果があると聞けばおばあさんにあった用法容量を探って摂取したり、腎臓の形を理解して尿路結石が作られてしまう状態を避けたり、そういった様様な情報を集めて工夫を凝らし行ってきた事の何が正しいのか、今日まで手探りの中で少しずつその感触を探っていたところだったのです。そして少し前に行った画像診断で、体内に残っていた結石に変化が見られなかった事が判明しました。つまり結石は大きくならずその状態を維持出来ていたという事です。ただ、夢達がやってきた事の中で一体どれが良い効果を生んだのかは分かりませんでした。結石が出来る理由も様様あるので完全に把握するのは難しいのですが、維持出来ていた事は確かです。だからこそ今、搬送するまでに至ったおばあさんに何が起こっているのか分からず、夢は平静さを失っていたのです。
 午後一時半、壁の時計に目をやった夢はまたうつむき、静かにその時を待つ事にしました。
 ガラッ。夢が瞳を閉じた瞬間、救急外来の診察室の扉が開き、中からケンシが出てきました。ケンシは夢と一緒に来ていて、おばあさんの検査結果が出たので診察室に呼ばれていました。
「褥瘡が多分原因やって。結石は問題ないらしい」
「褥瘡?」
「うん。仙骨の上の。今ばあちゃんとこ行けるから行こか」
 とにかくおばあさんに会いたかった二人は、看護師と一緒に救急病棟に向かいました。
 不安な気持ちを抱えながら病棟の中に入った二人が案内されたのは、比較的状態の落ち着いた患者が入る四人部屋でした。
「おば様」
 ベッドで横になっているおばあさんの姿が二人の目に映りました。その表情は病院に来た時よりも落ち着いてはいたのですが、夢達の姿が視界に入っても、おばあさんの瞳は全く動かず反応がありませんでした。さらに夢達が声を掛けても反応は薄く、見る事や聞く事自体が出来なくなっているように感じました。その姿を見つめる二人は、おばあさんが遠くへ行ってしまいそうな、大切な人を失ってしまいそうな、そんな怖さを感じました。
 夢は手のひらをおばあさんの手のひらに重ね「ごめんなさい」と囁きました。
「夢はなんも悪くない。それに今向き合うのは自分じゃなくてばあちゃんやで」
 ケンシの真っ直ぐな言葉はいつも、夢の心に強く響きます。夢はおばあさんに力強い眼差しを向け、自分がどうあるべきかを見失わず抱き、ケンシの言葉に頷きました。
 これから始まるおばあさんの病気の治療。しかし治療というのは、健康な人間にとっては害悪になるもので、病気を治すためにそれを利用します。おばあさんの状態を悪化させた感染、その感染の原因となった褥瘡、おばあさんと夢達が向き合うべき現実はこの二つです。病気だけでなく、その治療との戦いでもあるのです。
 ケンシは担当医と話し合い、治療の方向性を定めました。おばあさんの容態も良くはないのですが今は比較的安定しています。
「取り敢えず連絡しといたから。俺と夢でみんなに報告する事にしたから」
「分かった。じゃあ私一度帰って必要な物持ってくるわ」
 ケンシが笑みを見せ「うん」と頷くと、夢はそのまま病室を後にしました。
「よし」ケンシは自分自身にそう声を掛けると、ベッドの周りのカーテンを閉めました。そして持ってきたリュックサックやレジ袋の中身を確認し、カーテンの外へ出ると、近くに居た看護師に排泄介助の道具や洗剤を借りることが出来るのか尋ねました。
「用意できたら持って来させますね」担当の看護師が病室まで持ってきてくれる事になりました。ケンシは「ありがとうございます」と礼を言うとおばあさんの所に戻り、持ってきていた日用品等を効率良く使えるようにサイドテーブルに並べてゆきました。
 数分ほどすると、おばあさんの担当をする三十代の夜勤の女性看護師が現れました。
「ここに置いておきますね」
 看護師はそう言うと、サイドテーブルの上に洗浄用のボトルと紙コップに入った洗剤を置きました。同じ場所には口腔ケア等に使う日用品が置いてあります。過去に介護の経験があるケンシは、今でも看護師のこの感覚を受け入れられないでいました。同じような状況で、個人が用意したティッシュの上に汚れた医療機器をそのまま置いたり、口腔ケアで使用する物と排泄介助で使用する物を隣同士並べて使用したりと、清潔と不清潔の感覚があやふやになっている看護師をよく見かけていたのです。仮にそれが緊急時であれば処置を優先させるのは当然で抵抗を感じる事はないのですが、常時もこの感覚であればどこまで波及するのか分かりません。この先高齢者が増えれば、看護師の仕事内容は力仕事のような介護の面が大きくなり、その分ストレスを受ける事も増えてゆきます。そのストレスが原因で、治療や容態の確認等の繊細な業務の面にも更に悪影響を及ぼすのではないかとケンシは不安を抱いていました。実際、そういった患者への対応に苛立ちを見せる看護師も少なくなかったのです。
「何か手伝う事はありますか? おむつを替える時手伝いましょうか?」
「大丈夫です、すいません」
 ケンシは病室に来た担当看護師にそう答えました。ケンシは父の時と同様、出来る事は自分でやろうと思っていたのです。しかしケンシはこの時、看護師の態度が少し変化した事に気付きました。看護師はケンシのこの対応に抵抗を感じたようでした。ただそれは今のケンシには必要のない情報で、何よりも早く摘便をしておむつの中を綺麗にしたかったのです。そうやってケンシが排泄介助を急ぐのには理由がありました。先程医師や看護師がおばあさんの褥瘡を評価し、切除するために来たのですが、その時すでに大便が出掛かっていたからです。ただ、ケンシはその時も、病院に対する不信感を大きくさせるような光景を目の当たりにしていました。
「これ何ですか?」褥瘡を診にきた医師が、出掛かっていた大便を指差しながらケンシにそう聞いたのです。ケンシは適当に話を流しましたが、医師の精神状態に疑問を感じました。そして数分後、褥瘡の処置が終わると医師や看護師は去り、日勤でおばあさんの担当をする新人の女性看護師が残りました。すると突然その女性看護師がケンシに「どうなんですかね」と話し掛けてきたのです。ケンシは一瞬、話の内容が分からなかったのですが、少し話しをすると、女性看護師は先程の医師の対応に疑問を感じ怒っていた事が分かりました。ケンシは、そう感じてくれる人が居た事に少しの安心感と嬉しさを覚え、そのままずっとピュアな心でいてほしい、そう想いました。
 夜の七時。おむつ交換の準備が出来たのでケンシは始める事にしました。血圧等のバイタルチェックは少し前に終わったのですが、まだおばあさんの体には電極が三つ付いています。コードが外れないように、ケンシはまず体と衣服を整えました。それからおむつを開いて確認すると、やはり便が出てきそうな状態のままでした。褥瘡は丁度おしりの仙骨の部分にあるので細菌が侵入しやすく、このままでは容態を悪化させてしまいます。さらに最近便秘が長引いていて心配していたので便を出せるだけ出す事にしました。
「すいません。食事時なので」
 ケンシが摘便を始めて少し経つと、担当の女性看護師がやって来てそう言いました。
 手を止めたケンシは言葉の意味を一瞬飲み込めず、少し考えました。確かに排泄介助に集中するあまり良くないタイミングで行ってしまったとケンシは思ったのですが、今の状況で放置していいのか、という疑問が頭の中に残りました。それでも今は看護師の指示に従おう、そう思ったケンシは「すいません」と謝り、排泄介助は少し時間を空けて行うことにしました。しかし、看護師の次の言葉を切っ掛けに、ケンシの疑問は看護師への疑念に変わってしまいました。
「他の人にも迷惑なので、日中だけにしてもらえますか」
「日中?」
 その言葉はケンシにとって有り得ないものでした。日中、という単語の意味さえ頭の中で何度も確認しなければいけないほど、看護師の言った言葉が理解できなかったのです。日中とは大雑把に言えば日が出ている間、つまり昼間という事になります。
「日中ってどういう事ですか?」飲み込めないケンシはそう尋ねました。
「他の患者さんがいるので」
「無理です。じゃあ個室に替えて下さい。俺はばあちゃんを優先するんで替えて下さい」
「分かりましたちょっと待って下さい」
 看護師はそう言うとカーテンを閉め、病室を出て行きました。
「すぐにお願いします」そう声を掛けたケンシは、少し冷静になろうと体の動きを止め、考える事だけに集中しました。しかし、怒りの感情が邪魔をしてしまい中中考えがまとまりません。ケンシが今の状態から動けないままそうしていると、先ほど病室を出た看護師がすぐに戻ってきました。
「個室が空いてないみたいです」
「じゃあどうするんですか?」
「排泄介助の時、呼んでくれればお手伝いします」
 そう話した看護師のこの様子では普段からこうなんだろうと感じたケンシは躊躇わずハッキリと言いました。
「あなたが居ても関係ないでしょ? 日中じゃないとあかんねやったら、今俺がやろうがあなたがやろうが一緒にやろうが一緒でしょ」
 すると、看護師の表情に少し変化が現れました。ケンシの反論は予想外だったのか、思わぬ状況になった看護師の表情は固まり、言葉が出なくなってしまいました。
 ケンシは、大体こういう時に出てくる言葉、が頭に浮かびました。
「ちょっと上の者と話してきます」
「はい」
 ケンシは看護師が言い終わる前にそう即答しました。
 看護師はまたすぐにカーテンを閉め、病室を出て行きました。
 患者にとって何の意味もない話が、看護師の上司にまで及ぶ事になりました。しかし、病院の幹部が関わる方がケンシには都合がよいのです。看護師の発した言葉がむしろ看護師自身を不利にするからです。ただケンシは、自身の立場を悪くする話を看護師自ら上司に伝えるとは思っていません。伝えたとしても自己保身に走るだろうとも思っています。
 病院の夕食の時間も過ぎたので、ケンシはおむつ交換を再開しました。

「オッケー」
 摘便が終わると洗剤で綺麗に洗い、湯で流し、さっぱりすることが出来ました。褥瘡付近を汚さずに終えたので、「我ながら」とケンシは冗談っぽく言いました。次にケンシはレジ袋に入っている新しいおむつを取り出し、綺麗に着けるためにおむつを開いてベッドの上で整え始めました。すると、担当の看護師が病室にやって来ました。
「白湯とお薬置いておきますね」
「ちょっと待って」
 白湯と薬を置いてすぐに出ようとした看護師を、ケンシはそう声を掛けて止めました。
「上の人に言っといて下さいね」
「はい。言っておきます」
 看護師はそう答えると、すぐに病室を出て行きました。
 初めから報告するつもりがないのではないか、ケンシはそう思いましたが、その事はもう二の次です。ケンシは新しいおむつをおばあさんに着けると、服を整え、姿勢を整え、排泄介助を終えました。おばあさんはこれでやっと落ち着くことが出来ます。
 そうして一段落ついたケンシはベッドの横の椅子にドカッと腰を下ろし、おばあさんの顔に目をやりました。おばあさんは目蓋を閉じて寝ているように見えました。治療を開始したからといっておばあさんの反応がすぐに良くなるわけではなく、投与してゆく薬がどう効くのか、今のおばあさんにとって効果が大きい薬はどれなのか、それらを見定めなければいけません。
 何をすれば良いのか考えていたケンシは立ち上がり、そっとベッドに腰を掛けると、おばあさんの背中を優しくさすり始めました。褥瘡から体内に侵入した細菌がそこにあり、さらに細菌はその脊髄を伝っておばあさんの脳にまで侵襲しています。その現状を知ったケンシは、耳や目が人を認識出来なくてもこの手の温もりを感じて自分が側に居ると分かるように、背中をさする手の存在におばあさんの意識が集中して体の中の力が背中に集まり薬と共に頑張ってくれるように、良くなるまで待つしかない自分が今出来る精一杯の事だと悔しさを感じながら背中をさすっています。
「頑張れ頑張れ、大丈夫大丈夫、薬が効いとうからな。頑張れ頑張れ、大丈夫大丈夫」
 ケンシは何度も何度もそう言葉を掛けながら、おばあさんの背中をさすり続けました。

 その後、担当の看護師は上司へ報告したそうです。結果ケンシは明日の朝、看護師の報告を受けた上司と話が出来る事になりました。ただ、どれだけ意味のある話し合いになるのかケンシには分かりませんでした。相手の意見を先入観で解釈し、正しいのは自分達という前提を持った医療従事者が多数いるからです。しかしそれも仕方がないのかもしれません。医学部を卒業し医者になる者、専門の教育を受けて国家試験に合格し看護師になる者、皆そういった経緯があるからこそ身内の事は絶対的に信頼出来ると過信してしまうのも無理はありません。ケンシは今後の事も考え状況を緩和させようかとも思ったのですが、やはり間違いは間違いなのです。担当の看護師の虐待行為は報告しなければいけないのです。

 就寝したおばあさんと椅子に座り一息つくケンシ、時計の針は夜中の十一時を指しています。病室全体も消灯しているので、ベッドの周りをカーテンで閉じると中は薄暗くなり、とても静かな空間に変わりました。そんな中、一日の用事を大体終えたケンシは頭と手足に溜まった疲労を取りながらおばあさんの顔を見つめていました。
「待って下さい。トイレですか? ナースコール押して下さいね」
 そんな静かな空間の中、おばあさんの担当の看護師の声が聞こえました。ケンシからはカーテンで見えないのですが、トイレに行こうとしているのは隣のベッドの男性患者のようでした。ケンシが見た感じ、その男性の年齢は六十代後半ぐらいでした。「同じ部屋やから担当も一緒か。トイレの介助が必要なんかな」頭を休ませていたケンシは特に何も考えないままそう思い、またおばあさんに視線を戻しました。
 そして少しすると、また静かな時間が流れ始めました。ケンシは明日の朝の事を考え、少し眠ることにしました。しかし、目蓋を閉じると眼球がジンと熱くなり、その痛みで眠れるような気がしませんでした。それでも体を休めないと万全な状態でおばあさんのケアをする事が出来ません。ケンシは閉じた目蓋に力を入れ、体が落ち着くのを待ちました。
「またですか? さっき行ったばっかりですよね?」
 嫌でもケンシの耳に入ってくる担当の女性看護師の声、そして相手は同じ男性患者でした。それは病室内の会話なのですが、部屋の一面は完全に解放された形だけの部屋なので看護師の声は病棟内に響いてしまうのです。このような環境の中でも看護師はハッキリとした声で話しているので、会話の内容はこの場所にとって日常的なものなのかもしれません。しかし、その看護師の発した言葉は患者に掛けるような言葉ではありません。もしこれで男性が畏縮してしまい、トイレに行けなくなったら大変な問題なのです。ただ、その男性患者の言葉数は少なかったのですが、畏縮したような感じはありませんでした。いつの間にか二人の声は聞こえなくなり、微かな緊張感だけが残りました。
 眠気を感じ始めたケンシは気持ちが落ち着いたからなのか、同時に体の疲れも現れ始めました。たった今耳にした事は、担当の看護師の性質を再確認したという事にとどめ、取り敢えずは体を休めることにしました。
 それから二十分ほど経つと、病室全体はまた静かな空間に戻りました。
 今日の事、明日の事、これからの事、ケンシは目蓋を閉じながら頭の中で少しずつ整理をし、そうやって時間が過ぎて行くうちに力が抜けた頭や体が重く感じ始め、ほとんど眠りに入る状態になりました。
「また? いい加減にして下さいよ。三十分で三回ですよ? 何回行くんですか」
 また同じ看護師でした。しかし、ここまでの言葉は聞いた事がありません。他の患者や看護師に聞かれても問題ないと考えているのか、この場所はまるでこの女性看護師の支配下に置かれているかのような、そんな空気感が漂っていました。ただその看護師は患者だけでなく他の看護師に対しても高圧的な空気を出していたので、この女性の性質なのかもしれません。
 何度も眠気を掻き乱され疲れ出していたケンシは、いつの間にか眠りの中に入っていました。

 閉じたカーテンの外で立つケンシの前に、六十代の二人の女性が現れました。
 今は朝の八時です。
 その二人の女性のことを、過去に関わった事がある夢であれば知っていました。しかしケンシは初見なので、どういう位置に居る人達なのか分かりません。事前に聞いた話から考えると、師長かその上の役職の看護師のようです。三人の会話は互いの簡単な挨拶から始まり、介護の事、そして昨晩の事に話は変わって行きました。
「でも看護師は考えがあっての事やと思うからねぇ」
 女性二人は和やかな笑顔でそう話しました。真剣にケンシの話を聞きに来たわけではないのか、二人は日常的なクレームを扱う様な対応をしました。ケンシは対立する形は避けようと考えていたので、ハッキリと言う事にしました。
「便が出てる状態で褥瘡に影響出たら危険やし、おむつだって不衛生で替えなあかんし。そもそも治しに来とんのに悪化する原因作って良いわけないですよね」
 感情論ではない話をケンシから聞かされたからか、二人の様子に緊張感が現れたように見えたのですが、まだ返答せず笑顔を維持していたのでケンシはそのまま続けました。
「日中って事は朝まで待つんですか? 生理的なものを我慢させるのは虐待ですからね」
 二人の女性は笑顔のまま、というよりもそのまま固まってしまいました。まるでドラマでも見ているかのような固まりっぷりです。無理もありません。虐待を指摘され、その事が外に広まっては困るからです。そして二人の対応はここで切り替わりました。
「取り敢えず看護師と話してみますね」
 一人の看護師がそう言うと、二人はどこかに行ってしまいました。二人は話をすると言っていたのですが、その担当の女性看護師は今朝方退勤したのでいつになるかは分かりません。この話を二人がどう受け取ったのかさえも、ケンシには深く掴めませんでした。
 話が終わりケンシがベッドに戻ると、おばあさんは眠っているように目蓋を閉じていました。とにかく今はゆっくりと休んで良くなってほしい、おばあさんと夢達がここに来たのはそれだけなのです。ケンシは昨日と同じようにベッドに腰を掛け、優しく背中をさすり始めました。
「おかしいのよ」
 突然カーテンの向こうから、年配の女性の声が聞こえました。ベッドの周りをカーテンで閉じているので女性の姿は見えないのですが、隣のベッドの方から聞こえてくるその声には、冷静な言葉を使いながらも怒りが込められていました。ケンシはおばあさんの背中を摩りながら「昨日の事やな」と呟きました。ケンシの言う通り、年配の女性は昨夜の事についての苦情を引き継いだ日勤の看護師に訴えていたのです。そもそも苦情があるという事は、昨夜の看護師の対応は明確な意味のある医師の指示でも何でもなく、看護師自らの判断であの発言をしていたという事になります。だからなのか、今対応している看護師は謝る事しか出来ませんでした。
 ケンシは思いました。やはりあの女性看護師は医療の現場や介護の現場には向いていないと。ただ、このような事が出来てしまう看護師は、少なくありません。医療従事者は患者や家族に対して、時に発言しづらくなるような空気を出す事があります。場合によってはそれを利用し、医療従事者自身の間違いをごまかす時もあるのです。

「ケンシさん」
 閉じているカーテンの隙間から、夢の笑顔がそっと出て来ました。
 救急病棟に来てから二週間が過ぎました。
 入院生活については夢とケンシで話し合い、朝から夕方までは夢が、夕方から朝まではケンシがおばあさんの側に居る事になりました。そんな生活の中、最初に投与した薬が合っていたようでおばあさんの容態は少しずつ良くなって行きました。感染の原因だった褥瘡の状態や血液検査の数値も安定しています。
「おば様、ただいま」
 夢はおばあさんに笑顔を向け、手に持っていたレジ袋をサイドテーブルに置きました。おばあさんは夢の顔が視界に入ると目で追ってくれるようになり、反応も良好です。
「おむつまだある?」
 ケンシが夢の持って来た荷物に視線を向けながらそう聞きました。
「うん。後お弁当も持って来たわ」
「夢が作ったん?」
 夢は笑顔のまま「ううん」と首を横に振ると、持ってきたレジ袋の中からガサガサともう一つのレジ袋を取り出しました。黒く角張った箱のような物がレジ袋から透けて見えました。
「オッカさんが持って行けって。牛スタミナ弁当だって」
 夢はそう言うと、レジ袋から取り出した弁当箱をケンシに差し出しました。
「オッカ? 何で? 今日店行くのに」
「今日来る日だって事忘れてたんだって。どうせだから朝食いな」
 夢が最後にオッカの物真似を足してそう言うと、ケンシはあきれたような笑みを夢に向けながら弁当を受け取りました。
「ばあちゃんほら、オッカが作ってくれた弁当、って何これ?」
 ケンシがおばあさんの目の前で弁当箱を開けると、牛肉のぎっしり詰まった焼肉弁当が現れました。
「あとコンビニのお握りも貰っていたの」
 夢はそう言いながらお握りの入ったレジ袋をケンシに差し出しました。ケンシは「ありがとう」と言いながらレジ袋を受け取ると、中を確認し、弁当箱も一緒にレジ袋に入れました。
「外はどう? 寒い?」窓の外に目をやったケンシがそう聞きました。
「半袖だと少し寒いかもしれないわ。お昼はちょっと温かいけどね」
 夢が自分のTシャツの袖を引っ張りながらそう言うと、「そっか」と呟いたケンシは財布や携帯電話等をレジ袋に入れ、病院を出る用意を始めました。少し短めの夏が終わり、その日の服装選びが難しくなる季節がやってきました。しかしケンシの服装は夢以上に変化がなく、いつの季節でもどんな気温でも同じです。ただ、さすがに冬は寒いので薄いパーカーを羽織り風を防ぎます。ケンシのこの習慣は昔出来たもので、いつも七分丈のカーゴパンツを穿くのは、動きやすさと床を擦らない短い裾が衛生的だからです。さらに半袖を着ていることが多いのも、長袖だと袖口が介護をするのに邪魔で不衛生だと感じたからです。
「じゃ、ばあちゃん夢、行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
 ケンシはいつものようにそう挨拶をし、小走りで救急病棟を後にしました。この病院からクイナの町までは、電車の乗り換えを挟んで五十分ほどで着きます。無駄な時間を使いたくないケンシは電車以外の移動ではいつも自然と小走りになっています。ケンシは病院を出ると駅へ通じる長い陸橋を急ぎました。乗車する駅のホームは陸橋の一つ上の階にあり、線路が敷かれた高架橋の輪郭にはまだ電車の頭が現れてはいなかったので十分間に合いそうです。そうやって余裕を持って乗車できたケンシはドアの横に立ち、電車の中でさえも無駄な時間を使いたくないとレジ袋に入れた音楽の専門書を開きました。ケンシは介護だけでなく、僅かでも時間が出来ればこうやって自分の事も行っているのです。
 ゴト、ゴト、ゴト、ゴト、ゴト。電車のリズムが心地よく響いてきました。車窓には海と、その海を埋め立てて造られた巨大な工場があり、その一面を指す太陽の光が反射しケンシの瞳をキラキラと輝かせました。この時間帯に電車に乗ると、大学の最寄りになる駅以外は人の乗り降りが少ないので、ケンシはゆったりと本を読むことが出来ます。そうやって十五分ほど電車に揺られていると終着駅に着きました。さらに別の電車に乗り換えるため、ケンシは地下街を通って近くの駅まで小走りに向かいました。この区間は人が多いのですが、人混みに慣れているケンシは縫うように通り抜けて行きます。地下の駅の改札口を通ると長い下りのエスカレーターがあり、そこからさらに地下のホームへと向かって行きました。ホームに着くといつもの場所へと移動して、またすぐに本を開きます。ケンシは電車が到着するまで本を読み、乗車しても座って本を読み、限られた時間を大切に使っているのです。
 クイナの町に着いたケンシは自転車に乗り、その足で魚屋へ向かいました。そこで数時間ほど仕事をし、終えるとケンジの家で風呂に入り、またすぐに病院へと向かいます。まるで全力疾走するかのように隙間なく集中しているケンシなのですが、この密に流れる一日一日は、何よりケンシに生き甲斐を与えていました。大切な人のために自分はまだ何かすることが出来る、それが嬉しくて堪らないのです。
「そっか! 分かったオッカにも言っとく!」
 昨日と同じように魚屋へ向かう途中、病院に居る夢から電話がありました。数日置きに行われていた血液検査から判断し、おばあさんは七階にある神経内科の一般病棟へ移る事になりました。ただし、その病棟に移ったからといって治療が終わるわけでもなく、引き続き点滴での治療は行われます。突然薬の効果が現れなくなる可能性も残っているので、予断を許さない状況なのは今も変わっていないのです。

 一般病棟に移ってから一か月、季節と共に街の雰囲気も少し変わりました。クイナの町と病院を行ったり来たりしているケンシは街行く人達を見るたびに、自分だけ夏に取り残されているのでは、と感じてしまうのです。
 ゴトッ。
「うわ、しまった」
 ケンシは床に落とした携帯電話を拾うと、すぐにおばあさんの顔に目をやりました。おばあさんは目蓋を閉じたまま、口元をモゴモゴと動かしていました。携帯電話の落下音には少し反応していたのですが、しばらくするとまた眠り始めました。ケンシはおばあさんが眠ったのを確認すると、サイドテーブルにあるティッシュを一枚取りました。ワゴンに置かれた手指用のアルコール消毒液をティッシュに付け、落とした携帯電話を拭き始めました。
「ん?」
 手元に違和感を感じたケンシは拭くのを止め、常夜灯の下で携帯電話の縁を凝視しました。すると携帯電話は落とした衝撃で本体の表と裏が外れ、縁が少し浮いていました。
「うそやろ」
 そう呟いたケンシはパイプ椅子にズシンと腰を下すと、自分のミスにうなだれてしまいました。ケンシはいつも夜中になると、おばあさんの様子を見ながら寝たり起きたりしているので、起きている間の時間を使ってニュースサイトを見たりしているのですが、時間帯のせいもあって気が付いたら眠ってしまい携帯電話を落としてしまうといった事を繰り返していました。これ以上自分を責めても虚しくなるだけだと諦めたケンシは、明日の朝修理に持って行く事だけを頭に残し、考えることを止めました。
 しばらく宙を見つめていたケンシは時間を確認し、寝ているおばあさんに目をやりました。今の所は吸引は必要なさそうです。そしてケンシはテレビが設置されている床頭台の引き出しを開けて財布を取り出すと、おばあさんが起きないようにソッと部屋を出ました。
 お金、というものに価値を感じていないケンシは生活費以外のほとんどを介護にあてています。重度の介護に掛かる消耗品やQOLの向上に使う物品等の費用は助成だけでは足りないという理由もあるのですが、ケンシ自身の価値観が何の迷いも生まなかったのです。ただそんなケンシでも、贅沢をする時はあります。一日の介護に一段落がついたこの瞬間こそがそうなのです。ケンシはその贅沢の準備のため、一階のコンビニへと向かいました。大規模な病院であればコンビニや売店が併設されている場合が多いのですが、ケンシはその風景に慣れていないせいか病院のコンビニが目に入るといつも不思議な感覚に包まれます。
「フフ、あった」
 そう喜びを零しケンシが手に取ったのはカップに入った杏仁豆腐でした。甘いものが好きなケンシは、一日一個、百円前後、というルールで好きなものを選んで食べる、これだけで心が満たされるのです。例えばこれがアイスだったりお菓子だったりプリンだったりドーナツだったりするのですが、ケンシは一度その商品を気に入ると長期間に渡って毎日同じものだけを選んだりもします。あとは明日の朝食にするパンやお握りを同じ様に一つ百円前後の縛りを付けて買います。最近は米を食べる方が良いのではと考え、お握りを選択するようにしています。飲み物は百円のパックのお茶とジュースを一つずつ買います。それだけではなくケンシは自分自身の栄養状態も心配なので、食事の他にはマルチビタミン、ミネラル、DHA、EPA、カルシウム、タンパク質を確保するためのプロテインを毎日摂取しています。おかげで直近の血液検査では基準範囲を外れる数値は一つもありませんでした。
 買い物を終えて部屋に戻ったケンシは、まず最初におばあさんの状態を確認しました。人工呼吸器のディスプレイにエラーのメッセージは表示されていませんでした。
「替えてみるか」
 ケンシは人工呼吸器を見つめながらそうつぶやきました。夢達は在宅医療の医師から人工呼吸器を変更してみてはどうかとアドバイスを受けていました。今の機種は稼働中の音が大きく、就寝時に気になってしまう人が多いそうです。内蔵バッテリーに関しても、例えば停電になった時は最大で約一時間稼働するのですが、新しく教えてもらった機種は最大で約六時間稼働する事が出来ます。電気によって生命を維持している人にとってこの停電という事態はとても怖いものなのです。さらに災害等で避難する事になれば電気の問題だけでなく、入院以上に身体や精神への負担も大きくなります。そんな何もかもが十分ではない場所での生活の中で、最大稼働時間が一時間という制限は過酷なものがあるのです。
 ケンシは携帯電話を取り出して、メールアプリを起動させました。
「あ、そうか」
 今が夜中だということをケンシは忘れていました。緊急でもないので、人工呼吸器については明日の朝、夢に直接伝えることにしました。
 ケンシは買ってきた物を床頭台に並べ、その中にある杏仁豆腐を手に取るとパイプ椅子にギシッと座り、両足をおばあさんのベッドの足元にゆっくりと乗せました。長期間横にならずに立つか座るかしていると足に相当な負担が掛かるので、ケンシはそうならないよう出来るだけ足を上げて座るようにしています。入院当初それを知った看護師が気を使って簡易ベッドをケンシに薦めてくれたのですが、「ありがとうございます」と丁寧に断りました。気遣いは嬉しかったのですが、ケンシは一度横になってしまうと深く眠ってしまい、自力では刻むように起きれなくなってしまうからです。一、二時間ごとに起きたいケンシには寧ろ悪い姿勢の方が起きやすいのです。
 杏仁豆腐の舌触りや鼻へ抜ける香りを楽しみながら一口、二口、と食べていたケンシは、おばあさんが目を覚ましている事に気が付きました。おばあさんは息をするように口をパクパクと動かしていました。ケンシは座ったまま手を伸ばすと、おばあさんのカニューレから約十三セント下の胸の真ん中辺りにそっと触れ、人工呼吸器の呼吸に合わせて胸の真ん中辺りをほんの少しの力で優しく押しました。すると人工呼吸器はそのほんの微かな動きに反応しておばあさんの呼吸を一回サポートしました。ケンシはその方法でゆっくり呼吸のスピードを上げてゆき、おばあさんの口の動きのリズムに合わせました。一分間に十回というのは人工呼吸器だけで行われる設定上の呼吸回数で、おばあさんの場合起床時は自発呼吸があるので一分間に十五回から十八回ありました。病気になり体力が落ちているおばあさんは自発呼吸の力も弱ってしまい、反応できない人工呼吸器はサポートしなくなっていました。今まで自発呼吸に反応してサポートしていた人工呼吸器が空気を送らなくなっていたので、自分の思うように呼吸が出来ないという恐怖が現れてしまうのです。そんなおばあさんの恐怖を無くすためにケンシはこの方法を取っているのですが、もしかすると、おばあさんは人工呼吸器が自分に繋がっているという事が分からなくなってしまったのかもしれません。しかし、今はそれを確かめる方法はありません。
 少しすると呼吸と人工呼吸器が同期し、次第におばあさんは落ち着いて行きました。そのままおばあさんは目蓋を閉じて眠り始めました。呼吸の間隔が短過ぎるのも危険なので、落ち着いて行くおばあさんの様子を見ながらケンシはゆっくりと元の穏やかな間隔に戻して行きました。人工呼吸器があるので必要の無い行為に見えるのですが、そうしなければ呼吸をしようとおばあさんは必死に口を動かすので、その勢いのまま自分自身の歯で唇や舌や頬の内側を噛み潰してしまうのです。それほど呼吸が出来ないという恐怖は、一瞬にして心を握り潰してしまうものなのです。

 神経内科の病棟に移ってから三か月が経ちました。この季節になると、ほんの少し降った雪がクイナを包み、まるでクリスマスツリーのように町は彩られます。子供達は良い子になった振りをして大人達に圧力を掛けプレゼントをもらい、恋人ができた勝者と振られた傷者が急増します。
「あ、そうか、今日か」
 夕方の五時、病院に行くため電車に乗り込んだケンシが今日はクリスマスだったという事に気付きました。今日の様にイベントのある日にだけ混むこの電車の今の男女比は約半半で、空気に例えると手をつなぐ恋人が窒素で約八割、手をつなぐ夫婦が酸素で約二割、なのでケンシは空気全体の約百万分の一パーセントあるキセノンになります。キセノンの語源は、変わった、なじみにくい、だそうで、小惑星探査機はやぶさに搭載されたイオンエンジンの燃料でもあります。そんな車内にアナウンスが流れると、乗客はドア付近に集まりだしました。途中の駅で降りたのはほんの数人で、ほとんどの客の目的地は次の終着駅でした。電車のドアが開くと乗客はゾロゾロと出口に向かい歩き出しました。乗客に続いて電車から降りたケンシが長いエスカレーターを上って改札口を出ると、そこには沢山の人が溢れていました。その多くの人達は改札口を出て地上に向かい、この街で開催しているイベントに参加します。人の多さが物語るようにそのイベントも大規模で、開催される切っ掛けとなったのは数十年前にこの街で発生したとても大きな地震です。犠牲となり遠くへ旅立った人や見送る人、その一人一人の色んな想いが集まり毎年開催されています。その中でもメインとなるのは一区間の道に連なるイルミネーションで、光の回廊とも呼ばれるアーチはどこか不思議な世界へ続いているような、時を越え、もう戻れない頃へ続いているような、そんな気持ちにさせてくれます。このイベントにはケンシも子供の頃に家族と一緒に参加した事があるのですが、家族や他の人達が頭上に彩られた綺麗な光の芸術に瞳を輝かせる中、ケンシはずっと足元を見つめていました。「お金落ちてないかな」ケンシはそんな事ばかり考えていました。ただケンシは、あまりにも下ばかり見ていたので途中で家族とはぐれそうになり父親に怒られました。ケンシはその時の光景を今でも鮮明に覚えています。ただこのイベントには、子供の頃のケンシが知らなかった、もしかすると一生知る事が出来なかったかもしれない特別な日があります。このイベントはクリスマス前の二週間に渡って行われ、開催期間中は沢山の人で混雑するので、例えば障害者やその家族は周りの人を気にしてしまい、こういったイベントには消極的になってしまいます。そんな人達を想ったある一つの会社が協賛し、行われる特別な企画が開催二日前にあります。それは、障害者のために行われるイルミネーションの点灯式です。障害を持った方方にゆっくりとイルミネーションを見てもらいたい、そんな温かい想いから生まれた特別な一日で、この企画に協賛する一つの会社のボランティアを中心に開催されています。色んな事を諦めてきた障害者にとって、とても素敵な一日になるのです。その一日の存在を知ったケンシもいつかおばあさんと参加したいと思っています。ただ、混雑を避けるため出来るだけ最小人数で行く事になります。おばあさんに付き添ってもらうのは夢しかいないとケンシは心に決めているのです。
 改札口から出たケンシは、そのまま地下を通り抜けて次の駅まで向かいました。両手のレジ袋をシャカシャカと鳴らしながらケンシが小走りに急ぐ地下の道は、洋服店や百貨店の入り口、携帯電話の販売店や書店、化粧品店や飲食店や雑貨店等、沢山の店で賑わっていて、クリスマスに合わせた赤と白の装飾が期待感を膨らませます。そんな季節に合わせた明るい道を沢山のカップルが歩いていて、そのほとんどの人が同じ場所に向かっているのでケンシとはすれ違って行きます。外はもう寒いので、薄いパーカのジャケットに七分丈のカーゴパンツ姿のケンシと違い、道行く人は冬のカップルらしい服装を着こなしていました。そしてカップルの手にはバッグやブランドの紙袋やお互いの手、すれ違うケンシの手には弁当や飲み物やティッシュ箱やおしり拭きやおむつが入ったレジ袋。破れても中身が落ちないようにレジ袋は二重にしているのですが、今は外側の袋が破れています。ついさっき駅のホームの長いエスカレーターを二段飛ばしで上っている時、サンダルが脱げてカップル達の目の前で盛大に足を踏み外したからです。でもその時ケンシは不思議とレジ袋や中身だけが心配になり、恥ずかしさはありませんでした。そのまま小走りで地下の道を進んでいたケンシは、クリスマス真っ只中の周りの人と今の自分のギャップにふと気付き、少し吹き出しそうになりました。
「でも悪くないな。俺のこの人生」
 そう想えたケンシは今、とても幸せな気持ちになっていました。「つーかこれって俺主人公やんけ」他の人とは違うという主人公にありがちな設定に自分が当てはまる、そんな妄想も頭に浮かびつつ、ケンシは小走りに地下の道を進んで行きました。(「エスカレーター上では走っても歩いてもダメなのは常識です」とケンシが夢に怒られたのは少し後の話です)

「おば様、冷たくないかしら?」
 夢は心配そうにおばあさんを見つめながらそう話し掛けました。おばあさんは少し熱があったので、看護師が持ってきてくれた氷枕を使っています。
「失礼します」カーテンの向こうから女性の声が聞こえると、担当の看護師が病室に入ってきました。看護師は保温バッグを持っていて、開いたカーテンを閉じながら「体を拭くの今大丈夫ですか?」と夢に尋ねました。保温バッグにはビニール袋に個包装された清拭用の蒸しタオルが五、六個入っていて、おばあさんの体を清拭するために使います。
「はい、大丈夫です」
 夢は頷きながらそう答えると、おばあさんと目を合わせて「体綺麗にしましょ」と笑顔で声を掛け、おばあさんの腹部に掛けていた毛布を足元までめくりました。看護師は保冷バッグをベッドの上に置き、中からタオルを取り出すと、熱そうにしながらビニール袋を破って中のタオルを取り出しました。
「拭きますねミロクさん」
 看護師はそう声を掛けると、おばあさんの顔を丁寧に拭き始めました。夢も続いてバッグからタオルを取り出すと、看護師と一緒におばあさんの清拭を始めました。少し熱めの蒸しタオルでさっぱりできて気持ち良かったのか、おばあさんの表情は和らいでゆきました。次は上半身を清拭するためおばあさんの腕から患者衣の袖を脱がせました。衣服や体の構造上、拭きづらい場所は発汗しやすい場所なので、優しく丁寧に拭いて行きました。背中を拭くタイミングになると、夢はおばあさんの頭を持ち上げて髪の毛を後ろに流し、氷枕の口金(枕から氷が出ないように挟んで止める金具)から顔を離すと、両手でしっかり頭と首を支えました。背中を拭く時はおばあさんの体を横に向けるからです。
 おばあさんのように寝たきりで人工呼吸器を使っている場合、体位変換の際は管が抜けてしまわないように回路を持ちながら体を横向きにします。ただ、ほとんどの看護師は回路の心配はするのですが首から上には配慮をしません。健常な人や筋力がある人であれば背中を押しながら体を横に向けられたとしても、枕から自分の頭が落ちないよう耐えることが出来るのですが、おばあさんの様に病気や筋力が弱ってしまった人には不可能なのです。その上、寝たきりの人は常に枕の上に頭があり、日常生活で首を動かしたりストレッチをしているわけではないので誰かが動かさない限り首は固定され続けます。その固定された状態から頭を投げ出されると当然首を痛めます。それは健常者の人でも同じ事で、数時間就寝したあと自分の意思とは関係なく頭を強く捻られればそうなります。寝違えてしまうとその痛みは数日続く事もあり、さらにおばあさんのようにその痛みを伝える事が出来なければ、首を痛めた事に気付かれないまま何度も体位変換を行われ、身体的にも精神的にも苦痛になってしまうのです。
 ただ、看護師の配慮が足りなかったせいで起こりそうになった危険な事は他にもありました。体位変換をする際、夢が氷枕の口金からおばあさんの顔を離したのは、そういった感覚で行ってきた看護師の危険なミスがあったからです。それは、以前の入院中の事でした。その日は今日と同じように少し熱があったので、おばあさんは氷枕を使っていました。同時におむつの交換も必要になったので二人の女性の看護師が排泄介助を行うことになりました。この時の夢は今と違い、入院中に自分達が行えるケアは限られていると思っていたので、排泄介助は看護師が行い、夢はそれを見ているか、外で待つように言われそうしていました。この時は女性看護師が二人で介助を行い、夢は側で見ていました。それから数分後、看護師二人は排泄介助を終え、新しいオムツに替えるため仰向けになっているおばあさんの体を横に向け始めました。しかし、看護師二人はおばあさんの頭の位置を見ることもせず、勢いよく体を横に向けたので、おばあさんの頭は氷枕の上を転がり、氷枕に付いた金具である口金に顔が向かって行きました。
「危ない!」
 そう声を上げた夢は勢いよく口金に向かうおばあさんの顔を止めました。間一髪でした。偶然にも夢が側に居たので助かったのですが、その金具の突き出た先端とおばあさんの眼球の間には一センチの隙間もありませんでした。反射的に手を伸ばした夢は一瞬頭が真っ白になり、その状況を認識した瞬間ゾッとしました。もちろんおばあさんには、流れる視線の先に金具が現れると分かるはずもなく、強い勢いで体を横に向けられ驚いてしまったおばあさんの目は見開いていました。もしこの瞬間に夢が居なければ、あの強い勢いのままおばあさんの眼球は金具にぶつかり、そのまま擦れ合っている事に気付かれることもなく介助は行われ、頭は揺らされ続けていたでしょう。しかしその看護師二人は、夢の「危ない」という声に反応し、夢が支えるおばあさんの顔に視線を向けたのですが、何も言わず、そのまま手元に視線を戻しておむつの交換を再開しました。
 この一連の行動で、夢は看護師に対する信頼を完全に無くしたのです。
 しかしこういった事があったのは、この日だけとは限りません。
 まだおばあさんが人工呼吸器を使う前、尿路結石が出来て入院した時の事です。救急車で病院に搬送された後、救急病棟の個室に入院し治療を行うことになりました。一緒に居たオッカには先に帰ってもらい、夢はおばあさんの病室で待機することにしました。少しすると、新人の様な女性の看護師が病室に入ってきました。看護師は病室にある機器をチェックして回り、持っていた用紙に機器の数値などを記入し始めました。そんな静かな状況の中、ふとベッドに目を向けた夢は、おばあさんが視線で何かを訴えている事に気付きました。慌てて夢が酸素飽和度を確認すると、その数値は少しずつ下がっていたのです。酸素飽和度はパーセンテージで表すのですが、九十六パーセント以上が標準だとされているこの数値が下がっているという事は、充分な呼吸が出来ていない、おばあさんの体にある酸素量が必要な量に達していないという事になります。
「すいません。吸引しても良いですか?」
 吸引器の方へ向かおうと前傾になっていた夢は、早い口調で看護師にそう尋ねました。 機器を見ていた看護師は振り返り、酸素飽和度の数値やおばあさんの顔を確認すると、「すいません。先生に聞かないと分からないので」と言いました。看護師はそれだけを言うとまた手元に視線を戻し、作業の続きを始めたのです。まさか断られるとは思っていなかった夢はこの時、病院に対する疑心と焦りを抱きました。当然、何も出来ないのですからおばあさんの酸素飽和度の下降は止まりません。おばあさんの目はより大きく開き、訴える表情に恐怖と焦りが現れ始めました。この状況を見れば、喉に痰か唾液が詰まっていて明らかに吸引が必要だと分かります。吸引をするのに医師に聞かなければいけない、その理由も夢には分かりません。もういい、そう思った夢が吸引機の方に向かった瞬間、酸素飽和度の数値は急激に下がりだし、六十パーセント台になってしまいました。おばあさんの黒目が眼球の裏に、少しずつ上がって行きました。
「吸引しますよ!」
 そう声を上げた夢は、すぐにベッドの横の吸引器に手を伸ばしました。
「ですよね! 先生呼んできます!」
 慌てたような声を上げた看護師は走って部屋を出て行き、時間を空けず、すぐさま数人の医師や看護師が病室に駆け込んできました。夢は邪魔にならないようにと病室の端に寄りました。
「吸引やね!」
 男性医師はそう声を掛けると、すぐさま吸引を始めました。ズズズズズ、大きな音と共に大量の痰や唾液がカテーテルの中を流れて行き、喉の奥に詰まっていたものが取れて気道の閉塞が解消されると、酸素飽和度は一気に正常値まで回復しました。危険な状態を脱し、恐怖した感覚を残しながらも安心できた夢は、ベッドを取り囲む人達の背中越しに見えるおばあさんの顔を見つめ、自然と涙が込み上げてきました。ただ夢は同時に、適切な対処が出来なかった看護師そのものに対して疑念を抱きました。そしてその疑念は、この事があった数時間前、搬送された時に生まれた疑念と繋がり深まって行きました。
 数時間前、救急車で病院に搬送されたおばあさんは医師の指示により救急病棟に入院することになりました。ストレッチャーに乗ったおばあさんと夢が担当の女性看護師に付いて救急病棟の個室に入ると、入院に使うベッドがすでに用意されていました。そこには補助に来た四十代前半の女性看護師もいて、夢は看護師二人と一緒に用意されていたベッドにおばあさんを移しました。そのまま三人はおばあさんの着替えを始めたのですが、その時、補助に来ていた女性看護師が夢に疑念を抱かせるような行動を起こしたのです。夢と看護師二人はおばあさんに病院の患者衣を着せ、服装の乱れや姿勢を整えていました。すると突然、夢の後方にあった人工呼吸器のアラームの音が鳴り始めたのです。すぐさま四十代の女性看護師はアラームの消音ボタンを押し、何事も無かったかのように元の場所に戻ると、再びおばあさんの服装を整え始めました。その時夢はふと思ったのです。何故アラームが鳴ったのか、と。夢の持つ先入観が「今対応をしたのは看護師で、何かあれば気付いているはず」そう思わせようとしたのですが、違和感を覚えました。
 普段鳴らないアラームだからこそ何かが有ったのではないか。
 そう考えた夢が手を止めた瞬間、スーッスーッスーッと空気の擦れる音が、おばあさん以外に意識を向けた夢の耳に伝わってきました。不意に心臓をグッと握り締められたような焦りを感じた夢は、すぐさまおばあさんの顔に目をやりました。先程まで落ち着いた様子だったおばあさんは、強張った表情で何かを訴えていました。呼吸に何か問題が起きたのではないかと慌てた夢はおばあさんの喉に目をやったのですが、気管カニューレと回路に異常は無く、空気が漏れている形跡もありません。しかし空気の擦れる音はまだ聞こえています。すぐさま夢は背後に目をやり、長い回路を漏らさず一気に目で追って行き、最後に加温加湿器が視界に入った瞬間、足元から恐怖を感じました。繋がっているはずの回路が加温加湿器から完全に外れてしまっていたのです。夢は急いで回路をつなげ、おばあさんの胸の真ん中辺りを慌てながらも優しく押し、素早く呼吸を再開させました。驚く事に夢の耳に入ってきていた空気の擦れる音とは、回路から漏れた空気の音だったのです。つまり、あの時看護師は異常状態が解消されていないにも関わらず消音ボタンを押したという事になるのです。当然その対応が正しかったはずもなく、夢が看護師に対して疑念を抱くのも必然だったのです。
 まず、人工呼吸器に関する薬事法の中に、こういった決まりがあります。
 一。呼吸回路が外れた場合には、音声による警報を発すること。
 二。呼吸回路が外れた場合に発せられる音声による警報を一時的に消音し、かつ、当該警報の消音時から二分以内に自動的に当該警報を発する機能を有すること。
 三。呼吸回路が外れた場合に発せられる音声による警報は、一時的に消音する場合を除き、消音することができないこと。
 つまり、人工呼吸器の回路が外れて鳴り出したアラーム音を、一時的に消音させるとしても、消音した後二分以内には再びアラームが鳴るように定められているという事です。さらに特別な例を除き、その機能が無い物については、販売、製造、輸入等は禁止されています。おばあさんの使う人工呼吸器は、この基準に適合していなければいけません。
 この基準から分かる事は二つです。
 看護師は消音ボタンを押しました。最悪の場合、おばあさんは二分間呼吸が出来なくなるという事、また、何故アラームが鳴ったのかは人工呼吸器のディスプレイに表示されるのですが、それを見ずに消音ボタンを押したという事です。では再びアラームが鳴った時、看護師は一体どうしたのか。夢は以前から、患者以外の人はアラーム音に対して、イソップ寓話にある狼少年の話のようになりやすいのではないかと警戒していました。しかし、まさに医療の現場にいる看護師がそうでは困るのです。何故、そんな必要の無い苦痛と危険性を患者が負わなければいけないのか。このような行動は病原体と同じで、その危険分子が持ついい加減さや意識の低さや慣れは医療現場で伝染し、広がり、いつしか体の弱った患者に向かって行くのです。緊張の糸が緩んだ現場、さらに、医療を行う存在が人である以上、過重な業務、倦怠感、ストレス、私情、自分への過大評価や言い訳、そんな人の弱さが現れてしまいます。
 おばあさんは呼吸が再開出来ると、ゆっくりと落ち着きを取り戻して行きました。安心した夢は「ごめんね、おば様」と囁くように言葉を掛けると、顔を上げ、いつの間にか思考よりも先に声が出ていました。
「ちゃんとアラーム確認してから音消して下さいね」
 夢がそう注意をすると、アラームの音を消した四十代の看護師は返事をしました。
「はぁーい」
 夢に視線を向ける事もしなかった看護師のその返事はまるで、クラスの明るい女子が授業中の私語を先生に注意された時のように、陽気で声が高く、楽しげで、しかしこの状況では想像もつかないほど命を軽視したとても非礼な言葉遣いでした。手元を見つめたまま固まってしまったもう一人の看護師の表情は引きつっていました。
 夢は表情を変えず、四十代の看護師に告げました。
「もういいですよ。出て下さい」
「はい、すいません。大丈夫ですよ」
 夢の言葉に看護師は、自分の手元に目をやりながら軽い態度でそう謝りました。
「いえ。どうぞ出て行って下さい。どうぞ」
 夢は右手を病室のドアの方へ向け、看護師に出て行くように告げました。
 すると看護師は夢の前に歩んで行き、深く頭を下げました。
「すいませんでした」
 看護師のその言葉には、特別馬鹿にするようなニュアンスはありません。ただ、謝意もありません。突然切り換えたその姿勢を目の当たりにした夢は、言葉通りの意味を持つ謝罪ではなく取り繕うだけで気持ちの無い謝罪だと感じました。この姿勢が見えてしまっては夢でも納得がゆきません。大切な人が危険な目に遭ったのです。
「どうぞ!」
 夢は全くの無表情で四十代の看護師に強くそう告げました。
 すると看護師は視線を下に落とし、言葉を失ったその表情に焦りの色が滲み出てきました。看護師としての立場、問題が大きくなった後の処理、自分へ評価、そんな様様な思惑が現実的にさせたのかもしれません。そして少しの沈黙の後、手元を止めたまま見ていたもう一人の看護師が、四十代の看護師に声を掛けました。
「私担当なんで、一人でも大丈夫ですから」
「そう。じゃあお願い」
 四十代の看護師は顔を上げてそう言うと、そのまま部屋を出て行きました。
 夢は部屋を出る看護師を見ることもなく、おばあさんの手をそっと握り締めました。例えおばあさんに怖がられたとしても、夢にはやらなければいけない事があるのです。自分が好かれたいという欲は時として、大切な人の人生の妨げになるのです。だからこそ、夢には覚悟があるのです。そんな自分の心の中に芽生えた形。それが愛だと知ったあの日から、夢は少しずつ強くなって行きました。

 パイプ椅子に深く腰を掛けて本を読んでいたケンシは、病室から常夜灯の存在がなくなった事に気付き、ふと窓の外へ目をやりました。真っ暗だった空の向こうに、いつの間にか朝の光が滲んでいました。ケンシは大きく伸びをして全身に刺激を送ると、おばあさんの顔を覗き込んで朝の発破を掛けました。
「おはようばあちゃん」
 ケンシはおばあさんにやわらかな笑みを向けて朝の挨拶をしました。目蓋を開いたおばあさんはそのままの表情で、ジッとケンシの顔を見つめました。
「失礼します」
 朝を迎えたばかりの病室に、担当の女性看護師がやって来ました。
「ミロクさん、採血しますね。電気つけていいですか?」
 看護師がそう尋ねると、ケンシは笑顔で「はい」と頷きました。
 今から行うのは朝食前の採血です。おばあさんの血管は細いので、一回の採血で必要な量が採れなかったり、中中見つけられなかったりする事があるのですが、どうやら今回は一回で成功したようです。おばあさんもそれほど痛くなかったのか、注射針が入って行く途中で大きなあくびをしていました。採取を終えた看護師は、必要量の血液が溜まった採血管を注射器の筒から引き抜くと、空いた片手でその採血管を五、六回ほど上下逆さに回転させました。そうして採血が終わると、看護師は注射の痕を押さえていたアルコール綿を少しめくり、止血出来たか確認しました。
「持っときますよ」
 ケンシは看護師にそう声を掛けると、パイプ椅子から立ち上がりました。
「あ、はい。ありがとうございます」
 看護師は押さえていたアルコール綿の上からサージカルテープを貼り付け固定しました。ケンシは引き継ぐようにそのアルコール綿に親指を乗せると、床頭台に置いているリモコンを手に取りテレビの電源を入れました。おばあさんが音の刺激を受けられるようにと起きている間は常にテレビをつけるようにしています。
「じゃあ後でまた来ますね」
「あ、はい。ありがとうございました」
 ケンシがそう返事をすると、看護師は軽く会釈をし、病室を出て行きました。
 それから一分ほど経つと、ケンシは親指で押さえているアルコール綿を少しめくり、そのまましばらく見つめました。
「もうちょっとかな」
 皮膚からプクッと血液が出てきたのを確認したケンシはそう言うと、またアルコール綿に親指を乗せました。おばあさんは血液が固まりにくいので、止血には少し時間が掛かります。そうしていつもある採血後の空気に和んでいると、病室の中に朝の陽気な人達の声が広がり出しました。朝の情報番組が始まったのです。
「ん?」
 テレビを見ずにアルコール綿を押さえていた自分の指を眺めていたケンシは、ふと視界に入ったベッドの上の塊に気が付きました。何なのか確かめようとケンシがそれを手に取り見ると、透明で硬いプラスチックの用具でした。
「またかよ」
 ケンシはそれをゴミ箱に投げ入れました。
 点滴や採血のために注射を行った後、看護師はベッドの上に置いた注射器の部品等を相当な確率で回収し忘れています。しかもそれは、簡単な付属品だけではありません。針の部分にはキャップが被せられていて露出はしていなかったのですが、注射針を忘れていった事もありました。ベッドの上というのは患者の服の中と同じです。不要な何かがあれば相当不快でストレスになります。更に寝た切りになると運動する場所といえば必然的にベッドの上になり、傷を負うこともあります。年を重ねて行けば傷は出来やすく治りにくくなってしまうのです。病院側の単純な不注意で負った余計な傷や、それによって生まれた病院に対する不信感は患者の治療の妨げになり、こういった小さな油断を見逃すと、いずれ全体の構造に悪影響を及ぼして行きます。目的の治療だけを診る従来の医療ではなく、人そのものを見ていかなければいけません。しかしそれは、必ずしも病院側だけが行わなければいけない事でもないのです。

 パイプ椅子に腰を掛けているケンシ、その膝の上にはバタークリームのホールケーキが一台乗っていて、さらにそのケーキの上にはケンシの注文によって追加されたバタークリームが乗っていて、そしてさらにその僅か上から見つめるケンシの瞳はキラキラと輝いています。ケンシのその感動は、明らかにホールケーキが入っていると分かる箱を手にした夢が視界に入った瞬間、跳ねた心が体を浮かせたほどに大きかったのです。
 それは今日の朝方、夢とオッカとフクとケンジが一緒におばあさんの病室にやって来た時の事です。夢の手には角張った袋、オッカとフクの手にはプレゼントが入った紙袋がありました。夢は嬉しそうに微笑みながら「ちょっと待っててね」とおばあさんに声を掛けると、サイドテーブルの上に少しスペースを作り、袋から取り出した箱をそこに置きました。そしてその箱から中身をそっと引き出すと、チョコレートのろうそくが立っているバタークリームのホールケーキが現れました。夢はおばあさんの目の前にケーキを持って行くと、ケーキの事や今日の日の事、色んな事を伝えてゆきました。おばあさんはベッドで横になりながら、ジーッと夢の持つケーキを見つめていました。そんな二人の横に立ち、その会話を眺めていたケンシはとても嬉しそうに頬笑んでいました。
「夢、そろそろやろうか」
 オッカの言葉に「うん」と頷いた夢は、みんなに合図を出しました。
「はい」
「おめでとう」
 おばあさんに体を寄せた四人が、嬉しそうな小さな声でおばあさんへそう感謝の言葉を掛けました。すると、おばあさんは瞳をギュッと閉じ、大きな口を開けて渾身のあくびをしたのです。その瞬間を目の当たりにした夢達は思わず笑ってしまいました。ケンシも同じように笑いながら、初めて触れることが出来たこの日に幸せを感じていました。
「あ、そういえばなぁ。クリスマスって、おめでとうやったっけ?」
 何気無く出たケンシのその質問に、みんなは考え出してしまいました。
「そういえば、なんでだろうねぇ。もしかして違うのかい?」
 オッカは笑みを浮かべながら、そう呟きました。みんなで声を合わせてよく分からない言葉を発した、そんな状況にケンシはまた笑い出してしまいました。
「まあええんちゃう、おめでとうで。めでたい事があったんやろ」
 ケンシがそう言うと、フクも楽しそうに「うんうん」と頷きました。
「とりあえずケンシ。あんたと夢で二人で全部食べるんだよ」
 オッカのその嬉しい言葉に、「お!」と声を上げたケンシの顔は一瞬にしてキラキラと輝き出しました。
「私は普通の量でいいわ」
「おお!」

 そしてケンシはその瞬間を迎えました。ニヤニヤと笑うケンシは、スプーンで山盛りにすくったバタークリームを頬張りました。「んー」堪らない甘さがケンシの鼻を駆け抜けて行き、脳へ幸せを運んでくれました。もう一口、ケンシはスプーンをケーキに沈めてゆきました。
「ん?」
 二口目を口の中にねじ込んだ時、床頭台のテレビの下にあるハードカバーの分厚い本がケンシの視界に入りました。ケンシはスプーンを咥えたままそれを手に取ると、表紙に書かれた著作者の名前に目が留まりました。
「アイッキラー? 聞いた事あるような無いような」
 ケンシはパラパラパラと流すように中の文章に目をやりました。初めは文字を見るだけのような感覚で読んでいたのですが、出出しの数ページを読み終えると、自分にあった表現にケンシは少し興味を持ちました。ケンシは読み終えたページに指を置いて本を閉じると、床頭台にある携帯電話を手に取り、二、三度操作をして耳元に当てました。
「ん、んー。出んか。……あ、もしもし? 今大丈夫?」
 夢に電話をかけたケンシは、本を忘れている事を伝えたついでに、後でいいから読ませてほしいと言いました。すると夢は「もう読み終わっているから貸すわ」と答えました。
「ありがとう! おう、んじゃ明日」
 ケンシは嬉しそうに電話を切ると、おばあさんの顔に視線を向けました。おばあさんは少し前までケーキを頬張るケンシを見つめていたのですが、いつの間にかグッスリと眠っていました。最近おばあさんは、とても穏やかな表情で眠ります。そんなおばあさんの表情を見ているだけで、幸せな気持ちになれました。
「頭だけ読もっと」
 ケンシは膝の上に乗せていたケーキを床頭台の上にそっと置くと、座り直し、桜色の表紙を開きました。


 水彩画の出会い
                    アイッキラー・コーイッシ

 私はいつも人の出会いを水彩画に例える。
 人は皆、生まれた時に一色の色を持って生まれてくる。
 パレットの上に一色の色が乗っかるんだ。だから私だけのパレットだ。
 生まれたての私を見に叔父と叔母が来た。パレットに一色の色が追加され、私の色と混ざり合った。
 いつの間にか私も十六歳になった。
 そうそうこの時なんだ、学校であいつに出会ったのは。強烈に良いやつだった。パレットに乗ったあいつの色が私の色と混ざり合うと、あいつの色が勝ってしまった。私は気が付くと子供に優しい人間になっていたんだ。
 初めて恋をしたのは十九の時だ。
 髪の色はブロンドで背の小さな可愛い子だった。皆にはそれだけ伝えていた。
 誰なのかは言わない。
 どうしてかって?
 テレビに出ていたかっこいい歌手だなんて言ったらバカにされるだろ?
 彼女はロックを歌っていた。彼女の色がパレットに乗ったんだけど、これが困った事になったんだ。ありえないと思うだろうが私はバンドを組んだ。どうやら彼女の色は私の夢を変えてしまったようだ。まあ、どうなったかは今の私を見れば分かるだろ?
 それでも成功すると張り切っていた私は家を出た。と言っても飛び出したんじゃなく資金も貯めてちゃんと皆に挨拶をして出たさ。そんな色にはまだ出会ってないからね。
 そして二十才で頼りない一人暮らし。
 やっぱり生活をするためには働かないといけないね。
 嫌だったけど仕方ないから本屋で働く事にしたんだ。
 でもそれが良かった。
 私は二度目の恋をした。
 本当の恋をした。
 雨の日も、
 風の日も、
 通学前に毎日本屋に来てくれていた彼女は子供っぽくて素直で素敵でとても綺麗な女性なんだ。もちろん彼女の色はとても、うん、優しい色なんだ。
 本がとても好きな彼女はいつも気軽に声を掛けてくれる。
 私も本が好きだった。だから沢山物語の話をした。
 ある朝の事だった。
 本屋で話をしていたら彼女が教えてくれたんだ。
 学校を卒業したら町を離れ働き始めると。そうなるともう来れないと言った。
 私は人生最大の決意をしたんだ。
 彼女が学校を卒業した日、私は彼女に気持ちを伝えた。
 あんなにドキドキした事はそれまでの人生で一度も無かった。
 きっとこれからもないんだ。
 はい。
 その言葉が僕に飛び込んできた瞬間の事は今でも忘れない。
 雨だって道路だって虫だってシャンプーだって空の瓶だってなんだって、
 この世界の全てが僕の喜びになった。
 どうしようもなくなって彼女にこの喜びを伝えると、涙を流してくれたんだ。
 その時私は誓ったんだ。
 彼女を絶対悲しませない。
 そして彼女の全てが私の夢になった。彼女が私に夢をくれたんだ。
 二人の時間は幸せだった。何も無くても世界が輝いていた。
 そして私達は結婚をした。
 彼女の気持ちと私の気持ちは愛に変わり、一つの色になったんだ。
 夫婦になって一年後、私達の間に子供が生まれた。
 溢れる涙を止める事が出来なかったんだ。
 私達の愛そのものだからね。
 もちろん私達と同じ色をしていた。
 その色もまた、一つの新しいパレットに乗ったんだ。
 三人の色、満ち足りた毎日、そんな時は過ぎるのが早いものだ。
 私達のパレットにも沢山の色が並んでいった。
 そして彼女は最後に絵を描いたんだ。
 未完成じゃない、世界で一番の完成品さ。
 とても大きくて、とてもカラフルで、とても素敵な絵なんだ。
 絵の中で私達はとびきりの笑顔をしている。
 ほら、私達の間に居るのが君だよ。

 さあおいで。
 思い出はまだまだ沢山あるんだ。
 僕達の大切な彼女の話をしよう。


 ケンシはパタンと本を閉じました。
「え?」
 そう声を零すとまたすぐに本を開き、同じ所を読み返しました。そして再び本をパタンと閉じると、そのまま目蓋を閉じて深く呼吸をしました。
「あかん、これ泣くやつや」
 たった今読んだ物語の余韻が、ケンシの心の中で映画のように流れていました。一人の男性が夫婦になり家族になる物語、描かれている日常はケンシには新鮮でした。目覚めるように目蓋を開いたケンシは、レジ袋に入れていた音楽の専門書からステンレス製のしおりを抜き取ると、小説の読み終わったページを一枚めくり、新しいページにしおりを挟み込みました。そして床頭台のケーキを手に取ると、空いたその場所に借りた本を置きました。今度はスポンジごとケーキを山盛りにすくい、口の中に突っ込みました。
「一体今日は何でこんなに天国なんだ」ケンシの心はフワフワと漂っていました。

「ばあちゃん? ばあちゃん?」
 ベッドの横に立っているケンシは、そっとおばあさんの耳元で囁きました。
「ばあちゃん。ごめんこんな時間に」
 パチッと目を覚ましたおばあさんは、そのまま前を見つめ、またすぐに目蓋を閉じました。
「フフフ、ごめんばあちゃん」
 ケンシが小さく笑うと、またおばあさんは目を覚ましました。
 今は夜中の十二時五分前です。
「ごめんばあちゃん。今だけテレビつけるで」
 ケンシはそう言うとリモコンを手に取りテレビの電源を入れました。音量を聴こえる最小限にまで落とすと、適当にチャンネルを替えて行きながら生放送の番組を探しました。
「あったあった」
 ケンシはそう言うと、リモコンを床頭台の上に戻しました。おばあさんの視線の先にあるテレビ画面には、沢山の芸能人が映っていました。
「ばあちゃん。今年はよう頑張ったな。ありがとうな」
 ケンシがそう話し掛けると、おばあさんはケンシをジッと見つめました。
「来年もよろしくな」
 ケンシはおばあさんに笑顔でそう伝えました。するとテレビからザワザワザワとした声が広がり始めました。ケンシがテレビに目をやると、大きな数字が画面いっぱいに映っていました。
「始まった。十、九、八、七、ばあちゃん」
 ケンシは優しく声を掛け、おばあさんを見つめました。
「四、三、二、一、あけましておめでとう。わあー」
 ケンシはとても小さな声で歓声を上げ、おばあさんと一緒に新年を迎えました。
「今年もよろしくおねがいします。もうすぐ退院やから、一緒に頑張ろな」
 ケンシを見つめていたおばあさんはその言葉を聞くと目をショボショボとさせ、大きな口を開けてあくびをしました。
「ははは。ごめんごめん、寝よか」
 ケンシは床頭台の上のリモコンに手を伸ばし、電源のボタンを押しました。
「おやすみ」
 それからおばあさんは少しの間だけ起きていましたが、数分もするとまた眠りに入って行きました。今はもうしんどそうな呼吸を見ることは無くなりました。自発呼吸も以前のように戻ってゆき、寝ている間も落ち着いています。おばあさんが眠ったことを確認すると、ケンシはパイプ椅子にそっと腰を下ろしました。次の体位変換までは一時間ほどあります。ケンシは深く呼吸をし、ゆっくり目蓋を閉じました。

「良かったですね」
 担当の女性の看護師は、夢に笑顔を向けてそう話し掛けました。
「ありがとうございます。長い間頑張ってくれて、大変だったと思います」
 夢は頬笑みながらおばあさんを見つめました。
 退院の日が決まったので、夢達はそこへ向けて色色と準備を始めていました。おばあさんの家から持って来る荷物も日にちを計算しながら減らしてゆき、さらに今のおばあさんに合わせた生活の形になるよう家の中も変えてゆきました。
「今日は着替えどうします? タオルは要りますか?」
 看護師は体温計を確認しながら夢にそう尋ねました。今日はオッカが午後に来るので、一緒に清拭をしようと夢は思っていました。
「じゃあ両方お願いします」
「はい、ミロクさん、体温三十六度四分です。分かりました。何時頃が良いですか?」
「三時頃でお願いします」
 看護師は「分かりました」と笑顔で言うと、カートに乗っているパソコンにバイタルを打ち込んで行き、それが終わるとカーテンを閉めて病室を後にしました。
「おば様。もうすぐで家に帰られるわ。楽しみね」
 夢は頬笑み、おばあさんは和やかな表情で夢を見つめました。
 おばあさんは、やっと家に帰る事が出来るのです。
 夢は、おばあさんの家に帰るたびに胸が苦しくなりました。廊下を抜けて部屋に入ると夢の瞳に映るのは、おばあさんの居ないベッドがあるからです。そんな空っぽになったベッドを見つめていると、圧倒的な寂しさが込み上げてくるのです。家におばあさんが居ないと、時が止まり、呼吸が止まり、胸が苦しくなるのです。でもそれも、もうすぐで終わりです。宇宙のようなあの部屋に、色付く空気が戻ってくるのです。

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