美しきこの世界

Rickey

十四

 夢は、病院へ通じる長い陸橋を足早に歩いています。どんな時も離れたくない夢は、おばあさんは今一人で寂しいのかもしれない、そう思うといつも自然と早足になるのです。
 入院は約二か月続きました。点滴での投薬も問題なく終わり、無事退院出来ました。それから数日後の今日、おばあさんはALSの診断を受けた病院で入院しています。予定されていた胃瘻の手術が行われたのです。ただ、夢が急ぐ理由はもう一つありました。最近おばあさんは、周りに人の姿が見えなくなると言葉にならない声を出して何かを訴えるようになりました。入院が原因で現れるせん妄なのか認知症なのか原因は分からないのですが、一週間ほど前から精神的に不安定な状態が続いているのです。
 病院に到着した夢はセキュリティーカードを使ってエレベーターホールに入りました。エレベーターに乗って目的の階に着くとセキュリティーカードで通れるドアがあり、そこを抜けると病室に入れます。夢は急ぐ気持ちを抑えながらおばあさんの居る病室に入りました。しかし、昨日まで居たその場所におばあさんの姿はありませんでした。一時的にどこかに移動したとかではなく、ベッドや荷物ごと居なくなっていたのです。
「あの、すいません。ミロクさんのお見舞いに来たのですが」
 夢は不安な気持ちを抑え、ナースステーションに居た看護師に聞きました。
「ミロクさんは個室に移動しましたよ」
 個室という言葉にビックリした夢は、何かあったのか看護師に聞きました。すると看護師は「いえ、大丈夫ですよ」と言い、昨日まで居た六人部屋の隣にある個室まで案内してくれました。夢が戸惑いながらドアに手を掛けると、看護師は会釈をしてナースステーションに戻って行きました。夢は「ありがとうございます」と声を掛け、そのまま部屋に入りました。やっと会えた、夢はそんな気持ちになりました。
 しかし、おばあさんの姿が目に入った瞬間から会えた嬉しさは薄れてゆき、その異変に気付いてゆきました。おばあさんを座る姿勢にするためにベッドはギャッジアップされていて体は起きているのですが、頭が前にうなだれた状態になっていたのです。その苦しい姿勢から抜け出そうと自力で枕に戻そうと思っても、おばあさんには頭を起こす力がありません。今夢の目の前には、「助けてほしい」と視線を上げ、ずっと出入り口のドアを見つめていたおばあさんがいたのです。そして何度も人を呼ぼうとしていたのか喉は潰れ、病室にはおばあさんの叫ぶ息の音だけが響いていました。
 夢は自分が涙を流している事にも気付かないまま、おばあさんに近づいて行きました。おばあさんの見開いた目は、赤く充血していました。口からは唾液が溢れ出し、長い時間吸引されずに放置された状態になっていました。唾液の吸引をしなければ、誤嚥によって気管に入った唾液が原因で誤嚥性肺炎を起こす危険があります。また、痰による窒息が原因で様様な危険な状態に陥り、最悪死に至る事もあります。おばあさんの苦しみの表情から、一晩中その恐怖が続いたんだと夢は分かりました。夢は、今自分にあるこの分からない感情をどうしたらいいのか混乱したままおばあさんに歩み寄り、隣に立つと、おばあさんの背中がベッドから少し浮いている事に気付きました。
 これは正しいことなのか、どうすればいいのか、今の夢の知識では分かりません。おばあさんのこの状態が、どれほど危険な状態だったのかも分かりません。夢は分からなかったのですが、何かが起こっている事だけは分かりました。
 夢は、おばあさんの頭を起こして背中をベッドにもたせかけました。
 唾液の吸引をしました。
 こぼれた唾液を拭きました。
 髪を綺麗になおしました。
 気が付くと、夢は何度も「ごめんね。ごめんね」と謝っていました。胸がとても苦しくて、心がとても悲しくて、涙がぽろぽろぽろぽろ夢の頬を流れてゆきました。
 ゆっくり時間を掛け、おばあさんをいつもの姿勢に戻せた時、夢はある事に気付きました。おばあさんの手には、ナースコールが握らされていたのです。この病院で診断を受けたのですから、もちろん知らないはずがありません。
 おばあさんはALSです。
 おばあさんは認知症です。
 筋肉が弱り、判断が鈍り、その状態でナースコールなど押せるはずがありません。夢が部屋に入ってきた時の状況を考えると、おばあさんはナースコールを押す事が出来なかったようです。
 夢は今、膨らむ感情を抑えています。
 夢はベッドを水平にしておばあさんのおむつの状態を確かめました。案の定、尿が大量に溢れ出ていました。おむつも服も交換されていませんでした。おばあさんは看護師を呼ぶ事も出来ないので当然です。まずはおばあさんの気持ちを何とかしたい夢は、排泄介助を優先させました。夢の排泄介助が始まると、おばあさんはいつの間にか眠りについていました。夢の顔が見れた事と、不安が少しずつ解消されていった事で、落ち着きを取り戻していったのです。

 今日はおばあさんの退院の日です。もう半時間ほどで迎えのタクシーが来ます。荷物は徐徐に持って帰っていったので、残りは夢が一人で持てる分だけです。
 荷物をまとめ終えた夢はおばあさんの隣に座りました。おばあさんの手を握り、横向きになって眠るおばあさんの顔を見つめました。安心して力の抜けた穏やかな寝顔でした。
 夢は分かりませんでした。見た事を看護師に訴えるべきなのか、それともよくある事なのか、どうすれば良いのか分からず頭の中が混乱していました。人に意見をぶつけたり、人の間違いを指摘し注意する、そういった事が出来ない夢の、優し過ぎる故にとても弱い所が出てしまっているのです。そして夢はこんな時、起こった負の全てを自分に向けてしまうのです。しかし、これでは解決する事は出来ません。夢はそれを理解しているのですが、どうしても声が出ないのです。そしてまた自分を責め、自分で頑張ろうとしてしまうのです。強くなるという事は、自分のためだけではありません。大切な人を守るには、強くならなければいけないのです。

 夢は退院の手続きを終え、ストレッチャーで横になっているおばあさんと一階のロビーに降りて来ました。介護タクシーを病院の入り口前に着けに行った運転手がここに来る事になっているのです。夢はおばあさんが乗るストレッチャーをソファの側に止め、荷物を持ってソファに腰を下ろしました。
 あれから少し時間が過ぎ、おばあさんはもう普段の表情に戻っています。でも、おばあさんの心は傷付いてしまいました。二度と消えない傷跡が残ったのです。
 視線を落としていた夢は、ふとおばあさんの顔に目をやりました。夢を見ていたおばあさんは頬を上げ、やわらかな笑顔を浮かべました。夢はそんなおばあさんの笑顔を見た瞬間とても不思議な気持ちになりました。それは、やっとおばあさんと再開できたような、そんな不思議な感動でした。長い夜に閉じ込められたおばあさんの気持ちを共有しようと、夢は自分と重ねていたからかもしれません。
 夢は想像を超える何かが起こった時、まず自分自身でそれを知ろうとします。おばあさんがALSの診断を受けたあの日もそうでした。おばあさんと別れ自宅に着いた夢は、椅子に腰を掛け、何もない天井をじっと見つめました。そのまま体は動かさず、視線だけを動かし、まずは五分間見つめ続けました。もちろん言葉も発しません。指一本動かしません。ほんの少しですが、夢はおばあさんの未来にある地獄に触れました。しかし、その症状が現れるのは表面的な筋肉だけではありません。運動神経が機能しないということは唾液を飲み込む力も弱くなるのです。気管に入る事も頻繁に起こってしまいます。さらに、気管に入った唾液を吐き出そうとしても上手に咳き込むことができないので、苦しさは解消出来ません。
 目の中にゴミや毛が入っても、虫が飛んできても、目蓋しか動かせません。背中や足や皮膚同士が触れ合う体のあらゆる面は次第に熱をもち、苦痛を感じ始めます。そして血行が悪くなった圧迫部は栄養や酸素が行き届かなくなり、いずれ壊死が起こります。そして褥瘡、または床ずれとも呼ばれる状態になってしまうのです。
 夢は知りました。たった五分、たった五分、天井を見つめ続ける事がこんなにも大きな苦痛を生むのかと。そして涙してしまいました。もちろん、これは健常者の五分です。五分経てば解放されると分かっている五分です。
 例えば「ちょっと待ってね」と患者や赤ちゃんに言うことはよくある事です。今の状態を維持してもらう事は生活をしていると多多あるのです。しかしそれは五分なのか十五分なのか、どれぐらい待てばいいのか患者には分かりません。その長さは家族や介助者、看護師次第で変わるのです。早く対応出来る事もあれば、何時間も放置される事もあるのです。
 例えばそれは病院ではどうなのでしょうか。看護師は何時間置きに来るのでしょうか。以前は二時間置きに体位変換を行っていたのですが、医療機器の進化もあり、四時間以内が最低ラインという所も増えてきました。その時間の決定も、患者のアセスメント、評価によって変わってきます。白い壁に囲まれて、白い天井を見続ける日日。二時間置きにやってくる看護師はどんな人なのか。人員不足で対応に追われた状況で健全な精神をもっているのか。院内での不平不満、プライベートでのストレス、そもそもの資質、一体どんな人が来るのか、それは患者には分からないのです。
 おばあさんの病気のALS。進行してゆけば、いずれ意思疎通が困難になります。もはや地獄です。もしその世界に自分が入り、流れる時を見続ける体になった時、自分の心はどうなってしまうのか、夢は想像しました。
 また、涙がこぼれました。
 ただ、そんな夢の想いを知ったクイナの町のみんなは頑張ってくれました。幅広く手厚い支援を受ける事ができるように頑張ってくれました。みんなの中に、熱い想いが生まれたのです。

 介護タクシーはおばあさんの家へ向かって走っています。片道約三十分、おばあさんと夢の束の間のドライブです。おばあさんは横になった状態で、ストレッチャーから落ちないように体ごとベルトで車内に固定されています。シートベルトの役割があるのですが、体をまたぐようにベルトを付けているので腕を動かすことは出来ません。おばあさんはそのまま、窓から見える街並を眺めていました。夢はおばあさんの側に座って話をしたり、時時よだれを拭いたりしました。少しずつ知っている町並みが見えてくると、一緒に行った店やいつも利用していた駅、パフェやシュークリーム、そんな話したい事が沢山溢れ、二人の会話は尽きませんでした。
「おば様」
 夢はおばあさんの瞳を優しく見つめ、そっと言葉を掛けました。
「本当におつかれさま」
 夢の言葉におばあさんは笑顔を向けました。
「駄菓子とかもどうかしら? 子供の頃とか想い出すわ」
 おばあさんと夢は笑いながら、また食べ物の話を始めました。最近こんなふうに楽しく食事の話をする事はありませんでした。経口からの食事を行うとむせる事が増えていたので、少しネガティブな話題になっていたのです。しかし、胃瘻の手術を行ったおかげで経口からの食事に頼る必要はなくなりました。胃瘻があれば十分栄養が摂れるので、少しの間、経口からの食事は好きな物だけを選択する事が出来ます。味だけであれば量は必要ないので、食事の負担も減るのです。好きな食べ物や楽しい食事、口から食べられる喜びを感じる事が出来れば、心にも栄養が行き渡ります。もちろん誤嚥を引き起こす可能性もあるので無理はせず、意識と注意を心懸けながら主観的に客観的にしっかりと判断して行わなければいけません。
「胃瘻も勉強するわ。ちゃんと栄養も取れて、ご飯も食べられるの。本当に良かったわ」
 一日に必要な栄養を経口から摂ろうとすると、食事の負担も誤嚥のリスクも大きくなります。今回の胃瘻の手術はその負担やリスクを減らしてくれるので、QOLの向上にも意味があるものになります。心の面だけでなく、必要な所に必要な栄養が行き渡ることで全身状態は安定します。傷の回復力も高まるので食事はとても重要なのです。だからこそ胃瘻についてのメリットやデメリットをしっかりと把握し決断しました。そして、人工呼吸器を使うその日まで、みんなで楽しく食事をしようと約束もしました。
 今、おばあさんと夢はクイナの町へ続く道の上にいます。おばあさんが大好きな、おばあさんのことが大好きな、みんなのいる町へ帰ります。

 夢は、病院で何もしなかったわけではありません。看護師とはほとんど目を合わせず、話す時も声のトーンを出来るだけ暗くして無愛想に話しました。
 これが、今の夢の精一杯なのです。

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