あなたが好きでもいいですか

文戸玲

夕暮れに向かって

 ごみはそのままでいいから,と言う美月に甘えさせてもらい,部屋の後片付けもそこそこに解散することにした。結局,今日の勉強で身についたことは漢文の句法がいくつかと,菜々美の新しく言い寄られている相手だった。菜々美は小学校で習ったはずの割合の計算を理解できたみたいでかなりこれからの人生を由比意義に過ごすことが出来るようになったに違いない。
 玄関に向かうと,夕食の支度をしていたのであろう美月ママがエプロン姿でお見送りにやってきた。

「あら,もう少しゆっくりしていったらいいのに。晩御飯も食べていっていいのよ?」
「食べた~い。だけどうちの親,人様の家に上がり込んだだけで癇癪ものだし,事前に言わずに外で食べたら玄関開けてもらえないだろうな~。また今度御馳走させてください。茜も,また今度一緒にごちそうになろうよ。今度は恥ずかしくない程度の手土産でも持ってきてさ。最中はお母さまには似合わないから」
「あら,さっそく最中頂いたけれど,お上品で美味しかったわよ。さすが茜ちゃんね。菜々美ちゃんも駅前のお菓子ありがとうね。あのお菓子,並ばないと買えない有名店の物なの。菜々美さんのお母さんはもしかしたら二人で食べるのを楽しみにしていたのかもね。悪いことしちゃったかしら。菜々美さんは幸せ者ね。ご両親にさぞ愛されているのがひしひしと伝わってくるわ」

 菜々美の家は厳しい。門限も守らないとスマホを没収されるくらいに古典的だ。ただ,菜々美はそれが愛情ゆえのものだとは感じていない。実際,菜々美の家は複雑だった。第三者が,菜々美に幸せだねと言うにはあまりにも配慮が足りない発言だ。それは,高校に入学してからずっと一緒にいた私だからこそ思うことであって,今日あったばかりの美月のお母さん「それは違います。分かったようなことを言わないでください」というにはあまりにも無茶なことだ。それくらいのことは分かっている。ただ,菜々美の苦労を知っているからこそ何も言わずに固く唇を結んだままの菜々美を見ていられなかった。そんな表情をしたのはほんの一瞬で,きっと私以外は誰も気づいていない。菜々美は強い子だから,誰にも弱い表情は見せない。次の瞬間にははじける笑顔が戻り,美月のお母さんに,今度は晩御飯も食べさせてください,と言ってお礼も付け加えていた。
 私も家ではご飯を用意してくれているだろうし,菜々美を一人で返して御馳走をいただくのも気が引けてまっすぐ帰ることにした。
 美月のお母さんは,今度は彼氏も一緒にね,とウィンクをして送り出してくれた。その笑顔は,ヨーロッパの絵画を思わせた。身に付けているものから上品で,その振る舞いからは小さいころから身なりや礼儀をきちんと躾けられて,自分に適度な自信と誇りを兼ね備えている人のようだった。自分の母と比べると羨ましくなる。私の母はウインクなんかしませんし,あいさつ代わりにおならをします,と伝えたくもなったが遺伝的な品の悪さが伝わってしまうのでやめにした。
 玄関先まで挨拶に来る美月の母に対して,もういいから下がって,と美月は鬱陶しそうに言った。あんなにウィンクを自然にできる美月のお母さんは,今度は片目をつぶって舌をだした。私の母がやったら,不愛想なアインシュタインのようになるに違いない。どうしてこんなにも違うのだろう,と考えながらその綺麗な二重と閉じた瞼に見とれていた。
 今日はありがとうございました,と挨拶をして,玄関の扉に手をかけた。
 家を出て門を開ける前に後ろを振り向くと,いつまでも美月のお母さんは手を振ってくれている。ぺこりとお辞儀をした後,菜々美と送ると言って聞かない美月と共に,私たちは陽の暮れかかるバス停へと歩いて行った。

バス停までは三人で歩いた。
大きな道路から一本入ったところの,いわゆる一等地に豪邸は建っていたため,バス停までのアクセスも抜群に良かった。

「ごめんね。うちのママ,すごく無神経でさ。でも,友達が来てくれるのを心待ちにしていたっていうのは本当だよ。」
「いやあ,すごい美人だし,愛想も良いしさ,美月も茜もみんな親に恵まれすぎだよ。うちのととっかえたいくらい。」
「菜々美のママもフランクでおもしろいじゃん。壁がないっていうかさ。うちなんてよそ行きの格好で良いママぶっちゃってさ。普段はソファで寝転がってせんべい食べながらおならしてるくせに。」
「いいね。みんなのうちは和やかで。ケンカしたりとか,ヒステリックになったりしたことない?」

バス停までのそんなに長くな道のり。
けらけら笑いながら歩いていた空気が少しだけ,初霜が下りた時のようにピリッとひりついたように感じた。

「うちのママ,私の交友関係を異常に気にしててさ。まあ,原因は私にあるみたいなものなんだけど。」

美月は今まで,転校の理由を深くは語ろうとしていなかった。
始めの方は何かを聞かれることはよくあったのだけど,そのたびに的を射ない解答でやり過ごしていた。
そんな姿を横で見ていた機会が多かった私と菜々美は,誰にでも聞かれたくない,思い出したくない過去ぐらいあるよね,という暗黙の共通認識が働いたのか,尋ねたことはなかった。
しかし,美月は心に秘めた過去を話しずらそうにしながらも,話す機会があることを伺っていたように今は思える。
私たちはバス停のベンチに座り,帰りの方向に向かうバスを何本も見送りながら美月の話に耳を傾けた。

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