あなたが好きでもいいですか

文戸玲

On my way home

 6月にもなると気温はじわじわと上がり始め,日中はスカートさえも鬱陶しいほどに暑い。風の通るスカートでさえわずかに浮かぶ汗が生地にまとわりついてたまらない不快感に包まれるのに,男子はよく長ズボンなんて履いていられるなと思う。だらしのない生徒は長ズボンを膝上までまくり上げているが,膝周りが密閉されてそれはそれで熱いらしい。男の子って大変だ。
 試験まで二週間。夏休みまで一か月とあと少し。
 初夏というのはこれぐらいの時期のことを言うのだろうか。夏空のはるか遠くに,とんびが飛んでいる。
 ぐるぐるぐるぐる,はるかかなたの上空を飽きもせずに周りつづけている。
 こんな時期にとんびは飛んでいたかな,とも思ったが昔から規則的な動きをするあの鳥が好きで,ずっと見ていられた。
 小学生の頃,グラウンドで同級生は遊んでいたのに,私はとんびを見つけて飽きることなく見ていたことを思い出した。一周,二周,三周・・・・・・と数えているうちに授業が始まっており,遅れて教室に戻るとこっぴどく怒られた。
 そんな記憶に思いをはせながら,次の瞬間にはすぐ別のことについてについて考えていた。空と宇宙の境目はどうなっているのだろう。パレットの上で青が水色に変わって,黒と混ざり合っていくように,徐々に違う空間へと切り替わっていくのだろうか。だけどそれは,どこからが空でどこからが宇宙になるのだろう。それとも,そのふたつ二つは全くの世界で,まるで冷凍マグロを補完している倉庫のように,錠を開くと広がる別世界のようになっているのだろうか。
 そんなことを長い間考えていたような気がしたが,ふと我に返ると見慣れた道から推測するにそんなに時間は経っていない。隣には美月がいる。そう長くはない時間ではあるが,私が考え事をしている間に美月は何を思っていたのだろう。私と同じように小学生の頃を思い出してしんみりとしていただろうか。いや,友達と二人で横並びで歩いているときに小学生のことを脳内で思い出して感慨にふけっている人がいるだろうか。私は考えた。それは紛れもない事実だ。私はよく「変わってるね」と言われる。それは個性的であるという誉め言葉とは明らかに違うニュアンスを含んでいた。人と違って何が悪いと思うこともあったけど,この状況を冷静に振り返ると,初めて一緒に帰る友達と口の一つもきかずに懐古にふけっている。これってどうなのだろう。私の隣に歩いている人がそんな人だったらすごく嫌だ
 ひとしきり考えて,私は失敗をしたのかもしれないという結論に至った。そうして,恐る恐る隣を歩く美月に目をやった。
 そして,感じた。



・・・・・・気まずい。


 さっきまで,校門を出るまではあったあの高揚感は何だったんだ。校門を一歩出て,いつもと違う環境になって二人の距離感が浮き出れば浮き出るほど,まるで版画のようなこの世界には似つかわしくない空気感が二人を支配した。学校から出て数十分,暑いね,だとか季節の話を近所のおばさんと話すように交わしたのを最後に一切話をしていない。
 急に焦ってきた。何か話さないと,とは思うものの美月ちゃんのことを何も知らないんだ,と気づかされる。
 知らないなら聞けばよいのだが,こうなってくると何を聞けばよいのか分からない。中学生の時,国語の先生が言っていたことを思い出す。

きみたち,おおいに勉強しろよ。本を読み,運動をし,悩み,遊べ。全てのことが君たちを形作る。でもな,忘れちゃあいけないぜ。時代が進むにつれ,世界と君たちの距離がどんどん縮まっている。今までは日本の世界で勝負出来ていたが,これからは世界の人も相手にすることになる。そこでな,お偉いさんは英語教育だ,なんてしきりに騒いでいる。確かに英語も大切だ。だけどな、自分が何が好きで,何が語りたくて,どれだけ相手に興味を持っていて,それを言葉に出せるかってのが大事なんだ。単語や文法も大事だ。だけどな,本当に大事なのは,何か語りたいことがあるか,相手のことに興味を持てるか,そこなんだ。いくら単語を知っていても,文法を理解していても,話をするっていうのは全く別なことなんだ。おれなんて,単語も文法もめちゃくちゃだけど,どこの国の人とでもハグさえすれば相手の言いたいことも自分の伝えたいことも分かっちまうからな

ガハハハッと笑っていたあの先生。同級生は変わった人として認識していた。私もそうだった。ただ,あの日のあの言葉だけはいつまでもコンクリートで押し固められたように私の土台に残っている。
 美月とどう話せばいいんだろう。人と歩くって難しい。こんなに人とコミュニケーションをとるのが苦手だったっけ,と思っていると美月が神妙になっていった。

「わたし,久しぶり,こんな感じ。いつも,何か話さなきゃって思うけれど,正直しんどくて。だから,沈黙が苦痛じゃないっていいよねって思うの」

私が考えているのとは全く違うことを感じていたんだ。黙っていることが苦痛じゃない,そう思われていることがなんだか嬉しくて,肩ひじ張らなくても良いんだって思えた。
 ありがとう,とだけ答えて,あとは二の句を継がなかった。

「明日も一緒に帰れる?」
「もちろん!」

返事が上ずってしまったが,明日一緒に帰れること,そして,明日は何か話ができるとおぼろげながらも感じている自分がいる。
 今日は分かれ道でさよならをして別れた。とんびがぐるぐると気持ちよさそうに夕暮れを浴びながらいつまでも空を旋回していた。

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