いつまでも,いると思うな家に嫁

文戸玲

逃走

 
 何の話をしていたの? と問いかける夏妃の言葉を遮るようにして,中村さんは店員を呼んだ。アイスコーヒーのおかわりとチーズケーキを頼むと,僕も何か食べたくなりまして,と微笑むその表情は明らかに引きつっていた。そんな顔を見てさらにいじめたくなる。

「無理にしなくていいんですよ」
「無理なんてしてないよ。朝からろくなものを何も食べていなくてさ」
「そう,間違えて食欲増進の薬が混ざっていたとかは?」

 途端に中村さんはまたコーヒーをふき出した。ちょっと二人ともなんなのよ,と私たちの顔を交互に見る夏妃には,もちろん何のことか分からないだろう。さあ,どんな風に仕返しをしてやろうかとほくそ笑んでいると,中村さんが勢いよく立ち上がった。

「ごめん,そういえばこのあと大事な会議があったんだった。すぐに戻らないと」

 夏妃は目を丸くして,そんなことある? と言ったがもう中村さんはビジネスバックを手にして伝票と共に立ち上がっていた。
 逃げるか,とこれから楽しくなりそうな場を急にしまいにする姿に,全てを夏妃に話すと決めた。そんな情けない男に夏妃は任せられない。「今日はごちそうしてくれたのね。千鳥足でもないし頼もしいわ」と後ろ姿に声をかけると,中村さんは振り返りもせずに身を小さくしてレジへと向かっていった。
 いったいどういうこと,と心底不思議そうに聞く夏妃に私はバーでのことを打ち明けた。


コメント

コメントを書く

「エッセイ」の人気作品

書籍化作品