黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

a sequel(29)〜リンディアの朝〜

 












 小さな奇跡が治癒院に舞い降りた夜は、新たな陽の光に塗り替えられていく。藍色の空は赤く白く染まっていって、やがて朝が訪れるのだ。リンディア王国に、王都リンスフィアにまっさらな日は必ずやってくる。






 薄い暗闇が空とリンスフィアを覆っていた頃から、カズキは何時ものベランダに出ていた。昨日は早く眠ってしまった為か、随分早く目が覚めてしまったのだ。


 目の前の景色に彩りが追加されていき、街にも光がポツリポツリと灯り始める。


「パン……」


 新しく灯ったあの辺りは嘗て知ったるパン屋だろう。早朝から動き出す店など限られるし、間違いないとカズキは思った。そういえば借りたパン切り包丁を返却出来てない。まあ、折れてしまった包丁を貰っても困るだろうが……そんな事が幾つも頭に浮かび、目を凝らした。


「う、ん?」


 目を凝らしたから分かったが、屋根の上に座っている男が見えた。キャンバスらしき物が立っているし、絵筆みたいな細い棒を持っているから画家だろう。丁度陽の光が当たり、眩しくて右手を翳した。すると画家の人が慌てて立ち上がり、あたふたした後に手を振った。


「あ」


 多分翳した事で、手を振る姿に見えたのだろう。思わぬ間違いに恥ずかしくなったが、声など届かない。仕方なく、手を振り返す。ビシッと固まった画家は、益々慌てると最後はストンと椅子に腰を下ろした。まるで力が抜けた様子で心配になったが、凄い勢いで絵に向かった姿を見て安心する。きっと向こうも恥ずかしかったのだろう。


 リンスフィアに朝が訪れて、遥か彼方まで見渡す事が出来る。昨日の大雨が嘘の様に雲ひとつない。見慣れた筈の緑の草原、なだらかな丘、何処までも遠くに繋がる石畳。その全てに光が届き、カズキは感嘆の溜息をつく。


「綺麗……」


 再び言語不覚に縛られてしまったが、この言葉に変化などないだろう。奥深くからの心地や情感を並べただけだから。


 長い間大好きな景色を眺めていた。時間は少しずつ昇っていく太陽を見れば流れていると分かる。家々の煙突から煙が上がるのが見えて、街が目を覚ましたとカズキは知る。


 それを確認すると部屋に戻るべく振り返った。するとベランダと部屋をつなぐ扉の前に一人佇む女性が居るのに気付いた。陽の光に当てられた髪はキラキラと光る黄金だ。青い瞳には何処までも優しく知性的な色がある。


 カズキが飽きるまで待っていてくれたのだろう。


「おはようございます、カズキ」


「クイン……おはよ」


 ずっと見られていたなら恥ずかしいな……そんな事を思う自分に不思議な気持ちになる。こんな時、変わってしまった自分を感じるのだ。


 歩き出した自分を意識してしまい、今更に別の事に気付いた。


 記憶では身体が酒と血に染まっていた。髪だってボサボサだっただろうし、下着も汚れていて……肌にも血はついていたから、酷い有様だった筈だ。


 ところが服は前ボタンの白いワンピースだし、下着だって変わっているのが分かる。血なんて何処にも見えないし、鼻をくすぐる髪からは良い匂いだってする……チラリと見えた癒しの刻印もバッチリ封印されていた。


 何度意識がない時に着替えさせられただろう。


 もう数えるのも馬鹿らしい。クインやエリが自分の衣服を剥いで、身体中を洗ったと思うと堪らない恥ずかしさが襲う。


「う……」


 この恥ずかしい気持ちは何だろう……初めて感じた感情にカズキは頬が染まったのを自覚した。


「どうしました?顔が赤い……まさか、何処か体調が!?」


「ち、違う! だ、大丈、夫」


 慌てて手を伸ばしたクインに、カズキはブンブンと両手を振って否定した。まだ感情を上手く抑えられないのだ。しかし、その手の否定など全く信用出来ないカズキだから止まる訳はない。


 額に手を当て、クインは真剣な顔でカズキの瞳を見た。そこには間違いない心配と、焦りがある。


「体温が少し高い……心音も……」


 続いて胸に耳を当てられて、益々カズキは恥ずかしくなった。


「もう少し寝ていて下さい。無理は絶対に駄目です。カズキ、分かりましたか?」


 有無を言わせない雰囲気を醸し出し、クインはカズキの手を引いていく。


 大丈夫なのに……引かれる手を見ながら、言葉にしようとしても出来ない。もう全く眠くないのだ。仕方なく別の事をカズキは話す事にした。


「クイン」


「はい」


 ベッドに腰を下ろされ、横になる様促がしてくるクインに頑張って声をかけた。やんわりと抵抗しながら、上半身をそのままにする。


「昨日、子供、だいじょぶ?」


「勿論です。あの後、乳粥も口にしていましたから。直ぐに元気になります。皆がお礼を言っていましたよ」


「お礼、要らない。だって」


「それ以上言わないで下さい。分かっていますから」


 カズキからしたら酒盛りに内緒で行った時、偶然子供達を見つけただけだ。寧ろあんな場所で酒を飲もうとした自分は最低な奴だろう。


「でも、お酒……」


「クク酒が何故あったのか不明ですが、きっと神々のお導きでしょう。カズキが気にする事では……」


 思わず長々と話してしまい、カズキから困惑を感じたクインは口を閉じる。そして言い直した。


「カズキ、大丈夫です。誰も怒ってません」


「そう?」


「ええ」


 何故か内緒の酒盛りにお許しが出て、カズキはホッとする。いや、もしかしてバレてないのかも……そう安堵した。禁酒令が出ないなら良しとしよう。チラチラとクインの目を見るが、疑っている様子はない。


「あのお酒を何処で?」


「ヤト、が……飲め、言って」


「……ヤトと話したのですか?」


「うん」


 鳥肌が立つのを自覚したクインは、感動に打ち震えた。目の前のカズキは、神々の寵愛を全身で受ける聖女なのだと想いを新たにするしかない。


 見ればカズキの頬から赤みが消え、落ち着いた様子だった。クインは手を取り脈を測る。そして心から安心したのだ。


「大丈夫そうですね。朝食を摂りますか?」


「うん、お腹、減る」


「では、此方に」


 鏡の前に座らせ、クインはカズキの身嗜みを整え始めた。清らかな水に浸した手巾を絞り、カズキの顔を拭う。自分でするとカズキは手を伸ばすが、クインは巧みに躱して終わらせた。続いて櫛を持ち、色と艶を取り戻した黒髪を梳く。全く抵抗を感じない黒き糸に、幸せを感じながら。


「夜着は着替えましょう」


 前ボタンをプチプチと外し、スルリと脱がした。やはり自分で着替えると手を伸ばすカズキを見事に躱す。何気に頑固なクインは、この幸せを誰にも渡さないと決めているのだ。私は専任の侍女なのだからと、言い訳を呟いて……


「はい、足を上げて下さい」


 微笑を浮かべるクインに、カズキはもういいやと諦めるしかなかった。




























「カズキ!おはよう!」


 食の間に向かうカズキの前に元気なアスティアが現れた。早朝なのに珍しくエリが側にいる。眠そうな目はシパシパしているが。


「アスティア、おはよ」


 するとアスティアはムッとして、カズキの前に立ち塞がった。納得するまで動かないと、肩幅まで両脚を開いている。それを見て戸惑ってしまったカズキだが、クインは助けてくれないようだ。


「カズキ……」


「な、なに?」


「もう一度よ。おはよう」


 声でも小さかったかなと、カズキは口を開く。


「おはよ、う?」


 しかし許しは出ず、全く動かない。エリは珍しく溜息をつきながらアスティアを横目で見る。意味が分からないとカズキはクインに助けてと視線を送った。


 このままではキリがないと、クインはカズキの耳元で囁く。アスティアも止めたりしない。


「呼び方、です。昨日、覚えてますか?」


「呼び方?」


 一体何の話だと首を傾げるが、すぐに思い出し……思わず「えぇ?」と唸った。


 動かないったら動かない、カズキがちゃんと呼ぶまでは。アスティアからそんな強い覚悟を感じる。


「お、お姉ちゃん」


 うんうんと頷き、さあもう一度と促してくる。


「……おはよ、お姉ちゃん」


「おはよう、カズキ」


 満足したのか、ニコリと笑顔を浮かべるアスティア。溜息を隠さないクインとエリ、でも何故か暖かい時間。


 カズキの隣りに並び、再び歩き出す。アスティアにとって当たり前の事だった。


「身体はどう?」


「大丈、夫」


 やはりカズキの"大丈夫"を全く信用していないアスティアはクインを見る。エリすらクインの目を見た。コクリと軽く頷いた姿を見て、漸くホッとする王女と侍女だった。


「カズキ」


 姦しく歩く四人の女性陣に、柔らかくて力強い男性の声がかかった。廊下の反対側からアストがゆっくりと歩いて来る。高い身長と、細身ながら鍛えられた身体を揺らし真っ直ぐにカズキを見る。


「兄様、私もいるのだけど?」


「アスティアとはさっき会っただろう……」


「ふふ……そうだったかしら?」


「全く……カズキ、身体のほう」


「大丈、夫!」


 何回も聞かれて、思わず早口で返した。ちょっと強めになってしまい、手で口を押さえる。それを見たアストだが、やっぱりクインに確認。カズキは少し不機嫌になり、ムスッとしながら歩き出した。本人からすれば、最初からクインに聞いたら?と思うのは当然だろう。


「大丈夫なら良かったよ。カズキ、機嫌を直してくれ」


 慌てて横に並ぶアストをチラリと見て、分かりやすく、これ見よがしに溜息を吐いた。カズキも本気で怒った訳ではないし、仕方が無いとアストを見上げて言葉を返した。


「アスト、おはよ」


「ああ、おはよう」


 見詰め合う二人だが、さっき迄カズキの隣に居たアスティアさえ後ろから観察している。エリと二人視線を合わせ、ムフフフとイヤラシイ笑みを零す。クインは何度目か分からない溜息をつき、はしたない王女とついでに侍女も後で叱らなければと決めた。それを知らないアスティア達はニヤニヤとアスト達を追跡するのだった。






 因みに……朝食後、居室に帰った王女は涙目になったらしい。王女専任の侍女などは遠い目をして動けなくなり、ガクリと顔を倒したという。
























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 リプトヘッサ病


 聖女が降臨した時代では、単純に風土病と呼ばれていた。


 罹患するのは5,6歳から12歳前後の少年少女で、発熱や嘔吐が初期症状に現れる。適切な対処が行われない場合、意識が混濁して最悪死に至る恐ろしい病だ。


 適切な対処とは現在も優秀な薬材として知られるククの葉だ。煎じたククの葉を湯に溶かし、数日間飲み続ける。嘔吐が激しい場合には歯茎に塗り込むなどを行ったという。


 致死率は伝承に描かれる程に高くは無かったらしい。ククの葉さえ有れば、ほぼ間違いなく完治するのだから当然だろう。


 しかし賢明な皆なら分かる筈だ。当時、魔獣の脅威に晒されていたリンディアをはじめとする各国は、絶えず物資の不足に悩まされていた。ましてやククは森に生息する植物だ。


 治せる方法が有るのに足りない物資の前で死んでゆく……そんな子供達を見る大人の苦悩と絶望は如何程だっただろう。当時の文献には多くの悲しい死が描かれている。


 救済の日前後は最も過酷な時代で、数多の小さな命が失われた事は間違いない事実だ。


 だが……不思議に思わないだろうか?


 リプトヘッサ病など、とうの昔に消え去った病だと。史実には残るが、もう影も形も存在しない。


 此処で新たな事実を提示しよう。


 聖女カズキの奇跡は誰もが知っている。絶望に包まれていた世界を救い、そして癒したのは数多くの証拠が物語っている。この事実を否定する者は存在しないだろう。


 だが……殆ど知られていない奇跡がある。


 それは今も残る聖堂の一つ、旧名「西街区治癒院」で起きた。後の備考に示すリンディアの公式文書を参考にして貰いたいが、当時はまさに奇跡でしかなかった。


 リプトヘッサ病に罹患した五人の子供達を聖女カズキは救った。この時既に刻印は封印されており、癒しの力は行使出来なかったらしい。しかし、またも奇跡を起こした聖女によって死を待つだけだった子達は救われたのだ。


 だが驚くのは其処ではない。いや、充分に素晴らしい事なのだが、聖女の齎した奇跡は留まることをしなかった。


 続く表②を見て欲しい。


 難しいものではない。残る資料や公文書をまとめ、数値化した。一目瞭然だと思う。赤い線を入れているのが、聖女が小さな奇跡を起こした年だ。


 そう、聖女は五人の命を救った小さな奇跡を起こしたのではない。


 その年以降、子供達の死者数は有意に減少した。しかも偶然でなく、それ以降ずっとだ。風土病と言う単語は、この後の時代の文献には殆ど登場しない。救済の年、それ以前は探すのに苦労しないのに!


 そう……リプトヘッサ病は研究者が特効薬を作った訳でも、変化した街並みによって消え去った訳でもないのだ。


 それ以降のリンディアの発展に多大な貢献に寄与したのは想像に難く無い。救われた者達から綺羅星の如く、数々の英雄は生まれていった。


 断言出来る。


 根絶させたのは、聖女カズキによる奇跡だと。








 〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜


 第十一章 聖女が照らす世界 より抜粋





















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