黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
a sequel(28)〜紡ぐ言の葉〜
「ラエティティ」
「ひゃ、ひゃい!」
真っ直ぐこちらを見られた時、ファウストナの女王は人生最高と言って良い胸の高まりを感じていた。その上尊い唇から自らの名が紡がれたものだから、心臓が止まったと思いもした。
裏返った声は吃驚するほど大きく、隣にいたヴァツラフまで驚いた程だ。
「貴女に謝らないと……最初に会った時、名乗れなくてごめんなさい。私の仕出かした事でみんなにも迷惑をかけたんです。あの時は逃げる事しか考えてなくて……」
カズキに注目していたアスト達リンディアの皆は、眼を見開いて身動きが取れなくなった。
今まで片言とは言え耳に聞こえていたカズキの言葉が、清流の様に流れて来たからだ。此れがカズキの本当の声……紡がれていく美しい世界……ブワリと鳥肌が立つのを止められない。
「と、とんでもございません!聖女様が気に病むなど」
「違うんです。このリンディアにも重ねて迷惑をかけました。私のくだらない欲が馬鹿な行為に走らせました。情け無くて……」
カズキ本人からしたら、酒欲しさの蛮行だったため当然の謝罪だった。しかし周囲はそれを許さない。
「そんな事ないわ!カズキは出来るだけのことをしたの!謝るなんて」
「その通りだ。皆分かっているよ」
二人の兄妹はカズキの懺悔を否定する。それ以上悲しい顔をしないでと……
「そ、そう?」
うんうんと頷く二人を見て、意外と大丈夫なのかなと勘違いしたカズキだが、礼儀は通さないといけないと話を続けた。
「カーディルは、私の行為を守る為に嘘を……ファウストナを騙すつもりなんて無かった。だから謝らないといけません」
「お父様、だ」
「……はい?」
いきなりカーディルが真面目な顔をして、意味不明な言葉を吐いた。
「お父様と呼びなさい。アスティアの妹なんだから、私は父だ。分かったかい?」
カーディル、今までそんな事言わなかったよね?そうカズキは思ったが、反論する空気は存在しない。
何故なら将来本当に娘になると、カーディルは思っている。アストの尻を叩かねばと決意を新たにするリンディアの王。否定を許さないカーディルの雰囲気にカズキは頷くしかなかった。
「お、お父様……は、悪くありません」
言語不覚を抑えている筈のカズキが再び片言になったが、周りは生温かい視線を送る。カズキの肌は先程とは違う意味で赤く染まった。
「カズキ様……全ては理解出来ました。もう気に病まないで下さいませ」
「ありがとう、ラエティティ」
薄く笑みを浮かべたカズキを見て、ラエティティも少女の様に頬が真っ赤になった。絶対に忘れないとカズキの笑顔を記憶に刻む。
「クイン、チェチリア」
「はい」
「はい!」
キリリと引き締まった表情を湛え、カズキは頼りになる二人の女性に呼びかけた。頑張って意識を切り替えたのだ。
「今から子供達を目覚めさせます。二人はみんなに水分補給を……水を飲ませてあげてほしい。嫌がるかもしれないし、意識もはっきりしないでしょう。でも、お願いします」
「「分かりました!」」
「私も手伝うわ!」
「私も!」
アスティアとエリも何かしたいとカズキを見る。するとカズキはニコリと笑うのだ。
「ありがとうアスティア、エリ。お願いします」
「お姉様、よ。若しくはお姉ちゃんでもいいわ」
「……え、あの」
ジッとカズキの返事を待つアスティアの碧眼は離れない。絶対に耳にするまで離さない。流石親子だとカズキは溜息をついた……ほんの少しだけ微笑を浮かべて。
「お姉ちゃん、お願い」
とはいえ、お姉様は恥ずかしいみたいだった。変わらず真っ赤で言葉にする。
「お姉ちゃんに任せなさい!エリ、行くわよ!」
アスティアの足元から震えが走り、同時に力が溢れてきた。今なら空でも飛べるだろう。
「は、はい!いいなぁ……私も……」
ぶつぶつ言いながら、エリも準備をするクイン達を手伝いに行った。
大変な状況なのに何処が弛緩した空気が漂ったが、努めてカズキは無視した。まあ、バレバレだが……カーディルあたりは得意の悪戯顔を隠していない。
「ヴァッツ」
「……ああ」
「貴方にも」
「いや、いい。母上じゃないが、分かったよ全てが」
愛おしい、そして遠くに行ったカーラ、いやカズキをヴァツラフも見返した。今なら分かる。カズキは特に隠していたりしなかったのに……
最初に会った時、彼女は母の名を言った。その名は"ロザリー"。銀細工の飾りを一緒に見たときも、カズキは"お母さん"と言ったではないか……何より、救済を果たした本人の聖女に対する言葉。その全てがカーラをカズキだと言っていた。答えはすぐ側にあったのだ。
彼女は"酒の聖女"でもあるのだから。
「お願いがある」
「言ってくれ」
「塩を持っているでしょ?貴方達ファウストナの戦士は皆、懐に忍ばせている」
「……なんで、知ってるんだ?」
カズキはニコリとして答えなかった。ヴァツラフもそれ以上は聞かず、裏地にあるポケットから紙包を出す。
「その塩を用意する水にひと摘み、お願い」
「分かった」
カズキが何を狙っているのか分かり、ヴァツラフは直ぐに肯定する。正にその為に戦士は必ず持っているからだ。長期戦に臨む際、暑いファウストナでは水分と合わせて塩を舐める。昔から受け継がれた体力維持の方法だ。
水差しから注がれ、清水を湛えた木製のコップが運ばれて来る。ヴァツラフは包装紙を開け、それぞれに塩を落としていった。
準備は整ったのだ。
「カズキ、いいわ」
「うん」
アスティア達はいつでもいいと、子供達の側に待機する。五人に対し四人だから一人足りない。最後まで声をかけられなかったアストは、内心悲しみを堪えながら手伝おうと足を前に出した。何かしたいし、しないと辛かったからだ。
その歩く姿を見たカズキは少しだけ口籠もり、それでも頑張って唇を開く。
「アスト」
「ああ、分かってる。皆を手伝うよ。それくらい……」
「違う」
「……なんだ?」
少しだけ視線を逸らしていたカズキだったが、直ぐにアストを真っ直ぐに見た。美しい翡翠の輝きが瞬く。
「側に……」
「済まない、聞こえないよ」
「……私の側に、来て」
「あ、ああ」
戸惑いながらも前に立つと、強い酒の匂いが漂う。目の前には美しい肌、透けて見える下着、血に濡れたシャツ、思っていた以上に女性らしい線、その全てがアストの前に隠されもせずに在る。けれど、それらは神聖でただ美しかった。その赤き血すらも……
誰も近づけさせなかったカズキに、自分は何が出来るのかと自問する。しかし、答えは直ぐに齎されたのだ。
「私を……支えていて。倒れないように」
これから聖女としての戦いに赴く……瞳はそう語っている。アストは強い感情を抑える事が出来ず、ゆっくりとカズキの背後に回った。上手く言葉にならない。
「アスト」
「ああ、いるよ」
「支えて、私を……離さないで、お願い」
もう瞳はアストを見ていない。それでも……
「絶対に離したりしない。今も、此れからも……君を支えたい。ずっと……」
「……ありがとう」
優しく両手をカズキの肩に置き、小さな背中に寄り添う。届く月光は二人を一つの絵画に変えてしまった。
そのやりとりは皆に伝わったが、冷やかす者は一人としていない。ただ一人、ヴァツラフだけは拳を握り、悔しそうに俯いた。
ラエティティはヴァツラフの心の内が見えたが、言葉をかけない。この経験も彼を成長させるだろう。失恋は悲しみを呼ぶが、人を強くもする。ヴァツラフならより強くなって立ち上がると確信があったから。
そして、優しく見守る母にリンディアの王より言葉が投げかけられた。
「ラエティティよ。遅くなった事、もう一度心から詫びさせてほしい。そして改めて紹介しよう。彼女こそ、5階位の刻印を刻まれた使徒。白神の加護と黒神の寵愛を遍く受けた、黒神の聖女」
「カズキだ」
アストの手の暖かさを感じるのか、瞳を閉じた。
直ぐ後ろに離さないと誓ってくれた人がいる。それはカズキにとって何よりも大事な事だった。だから、今から訪れる痛みなど怖くはない。
ゆっくりと閉じていた瞳を開くと、眠ったままの子供達。アスティア、クイン、エリ、チェチリア、そして更にはラエティティまで待機していて、カズキは笑ってしまった。
なんて素敵な人達なんだろうと、笑顔が自然に溢れてしまうのだ。
「みんな、お願い」
「ええ」
「任せて!」
「勿論です」
「御心のままに」
「いつでも」
聖女は祈りを捧げる。
もっと強固に、もっと深く、もっと高く、世界に届くように……何処までも……
聖女が佇む、その直ぐ前。丁度胸の高さの空間に光虫が集まる様に、光が収束していく。一つ、二つ、四つ……光が光を呼び、また多くの光があちこちから飛んでくる。
その光は曇りのない純白。真っ白な火花。
寄り集まった光達はもっと大きく束ねられていく。
少しずつ、少しずつ、真円を描き始めた。まるで空に浮かぶ銀月がその場に現れたかの様だ。
肩に両手を置いているアストには分かった。カズキの身体が再び震え始めた事を……痛みに耐える悲鳴こそないが、時々フラリと倒れそうになるのだ。その度にアストは支え、止めたくなる気持ちを抑える。
愛する人の苦しむ姿を見たい者など、この世界に一人もいないだろう。それでもアストは決してカズキを否定しない。ずっと支えて、離れないと誓ったのだから。
頑張れーーー
アストは心の中で声を上げ、ほんの少しだけ肩に置かれた両手に力を込める。伝わればいいと思って……
浮かぶ真っ白な球は、両手で抱えるくらいの大きさになった。右胸の封印が時に邪魔をするのか、未だに血が流れ出すのが見える。シャツはもう真っ赤だ。しかし、止まらない。聖女は決して止まりはしない。
子供達の泣き顔なんて見たくは無い。そして言葉は紡がれた。
「もうすぐだから、待ってて」
カズキの呟きが部屋に木霊した瞬間、白い球体はほんの僅かに膨らみ、蕾が咲く様にゆっくりと開く。そして……眩い光が弾けた。
誰もが光を直視出来ず、目蓋を閉じたり手を翳したりする。それでも次々と光の波が襲って来るのだ。
暫くは誰も動かなかったが、ジンワリと光が収まって夜の闇が降りて来たとき……それぞれのベッド、子供達から音が伝わってくる。
「う、ん……」
「あ……」
「聖女さま?」
「痛く、ない」
「……あれ?」
子供達は目を覚まし、可愛らしい声を上げる。夢の中でカズキに会ったのか、何処か幸せそうな笑顔すら浮かんだ。
「やった!」
「みんな、目を覚ましたわ!」
「さあ、コレを飲んで」
「少しずつ、ゆっくり……」
「うぇ…塩っぱい」
「普通の水は……?」
「飲みたく、ない」
辛そうに上半身を起こす子達を支え、アスティアやエリも頑張って水を飲ませていく。
にわかに活気が溢れて、見守っていたカーディルにも笑顔が浮かぶ。辛そうだってヴァツラフすらも、喜びの息を吐いた。
「……やったな、カズキ」
「う、ん……」
フラリと倒れたカズキをしっかりと抱き留める。
アストの目には再び力を取り戻していく言語不覚の刻印が映った。ジリジリと鎖を形作り、グルリと首に巻きつく。
それを悲しげに、そして安堵の色で見詰めるアストはカズキを横抱きにする。もう、眠ってしまったのだろう、ゆっくりとした呼吸を繰り返している。
「お疲れ様……また、救ってくれた。ありがとう」
濡れた衣服の先からもカズキの体温が伝わり、強い愛しさが次々と溢れてくる。堪らず力を込めて抱き締め直す。もう離さないとばかりに、アストは黒髪に唇を落とした。
強い酒の香りの中に、少しだけカズキの匂いを感じた気がして……
見上げた先には、意識を取り戻した子供達と皆の姿がある。首を振れば、父と頷くヴァツラフ。
窓からはもう雲ひとつ残っていない星空と真円の銀月。
アストは、もう一度カズキの美しい顔を見て……笑う事が出来た。
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