黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

a sequel(17)〜街へ〜

 








 面白い……澱の様に溜まっていた精神の疲労が消えて行くのを、ヴァツラフは感じていた。


 以前に見て知っていたつもりだったが、その美貌は群を抜いている。髪も整えたのか後頭部で丸く纏め、首回りの包帯が目に入った。青色の侍女服は新品同様だから、見習いなのは本当なのだろう。


 だがヴァツラフの心を捕えたのは其れ等だけでは無い。


「ヴァッツ……こっち」


 母ラエティティ以外では、兄くらいしか呼ばない愛称を簡単に口にしてカーラは手を引いてくれる。


 誰もが自分から一歩引いて構えている……それは恐怖なのだろう。


 力の刻印への尊敬は当然ある。


 だが万が一にもその力が自分に向けば、魔獣に相対する様に肉体を破壊されてしまう……そんな可能性が頭をよぎるのだ。


 それを感じさせないのは母と兄だけだった。


 手を引き歩くカーラも力の刻印を見たら逃げ出すのだろうか?そんな今迄考えた事もない様な感情が渦巻き、同時に知られたく無いとも思う。


「ふん……下らないな……」


 そう呟きながらも、自身に笑みが浮かんでいるのをヴァツラフは自覚していた。距離を置き付き従う騎士には分からない様に、その笑みはすぐに消える。


 そして、リンディア城から離れていったのだ。


















「何故あちらまで……」


 騎士の言葉に頭を抱えたくなったクインだが、今は結論を出さなくてはならない。


 確かに窓拭きをやりたい様子だったが、膨大な数量に逃げ出しても驚きはしなかっただろう。クインが予想していたよりずっと掃除が上手で、しかも早い。横の窓を見ても手抜きはしていないのは明らかだ。それでもファウストナ一行がいる場所へは行かない様に言い含めていたが、伝わっていなかったのだ。言語不覚は思わぬところで意思伝達を妨げるもの、それは分かってはいたのに……


 流石に止めなければならない。


 余りに長い時間を共に過ごせば、折角の時間稼ぎの意味が無くなってしまう。カズキからカーラへの変装が表沙汰になれば、余計な誤解を重ねるだけだ。首の包帯が取れたり、カズキ自身が間違う事だってあるだろう。それにあの翡翠色した美しい瞳は隠せないのだから。


「私が参ります。ヴァツラフ殿下はどちらへ?」


 場所を聞くと、合わせてアストへ報せる様お願いする。


 そしてクインは、足早にヴァツラフとカズキの元へ向かった。






 曲がり角まで来た時、クインの耳に余り聞いた事のないカズキの笑い声が聞こえて来た。思わず足を止めてしまったのは、あんな風に楽しげな笑い声を上げる事すら知らなかったから。笑顔を見せてくれる様になったカズキだが、微笑と表現出来る笑顔ばかりだった。今更に、声を上げて笑う姿を見た事が無いと気付いたのだ。


 何故か動揺してしまったクインの背後にアストも近づいていたが、やはり足を止めてしまっていた。


「まあ、そんなところだ。俺はまず酔い潰れたりしないから、馬鹿な連中の間抜けな姿を何度も見ているからな」


「ヴァッツ、酒、強い?」


「ああ、負けた事はないな。一度でいいから記憶を無くしてみたいくらいだ」


「凄い!私、悔しい!」


 多分悔しいではなく羨ましい……だろうが、驚いたのはヴァツラフの愛称らしい名前を既に呼んでいる事だ。ほんの僅かな時間なのに……ふと背後を振り返れば、アストが複雑な心境を表しているのが見えた。


「カーラも酒が好きなのか?」


「大好き。毎日、飲む、欲しい」


「俺も大好きだが、情け無い事に母も兄も酒に弱くてな。飲み倒したくても難しいんだ」


「飲む、行こ?」


「ん?」


「一緒、二人」


 クインは顔が青くなり、我慢出来なくなって飛び出した。


「カ、カーラ!駄目ですよ!」


 女性からお酒を誘うなど、カズキは意味が解っていないのだ!カズキの生きた異世界では常識が違うのかもしれないが……


「お前は……確かクイン、だったか?」


「し、失礼しました。聖女カズキ様の専任侍女、クインです。それとカーラの教育係を務めております」


「ああ。クイン、心配するな。別にで捉えたりしない。カーラは分かっていないのだろう?」


「……殿下のお心遣いに感謝致します。カーラには後でしっかりと教えておきますので」


 ヴァツラフが理知的に対応してくれて、クインは助かっていた。


 女性から酒に誘い、男性が受ければ……つまりは夜を共にすると言う事だ。カズキは酒が飲みたい一心だろうが、クインは心臓が止まりそうだった。


 カズキを見ればキョトンとしていて頭が痛くなる。先程自らの貞操をヴァツラフに捧げるところだったと理解出来ていないのだ。恥じらいどころか女性としての常識すら知らないカズキに、クインは大きな不安を覚えていた。


「ヴァツラフ王子……見習いとは言え、失礼した。案内の事は聞きました。誰かを付けますので」


 同じく焦りを隠せていないアストが現れ、その雰囲気にヴァツラフは違和感を感じた。両国の会談時すら飄々と対応していたリンディアの王子とは思えない姿だ。間違いなく何かが心を乱している。そしてそれはファウストナにとって悪い要素ではない。


「アスト王子、気にしないで欲しい。それと……先程カーディル陛下が胸襟を開くと言ったが、せめて我等だけでもどうだろうか?俺は元々畏まった態度が苦手でね」


 態とらしく肩を竦め、後半は砕けた言葉に変えた。ヴァツラフとしては、年の近い王子として友に近づいていければと腹心もあったが。


「……そうだな、公式の場以外はそうしよう。ヴァツラフと呼んでも?」


「ああ、アスト。改めて宜しく頼む」


 これで何度目かの握手をして、アストの碧眼はヴァツラフの琥珀色した瞳を見た。


「話を戻そう。リンスフィアを好きなだけ見てほしいが、このカーラはそもそも街を良く知らないんだ。普段は城にいるし、案内には不向きだと思う。詳しい者を付けるから……」


「気にしないでくれ。寧ろその方が楽しいかもしれない。俺は、在るが儘のリンスフィアを見てみたい。それに見習いと聞いた。この広いリンディア城の運営に大きな影響を与えたくない」


 隠し事なぞ無いのだろう?そうヴァツラフは言っている。そして、見習いなら居なくても負担にはならない筈だ。


「……しかし、カーラは少し言葉が……」


 言いたくは無いが、アストに焦りがあったのだろう。すぐ側にカズキが居る事を失念していた。


「私、大丈夫、嫌、言葉」


 間違いなく苛立ったカズキに、アストは言葉が詰まる。大丈夫だし、嫌な事を言わないで。そう言っているのだろう。


「ち、違うんだ……カ……」


「ヴァッツ、行こ?」


「カーラ、勝手には行けない……お、おい……!」


「失礼、します。殿下?」


 カズキは適当に挨拶を済ませると、ヴァツラフをグイグイと引っ張る。知らないとは言え、力の刻印を刻まれた自分に遠慮が無いカーラにヴァツラフは言葉を失う。温かい小さな手を感じて、少しだけ喜びを覚えたのも事実だ。


 ヴァツラフが慌てて振り向いてもアストは動いていなかった。いや、動けないのか。


 何処か異様な空気を感じ、ヴァツラフは抵抗せずにその場を去るしかなかった。離れて見守っていたノルデが首を縦に振り二人について行ったのがアスト達には、せめてもの救いだろうか。


「殿下……」


 そのクインからの問い掛けにも答える事が出来ず、カーディルの言葉を思い出していた。


 まだ色恋には疎そうだが、そのうちに理解する。だがその時、隣がお前である保証などないのだ……カーディルはそう言ったのではなかったか。


 自分は自惚れていたのではないか?カズキは自分を見てくれていて、これからも隣に佇むと。


 二人は愛を誓った仲ではないし、あの口吻だって深い意味があったのか確認した訳ではない……


「カズキ……」


 こんな気持ちになるならば、もっと強引に強く抱き締めれば良かった。何度でも愛を囁き、肌を合わせ、決して離したりしないと伝えるべきだったのだ。


 その子はたった一人しかいない聖女だと、連れて行かないでくれと、叫ぶ事すら出来ずにアストは立ち竦むばかりだった。
























「あのパン、美味し」


「森人、強い」


「みんな、優しい」


 聖女カズキ改め、見習い侍女カーラは言葉少なくもヴァツラフを案内していた。とは言えリンスフィアの何処に何があるかなど殆ど知らないのだ。後半は街の案内ですらない。


 数歩離れてノルデ達数人の騎士がついて来ているが、二人の会話に混ざる事はない。当たり前だが、ノルデから見れば敬愛する聖女と他国の王子だ。恐れ多くて呼ばれなければ距離を縮める事すら考えていなかった。


「カーラ、最後の戦いの場所は分かるか?」


「戦い?」


「魔獣が沢山来ただろう?その時、聖女カズキ様が歩んだ道と城壁を見てみたいんだ」


「聖女……様……」


「ああ、カーラは会った事あるのか?」


 気楽に聞いたつもりだったが、ヴァツラフからすれば予想外の反応があり驚いてしまう。


「別に……弱い、人。助けた、自分。違う……」


 会った事があるのは直ぐに分かったが、他の者とは明らかに違うのだ。正直言葉の意味は理解出来なかったが、否定的な響きにヴァツラフは目を細めた。


「何か知ってるのか?」


 母が知りたい情報は此処にあるかもしれない……やはり何かがおかしい。声を潜め、騎士達に聞こえない様にする。


 だが、顔を上げジッと視線を合わしたカーラに、ヴァツラフは何故か怯んでしまう。美貌は知っていたが、その瞳が余りに美しい事に今更気付いたのだ。そして、その奥に在る何かが自分を見ている事も。


「何故、知りたい?」


「何故って……」


 それは誰もが知りたいだろう。世界を救済した聖女がどんな女性で、どれ程の慈愛を持つのか。子供から大人まで、会えるなら会いたいと熱望している筈だ。今迄聞いた者の全てが、例外無く称賛を惜しまない。中には恍惚と宙を見詰めながら、まるで神々を見たかの様に言葉を詰まらせる者までいた。


 だが、目の前の侍女見習いだけは違う。


「聖女、違う、ない。探し、こと、無し」


「我等と変わらない。探すまでもない?」


「そう」


「カーラ、一体なにを……」


 圧倒されている?俺がカーラに?


 ヴァツラフは横を歩く小さなカーラが、別の何かに感じ始めていた。ついさっきまで可愛らしい侍女見習いの少女だと思っていたのに……


「この場所」


 いきなり立ち止まり言葉を紡ぐ。次の台詞を探していたヴァツラフは止まれずに慌てた。


「なんだ?」


「髪、切った。沢山、怪我、人が多い」


 丁度広場に差し掛かり、カーラが呟く。


「髪?」


 いきなり過ぎて訳がわからない……戸惑ってしまうヴァツラフだが、直ぐに理解した。カーラが先程の自分の要望通りに案内してくれていると。


 まるで自分が髪を切ったかの様に、その仕草まで再現してくれたのだから当たり前かもしれない。


「此処であの黒髪を切って捧げたのか……?」


 幾つかの証言を聞いていたヴァツラフには、黒髪なびく聖女と周囲に大勢の負傷者が幻視された。魔獣にやられたり、重度の火傷を負った者達で溢れていたのだろう。城から歩み来た聖女が無言のまま髪を捧げ、命を繋いでいた騎士や森人を癒したのだ。


 自身も癒しを浴びた者として、その想像は容易だった。


 感慨深く周囲を見渡したヴァツラフだったが、教えてくれたカーラは特に何も感じていないのか、そのままスタスタと歩み出した。まるでどうでもいいとばかりの態度にヴァツラフの違和感は益々募っていく。


「あっち、城壁……?」


 最後の決戦、その場所だろう。


 見れば確かに組み上げたばかりの城壁が遠くに見えた。魔獣の突進により崩落した城壁で間違いない。


 ならば今自分が歩くこの石畳こそ聖女が歩んだ道なのだ。母ほどに敬虔な信徒では決してないが、それでも背筋が伸びる。街の喧騒が今になって耳に届き、平穏が取り戻された事を実感する。見渡せば住民達が興味深そうに此方を見ていて、笑ってしまった。


 暫く歩けば、見上げる高さを持つ城壁の元へ到着した。山の様なこの壁が崩れて来たら、確かに絶望しかないだろう。


「このあたり、アスト、いた」


 地面を指差し、カーラは何かを思い出したのか微笑を浮かべる。それが綺麗で侍女見習いが王子を呼び捨てした事に気付かなかった。


「此処で腕と魂魄を捧げて……あの白い光はファウストナまで届いたのか……」


 10日以上かけて旅して来たあの距離すら聖女には関係が無かったのだろう。改めて、聖女の偉大な癒しを感じるヴァツラフだった。


「しかし、カーラはよく知ってるな。案内役に指名して正解だった。聖女カズキ様はマリギだったか?一度でもいいから、お会いしてみたいものだ」


「会いたい、の?」


 その顔は何故?と言っていた。


「俺も祖国も救われたからな。会ってお礼くらい伝えたいものだろ?」


「ふーん……」


「なんだ?」


「お礼、要らない。ただ、弱い。それだけ。もっと沢山、助けて、出来た。だから」


 さっきと一緒だ。


 聖女を敬うどころか、寧ろ……


 多くの疑問が頭に浮かび、それをぶつけたい。そう思っているのに、ヴァツラフの唇は言葉を吐き出したりしなかった。カーラの横顔が余りに哀しげだったから……


「行こう?」


 再びヴァツラフの手を取り、カーラは次の場所へと促す。


 やはり興味もないのか、いずれ記念碑の一つも建つだろう救済の場所を振り向きもしない。


 だがヴァツラフは救済の真実を知りたい欲求と同じくらい、カーラに惹きつけられていくのを感じていた。


 だから、何も言わず手を引かれるままにその場を後にするしかなかったのだろう。















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