黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
a sequel(16)〜二度目の邂逅〜
ゴトン……
会談に向けた各書類が飛ばない様、重しを置こうとしていた時だった。余りの驚きにアストは重しを机の上に落としてしまう。それは中々の音だったが、固まったアストは動いていない。
「殿下?アスト、お茶、どぞ」
何とか意味を汲み取る事は出来た。
まあティーワゴンを押して入ってくれば、当たり前ではある。当然だが、驚いたのはそれでは無い。
「カズキ……何をしてるんだ……?」
「私、カーラ?です。アスト」
カチャカチャと中々の手際で用意しながら、答えるカズキ。するとその手が止まり、顔を上げてアストを見る。
「殿下」
殿下を付けるのを忘れたらしい。
「……成る程。そういう事か」
「御理解が早くて助かります」
「クイン……」
カズキの後ろに控えていたクインは、淡々と言葉を並べる。
再びお茶の用意に戻ったカズキを見ながら、アストは苦笑するしかない。
白いブラウスに深い青色の侍女服を重ねたカズキは、変色してしまった髪を一纏めにしている。エリと比べると低い位置だがお団子に纏めていて、カズキを何時もより幼く見せている。首の包帯が目立つが、如何にも見習いですと分かる格好だ。
「カーラ、か。"パウシバルの指輪"の聖女の名前だったかな」
「はい。アスティア様が名付けられました」
「しかし……侍女を?」
一見華やかな役目だし、事実羨望の目を向けられる仕事だ。しかし、当然ながら楽なものではなく、覚える事も多い。昔の様に雑務を下女に投げる事も出来ないので、実際は目の回る様な忙しさだ。
クインに仕込まれたのか、見事な香りを放つお茶がアストの前に置かれた。
「見習いです、殿下。それに今は……」
「ああ……そうだな……」
再び心も身体も傷ついたカズキが何か気を紛らわす事が出来たらと、そんな苦肉の策なのだろう。本格的に侍女をして貰う訳ではないし、クインも付いている……アストは無理矢理納得した。しかし同時に、カズキが手ずから入れてくれたお茶を飲めて幸せだとも思う。
「美味しい……カズキ、初めてなのに上手だな」
赤ら顔……には残念ながらなっていないが、褒められて嬉しいのか僅かに笑みが浮かんでいる。
「うん。あと、名前、カーラ」
「そうだった。カーラ、美味しいよ」
「アスト、今日は?大変?」
「ん?」
「……殿下」
また忘れたらしい。ついでに言えば王子に対し今日はお仕事大変なの?と聞く侍女など居ないが。
「そうだな……来客があるから、少しだけ大変かもしれない」
実際には大変どころでは無い。和平の要、友誼を繋ぐ鎖である聖女が不在なのだ。利用などしたい訳では無いが、その存在は非常に大きい。ただ其処に居てくれるだけで、その場は祝福されるのだから。
「ラエ、ティティ?」
カズキが友達を呼ぶ様にファウストナの女王の名を語り、アストは思わずギョッとしてしまう。アストが何気無くクインを見れば、溜息をついたのが分かった。
「そうだ。カズ、いやカーラ。ラエティティ女王陛下だよ。君が侍女をするなら気を付けないと」
本当はラエティティだろうが、カーディルだろうが、好きに呼んでも良い。神々の寵愛を全身で受ける聖女には、現世の地位など意味を為さないだろう。しかし、リンディアの侍女ならば話は違ってくるのだ。
「分かった」
しっかりと頷くカズキを見て、アストは再びクインに合図を送った。ラエティティの前には姿を見せない様に……そう言う意味だ。当然クインも分かっていますと合図を返した。
まあ、直ぐに飽きて部屋にでも戻るだろう。その内に酒でも飲みたくなって、エリあたりに会いに行くかもしれない……そう内心苦笑したアストは、少しだけ冷えたお茶を口に含んだ。
残念ながらアストの考えは大きく間違っていた。カズキが無職である自分を憂い、必死で就職活動中だとは思いもしないのだ。今は試用期間で、必要以上に頑張らないと!などと決意しているなど想像もしていなかった。アストやクインには可愛らしい聖女にしか見えてないし、実際は掃除洗濯もお手の物などと知らないのだから。
最近の聖女……彼女がやる事なす事は小さな波乱を巻き起こすという事実に、二人の自覚は足りてなかったのだ。
「聖女様がお留守?」
「ああ、どうやらそうらしい。この後リンディア王から説明があるだろうが、間違いない」
カズキがアストの名前に殿下を付け忘れていた頃、ラエティティはヴァツラフと会談前の打ち合わせをしていた。
通常なら内外務を司る大臣がいる筈だが、残念ながらファウストナにそんな余裕は無い。国と言ってもリンディアの街一つと変わらない、いやそれ以下の状況だ。結局はラエティティが全てを決断するしか無く、幸か不幸か女王にはその能力があった。
二人が居るのは所謂貴賓室だ。
ヴァツラフは別の部屋だが、今は女官を除けば二人だけだった。扉の前には正装に召し替えたファウストナ戦士団が居て、離れた場所からはリンディア騎士達が警護に当たっている。
扉や壁は厚いが、何処で聞かれるか分からない以上、余り不用意な会話は控えていた。しかし、ラエティティにとって聖女への拝謁は主目的と言っていいのだ。カーディルとの会談と合わせ、絶対に外せない要件だ。
「……おかしいわね。事前にリンディア王国へ通達は出していた筈。日程だって1日もずれていないのよ?」
「ケーヒル副団長が言うには……それが事実ならだが、聖女の行動には制限などしていないそうだ。神々の使徒、しかも聖女となれば人が口は出さない……まあ、理解は出来る」
「ヴァッツ……聖女様、よ。言葉に気を付けなさい。此処は他国でカズキ様が住む城なのよ?私ですら不遜に感じるのに、いきなり斬りつけられても文句は言えないわ」
「ああ……悪い。副団長の言動を見聞きすると、つい身近に感じてしまって……確かにその通りだ」
ヴァツラフにも悪気がある訳では無い。ファウストナと多くの民を救ってくれた聖女を敬っている。だが、何処か実態の掴めない不思議なお人なのだ。
「先ずは話を聞かないと進まないわね。両国の会談に聖女様がいて頂く必要は確かに無いけど……正直、残念だわ」
「間に合う様に帰って来るらしいが、確実とは言えないな」
元々ヴァツラフは言葉遣いが良い方では無いが、ラエティティは教育を疎かにしてきたツケが回ってきたと溜息をつく。帰って来る……聖女様は友達か知り合いかと問い詰めたくなる。
「貴方は黙ってなさいよ?お願いだから」
「……分かってる。アスティア王女にも勝てる気はしないからな」
勝ち負けじゃないからね……内心ラエティティは決意した。教育をやり直しだ、と。
「今日はお互い様子見になるでしょう。ヴァッツは時間が許す限りリンスフィアを散策して、気付いた事を教えなさい。些細な情報も今は必要なんだから。但し……失礼はない様に、羽目を外し過ぎないで」
「俺は餓鬼じゃない。それくらい分かってる」
「そろそろ時間でしょう。行きますよ」
「はっ、ラエティティ女王陛下」
無理矢理に切り替えた二人は、丁度鳴った扉を叩く音に立ち上がった。
いよいよ、リンディアとファウストナ両国の会談が始まるのだ。
臆してはならないと、ラエティティは気付かれないよう気合を入れていた。
正直に言えば、この会談に勝利など無いだろう。そもそも両国の間には埋める事が出来ない国力の差があり、対等な関係など有り得ないのだ。カーディルが一言開戦と言えば、その瞬間にファウストナの滅亡は決まってしまう。
此処で騙し討ちなどは先ず考えられないが、実際のところは何も分からない。
ラエティティの肩には、ファウストナの民の命がのし掛かっているのだ。勝利は無理でも、何らかの答えを持ち帰らなければ……
そんな健気な決意をしていたラエティティだったが、案内された広間に入った時には全てを忘れてしまった。目の前には何度も何度も文献や物語に描写され、夢にさえ見たあの場所があったからだ。
「白祈の……間」
勿論白祈の間そのものに入った訳ではない。あれはリンディア王家しか入れない特別な場所なのだ。自分達が立つのは手前の広い空間。元々は広間ですら無く、通路とは間違っても言えない程の広さを持つ白祈までの路だ。
其処に態々運んで来たであろう巨大なテーブルと、ピッタリ人数分の腰掛けがある。少し離れた場所にある机は書記用だろう。そして、リンディア王カーディルその人が居て、隣に立つのアスト王子で間違いない。一度会ったアスティア王女の姿は無いようだ。警護の騎士や戦士達が随分遠くに感じられる。
「女王ラエティティよ、よくご存知だ。ひと目見て白祈の間と判るとは……随分と博識だな」
もう後悔しても遅い。呆然と呟いた言葉は聞き止められ、思わず放心仕掛けた心すら見透かされただろう。何より、カーディルの堂々たる立ち姿よ。アレこそが世界に冠たるリンディアの王なのだと、ラエティティは理解させられた。
「本来の会談を行う場所は他にある。しかし、我等が此処に生きて居るのは聖女カズキの救済のお陰。そして、神々の祝福があったからこそ。なれば神々の御前に感謝しつつ話がしたいと思ってな。白祈の間をご存知なら、決して礼を欠いてないと理解頂けるだろう。寧ろ説明する手間か省けたというものだ」
「神々が祝福して頂けると信じています……お待たせしましたか?」
聖女カズキ様が此処にいれば、それはもっと素晴らしいことだっただろう……ラエティティは思ってしまう。白祈の間から尊い空気が流れて来るかのようだ。
「ん?何を言う?此方こそ、長らく待たせてしまった。遠くファウストナよりよく来てくれた。改めて名乗ろう。私はカーディル、カーディル=リンディアだ」
待たせた……実質的救援となったケーヒル達の事……最早立場は決しているとでも言うのか……呑まれてしまった自分を叱咤し、カーディルの青い目を見返した。
「手厚い歓迎に感謝します。私がファウストナ海王国の女王、ラエティティです。コレはヴァツラフ……」
「ヴァツラフ=ファウストナ。第二王子として臨席させて頂きます。陛下の御前に立つ光栄に感激しております」
「うむ、其方がヴァツラフ王子か。ケーヒルから一流の戦士と聞いていたが、目の前にすれば、一流どころか稀代の戦士と分かるな。そう思うだろう。アスト」
「はっ!陛下の言われる通りです。近くに立つと圧倒されますね。ラエティティ女王陛下、ヴァツラフ王子。私はカーディル陛下の子、アストです。この会談が実り多き事、お祈りしております」
この男が……僅かに漏れ伝わる噂では、聖女カズキ様に想いを寄せるリンディアの王子。次期リンディア王にして、もしかしたらカズキ様を王妃に迎えると……ラエティティは男にしては美しさを感じるアストに、何処か納得すらしてしまう。
「では、二人とも座ってくれたまえ。お互いに胸襟を開こうではないか」
カーディルの声は広い空間に響き、会談の開始を皆に伝えた。
予想通り、今回の会談は挨拶程度だったと言っていいだろう。互いの状況は少し話したが、殆どは聖女カズキの救済についてだった。ケーヒルから聞いていたが、直接目の前に見たアスト王子の証言が事実であれば何処までも尊い行いだと思う。母ラエティティではないが、直接会えないのは本当に残念だ。
「北の街マリギ復興に助力か……カーディル王は間に合うと言っていたが……」
ヴァツラフにはラエティティより指示が出ていた。リンスフィアに下り、王都の状況を知る事。そして救済の詳細を調べ、リンディアが話す内容の裏付けを追う。無論リンディアのお膝元で何処まで真実に迫れるかと疑問には思う。しかし情報の統制など完全には不可能だし、街の規模が違い過ぎる。
もし嘘が紛れるなら、必ず綻びがあるーーー
ラエティテが何を心配しているのか、本当のところは分からない。息子である自分から見ても彼女は頭の切れる女性だ。だから忠実に指示を全うするしかない。
城内と有名らしい庭園を案内され、興奮を隠せない母に僅かな不安が過ったのは無視する。まあ確かにあの庭園と泉、中央の小島と大木には思う事もあったが……ヴァツラフは分からない様に苦笑した。
「ん?」
廊下を歩いていたヴァツラフは視界の隅に動く物を捉えた。数歩離れて付き従う騎士と先導する女官は気付いていない様だ。
ファウストナではまずお目にかかれない巨大なガラス製の窓、その外側だろう。窓と言っても長く続くベランダに出られる様で、ガラス扉と言っていいかもしれない。
最初に気付いたガラス扉には誰もいないが、約五歩分程度離れた次の扉に人影が見えて、ああ拭き掃除か何かと納得する。
「あの娘は……」
直ぐに分かった。
手が届かないのか木箱を移動し、目一杯背伸びをして拭いている。段々と下に降りて来ると、膝を折り曲げて隙間無く磨いていった。拭き掃除は丁寧な仕事だが、自らに無頓着なのかスカートの中まで見えてしまっている。
「確か……カーラ、だったか」
今更女の下着を見たからと慌てたりしないが、大丈夫なのかと心配になった。この城で出会う侍女達は自国の女官よりも遥かに洗練された者ばかりだった。中には唸りたくなる様な所作を当たり前に行うのを見て、大国の偉容はこんなところにも表れるのだと納得したりしていたのだ。
だが彼女だけは全く違う。下品とは言わないが、女性らしい嫋やかさを殆ど感じない。はっきり言えば異質と言っていい。確か言葉も不自由で、幼さも感じるが……
そしてヴァツラフは思いつき、足を止め振り返った。
「ヴァツラフ殿下。如何なさいました?」
付き従っていたリンディアの騎士が、同時に足を止めて問い掛ける。
「先程の話……街の案内役だが」
「はい。ケーヒル副団長がお供したいとの事ですが、生憎席を外しております」
「他の者でも良いか?諸君らも同行して貰いたいが」
監視役はつくのだろう?
「それは勿論です。陛下からは殿下の散策を妨げてはならないと聞いておりますので。街に詳しい者を付けましょう」
「いや、思い当たる者がいる。誰でも良いなら指定したい。構わないな?」
隠し立てが無いなら否定出来ないだろうと、少し語彙を強める。
「はっ!では呼んで来ましょう。誰ですか?」
「いや、呼んで来てもらう迄もない。あの侍女にお願いする。断っておくが下世話な意味ではない。ラエティティ女王陛下とも面識があって、私も会った事がある。アスティア王女が保護しているのも知っているからな」
指差す先には一生懸命窓拭きを続けていた灰色の髪を揺らす侍女見習い……聖女カズキが変装したカーラがいる。
騎士が身体を震わせて動揺したのを見て、この考えに間違いないと確信する。
やはり彼女はある意味で不可侵な存在なのだ。アスティア王女自らが探しに来る程で、気に入っているのだろう。それを知る皆からはもしかしたら在る隠し立てや、情報の統制が及ばないのではないか?
それにあの"引っ張られる"感覚が何なのか興味がある。
「で、殿下……あの者は、多少言葉が」
「不自由なのだろう?知っているから構わないし、話は此方でするから気にしないでくれ。私はただ、この偉大なる王都を学ばせて貰いたいだけだ。これはラエティティ女王陛下の願いでもある」
母の名を出せば、騎士には反論は出来なくなった。
「……少々お待ち下さい。聞いて参ります」
もう一人の騎士を残し、そう返した彼は足早に立ち去って行く。
面白くなってきた……ヴァツラフは周囲に分からないよう笑いを浮かべた。
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