黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
a sequel(14)〜聖女の座す街〜
ある日、あるパン屋ーーー
「はいよ!最後の大麦パン4つだ」
騎士か森人かと疑いたくなる鍛えられた腕を伸ばし、パン屋の親父は商品を渡した。まだ十分明るいが、暫くすれば空は紅に染まり、やがて星々の光が降るだろう。そんな街中は未だ眠りそうにない。
馴染みの客は最後のパンを革袋に入れて、ありがとうと返した。
「しかし……どれも美味いから不満は無いけど、大麦パンが最後とは驚きだよね」
「ああ、肉や果実を使った高いパンから売れていくよ。ほんの少し前は死ぬもんだと思って、道具を仕舞ったりしたんだが……今でも夢の中にいるみたいだな」
「参ったな……早く来たくても時間が合わないよ……」
「ははは……アンタなら取り置きしておくさ。必要な時は朝に注文してくれりゃいい」
「ほんとかい!?それはありがたいよ。親父さんのパン以外は食べる気しないからね」
「そこまで気に入ってくれるのは嬉しいが、其処まで美味いか?材料も腕も普通だがな」
照れ臭そうにしながらも正直に本音を話す。実際、パンは誰もが食べる主食で何処でも手に入る。心を込めて作ってはいるが、それは他の店でも同じだ……そう思う親父は謙虚だった。
「親父さんのパンは最高さ。それに……アレを知ったら他には買いに行けないよ」
大きな矢印が指し示す木製の壁は、パン屋の看板より目立っていた。近くで見ないと分からないが、其処には折れたパン切り包丁の刃先が突き立っている。少し錆び始めたそれは、ご丁寧に小さな屋根が設けられて雨露を凌いでいるようだ。
「今でも思い出すなぁ……坊主は元気か?」
「ミーハウかい?そりゃ元気一杯さ!寧ろ元気過ぎて大変だよ……妻も私も苦笑いするばっかりだ」
「そりゃそうか。何せ聖女様の癒しを受けた訳だしな。今だから言えるが、ありゃ助かる怪我じゃなかったぞ?正に聖女様の御慈悲だな……」
「妻から何度も聞いたよ……でっかい丸太に押し潰されて今にも死んでしまいそうだったってね。そうしたら天から聖女様が舞い降りて、恐れ多くもその身体に抱き締め……瞬きする間にミーハウの怪我は消えてしまった。直接感謝を伝えたいけど、お会い出来るものでもないし……」
親父は店先に残る道具を片付けながらも、嬉しそうに言葉を返す。
「ああ、その後さ。聖女様が走り出して……その壁をササッと登っていっちまった。包丁はその時に支えにしたんだ。何て言えばいいか……人から礼を言われ慣れてない、いや感謝なんて必要ない。そんな感じだったな」
「慈愛と献身、だよね。聖女様は自分の血を捧げて癒しを与える……後から聞いたよ」
「ほんとになぁ……今や世界を救ってくれた方だ。あのパン、食べてくれたか聞いてみたいもんだ」
「親父さん、目の前で見たんだろう?」
羨ましい。その気持ちを隠しもせず、片付けを目で追う。
「目の前どころかあの包丁を渡したからな……最初は何がしたいのか分からなくて困惑したぞ。自らの御召し物を裂いて、ミーハウの血のりを拭った時は言葉が無かったな」
「……やっぱり何か御礼をしたいな……」
「聖女様が望んでいるとは思わないが、献上品を贈る奴は多いみたいだな。アンタも考えてみたらどうだ?」
「献上品か……ありがとう、親父さん。合わせてミーハウに手紙でも書かせてみるよ。例え読んで貰えなくても、何かしないとね」
「そりゃいい。きっと読んで下さるさ」
「はは……じゃあまた」
「おう、またな」
二人は今の平穏と時間に感謝しながら別れた。それはリンスフィアの凡ゆるところで起きている一場面だった。
リンディアの王都リンスフィアは、多くの犠牲者を出した先の戦争から立ち直りつつある。
戦死した騎士や森人の家族から哀しみが消える事は無いが、誇りある彼らの家族も気高い人々だ。戦場に死はつきもので、覚悟は済ましていたのだろう。顔を上げ、前を向き歩き始めている。
森から絶えず供給される資源……それは食料であったり、薬だったり、木材や水だ。人が生きていく上で必須な物資が市場に流れてくれば、自ずと活気は取り戻されていく。
薪や油の不足も解消されつつある今、リンスフィアのあちこちに明かりが灯り夜すらも眠りはしない。
酒を酌み交わす彼らが最初に口にするのは、聖女への感謝だった。大多数とは言えないが直接に癒しを目撃した者が居て、如何に救済が成ったかを知らしめる。たった一人の少女が自らの死を恐れずに戦った。その美しさも相まって、カズキの名を知らぬ者など居ない。
だから、酒場や家庭でも祈りは捧げられている。
パン屋に限らず、直接聖女に会った者はある意味で人気者だ。絶えず話をせがまれて疲れ果てる者までいるらしい。
それでも、その者から笑顔は消えたりしない。目を閉じれば、今も聖女の姿が頭に浮かぶのだから。
ある日のある絵描きーーー
「おかしいな……」
彼は聖女を間近で見ると言う幸運に見舞われた。
徐にナイフを抜いた聖女は躊躇う事も無く、あの有名な黒髪を切り離した。呆然と見ていたが、散り散りに空を舞った髪の一本一本が淡い光に溶けた時に奇跡が周囲を包んだのだ。
偶然に飛んできた黒髪は掌の中で消えてしまった。それでもあの僅かな感触は忘れる事など出来ない。自身の知り合いも命を繋ぎ、それどころか世界すらも救った。だから、絵描きは何時も聖女を描く。
決して金儲けをするつもりは無い。だけど、実際に尊い聖女の姿を見た絵描きなど少なく、ましてや自分はすぐ側に立っていたのだ。咽喉元に刻まれた刻印は今も記憶に残っている。自分より腕の上等な者は多いだろうが、心を込める信心だけは負けたりしない。
最近は朝早く起き出し、知り合いの家の屋根に登らせて貰っている。
聖女は天気の良い日には必ずベランダに姿を現す。黒の間……現在は聖女の間となったそのベランダに黒髪を揺らす聖女が立つ。その姿を目にする時、身体中を幸福が襲い震えてしまう。遠いため黒髪同様に有名な翡翠色の瞳は見えないが、その瞳が映す景色に自分が居ると思うと、言い様の無い幸せを感じるのだ。
「これだけ天気が良い日に二日も……」
昨日今日と聖女は姿を見せてくれない。無論不平など言うつもりは無いが、何かあったのかと心配になってしまう。
絵筆を手にしたまま未完成の作品に目を落とす。
尊いお姿をリンディア城と共に描いたコレは、未だ完成には遠い。何度描いても満足出来ない聖女の姿に今日こそはと意気込んでいた。
「お身体に不調など無ければいいが……救済をあの小さな身体で起こしたのだから、何らかの負担があってもおかしく無い」
傷ついた聖女も目にした絵描きには、尊くも儚い……そんな美しい姿が目に浮かぶのだ。
顔を上げればリンディア城の全景と3本の尖塔が目についた。見飽きた風景なのに、聖女の姿が無いと価値は半減してしまう。風景画を多く描いて来たが、景色に隠れた人々にこそ魅力があると今なら分かる。人を描かずとも絵の中に命を宿すのだ。
聖女の存在は、そんな当たり前の事を思い出させてくれる。
だから今日も、絵筆を持ったまま佇むだけ。
そして祈りと感謝を捧げる。
いつか描いた絵を聖女に見てもらえたら……叶わぬ夢と知りつつも絵描きは日々を生きていた。
新人舞台女優ジネットーーー
じっとりと手に汗を感じ、逃げ出したくなる。
「座長……私には無理ですよぉ」
「無理なもんか!お前なら出来る!」
「先輩達にお願いして……ほら、この間のあの人なんて」
「こんな機会なかなか無いぞ!主演だぞ主演!お前の夢だったじゃないか!」
「……座長」
「なんだ?」
「私、知ってますから」
「な、なにを?」
「断られたんですよね?皆さんが恐れ多いって」
「うっ……!」
「私だって無理ですよ!怖くて街を歩けなくなったらどうするんですか!」
「こ、断られたのは事実だ。だけど、俺はお前なら出来ると分かってるんだ。普段気弱な奴だが……舞台に上がれば役が舞い降りる。お前には天性の才能があるんだ。それは前から言ってるだろう?」
「そう言って貰って嬉しいですけど……無理です」
「なんでだよ!?俺が此処まで頼んでるんだぞ!」
「でーすーかーらー……」
聖女カズキ様の役なんて、恐れ多くて無理なんですってば!!
新人の舞台女優ジネットの魂魄の叫びが部屋に木霊した。
座長のロヴィスは偶然に恵まれて、ある騎士から話を聞く事が出来た。
その騎士は間近で聖女の癒しを目撃した。最初の一花が咲く瞬間すら見た彼は、如何にして聖女が癒しを齎したのか、その全てを見ていたのだ。
魔獣に吹き飛ばされた腕、流れ行く血潮、アストへと伸ばされた手、そして……
気付いた時には世界に慈愛が降り注ぎ、魔獣は姿を消した。
誰もが歓声を上げている中、聖女は力無くアストに体を預け、そして見えない慟哭が王子から吐き出された。
騎士は見たそうだ。
聖女は自らの苦痛も血肉にすら目もくれず笑顔を浮かべていたと。
それを聞いたロヴィスはまるで天啓を受けたが如く脚本を書き上げ、間違いなく最高傑作だと確信した。そして何としても舞台に昇華させ、神々と聖女へ奉ずるのだ。
だが……最初から躓いてしまう。
肝心の聖女を演ずる女優が尽く辞退していく。理由は皆同じ、恐れ多くて出来ないと。過去の王族や神々すら演じた俳優が声を揃えるのだから堪らない。
確かに聖女カズキは今もリンスフィアに座す。過去や想像の産物などでは無い。それでもロヴィスはこの脚本を諦めたくなかった。聖女は誰もが知る献身と自己犠牲を体現する使徒だ。何も望まず、ひたすらに癒しを与えたと聞く。
だが、本人が望まずとも……世界と人々を救った事に心から感謝の気持ちが溢れてくるのだ。その気持ちをロヴィスは脚本に書き上げるしか出来なかった。ただ、それだけだ。
このままには出来ない。
劇場に聖女が来る事は無いだろう。それでも……聖女がどれほどの大変な想いをしながらも、我等を救済したのか皆に知って貰いたい。
「ジネット……」
「なんですか?」
「お前は聖女カズキ様がどんな風に救済を果たしたか知っているか?」
「え?そんなの誰でも知ってますよ。あの有名な黒髪を捧げたんです。光に変わって人々は癒されたって。私は見て無いですけど、友達の子はあの場所に居たから教えて貰いました」
やはり……騎士や森人が知る事実とは違うのだ。無論黒髪を捧げたのは間違いない。目撃者も多く、あそこには治癒師や多くの民がいたのだから。だからこそ、その後の決戦で聖女が全てを捧げた事を知らない者がいる。あの少女が腕も血も、そして魂魄さえも……自らを顧みず捧げた事を。
本人は誇る事もなく、吹聴もしない。
真実は一部の人しか知らないのだ。最近は自分も怪我や病気をしたから治して貰いたいと気楽に話す者すら居ると聞く。それを聞くたびにロヴィスは血が沸き立つのだ。それが如何に不遜で、許されざる事なのか知らないのかと。
「やはりか……」
「座長?」
「コレを見てくれ。言っておくが、想像や脚色なんてしてない。ある騎士から何度も聞いて確認した事実だ。街の皆は何も分かっちゃないのさ。俺は聖女様が何をしたのか……いや、どれほどの慈愛をお持ちなのか、それを知って欲しい」
ジネットは不安を隠せずに、しかしロヴィスから受け取った。
それはロヴィス自筆の脚本だ。不思議な事に題名も作者名すら書かれていない。脚本と云うより、何かの記録の様に見えた。ただ"聖女カズキ様の慈愛"とだけ記されている。
そして……ジネットは涙する。
何処か遠く他人事だった聖女は、儚くも尊い人だったと知ったのだ。決して不死でも無いし、自分達と一緒で痛みも哀しみも持つ少女だと理解することが出来た。
「分かりました……私では力不足ですが、これは伝道書なのですね。リンスフィアに住む、いえ世界の誰もが知る義務があります。カズキ様は偉大なる聖女。慈愛と献身の使徒、それを少しでも伝えなければ……」
「ああ……頼む」
「精一杯……やります」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
稀代の大女優ジネット=エテペリの代表作は?
そう聞かれたら誰もが簡単に答えるだろう……決まってる、聖女の座す街、だと。
当初、ジネットが聖女を演ずる事に難色を示していたと知っているだろうか?数多くの物語にすら描かれたジネット本人だが、その実態は思いの外知られていない。
彼女は自伝を残さなかった。
私はただ伝えたかっただけ、演じたのではなく伝導書を読んだのだ。聖女の万分の一でも慈愛を持てたなら幸せだから……
聖女カズキを演じた際に残した有名なこの言葉の真意……これを誤解している人は多い。
だが、別の真実を解き明かした時にそれは白日の元に現れた。
ここに書き記した事柄は、全てが確証高い文献や資料、或いは子孫の方々からの証言を元にしている。中には聖女の姉を自認した王女アスティアの日記や当時専任侍女だったクイン女史の手記、はたまたリンディア王家の公文書すら閲覧させて頂いたのだ。
ここに、助力してくれた全ての人へ礼を書き残したい。
同時に……この世界に命がある事。即ち、聖女カズキへの感謝の心を忘れる事がない様、今を生きると誓おう。
では……どうか最後まで読み進めて貰える事を祈って
〜黎明の時代 聖女カズキの軌跡〜
序章,全ての人へ より抜粋
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