黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

74.黒神の聖女

 








 もう、陣は崩壊して人と魔獣が入り乱れてしまった。


 アストは自分の罪を自覚する。


 遠くではノルデが頭から血を流しながらも、必死で此方に近づこうと剣を振る。折れた弓を放り投げたフェイは声を荒げて腰から小剣を抜いた。ドルズスはジャービエルに喝を入れ、無事な矢を放っている。皆がアストとカズキを助けようと血を流して……


 本当なら直ぐ側に落ちている愛剣を握り、駆け付けなければならないのに……それでもアストは動けない。


 抱くカズキを地面に放り出し、一人になんて出来ない。それは弱さなのか、傲慢なのか……カズキの身体は温かいのだ。


 もう……勝てないだろう。


 全て自分が不甲斐ないばかりに……アストは心から懺悔するしかない。


 カズキから流れ来る癒しの力は細まり、僅かに感じるだけ。魔獣は遊んでいるのか、必死に抗う人々を弄ぶ。


 だから、せめて、アストは呟く。
















「カズキ……済まない、君を巻き込んで……」


 鈍い意識にアストの声が響いた。


「私がリンディアにいなければ、あの時出会わなければ……君は違う道を歩めたのだろうか……」


 それは哀しい音だ。


「守ると誓ったのに……情け無い男だ、私は」


 カズキは目を開けようと力を入れるが、まだ身体に感覚が戻らない。 右肩から痛みが走るし、流れ出る血液さえ感じることが出来るのに……アストが見えない。


 周囲から沢山の悲鳴が聞こえてくる。それは人であり、魔獣でもあった。 何とか助けたくて必死に目を開けようと頑張るが、痛みだけが強く感じて泣きたくなった。


「もう此処まで、か……アスティア、本当に済まない。父上、申し訳ありません……私は誰一人救う事が出来ない様だ。 ヴァルハラで必ず詫びます、どうか最期まで安らかに……」


 また哀しくなる。


 今迄もアスト達は自分を想ってくれていたのに、その気持ちを信じる事すらしなかった。この世界に着いた時からアストは助けてくれて、リンスフィアでは暖かく迎えてくれたのに。まるで家族のように、そして一人の人として愛してくれた。ロザリーに出会うまで、そんな当たり前の事すら知らなかった。


 大丈夫……必ず助けるよ……


 そう伝えたかった。 


 だけど、この身体は酷く弱っていて、指一本を動かすのすら簡単じゃない。


 すると、肩とは違う別の痛みが胸の中心に走る。


 その痛みは肉体の叫びでは無い。カズキはそれを理解して、時間が足りないと焦る。


 人には過ぎた力、5階位の刻印が魂魄を削るのが分かった。ジリジリと魂魄は削がれていく、急がないと……目蓋を力一杯開き、何とかアストを視界に捉えようとした。


 肩に鋭い痛みが走ったが、無視する。


 そして光を感じ、視界が戻っていった。


 丁度リンディア城を見ていたのか、アストはカズキの瞳を見ていなかった。少しだけ腹が立ってカズキは身動ぎする。アストは直ぐに気づき、ハッとカズキを見た。


「カズキ……! 意識が……」


 カズキは笑おうとしたが、やはり身体は言う事を聞いてくれないようだった。周囲から剣戟の音がしてきて、此処が戦場だと思い出した。


 泣き腫らした目を隠しもせずにカズキを見ると、アストは肩に負担を掛けないよう優しく抱き締める。震えも隠さず、ただカズキに謝った。


「カズキ、君を守れなかった……本当に済まない……痛いだろうに……せめて最期まで一緒にいよう」


 心からの懺悔はアストの気持ちを物語っていた。今なら、其れを受け止める事が出来る。 


 だから力を振り絞るのだ。


 もう、カズキを縛るくびきは存在しない。






























「ア……ス、ト」




























 周りは人と魔獣の悲鳴が溢れ、剣や矢が折れる音がする騒がしい空間なのに……抱き締め耳元に寄せられていた唇から紡がれた言葉は、間違いなくアストへと届いた。


 初めて聞いた声は、擦れて、少しだけ低い。でも戦場に不釣り合いな少女の声音に疑いなど無かった。儚くて、美しい……


「……カズキ……君が言葉を……? 私の名前を紡いでくれたのか……!」


 アストは今の状況すら忘れ、大きな幸せを噛み締めた。夢見て祈った回数は数え切れない。それが叶うなら、全てを捧げても良いと思うほどに。


 そっと離したカズキの顔には僅かな微笑が浮かんでいる気がした。まさか本当に幻聴だったのだろうか……アストは不安に襲われる。だけどその不安もすぐに掻き消えた。


「ア、スト」


「カズキ……」


「ごめんなさい……」




 魔獣も人も泣いている……早く気づいていれば、もっと沢山助ける事が出来たのに。今迄ずっと気付かなくて、みんなを信じる事を諦めて、耳と目を塞いでいた。心さえも閉ざし、貴方を見なかった。これ程までに愛してくれていたのに……私の願いはずっと前に届いていたのに。


 カズキはもっと沢山の言葉を紡ぎたかったが、失われた血液は余りに多く、身体に力が入らないのだ。ましてや随分長く喉を使って無かったから……


 だから、ごめんなさい。


 言葉を紡ぐって、こんなに大変だったんだ……伝えたい何分の一も言葉にならない。


「なんで……君が、君が謝る事なんて無い! カズキがどれ程の救いをもたらしてくれたか……お願いだから、謝らないでくれ……」


 心の中で叫ぶ。


 違う、救われたのは私の方……!


 貴方だけじゃない、アスティアは妹として愛してくれた。


 クインやエリはまるで友達みたいに……


 ロザリーは私の母になってくれた!


 他にも沢山、救ってくれたんだ!


 だから……




「アス、ト……」




 カズキはアストの体温を感じて嬉しくなった。今も強く抱き締めてくれている。


 どうしたらこの感情を、この気持ちを伝えられるのだろうか……カズキはもどかしく、アストの蒼い瞳に自分を写す。


 言葉が力を持たないなら、人はどうやって愛を伝える?


 アストが苦しむ必要なんて無いのに……


 今になって後悔する。何年も生きてきて、こんな単純な事も分からないなんて。小さなアスティアだって簡単に出来てたのに……言葉なんて無くても困らないと、強がっていた。


 伝えたい。


 白い世界で聞いたよ……そして見たんだ。


 ロザリーだけじゃ無い、アストも私を愛してくれている。


 アストの端正な顔は涙に歪み、悲しみに濡れている。


 泣かないで……


 カズキは自分に出来る事を探す。


 削れていく魂魄は絶えず痛みを届けてくる。右肩の感覚は遠くに避けてしまえばいいけど、時間が無いのに……


 あの部屋は沢山の安らぎをくれて、アストは愛を囁いてくれた。


 ああ……あるじゃないか……言葉を紡がなくても、伝えられる。 カズキは簡単だったと安堵した。


 嫌悪感は無い。自分は変容し、今は女だ……いや、それは些細な事。


 カズキは残る左腕を上げ、アストの頬を撫でる。汗と涙、赤い血も少しだけ。身体を無理に動かしたからかカズキの顔は痛みに歪んだ。


「カズキ、無理をしては……」


 直ぐに微笑を浮かべ、もう一度アストを見る。左手をアストの後頭部に優しく回すと、ゆっくりと下に力を入れる。アストはカズキが何かを伝えるつもりかと、それに逆らわない。二人は鼻が触れ合う程に近づき、アストは耳を澄ました。


 その言葉を絶対に聞き逃さないと、アストは集中していた。だから、カズキの、簡単な感情の伝え方に反応はしなかったのだ。




「ん……」




 柔らかな感触はそれぞれの唇が重なった事を教えてくれる。ほんの少し暖かく、少し血の味がした。こんな戦場で無ければ、それは一つの絵になっただろう。周囲は魔獣と人が入り乱れ、アスト達まで距離も縮まってきている。


 二人にとって長い時間、現実には僅かなひととき、アストとカズキは口づけを交わした。再びゆっくりと離れると、碧眼と翡翠色の瞳にお互いが見える。


「アスト、ありがとう……」


 我を忘れて、呆然とカズキを見る事しか出来ない。何が起きたのか分かるのに、それは夢の中にいる様で……全ての現実すら忘れさせた。今この時だけは魔獣もリンディアも消え去って、アストはカズキが自分の腕に抱かれているのを確かめる。


 そしてカズキは、時と力が満ちた事を実感し、同時にアストのお陰だと目を細めた。もう大丈夫、出来るよ……と。


「大丈夫……必ず助けるよ……待ってて……」


「カズキ、何を……」


「待ってて……直ぐに、大丈夫だから」














 その時、アストの側で光が弾けた。






 その白い光は、まるで花のように空間に咲く。


 パッ……


 パパッ……


 一つが二つに、そしてもっと沢山。


 パパパ……パパパパパパッ……


 気づけば周囲に白い光が次々と放たれ、アストの視界を染めていく。


「これは……」


 カズキの癒しの力、優しい光に間違いなかった。白い光から花びらが飛ぶように、小さな火花が飛び散る。


 その一雫に触れた騎士は瞬時に癒され、胸を貫かれていた森人から痛みは消えた。命を繋いでいれば、一瞬後には絶命したであろう者すら目を開ける。そう……死と眠りの黒神エントーから加護を受けてさえいなければ、例えヴァルハラが彼方に見えたとしても簡単に戻る事が出来たのだ。


 意識の無かったケーヒルもパチリと目を開いた。


「癒し……聖女の力か……」


「助かった……?」
「痛みが消えたぞ!」
「また、癒しの力を感じるなんて」
「いや、前より強くないか……?」
「見ろよ……! 吹き飛んだ指が、元通りだ」
「やはり……聖女様が?」 


 降り注ぐ力は人だけでは無く魔獣にすら届く。


 白の一雫に触れた魔獣は、まるで空に溶けるように消えていったのだ。身体の大きさなんて関係は無かった。やはり生きてさえいれば、魔獣の姿は消えて行く。


「魔獣が……」


「消える……?」


 実際には魔獣を送還しているのだが、騎士や森人には理解出来ないだろう。勿論それを眺めるアストにも。


 パパッパパパッ……カズキを中心に白い花は広がる。もし遥か上空から様子を眺める事が出来たなら、まるで波紋が伝わって行くように、世界すら包むのを知っただろう。祈るアスティアは白い光に一瞬目を閉じて、それが何なのか理解した。そして……その力はリンスフィアを超え、周囲の森すら通り過ぎていく。まだあるかもしれない他国へも届くのだ。






 黒神の聖女、その癒しは皆を包む。




 正に救済だった。


 人々の命を助け、赤い魔獣すら送還した。


 そう、聖女は世界すら癒す。






 少しずつ光はおさまり、全員が視界を取り戻していった。皆が目にしたのは、癒しが間に合う事の無かった人々と魔獣達。その全員が、魔獣の全てが息絶えている。 等しくエントーの加護が降り注いだのだろう。


「どうなったんだ……?」


「魔獣が一匹も……」


「ああ、溢れる程にいたのに」


「信じられない……助かったのか……」


 騎士達は立ち竦み、呆然と周囲を見回す。森人も尻を地面に下ろしたり、膝をついたりしてキョロキョロと首を捻った。


 崩れた城壁に変化は無く、これが夢では無いと実感させられる。


「あっ……」


 見れば何時の間にか蝶が舞い、空には小鳥が羽ばたいている。その囀りは広い空に消えていった。


 そうして、静寂がリンスフィアを包む。


 誰もが未だ現実を受け入れられないのだ。ついさっきまで最期だと諦めていたのに。


「救済……神々の、聖女様……?」


 誰かが呟いたのだろう、その言葉は響き次々と伝わっていく。


「そうだ、救済だ……」
「ああ、癒しの力を感じたよな……?」
「あの光、俺は南で見たことがあるぞ……」
「魔獣まで消し去るとは」
「そうだよ、間違いない!」


「「聖女様の救済だ!!!」」


 静けさは爆発的な叫びに追いやられ、リンスフィアに歓声が鳴り響く。その声は戦場だけで無く、次々と伝播して、リンディア城まで届いた。ベランダで祈りを捧げていたアスティアにも、直ぐ隣でそのアスティアを支えるカーディルにも、側に控えるクインやエリにさえ届いたのだ。






「カズキ……やった、やったぞ! 君が癒しを……」


 胸に抱くカズキに視線を落として、アストは言葉を失った。目蓋を思い切り瞑り、嘘だと、冗談だと言って欲しくて、もう一度カズキを見る。






 千切れた腕の付け根、肩口からは血はもう流れていない。


 さっきまで頬に添えてくれていた左手はダラリと泥に落ちていた。


 言葉少なに紡いだ唇は僅かに開いて、動かない。


 あの美しいかんばせは白くなって、まるで陶磁器の如くヒビ割れている。アスティアが例えたアンティークドールの様に。


 ボタニ湖を思わせる翡翠色の瞳は、薄く開いた目蓋の奥に見え隠れするだけ。強い意思も暖かな慈愛も感じる事は出来ず、輝きは消え去った。




「嘘だ……」




 魂魄を捧げ、カズキは聖女の救済を成したのだ。




「そんなこと有り得ない、有っては駄目なんだ……」


「私の目を見てくれ、もう一度私の……」


「カズキ……なぜだ……」




 ヒビ割れた頬に震える手を添えると、正に陶器の様な感触と冷たさが返ってくる。ついさっき、ほんの少し前に交わした口づけの、あの柔らかさは……アストは胸が締め付けられ、酷い痛みを覚えた。


 そして耐えられなくなる、いや耐えられる訳がない。


 だから、叫ぶ。


 それしか出来ない。




「あ、あああぁぁーーーーー!!!」


「誰か、誰か助けてくれ……だれか!」




 魂の声は、救済の全て、その歓喜、そして大きな歓声に埋もれて周囲に響かない。直ぐ側に天を仰ぎ見る人達がいるのに、彼らは涙を流し、互いに抱きついて叫んでいる。




「なんでこんな……酷すぎる、なぜ……」




 アストはもう一度カズキを抱き締め、嘆きを世界にぶつけた。さっきまでは痛いだろうと力を込めりしなかったのに、今はそれが出来る事が悲しい。


 肩を震わせるアストの元へ歓声が止まらない群衆の中から二人の男が歩み寄って来た。巨体を揺らすケーヒルと、青白い顔をしたノルデだった。


「殿下……」


 身体中が血で濡れているが、ケーヒルも癒されていた。ノルデも数多く負傷したが、笑うほどにあっさりと傷は消えたのだ。


 ケーヒルの投げ掛けにもアストは返さず、ただカズキと二人蹲るだけ。


「カズキ様……」


 ノルデは足を止めて立ち竦む。


 ケーヒルはカズキの姿を目に入れると、両膝を地面につけ眼を薄く開き天を見る。無言のそれは神々への祈り、そのものだ。そしてノルデもそれに倣い膝をつく。


 歓声は少しずつ鎮まり、アストを中心とした祈りが円周上に広がっていった。


 何を以って、何を成したのか分かったのだ。


 聖女は癒しの力だけでは無く、万人に降り注ぐ慈愛を司るのだから。


 そうしてまた沈黙が支配したが、アストの嘆き、震える泣き声だけは決して消えたりはしなかった。

















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