黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
68.聖女の歩む道⑦
聖女通りーーー
最近そう呼ばれ始めた通りには、その名に似つかわしくない悲鳴や慟哭が溢れていた。
元々は違う名前だったし、正式に変更した訳でもない。 少し前にそうなる出来事があったのだ。
崩れた材木が側にいた子供の上に落ち、不運なその子は命を失う運命だと思われた。 しかし何処からか現れた聖女は、優しい光と共に癒しを与えたのだ。 自らを傷付け、何かを要求する事もなく、助けたのは当然だと佇む少女は、どこまでも尊かった。
それを目の当たりにした民衆が、その場所を口々に呼ぶのだ。 そうして名付けられた通りの名が聖女通り。 今や常識となり、所縁のパン屋などは面白い程に繁盛した。
だが……賑やかで笑顔が溢れた通りは様相を大きく変えていた。 唯一つ、以前と変わらないのは、あの時と同じ少女が在る事か……
戦いに慣れた騎士や森人さえも目を背けたくなる、そんなリンスフィアの街角に一人の少女が立っている。 王城に背を向け、つい先程歩いて来たのだ。 少女の背後に連なるその道は、真っ直ぐ王城へと向かっていた。
佇む少女の目蓋は閉じられ、右手には長めのナイフが握られていたが……そのナイフも黒い鞘へと収まって、少女の腰に巻かれた太い革帯の元へと帰った。
誰もが我を忘れて見入っていた。 静謐が訪れ、その中心に居る少女は両手を掲げる。 まるで天に捧げる様に、祈る様に、その手から糸が流れ出て行く。
次の瞬間、人々は息を呑む。 ゴクリと唾を飲み込む音すら響いた。
黒い糸が舞い踊るのを誰もが見ていた。 ところがその糸達は、地面に落ちる事も、空に高く舞い上がる事もなかった。
サラサラ、フワフワ、と。
その黒い糸……聖女の黒髪は、空間に音も無く溶けていく。 何本かは見守る民衆の掌へ落ちたが、それすらも僅かな光を放つと幻の様に消えていった。
黒髪の放つ光は、暖かく少しだけ眩しい。 だがその光すらも、これから起こる奇跡の始まりでしかない。
神々の加護を受け降臨した「黒神の聖女」は世界に唯一人……癒しと慈愛、聖女の刻印を刻まれた使徒ー--
民衆は声を上げる事も出来ず、聖女のゆっくりと開かれていく瞳に見入るしかない。 その瞳は噂に聞こえた通り、とても美しい翡翠色をしていた。
王城への道は混乱の一途を辿っていた。
大半が騎士だが、森人も含まれた人の列は途切れる事は無い。 火傷を負った騎士は朦朧とした意識を繋ぎ止め、ふらふらと足を前に出している。 骨折した者も多いのか、腕が動かない者や足を引き摺る者が目立った。
見かねた民衆が肩を貸したり担架を用意したりしているが、手が足りないのは明らかだ。 暫く先に進めば治癒師達が救護している広場があったが、其処も半ば溢れている。 それは命を賭けた戦場そのものだろう。
「もう少しだ! 頑張れ!」
「あの先だぞ!」
肩を貸していた騎士に声を掛けた二人は、その騎士が呼吸を止めた事に気付いた。 酷い無力感に襲われた二人の男は、騎士をゆっくりと壁に寄りかからせて溜息をつく。
「これじゃ、前線はどうなっているか……まともに魔獣を撃退出来るかも分からないな……」
それはつまり……リンスフィアの、リンディアの滅亡を意味する。 数百年前から今まで多くの国が森に消えて行ったが、遂にリンスフィアに最期が訪れたのだろうか。
それは民衆の殆どが感じた事であり、何処か諦観すら漂う。
もしかしたら、いつか、近い将来、そんな事は漠然と頭にあった。 人は滅亡への道を歩んでいる……神々の声も最近は聞こえない。
「来る時は呆気ないな……俺は家族のところに帰るよ。 最期くらいは一緒に……騎士団や森人には申し訳ないが……」
逃げようにもリンスフィアの外に行き場は無い。 テルチブラーノもセンも、付近の村々も滅んだ事は耳に届いていた。 罪悪感を押し殺し、目の前に横たわる騎士に祈りを捧げようと男は目蓋を閉じた。 しかしそれが深まる前に自分の肩がバシバシと叩かれ、祈りは中断される。
「おい、今祈りを……」
不謹慎な友人の手を払った男は、それでも強く肩を叩かれては怒りが湧くのも仕方が無いだろう。
「いい加減に……!」
怒りに任せて振り返った男は、友人の視線が自分に向いて無い事に怪訝な気持ちになる。 思わずその先に視線を送った男は友人の奇行の意味を理解した。
戦場と化していた広場はシンと鎮まり、誰もがある一点を見詰めている。 数人の騎士を連れ立ったその姿は、たった一人の少女。 華奢で小柄な身体、色気など無い森人の服、唯一女の子らしいのは髪を纏めた髪飾りか。
後ろに纏めた黒髪を僅かに揺らしながら、無言で歩みを進めている。 細かな表情すら見える距離まで広場に近づくと、足音すら無く少女は立ち止まった。
「聖女様……?」
間違いない。 ドレスも何もない衣装だが、誰もが知る特徴は隠されていない。
背中まで伸ばされ、纏められた漆黒の艶やかな髪。
まん丸で大きな瞳は宝石と見紛うばかりの翡翠色。
少しだけ黄味がかった肌は僅かに赤く色付いている。
殆どが隠されているだろう刻印も、首回りは露出して皆の目に映った。
少女らしい可愛らしさなど無い姿なのに、その特徴的な美貌は隠せない。
「まさか、戦場に……?」
「慰問じゃないか?」
「癒しも何も、こんな状況じゃ……」
何人かは聖女の癒しを知っていたが、負傷者の数も度合いも以前とは比べ物にならない。 一人二人癒したところで、それ以上の怪我人が運ばれて来るのだ。
救いを求めて良いのか、聖女の歩みを遮る訳にはいかないと道を開けた方が良いのか、誰もが口を閉ざした時だった。
立ち止まって周囲を見渡していた聖女は、ゆっくりと腰の後ろからナイフを抜いた。 ナイフは不思議な色をしていて、一度も使われてないかの様に翡翠色の光を放つ。
その行動に皆が唖然とする中、聖女は目蓋を閉じる。 全てが無言で行われた為、その意味を理解出来ない。 祈りを捧げるとしても、ナイフなど必要ないのだから。
「何を……」
誰かが呟いた疑問は、聖女が左手で後髪を掴んでグイと持ち上げた瞬間に消えた。 おもむろに右手のナイフを髪に当てると横に滑らす。 柔らかであろう髪は抵抗すら見せず、あっさりと切断された。
少女とは言え女性の髪を切る姿に、誰もが驚きを隠せなかった。 あれ程長かった髪は肩辺りで切られて、乱れている。 聖女の美しさは決して損なわれて無いが、それでも衝撃的な光景だった。
切られた髪を左手に握り、右手のナイフは再び鞘へと収まった。 躊躇ない動きに騎士も周囲の者も固まったままだ。 髪飾りこそ残っているが、何処か少年の様な……不思議な印象を与える。
黒髪の束を両手に持った聖女は、目蓋を閉じたまま持ち上げた。 まるで捧げる様に……
静かに開かれた掌から一本、また一本と滑り落ちていき……やがて風に吹かれてその全てが空に舞う。
「ああ……」
美しい髪が地面に落ちていく様に、治癒師の一人が思わず吐息を漏らした。 だが、地面に落ちて泥に汚れる筈の髪は、予想通りにはならなかったのだ。
「消えていく……白い光が……」
聖女の髪は決して地面に落ちたりはしなかった。
僅かな白い光を放つと、空間に溶ける様に消えていく。 数本は周囲の人々に届いて、壊れ物を扱う様に掌に受けた者もいた。 しかしそれも目の前で光を放つと目に映らなくなった。
まるで季節の変わり目に舞い散る花弁の様に、周囲はキラキラと白く輝いた。
「何が起きて……」
カチャ……
肩を叩き叩かれた男達は、先程壁に寄り掛からせた騎士から物音を聞いた。
「えっ……?」
見れば息を引き取ったと思った騎士が身動ぎしている。 肩も上下してすぐに目蓋すら薄く開いた騎士に二人は驚きを隠せなかった。
「生き返ったのか……まさか、聖女様が?」
周囲は先程の静けさが嘘の様に、あちこちで声が上がっていた。
「怪我が……」
「痛みが消えたぞ!」
「折れた腕が、腕が……」
「見てくれ! 火傷が……」
「信じられない……」
「助かったの、か?」
多くの者が自分の身体を半信半疑に動かしたり触ったりしている。 にわかに動き始めた広場は、同時にどうしようも無い現実を突き付けた。
癒されたのは全員では無いのだ。 横たわったまま動かない者も居るし、明らかに死んでいる者に変化は無かった。 つまり、先程の騎士は僅かに命を繋いでいたのだろう。
「見ろ……」
いつの間にか聖女は翡翠色の瞳に光を映し、ぴくりとも動かない森人に近付き膝をついた。 そして、手を添えたのだ。
森人の見開かれたままの目蓋をそっと閉じて眠りを与え、聖女は立ち上がって南を仰ぎ見た。 癒しの事実すら無かったかの様に、スタスタと道を歩き出す。 民衆を避けながら、ひたすらに南を目指して行くだけ……その行き先には魔獣の群れと戦場が待つのに。
感謝も称賛も聖女は求めていない。 それは彼女にとって、どうでもいい事なのだろう。 見返りなど求めない慈愛と癒しは本当だったのだ……
癒された者達に、消えかかった熱が熾る。
騎士や森人達は……一人、また一人と剣や弓を手に取って立ち上がった。 それは数人の集まりとなり、直ぐに一群へと変化する。 聖女の後ろには新たな軍団が形成されて、その数は数百を数えた。
「奇跡だ……神々は我等を見捨ててなどいなかったんだ……」
「聖女……」
「ああ、間違いない」
「黒神の聖女……慈愛と癒しを身に宿した……」
誰もが去り行く聖女に祈り、僅かな希望を見出していた。
カズキは不思議な感覚に包まれていた。
ついさっき髪を切った事もその一つだ。 ボンヤリと記憶に残る治癒の力に、あれ程の効果は無かった。 周囲に居た人に触れる必要も無く、自らの血を求めもしなかった。
やり方なんて誰も教えてはくれない。
なのに……そうすれば良いと分かった。
未だ治癒の力は残っている。 この道に避難して来る者達を何度も助ける事が出来る程だ。 何が自分に起きているのか、何故か人々の感情すら朧げに感じるのだ。
錯覚? それとも妄想?
でも一つだけ間違いのない気持ちがある。
みんなを助けたい……
子供だけじゃなく、苦しむ人を見たくない。
涙も苦痛も、絶望に歪む顔なんて消えて無くなればいい。
視線の先に行きたいと感じる場所がある。 自分が聖女かどうかなんて分からないけれど、それを演じて欲しい人がいるなら構わない。
やっぱり不思議な感覚だ。
あの先に自分を求めている人がいる。 救いを? いや、違う。
会いたい、触れたい、抱き締めたい、抱き締めて欲しい。
来ちゃ駄目だ、どうか逃げて欲しい、君だけでも……
誰の叫びだろう? 勿論それは言葉では無い。 けれど、そう感じるのだ。 会いたいけれど来て欲しくない……そんな複雑な意味を纏う感情。
他の人々と違い、救いを求めていない。
この感情の波はなに?
今まで経験した事が無い。 アスティアからもロザリーからも感じない、別の何か。
ただそれが知りたくて、カズキは迷う事無く歩みを進めた。 ナイフで乱暴に切ったせいか、首周りが少しチクチクする。 うざったくて、両手で後ろ髪を払った。
僅かに残っていたのか再び白い光を放ち、それは空間に溶けていく。 その時カズキの手にあの髪飾りの感触が伝わって、ロザリーを想った。
ロザリーは言った。
待っている人がいる……
家族?
元の世界では望む事すら出来ない。 血の繋がった存在は在ったが、アレは只の人だ。
カズキは思わず笑ってしまう。
こんな訳の分からない世界に来て、気付けば子供の身体になった。 それどころか性別は女で、もっと意味の分からない力を持った。 言葉も理解出来ず、感情に任せて叫ぶ事も許されない。
なのに、家族?
この世界に血の繋がった者など一人もいないだろう。
でも、それが自分だと自覚している。
違和感は消えていく。
子供で、女で、一人じゃなく、多分……聖女だと。
森人の深い緑色の服に隠されたソレは、誰も見る事が叶わない。
この世界に唯一つの刻印。
癒しの力(聖女)<5階位> 封印管理
刻印は変化していく。
痛々しい棘状の鎖は解けて、幾本も姿を消した。
僅かに残る封印も、少しの刺激で千切れてしまいそうだ。
全身に刻まれた刻印……黒神ヤトの加護はカタチを変えて薄まった。
より輝くのはカズキが本来持っていた力。
癒しと、慈愛。
黒神ヤトは言った。
それ等は決して裏切らない、と。
聖女は真っ直ぐに、その道を歩いて行った。
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