黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜
52.白き世界に
カズキは真っ白な世界に居た。
周りはただ白く、前後も左右も、天地すらも曖昧だった。
だが不安などは感じない。
先程迄の喧騒も無く、ただ静かに揺蕩っていた。
目を閉じかけたカズキの耳に僅かな物音と、人の声が聞こえてくる。周りに人などいないが、何故か方向を理解出来た。
近づいているのだろう……声は少しずつ明瞭となり、人の姿もぼんやりと見え始めた。
最初に見えたのは女性だ。背中越しで顔は見えないが、立ち姿から若い女性だと知れた。ブラウンの髪は肩まで伸びていて、少し癖毛なのかあちこちに跳ねている。
その内、その女性に話し掛ける青年の姿が見えてきた。焦げ茶色の髪と目、ザンバラ頭は変わらないがカズキの記憶より随分若い。それに女性を見る眼差しは、何処までも暖かかった。
「アステル、分かってくれ。俺はこの町を守りたいんだ。 君が住むこの町を」
「あの地獄から救い出してくれたのは、アステルだ。あのまま全てを憎んで生きる屑だった俺が、今や人々を守る騎士だとは笑えるだろう?」
「え? 私は何もしていないって? ははは、慈愛の刻印は謙虚さを強制するのかい?」
「……君は聖女だ。だから守る、守らせてくれ」
「慈愛の刻印が聖女の証なら、他にも沢山いる?」
「そうかもしれない……でも俺には、君がただ一人の聖女なんだ。あの憎しみの連鎖から連れ出してくれた……君だけが俺を……」
「行ってくる……待っててくれ。決して、他の人を助ける為に無茶なんてしないでくれよ? 必ず戻るから……アステル、愛してるよ」
女性の顔も声も分からなかったが、カズキは何故か男が話す言葉が理解出来た。耳ででは無く、別の何かだった。
そしてまた遠くから声が聞こえて来る。何処か嗄れたその声は老人だろうか? 男性らしき声はカズキを呼び寄せて、何かを伝えようとしている。
揺ら揺らとそちらへ近づくと、先程と同じく人影が見えて来た。何かを指差して、カズキへ同じ言葉を繰り返す。
「どうか伝えて欲しい。奴等は本能に生きる獣などでは無い。周到に準備して、狩りの時を待っているのだ。このままでは愛するリンディアが、家族が、奴等に滅ぼされてしまう」
その老人が指差す先には、草木で擬態し隠された大きな穴があった。地面にポッカリと空いた穴からは不気味な唸り声が響いている。周囲は森で、僅かな距離では火事になっている様だ。そして、その火事には何処か見覚えがあった。
「奴等は森に潜んでいるのでは無い。奴等は地下に居るのだ。地中奥深く、今も数を増やし続けている。どうか伝えて欲しい、このままではリンディアが……」
リンディアと言う言葉はよく分からないが、老人が愛する家族を憂いているのはよく知れた。
老人の服……その姿はカズキのよく知る人物にそっくりだった。あの赤髪の女性の父親か祖父だと言われたら信じるだろう。だからなのか、その願いを聞いて上げたいと思った。
他にも沢山の声があちこちから響いて来て、カズキは少し混乱した。だが……ふと暖かい声音が聞こえて強く惹かれる。
早く、早く会いたい……
カズキは今や脚の感覚すらない身体を、急いで向かわせた。だから直ぐに見えて来る。カズキの記憶より随分長い赤髪だが、その色には覚えがあった。彼女の足元には同じ色の髪をもつ小さな女の子がいて、脚に抱き付いている様だ。そして傍らには背の高い男性が立っている。
やはり皆の顔は見えないが、赤髪の女性だけは振り返ってカズキに素顔を晒してくれた。やはり黄金色の瞳は優しげで、カズキに安らぎを与える。声すらも懐かしい……
「フィオナったら、あんなにお転婆なのに泣き虫さんね。大丈夫よ、ママがいるでしょ?」
「転んだの? あらあら、膝を擦り剥いてるわ。ちょっと待っててね」
「ほら、これで大丈夫。痛くないでしょう? ふふふっ……離してくれないと歩けないわ」
「ルー……笑ってないで、少しは助けてよ。えっ……バカ……恥ずかしい事言わないで、もう」
「フィオナ……抱っこならパパにお願いしたら? あんなに細くても力が強いんだから、ね?」
「そうだ! フィオナに凄い話を教えて上げる。ルーも聞いてくれる?」
「フィオナにお姉ちゃんが出来たのよ? 凄く綺麗な子で、誰よりも優しいの。フィオナのお人形も可愛いけど、お姉ちゃんはもっと素敵かも! 髪は黒くて、眼は宝石みたいな翡翠色」
「そう、刻印なんて関係ないわ」
「貴女は私の娘。フィオナと同じくらい愛してる」
「カズキ」
カズキは手を伸ばして、ロザリーに抱き付きたかったが、どうしてもそれ以上近づく事が出来ない。
ロザリーはカズキに手を振り、行きなさいと呟いた。貴女は私の……皆の自慢の娘。
「貴女を待っている人が居るわ……リンスフィアに帰りなさい。大丈夫よ? カズキなら大丈夫……」
「だから泣かないで……」
真っ白な世界なのに、カズキの視界は更に白く塗りつぶされた。ロザリーの赤い髪だけは最後まで見えて、悲しいほど綺麗だ。
感情の爆発は起こらない。
涙も流れているのか、渇いているのか……一度消えた色が再び見える迄、時間は掛からなかった。
サワサワ……
風に揺れる葉擦れの音。
優しい風はかなり伸びたカズキの黒髪を揺らす。
ゆっくりと目を開けば、目の前に大好きな赤い髪。
でも安らぎの色……さっき迄見えていた黄金色の瞳は閉じられたまま。
頬に散った赤い血は渇き、膝に乗せた頭は動かない。
ポタポタと落ちる透明な雫は、少しだけ血を溶かして流れて行った。
ロザリーは行ってしまった……もう戻って来ない。何処の世界でも、失われた命を取り戻したり出来ないのだから。
カズキは顔を上げて、周囲を見渡した。
皆が立ち竦み、茫然と辺りの様子を伺っている。あれだけ燃え盛っていた炎の壁は消え、同じくらい赤かった化け物達もいなかった。
そして……一人、また一人と此方を振り返ってカズキを……聖女を見詰める。絶望が支配していた森からは、鳥の囀りすら聞こえてきた。全ては聖女が起こした奇跡だったが、本人は分かっていないのだろう。それを誇る事もせずに優しくロザリーの髪を撫でていた。
直ぐ側にいた者に手招きをすると、呼ばれたフェイはゆっくりと二人へ近づいて膝をついた。カズキはロザリーを抱えて、フェイに預ける。地面にロザリーの頭を下ろしたくなかったのだろう。
皆がカズキの歩みを見詰める中、その先には焦げ茶色の頭をした男が倒れている。まさか怨みをぶつけるのかとケーヒル達は思ったが、ディオゲネスを見る翡翠色に怒りは無かった。
膝を折り、両足を抱える様に腰を下ろしたカズキはそっと左手を上げた。全てを憎んだその形相は恐怖すら覚えるが、優しく目蓋を閉じてやれば幾分か和らぐ。
あの白い世界を知らないケーヒル達には、カズキの行いを信じる事が出来なかった。聖女の慈愛は死者にも向けられ、自らの心体をあれだけ傷つけた者にも降り注ぐのか。全員がその光景を尊く感じ、指一本すらも動かせない。
「これが……聖女……」
誰かの呟きは、同時に全員の想いの代弁だった。
一挙手一投足を注目されるカズキは立ち上がり、ケーヒルを見た。ケーヒルも騎士団に命令すら出来ずに立ち竦んだまま。カズキに見詰められたケーヒルは漸く正気を取り戻し、撤退の指示を出そうと身動ぎする。
周囲には何故か魔獣の姿は無いが、此処は未だ森の深部。早く脱出しなければ、ロザリー達の犠牲すら無駄になってしまう。
いつの間にか目の前に来ていたカズキはケーヒルの手を取り引っ張った。ケーヒルは聖女に直接触れたのはコレが最初ではと、少し緊張する。だが聖女、カズキが引っ張る先は更なる深部。脱出する方向では無い。
「カズキ……あっちは、森の深部だ。帰るなら反対に……おっ、おい!」
カズキはケーヒルの手を離すと、引っ張る方向に向かって走り出した。その先には魔獣の死体や倒れた騎士達がいる。まさか全員に手向けを?とケーヒルは慌てて追いかける。
だが、カズキは凄惨な周囲をチラリと見ただけで、そこを通り過ぎて行く。
「カズキ! そっちは駄目だ! まだ魔獣が居るかも……」
声が聞こえたからでは無い。立ち止まったカズキは振り返ってケーヒルを見詰め、再び森の奥へと駆け出して行く。
「ついて来いと……?」
ケーヒルは決断する。神々の使徒、聖女カズキが来いと示しているのだ。何かがあるに違いない。
「ジャービエル、ドルズス! 済まないが一緒に来てくれ! 森人の助けがいるかもしれない……」
森人の二人は直ぐに頷き、ケーヒルの横に並んだ。
「皆は撤退の準備を! 聖女を連れ戻したら即座に撤退する! 負傷者は治療を、戦死者の確認と遺品を集めてくれ! ああ、聖女を見ただろう!主戦派も何もない、区別無くだ!」
「副団長よ、聖女様がお待ちだ。見ろよ、頬を膨らませて御怒りだ」
実際には頬など膨らませてないが、早くしろと催促してるのは分かった。
「ああ、急ごう。二人は周囲の警戒を頼む」
ケーヒルの経験と勘は危険を報せはしなかったが、緊張を解く訳にもいかないだろう。
既に小さくなっていたカズキの背中を三人は追いかけて行った。
「……ドルズス、コレを見た事は?」
「ある訳ない。此処まで偽装されては、近付かなければ判らない……副団長、これは大変な事だぞ……」
カズキが案内した場所は直ぐ近くだった。
視線の先で立ち止まったカズキは、ガサガサと其処にある草木を取り除く。最初は意味が分からなかったが、地面からスポスポと抜ける異常に目を凝らすしかない。そして程なく現れたのがこの黒い穴だ。底は全く見えず、その先がどれほどの広さか判らない。
「魔獣の通路……いや、巣か?」
奴等は知能の低い化け物では無かったのだ……ケーヒル達は怖気が走るのを止める事が出来なかった。魔獣はゆっくりと深部から進んでいる。そして向かう先は……
「セン、そしてリンスフィア……攻め滅ぼす気か……」
今迄見つからなかった筈だ。偶然にも近づいたら魔獣の餌食となるだけだし、森に溶け込む偽装は森人すら唸らせるのだから。
今は聖女の奇跡により目の前にあるが、普通なら魔獣が殺到していてもおかしくない。先程がそうであった様に……
「副団長、ドルズス」
カズキに手を引かれたジャービエルが何かを見つけて来た。それは小剣で、ところどころが錆び始めている。意匠は少ないが見事な作りだったのだろう……錆びを浮かべても、それは分かった。
「見た事がある。此れはイオアンの爺様の小剣だ。此処のキズ……ああ、間違いない」
「イオアン殿か……聖女を導いてくれたのは」
「ああ、きっとそうだ。聖女様は神々の使徒、爺様の最期の叫びを聞き届けて下さったんだ……」
ジャービエルに手を繋がれたままの聖女は、どうしたの?帰ろう?と目で訴えてきていた。
「聖女……やはり救済の為に世界に遣わされた……使徒、か」
あれだけ血が流れていた右手は、出血が止まっていて、痛みすら感じていない様だった。赤く染まったままの右手があった事をただ伝えるだけ。
「帰ろう……リンスフィアへ。陛下に、殿下に伝えなければ……」
近い将来、魔獣は攻め入って来るだろう……防御を固めないと大変な事になる。魔獣への警戒は森との距離分緩やかなのだ。だが、今なら分かる。マリギや他の街、他国すらもそうして滅ぼされたのだ。そう、一夜にして。
遂に……魔獣が現れて既に数百年を数えるが、長い歴史の中で初めて判明したのだ。人々の天敵、赤い化け物達……魔獣の生態と、その新たなる恐怖が……
カズキの……黒神の聖女の伝説に、また1ページが刻まれた瞬間だった。
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