黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

38.マファルダスト⑥

 












 アイトールの眼がパチパチと開き、ロザリーの肩から重みが消える。白い光の放たれた路地には数人の男達とロザリーがいたが、誰一人として声を上げていない。カズキは少し先にいた残り2人の手足にも左手を添えると、先程より小さな光が一瞬だけ輝いた。


 カズキは3人の傷を確認すると、ロザリーの手を取り宿屋に戻ろうとする。目は完全に座っており、勿論酔ってますよ?と開き直っているようだ。


 果実酒を飲み尽くし、あのウイスキーもどきを何としても飲みたいカズキの酔いに任せた行動だった。


「聖女……さま……?」


 ロザリーの手をグイグイと引っ張るカズキを見た1人が漸く言葉を口にした。


 ハッとしたロザリーはアイトールの様子を確認する。


「アイトール、無事かい?」


 アイトールはロザリーの声にも反応せずにカズキを目で追っている。変に力を取り戻した目を見るだけでも無事だと知れたが、ロザリーはイラっとした。


「ア、イ、トール! 鼻の下を伸ばしてんじゃないよ!」


 頭を引っぱたかれて漸く気付いたアイトールはロザリーを見た。


「ロザリー……? なんでここに?」


 頭に血がのぼるとはこの事かと、ロザリーは肩からアイトールを放り出した。


「さっきから居るよ! 全く男共と言ったら、綺麗な娘を見たらすぐにコレだ!」


「い、いや……済まない。でも驚いて当然だろう? 白い光が目に入ったと思ったら痛みが消えて、気付いたら目の前に聖女様だぞ?」


 取り敢えずは隠すつもりだったが、刻印は見えなくとも完全にバレバレだった。着替えさせた服も女性らしい美しさを際立たせて、カズキを大人びて魅せる。それがより注目を集める結果にもなっていた。


 黒髪と瞳、何より簡単に怪我を治してしまう超常の力……もはや隠しようもない。


「まあ、無事で良かったよ。アイトール、何があったんだい?」


 未だ諦めずにロザリーの手を引くカズキを置いておいて、情報を聞き出す。明日からはマファルダストも移動するのだから当然の事だった。


「ああ、うちの若いのが……いや、特別な事があった訳じゃない。魔獣も関係ないし、マファルダストの活動に影響はないさ」


 衆目の中で若い後輩の恥を晒したりはしないのだろう、アイトールの気遣いが見て取れた。


「そうかい、じゃあ早いとこ血と汗を拭きな。 あんたの臭い体臭なんて嗅ぎたくないからね」


 そんなに臭いかとロザリーの冗談を間に受けて自身に鼻をつけるアイトールに苦笑すると、先程から腕を懲りずに引っ張る聖女様に従う事にする。


「出来れば余り騒がないでおくれよ……アイトール、明日はリンスフィアに向かうのかい?」


 ふと思い付いてロザリーは問い掛けた。


「ああ、明日リンスフィアに発つぞ。正に聖女様に感謝だな」


 どうも感謝を素直に受け取りたくない様子の聖女を見て、アイトールは軽く言葉を伝えた。先程から顔を見せずに宿屋に戻ろうとするカズキに、謙虚で照れ屋だと勘違いするアイトール。本人はロザリーから酒をせびる為に必死なだけだが、周りからは顔を赤く染めて照れている美しい聖女に見えていた。


「……ちょっと人見知りでね、あとでよく伝えておくよ。それより明日でいいから手紙を預かってくれないかい? 大事な用事なんだ」


 ロザリーは酒好き酔どれ聖女とバレないよう話を逸らす。


「勿論だ、誰に届ける?」


「……それも明日話すよ」


「そうか、なら明日宿屋に顔を出すから準備しておけよ? では聖女様、本当にありがとうございます!」


 他の数人も頭を下げたり、手を振ったりと騒がしくしながら去っていった。


 もはや我慢ならないと更にグイグイと引っ張るカズキにロザリーは思わず呆れて声を出す。


「カズキ……お酒はもう飲ませないからね……」


 最後通告を受けているとも知らず、カズキは動き出したロザリーを見る。どんなに強く引っ張ろうとも動かなかったロザリーに、やっとかと勘違いしたカズキにはジュースしか出てこないのだが……










 ジュースを眺める、いや睨みつけるカズキを見ながらロザリーは認めるしかなかった。


 目の前に座っている少女は、聖女なのだと。


 自分で見た筈の治癒の力は、今でも信じられない。だが事実アイトールは怪我が無かったかのように、自分の足で歩いて去って行ったのだ。神々の奇跡、聖女降臨は本当だった……高揚感と小さな恐怖を覚えてロザリーは諦めたのかグラスを持ったカズキを見た。


 赤らんだ顔はそのままなのに、ロザリーにはカズキが何処か遠い別の人に感じて目を伏せたくなってしまう。


「あんた……それ……」


 左手に血の流れた跡がある。そういえば包帯も見当たらない。 


 グラスをテーブルに置かせると、ロザリーは赤く染まったカズキの手を取ろうとした。だが聖女の反応は今まで従順といってよかったものと明らかに違った。


「お、おい……」


 ロザリーに手を取られないよう左手を背中に隠したのだ。睨むという程ではないが、その目は言葉などなくとも分かる拒絶だった。それは僅かな時間とはいえ、共に過ごしてきて初めての事だ。


 何か理由があるのか無理強いをしてはいけないと、懐に入れてあったハンカチを渡す。カズキはそれを眺めて、ロザリーの目を見たあと受け取った。 


「転んだのかい? いや、傷口が開いたとか?」


 伝わらないと分かってはいても、聞かずにはいられなかった。だが、予想通りカズキはチラリとロザリーを見ただけだ。


 自分の怪我は治さない……? ハンカチを手に当てても白い光はなく、滲む血に変化も無かった。


 他人だけを癒すしか出来ないとしたら、酷く美しくて残酷だとロザリーは哀しくなった。


「……あんたは……やっぱり聖女なんだね……」


 その呟きも、悲哀もカズキには届かない。


 ロザリーの言葉も心に起きた波も、テルチブラーノの夜に溶けて消えていった。
















 翌朝、アイトールの手にはロザリーの預けた手紙があった。


 カズキが寝たあと用意したものだ。


アスト殿下に渡るように取計らっとくれ、私からと言えば大丈夫だろうさ。無理ならクイン、クイン=アーシケルでもいい」


「……アスト殿下に? 内容は聞いても良いのか?」


「他に漏らさない……まあ、あんたなら大丈夫か」


 アイトールは不器用な男だが、ロザリーはその誠実さを信用している。


「聖女様の事だよ、近況報告と幾つかの質問ってところだね。少し思う事があって、他の人間を通したくないんだ」


 このロザリーの判断は主戦派、つまりユーニード達への情報伝達を遅らせる結果となる。ユーニード等は今もカズキが黒の間、あるいはリンスフィアの何処かに匿われていると思っているからだ。


 それは時間にすれば僅かな差だったが、後にカズキ達の運命を決める事になった。
























  
 カーン!




 凡そ弓とは思えない音を放つと、風切り音すら置き去りにして矢は目標を貫いた。


 カズキが見たら鹿だと思うだろうその首に刺さった矢は、瞬時に獣を絶命させる。残心も見事な男は小さな声で、うっしゃと拳を握った。


「新しい弓はいいみたいだな、腕も相変わらずだ」


 マファルダストには狩り専門の者が少なくない。ロザリーの存在は大きいが、マファルダストを最高と謳わせる森人は1人や2人では無かった。






 カズキは馬車に残り、ロザリーと離れていた。当たり前だがカズキを森まで連れ回したりはしない。 


 ロザリーは森の手前で幾人かに指示を出し、彼等に狩りを任せている。ロザリーも弓は扱えるし、獣を解体出来る。だが自分より優れた森人がいれば、あっさりと信じて任せていた。命を預かる身で他人を信じて任せる事がどれほど難しいか、それはロザリーがマファルダストの隊長たる所以の一つだった。


「前情報通り、これは凄いね……」


 例年と比べても狩りのペースは明らかに早い。これなら予定を前倒しで南へ行けるだろう。本命はあくまでも南なのだから。


 次々と運び込まれる獲物達に、思わず笑みがこぼれる。


 血抜き、皮剥、下処理、内臓の処分等は直ぐには出来ない。森周辺では危険過ぎるからだ。肉の質にも影響は出るが仕方のない事だった。もちろん森人に伝わる防腐処理はいくつもあるが万能ではないのだ。


「よし、予定を早める。今ある分は先に運ぶ、行ってくれ」


 ロザリーの判断で夜を待つ事なく、荷馬車は走り出した。処理も早まり、肉質も向上するだろう。見送ったロザリーは再び森に目を移した。


「ジャービエル、リンドはどう?」


 護衛兼荷物運びのジャービエルは側に控えていた。


「森に入って周辺を警戒させてる。 あいつは意外に目と耳が良いから」


「ほお、話には聞いてたがアンタか言うなら本物かねぇ」


 あの日のカズキへの行動は許せないが、フェイに絞られたのだろう。最近は大人しいものだった。まあ、それでもカズキをチラチラ見ているのは分かっているが。






 テルチブラーノを発って既に5日が経過していた。


 西部の森近くに陣取り、そこから狩猟組を引き連れて森へと入る。全員が毛皮を被り、見える素肌は泥で覆われている。たとえ直接森に入らないとしても、魔獣を引き寄せる可能性は少しでも減らさなければならない。


 ロザリーの綺麗な赤髪も、凛とした美貌も今は見る影もなかった。両腕を組み、森を睨むロザリーは1人の女性から森人へと変貌したのだ。


「運搬組は明日だったね、腹一杯に獲物を持ち帰って貰えそうだ」


 ロザリーは独り言ちながら、黒髪の少女の事を思った。


 運搬組に連れ帰らせて、安全なアストの元へ帰したほうが良いだろう。隊商と共に旅をするなど本来は有り得ない。いつ命の危険に晒されるか分からない上に、決して楽な旅路ではないのだ。


 酒は例外として、この旅の中で我儘や苦しみを訴える事は一度も無い。言葉は勿論だが態度でもそれを感じさせない、少女としては厳しい環境の筈だが驚くべき事だろう。


 だから、帰してあげるべきだ……そう思うロザリーは未だに決断出来ていない。


 ふと見るとあの翡翠色の眼と視線が合う時がある。ロザリーの思い上がりで無ければ、少しだけ心を通わせていると感じるのだ。


 愛しい娘フィオナが生きていれば丁度カズキくらいの年齢になっている。似ても似つかないカズキなのに、どうしても重ねてしまう。


 フィオナの代わりなど誰も出来たりしないのに……これは許されない事なのだろうか? 罪深い行為なのだろうか?


 カズキは神々の使徒、世界に只一人の聖女。


 たった1人の女が抱き締めていて良いのか、あの日からロザリーの心は千々に乱れて落ち着く事はなかった。
























「このまま一緒に……?」


 ロザリーの手元には運搬組が持ち込んだアストからの返答が来ていた。


 聖女を帰すべきと決めきれないロザリーには、ある意味で希望通りの答えだった。だがその理由は決して穏当ではない。想像以上に長文の手紙は、聖女カズキの力の源泉や性質が綴られていた。そしてロザリーに納得と怒りを浮かばせる。


「血肉を捧げるなんて……だからあの時に……」


 アイトール達を癒したカズキの血は、その為のもの。


 刻印に縛られた聖女の在り様は、ロザリーに少なくない衝撃を与えていた。最初にカズキを見つけた時も手には包帯が巻かれていたではないか。無邪気に聖女様などと興奮していた自分もアイトール達も殴りつけたくなる。


 感情のない手紙の文字なのに、アストの血を吐くような思いが見えるのだ。本当は直ぐにでも駆けつけたいのだろう。


 だが主戦派との見えない戦いは続いている。カズキを道具の様に扱い、それどころか拷問染みた事をするような集団に攫われる訳にはいかない。今はリンスフィアから離れた場所のほうが安全なのだろう。隊商も安全とは言い難いが、森に入らなければ大きな危険は少ない。


 手紙の最後には、南部付近へ部隊を訓練と称して派遣し後方で待機させておくこと、帰還時はその部隊と合流して欲しいとの要望、部隊長に顔見知りのケーヒルを当てた事が書かれていた。だが何より、カズキを頼むと綴られた言葉に隠された思いは、ロザリーに強く伝わってくる。


 手紙から目線を上げた先には、カズキが感情を見せない顔で燃える薪の火を眺めていた。女性であるロザリーの目にさえ、美しく何処か艶を感じて心臓が波打つのを感じさせる。


 ロザリーと似た深い緑色の厚手のパンツとシャツはまるで新米の森人のようだが、実際は過酷な運命を背負わされた聖女……何度も傷付き、血肉を捧げて人を癒してきたのだ。苦痛の叫びを上げる事も、人にすがる事も、笑顔すら殆ど浮かぶ事はない。


 ゆらゆらと揺れる炎に合わせて輝く翡翠色の瞳を見たとき、ロザリーは涙が流れていくのを止める事は出来なかった。 


 それに気づいたカズキが心配そうな顔で近付いて来る。


 その手には簡単な刺繍を施した白い布、テルチブラーノの食堂で血を拭ったあのハンカチだ。


 捨てたと思っていたそれを自分で洗ったの?


 一向に手に取らないロザリーに痺れを切らしたのか、おずおずと流れ出る涙を拭く。


 ああ……数々の刻印はカズキを聖女たらしめるのだろうが、それが何だと言うのだ。


 ロザリーは耐え切れなくて、カズキの小さな身体を掻き抱いた。


 拭いてくれた涙は再び溢れてきたが、カズキはロザリーのするがままにさせてくれた。馬車で一度嗅いだ懐かしい匂いが今も変わらず鼻をくすぐる。


 その涙は他の森人にも見えていたが、誰も冷やかすことなどない。


 優しく見守るその先には、母と娘の姿があるだけだった。





















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