黒神の聖女 〜言葉の紡げない世界で〜

きつね雨

36.安らぎの色

 












 上からお姫様を見たとき、不思議な感覚に戸惑った。


 まるで、こちらに手を伸ばして行かないでと叫んでいると錯覚する。家族の幻想は泡の様に消え去った筈なのに、今でもそこにあると勘違いしていまいそうだ。 


 元から逃げ出すつもりだった、何故戸惑いなど……


 あの無駄に広い部屋でぬるま湯に浸かったように過ごし、時が来たら誰かを癒す? それは家族などではない、道具だ。薬箱に入った絆創膏と何が違うと言うのだろう。


 だから……お姫様の涙を見た瞬間、視線を外して意識から消した。これ以上耐えられなかった。
















 屋根から屋根へ猫の様に飛び移り、カズキは城から離れる様に移動していた。




 以前も街には来ていて、建物の間隔が殆ど無い事を覚えていたが正解だったようだ。軽い体は屋根を踏み抜くこともなく音すら小さなものだ。 特に目的地があるわけではない以上、何処かに身を隠し夜を待つのが良いだろう。


 包帯を巻いた手の痛みはもう無くなっていた。過剰な治癒の力は呪いと思っていたが、こんな時は助かると現金な事を思う。随分距離を稼げたと思うが油断は出来ないと、カズキは姿勢を低くして下から見えないよう気を使って進んでいた。








 子供を癒す事が出来た時、カズキは初めてヤトに感謝したのかもしれない。言葉は分からなくとも側にいた母親だろう人の笑顔は眩しかったし、周りの群衆も嬉しそうだった。笑顔をこぼしたと自覚はないカズキだが、あちらの世界では味わえなかった感覚は嫌ではなかった。


 カズキ自身は理解はあまり出来ていないのだろう。他者に認められる事は大きな喜びを生み、自己を肯定される幸せがある。小さな頃から自分を嫌いだったカズキにとって、人からの肯定は不思議な暖かさを感じさせたのだ。


 そんな覚えのない感覚に少しだけ翻弄されながら、それでも足を動かし続けたカズキの目に興味深い物が映った。


 あれは……あの時見た馬車か?


 大量に載せられていく樽、向かうだろう先に見える門。如何にも行商に行こうと準備する集団を見つけて決断する。忍び混む為に夜を待とうと、屋根に腰を下ろしてパンを齧った。










 夕闇に包まれていく街を見ると、そろそろかなと準備を始めた。準備と言っても手には何もなく、邪魔くさい服を整えるだけだった。


 一度城から脱走した時と同じ服を着ているとカズキは内心苦笑する。あの時も星空の描かれた濃い色のワンピースは、夜の脱走に丁度いいと思ったのだ。あちこちか破れているが、動きやすい分だけまだマシだ。 


 スルスルと器用に屋根から降りたカズキは、馬車の下に隠れた。松明やランプ程度の光度では、まず見つからないだろう。次から次へと移動するが、不思議な事に警戒らしい動きもなく、簡単に目的の場所まで来れた。


 今から出発する森人や隊商に悪さをする馬鹿はリンスフィアにはいないが、カズキはそれを知らない。警戒など誰もしないのだ。


 あっさりと荷台に乗り込んだカズキは、チラとだけ外を見ると樽の間に身を潜めて時が来るのを待った。






 いよいよ出発だろう。


 薄闇と丁度良い気温は疲れた体に睡眠欲を促し、カズキはウトウトと浅い眠りを繰り返していた。バレるわけにはいかないと、頑張って起きようとするが中々難しい。眠りに落ちてはハッと目を開ける姿は、膝を抱えている姿と相まって可愛らしい。本人にはそんな気は無いだろうが、精神は体に引っ張られるのかもしれない。 


 頭をフルフルと振ったカズキの耳に女性の声が聞こえてきた。見つからない様にそっと覗き込むと、何やら紙を見ながらもう一人の男と話している。ランプに照らされた紙は薄っすらと透けて、それが地図だと教えてくれた。


 この街を離れて別の国へ行く。以前から決めていた事を実行するだけ……お姫様の涙が一瞬だけ頭を掠めた気がするが、それも彼方に消えていった。






 馬の嘶きと座った尻から伝わる振動が、馬車が動き始めた事を知らせてくれる。


 この馬車は最後尾に位置しているらしく外の様子を伺い易い事は幸いだった。樽の影に隠れていながらも巨大と言っていい門をくぐった事まで把握出来た。


 少しずつ離れていく街を見る余裕さえあったくらいだ。


 カズキの目にはやはり城塞都市に見える。城から見えた街は二重、三重に壁に囲まれていたので想像はついていた。だがゆっくりと離れていく街や城は、まさに御伽噺の世界だ。三本の尖塔や、カズキのいたベランダも視界に入り感慨深い。


 たとえ夜でも、いや夜だからこその幻想的な風景だった。それでも、どんな美しい景色も延々と眺めていれば飽きてしまうのだろう。


 カズキは再び樽の間に身を潜めて、先程抗っていた眠気に身を任せたのだった。






 カズキは知らない。


 マファルダストは他の国になど行かない、行けはしない。リンディアの為に危険な森を回って、資源を集める旅に出る事など想像すらしていない。世界は森に侵略され、そこを抜ける者など今や皆無に等しいことも。もはや他国が無事なのか滅びたのかさえ分からなくなった世界である事を知らないのだ。


























 酒を好きになったのはいつからだろう。 


 決して強い方ではないのも自覚している。


 煙草は好きとは違う。気付いたら吸っていた、そんな感じだ。酒か煙草を選べと言われれば間違いなく酒を選ぶ自信があった。


 確かキープされていたブランデーを貰った時だったか、年齢を誤魔化して働いていた店で手に入れた筈だ。酔った年配の男が何を気に入ったのか酒を寄越したのだ。理由は覚えていない。


 暫くは部屋に寝かせていたが、何処かの馬鹿とやり合った後に飲んだと記憶はしている。


 ブランデーをくれた男はお喋りで、飲み方までご教授してくれた。初心者ならソーダ割りかトワイスアップ、どちらかだろうと蕩々と語ってくれたのだ。大好きなウイスキーのハーフロックもその延長線上で覚えた飲み方でもある。


 あの時は炭酸水など冷蔵庫にはなく、ミネラルウォーターを使った。後で知ったことだが、トワイスアップは常温の水がいいらしい。当時はそんな事気にもせず冷やした水だったが、言われた通りに1:1で割り、それが美味かった。これも後から知った事だが、貰ったブランデーは馬鹿みたいに高い酒で、それも良かったのだろう。


 ビールやカクテルなども嫌いではない。


 ただ最初に飲んだ酒が良かったのか、悪かったのか。今はウイスキーやワインが好きなオヤジ臭い趣味になってしまった。


 だから、しょうがない。


 樽の側で眠っては起きてを繰り返して、やる事もない。見える景色は代わり映えもせずに草原と道だけだ。樽の一つが酒なのはすぐに分かっていたが、まさか飲むわけにはいかないと我慢していたのだ。


 だから、しょうがない。


 休憩だろう止まる時に樽の蓋を開けたのは、何かの偶然が重なっただけだ。鼻腔をくすぐった香りが好みだったのもやはり偶然だ。側に木の柄杓を見つけたのも、止まる度口をつけてしまったのも偶然なのだ。おまけにチーズまで発見してしまった。


 だから、しょうがない。


 空腹に任せて飲んだ酒が悪さをして、気持ち悪くなったのは事故だ。


 朦朧とした意識に見た事のある女性が見えて、抱き抱えられたのを感じたのも、何故か安らぎを覚えたのも何かの勘違いだろう。


 薄れる意識の中で、そんな事を考えていた。






















 意識を取り戻した時、カズキは自分の置かれた状況を理解出来なかった。


 息苦しさを覚えて開けた眼には深い緑が映っていた。


 深い緑が服で、柔らかい膨らみが女性の胸だと理解するまで一定の時間を要したのだ。自分の頭は腕枕され、背中に腕を回されて身動きが取れない。下半身も重ねられた足のせいで床に貼り付けられたままだ。悲鳴をあげようにも声など出ず、力の酷く衰えた体は抜け出す事を許してはくれない。


 それでも無茶苦茶に暴れてしまえば目を覚ますだろうと頭では分かっている。


 だが、心が言う事を聞かない。


 眠りに落ちる前に感じた安らぎが今も感じられるのだ。


 カズキはクエスチョンマークが浮かぶ頭に困惑しながら、ジッとしていた。ここからは赤毛と年上の女性である事位しかわからない。何処かで見た事のあるなと記憶を探ったが見つからなかった。




 ジッとする時間は大して長くなく、綺麗な黄金色をした瞳がカズキを捉える。


 目を覚ました女性に突然ギュッと抱きしめられて驚くまで、カズキの目は動かなかったのだ。






 どうやら敵対する事も無さそうと安堵したが、溜息は安堵からきたのかカズキには分からない。


 女性は何かを話しているが、全く意味が理解出来ないカズキには首をかしげる以外に出来る事はなかった。ただ追い出したり責める様子もないのは、この身体が弱々しい少女だからだろう。ヤトに感謝などしないが、今はそれに縋るしかない。






 連れ出された先には、2,30人はいるだろう者達が思い思いに散らばっていた。赤毛の女性に座るよう促されたカズキは素直に従い、膝を抱えて腰を下ろした。


 この身体は以前より柔らかく、この姿勢が楽なのだ。


 慌てた様子で戻ってきた女性に足を下されたのは解せないが、まあ怒る事でもない。


 そのあとはむさ苦しい男達に囲まれて、思わず逃げたくなった。しかし握手を求められたり、声を掛けてくる様子から仲間に入れて貰えたのだろうと安心出来た。


























 御者台に初めて乗ったが、乗り心地は悪い。


 まあ、馬車自体が非常に悪いのだから当たり前なのだろう。それでも朝の澄んだ空気と、時折通り過ぎていく風は気持ちが良い。


 邪魔に思えていた風に揺らされる長い髪も、右手で押さえてしまえば気にならなくなった。


 横を見れば手綱を握った女性が笑っている。


 カズキはやはり安らぎを覚えて、黄金色の瞳を真っ直ぐに見てしまう。


 朝日が照らしたその色は、カズキの心を染めていった。








 カズキはこの女性の名前が知りたいと、そう思った。













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